○木宮和彦君 木宮和彦でございます。
きょうは、まず、
与謝野大臣、最も私が尊敬している
大臣でございますし、政治家であります。また、お若いし、毛並みもいいし、頭もいいし、もう言うことはないんでして、ただ、先ほどから答弁を聞いておりますと、今まで自由奔放にお話しくださった
大臣が非常に慎重に答弁されている。これだけはがっかりいたしました。私は
大臣のおっしゃたことを引用して後でもって
いじめるというようなことは全くございませんので、ひとつ本心で
所信をお話しいただければ大変ありがたい、こう思います。よろしくお願いいたします。
私は、実は、参議院に出まして、参議院でやるべきことは何かなと自分で
考えておりましたら、やはり衆議院と違って、二院である以上は私は参議院というものは百年の計をやらにゃいかぬじゃないかと。衆議院の
先生方は非常にお忙しいんで、解散ばっかりしておりますし、それから自分の選挙のことばかり
考えておりますし、それだけじゃなくて自分の利権だけ
考えていると、そう言うと怒られるかもしれませんが。その点、参議院は六年間というものは解散もございませんし、だから
教育の問題とか外交の問題、
環境の問題、福祉の問題、こういう
日本の将来を運命づけるようなことをじっくりこの
文教委員会でも実は討議すべきだと私は思うんです。
私、実はもう長いこと、一年か一年半文教を離れておりましたけれども、今回また戻ってまいりました。みずから戻ってまいりまして、その最初の
大臣が
与謝野大臣でございますので大変私うれしく思います。
それで、そもそも
日本という国は一番
教育には熱心な国で、諸外国の中でも一番熱心で、アメリカよりもヨーロッパよりもなおすぐれていると思います。これはやはり江戸時代からもう既に将軍様が、たしか綱吉でしたか、昌平黌でもって自分でみずから講義したというぐらいですから、大変学問を勧められた。それから明治以降になって、明治のまた政治家が偉かったと思います。
恐らく、明治始まって以来、やることはたくさんあったと思います。富国強兵でもって軍隊もつくらにゃならないし、鉄道もつくらにゃならない。郵便もやらにゃならないし、橋もつくらにゃならぬというそういう財政が大変厳しい折に、ともかく、たしか明治五年だと思いましたけれども、太政官布告を出して
日本の
国民に義務
教育を布告したわけです。それによりますと、「邑に不学の戸なく家に不学の人なからしめん事を期す」と、こう書いてあります。要するに、
国民全員に勉強させて、そして字を読めない者をなくそう、こういう意気込みで明治政府がともかくやったことが今日の
日本の発展をもたらしている原動力であることは事実であります。
しかしながら、それはやはり無理していますから、なるべく安上がりの
教育をしようというので、いろんなことで工夫しています。教室
一つとってみても、
小学校は昔は四間、五間、ですから二十坪。それで廊下が一間で、半分が土間で半分が板張り、こういう
状況です。これは全国どこへ行っても同じ。教科書も国定教科書
一つ。これは統制するということもあったかもしれませんが、それ以上に、やっぱりたくさんつくればロットは安くなりますから、しかも転校したって本を買わなくてもいいし。
私なんか八人兄弟でございまして、
与謝野大臣のお父さんはたしか九人だか十人だかの兄弟だと思いますけれども、ですから私は正直言って兄貴の教科書をもらうので買ったことがないんです。たまたま私が「サイタ サイタ サクラガ サイタ」というのを最初に使ったので、これだけは兄貴のお古をもらわないで、いいな、やっぱり一人っ子に生まれたかったなとそのときしみじみ思いました。
先生もそうですね。
先生もやはり、師範
学校で、昔は
中学校にもの生えたものを出ているぐらいで、しかも兵役が免除されて六カ月で帰ってくる。短期兵役やって、しかも授業料はただ。金がなくて、優秀な向学心に満ちた
