○赤松(正)
委員 質問に入らしていただきます前に、阪神大震災からあと三日で一カ月がたちます。改めましてここで亡くなられました五千三百人を超える
方々の御冥福を心よりお祈り申し上げますとともに、
被災者の皆さんに心よりお見舞いを申し上げます。また、
関係者の皆さんの日夜の奮闘に心より感謝を申し上げる次第でございます。
さて、きょうの朝からこの
消費者問題
特別委員会でさまざまな議論が展開をされてまいりました。私も聞かせていただいておりましたが、
経済企画庁という役所の
所管する
委員会ということでもあり、先ほど来
大臣が
マクロの
経済というお言葉を盛んに繰り返しておられました。
そういう
経済企画庁という
立場はわかりますけれ
ども、私自身兵庫県選出の議員であり、かつ、私事で恐縮でございますけれ
ども、今までは長田(ながた)というのを長田(おさだ)と呼ばれたりしておったのですが、私は長田区にあります長田高校の出身でございまして、いわば見なれた風景、見なれた
地域、それが本当に焼け野原になってしまっている。そういった
状況を目の当たりに連日地元に帰るたびに見まして、頭の中はほとんど震災のことでいっぱいでございます。
きょうの朝の議論を聞かしていただいて、大変申しわけない言い方ですけれ
ども、この場の議論は少し遊離しているのかなという印象が否めません。もちろん専門、専門がございますし、長官のお
立場はございますけれ
ども、私がこれから幾つかの
質問をさせていただきますことにつきまして、
経済企画庁は直接
関係ないからとおっしゃらないで、重要閣僚のお一人である長官でございますので、御私見で結構でございますので、さまざまな私見を聞かしていただきたい、そんなふうに思う次第でございます。
まず、先ほ
ども申し上げましたけれ
ども、
神戸・長田の
地域で青春の一時期を暮らしました人間にとりまして非常に印象に残っておりますのは、私、昭和三十九年に高校を卒業したのですけれ
ども、ちょうどその三十九年ごろから四十年代にかけて、
神戸の町というのは、今回の震災は直接ありませんでしたけれ
ども、ありませんというのは被害がそう多くは出なかったという意味ですけれ
ども、
神戸の一番西の、昔は垂水区と言っておりました、今は西区と言うのですけれ
ども、この
神戸の最西部、明石とかと接触している
地域、六甲山系のいわば西の端になる
地域の山を取り崩して、その土砂を
神戸港に持っていって、
神戸港の港を埋め立てて、ポートアイランドでありますとかハーバーランドでありますとか、一連の
神戸港湾周辺の整備をした。
私は、実は昭和五十六年に一たん
仕事の都合で
関西へ戻るわけですが、非常に印象的だったのは、私が東京に出ます前、昭和三十年代最後半と帰ってきた五十年代半ばで
神戸の姿は一変をしていた。今申し上げましたように、六甲の山が切り崩されて、沿岸
地域が広がって、
神戸の港の周辺が見違えるような形になっていたということが極めて印象的でありました。
ある意味で
神戸市、私の先輩が市長を長くやっておったわけですけれ
ども、株式会社
神戸市と言われるように、今申し上げたようなことを象徴的に、すさまじいまでの開発をしてきて今日がある。いわば、高度
経済成長
日本のある意味の代表的な
部分が
神戸だっただろうと思うんですけれ
ども、それが、先ほど来申し上げておりますように、また、皆さんそれぞれのお
立場で実感をしておられますように、完全に壊れてしまった。
せんだっての土曜日、
神戸に行ったわけですけれ
ども、そういう焼け野原、マンションが崩れている、普通に見ても、まともに建っている
建物がどうも曲がっているように見えるというふうな
状況の
神戸の町を、私、三宮から長田の方まで歩きまして、しみじみと
考えました。住民の命と暮らしを守らずして何のための政治であり、
経済発展と言えるんだろうかというふうな思いを強くいたしました。
冒頭、
大臣も
神戸に行かれたというふうに聞いておりますので、今申し上げたようなことを踏まえまして、現在のこの震災、先ほどの本
会議におきましてもほとんど震災一色のやりとりでありましたけれ
ども、そういったことに対する経企庁長官の今の御感慨を聞かしていただきたい、そう思います。