人間をともかく軍の
学校とか師範
学校に集めて、優秀な人材を
確保して
教育をさせたからこそよくなった。非常に効率よくやったと思います。これは私は非常にいいことだと思います。これは
文部省の成果だと思います。
しかし、戦後はずっと
文部省が何も変わらないで、新
制度ができても結局それが画一的な
教育になっちゃって、金太郎あめじゃないですけれども、どこへ行ったって同じようなそういう
教育になっちゃった。それがいいかというと、優秀な労働力だけはたくさん輩出したからよかったと思いますが、今になってみると、これだけ
日本が成長して豊かになってしまいますと、むしろそれが邪魔になっているんじゃないかと思います。
先ほどの南野
先生のお話じゃありませんが、看護婦の問題
一つとってもそうだと思います。今までは、ともかく
教育をつけて、親も
子供も
学校もみんな立身出世あるいは億万長者になるということを夢見でやってきた。――違いますか。違ったら違ったでいいです。私はそう思うんです。
しかし、もうそういう
発想を転換せにゃいかぬ。これからはもっと
多様化して、自分が白衣を着て病人を診るとか、あるいはボランティアでやるとか、あるいは、最近また問題になりましたけれども、理学療法士とか作業療法士みたいなものをつくって、ただ私、気に食わないのは、官僚というのはすぐ士をつける。何でも資格をつけて国家試験と。まあこれは
一つはしょうがないといえばしょうがない。ですが、ところが、余りあれをやり過ぎちゃって、しかもゴールドプランつくったって
人間がいないんだから、現実には。一体厚生省は何を
考えている。厚生省いますか、いたら後でちょっとお話を聞きたいと思うんですけれども。そういうような時代に今なっているわけであります。
それで、
私学というのがあります。
私学と公立あるいは国立と違うところはどこか。これは同じなんです、
文部省ではみんな同じ。だけれども、私はよく言うんですが、公立と
私学の違いは、まず
公立学校というようなものは建物が先で、予算ですね、そこへ
先生なり校長が集まって生徒が集まってくる。だから、ここに団地ができたから、どうしても
教育をしなくちゃならぬからといって市、県あるいは国がそれぞれ議会を開いて、そこに予算をつけて
学校をつくって、そしてやったのが現在の
公立学校のルーツだと思います。
しかし、
私学はそうじゃないんです。一人の優秀な立派な
教育者がいまして、例えば早稲田ですと大隈重信、慶応でいえば福沢諭吉とか、あるいは同志社の新島襄とかいう
方々がおって、その人の学徳、人徳に慕って弟子が集まってきて、一人ではやり切れないから奥さんを手伝わせたり、あるいは掃除夫を雇ったり、自分が英語しかできなければ数学の
先生を頼んで、そしてだんだんだんだんその私塾が大きくなったのがいわゆる
私立学校のルーツだと私は思います。だから、
私立学校は建学の精神ですからね。
公立学校にもそれはないとは言いませんけれども、まあないですね。そこに私は根本的に
私立学校と
公立学校の違いがあると思うんです。
まあ余り私が演説をやると怒られますからやめますけれども、いずれにいたしましても、今、私が申し上げました新島襄
先生ですね、ここにこういう記事が載っています。「かつて同志社
大学の創立者・新島襄は教師の心得として自身生徒の率先者となり、標準となり、志操を高尚ならしめて、生徒の智を進め徳を高くすることが教師の任の最大であると言っている。」。教師というのをこういうふうに定義している。新島襄が定義しています。私は、これに非常に感激しました。今の
先生は、でもしか
先生かサラリーマン
先生が多くなっちゃった。あるいは受験だけでもうあとは
考えない、性
教育は勝手にやってくれと、これもやはり今の
教育のひずみだと、私はこう思います。
それから、もう
一つありますけれども、これは
大学時報という私大連盟のつくっている雑誌の中に、もう十年ほど前に早稲田の総長をやられた村井
先生がこういうことを書いていらっしゃいます。「今次敗戦を迎えた運命は、わが国の
教育の底流にあった「皇国史観」であるが、この歴史観を堅持したのは、東大の歴史教室であった。明治いらい学問と
教育の最高の
指導権を担い、官僚を独占的に
養成してきた、東京
大学に「皇国史観」を固守した一画があったこととこ、二万、わが国の
私学は、民間の先覚者によって、官立
学校と前後して設立されたが、
大学として正式に認められるのに、五十年の歳月を要した。」。これは大正七年ですね、
私立学校が
大学として認められたのは。その他いろいろ書いてございます。
これを読むと長くなりますからやめますけれども、この皇国史観というのは平泉澄さんです。私のおやじも実は東京帝国
大学の史学科を出まして、京都
大学の方の
大学院に行って、後に旧制の
高等学校の
先生をやりまして中曾根さんを教えたんです。その平泉澄さんに、私のおやじ、自分のことを言ってはいけませんが、こんなところで。言ってみれば、
日本と中国の歴史、
文化交流史を
研究した人でして、遣唐使とか、その前の遣晴使、あるいはその後の宋との、宋にどなたが行った、何回行った、どういう航路を使ったというふうにかなりきちょうめんにやった人ですが、いわゆる早稲田の津田左右吉という人の説を大分引用しています。ところが、それがやはりすぐに官憲の知れるところになって、直せとかあるいは発刊禁止とかいうような処分を受けたこともある。ですから、同じ東京
大学にも二派あったんですよ。片方は先ほど言いましたように平泉澄さんです。この人は息子さんが平泉渉という有名な
大臣もやられた方でございます。
いずれにいたしましても、いわゆる今までの功罪をここで、戦後五十年たって、今もう一回大胆に根本的に
教育改革をしていかなくちゃならない時期に至っているのではないか。それはだれがやるかというと、政治家がやる以外に方法はないと思います。
大臣の決意だと思います。やはり
文部省の役人の
方々は対症療法は非常に上手なんですよね、先ほどの答弁を聞いていてもよくわかりますけれども。しかし、根本的に療法しようという意欲に欠けているんじゃないですかね。
私は、正直申し上げまして、実は
平成四年だと思いますが、自民党の中で
教育改革に関するプロジェクトチームというのを六つつくりまして、その会長が西岡
先生でございました。その六つの中で、
一つは
私学助成、これの座長が北川正恭さん、体育・
スポーツが保利耕輔さん、生涯
学習教育が鳩山邦夫さん、
学術・
文化・国際が渡瀬
先生、それから
大学改革が私で、
教育行政が松田山石夫
先生だったんです。六人おりましたが三人逃げちゃったんです。壊滅状態になりまして、
中間報告を出したのは参議院の私だけでございます。
この
大学改革に関するプロジェクトの
中間報告を、これを私、ちょっと臭いなと思って六月十八日にまとめました。三月十九日から実に十二回、しかも
大学の有識者から経済界からジャーナリストから、それから
文部省からも、ここにも
審議官いらっしゃいますが、熱心に、これ精力的にやったんですよ。かなりいいものがまとまったと思うんですが、しかしながら六月十八日の夜に解散になっちゃって、六人のうち三人がいなくなっちゃった、こういうふうな今のていたらくでございます。
何とかして、まあ政争は政争でいいけれども、
教育問題というのは、今のことではなくて、百年の大計をこれからつくっていく大事な仕事なのでございますから、ぜひ私どもも自民党でもう一回これを復活させたいと思いますけれども、
大臣、その辺を踏まえて、ぜひともひとつ忌憚のない、それによってどうこう責めるわけじゃございませんから、
教育の将来について、おばあさんに倣って、ひとつ
所信を表明していただきたいというふうに思います。よろしくどうぞお願いいたします。