○萱野茂君 きょうは
アイヌ新法制定にということでありますけれ
ども、まず最初に、松本英一
先生が亡くなられたその後を受けた私として、一番最初に部落解放基本法制定について特段の御
配慮をいただき、一日も早くこの法律が制定されることを心からお願いしたいと
思います。
次に、理事会を通して、きょうは北海道からやってきて、せっかくのこの時間でありますのでアイヌ語でという申し入れをしてあります。短い時間でありますのでよろしくお願いしたいと
思います。
その前に、アイヌ民族の国土である北海道のことについて、ちょっと地名の上から申し上げておきたいと
思います。
今から百三十年ほど昔に三重県三雲町出身の松浦武四郎という方が北海道へ行っております。前後十回ほど行ってアイヌからいろいろと地名を聞きまして、それを書き残してあるのが八千カ所から九千カ所あるというふうに北見市の秋葉稔さんという方がまとめたものがあります。
それで、その地名を私の生まれて育った二風谷のアイヌの村へ持ってきてみますと、武四郎が書き残したと言われる地名がわずか十四カ所、大正十五年生まれの私が二風谷の地名を
調査してみますと七十二カ所ありました。ですから、単純な計算で言っても九千カ所の五倍、四万から五万カ所あるということになります。これは推定の部分もありますけれ
ども、現在北海道で使われている地名の九〇%以上はアイヌ語であるということをまず皆さんに知ってもらいたいと存じます。
次に、アイヌイタッアニということであります。
イタップリカ ソモネコロカ シサムモシリモシリソカワ チヌムケニシパ チヌムケ カッケマク ウタペラリワ オカウシケタ クニネネワ アイヌイタッアニ クイタッルゥェ ネワネヤクン ラモッジワノ クヤイライケプ ネルウェクパンナ。
エエパキタ カニアナッネ アイヌモシリ、シシリムカ ニプタニコタン コアパマカ 萱野茂、 クネルウェネ ウッチケクニプ ラカサッペ クネプネクス テエタクルネノ、 アイヌイタッ クイェエニタンペ ソモネコロカ、タナントアナッネ シサムモシルン ニシパウタラカッケマクタラ アンウシケタ アイヌイタッエネアンペネヒ エネアイェプネヒ チコイコカヌ クキルスイクス アイヌイタッ イタッピリカプ ケゥドカンケワ、 クイェハウェネ ポンノネクス チコイコカヌワ ウンコレヤン。
テエタアナッネ アイヌモシリ モシリソカタ
アイヌパテッ アンヒタアナッネ ウウェペケレ コラチシンネ ユクネチキ シペネチキ ネフパクノ オカプネクス ネプアエルスイ ネパコンルスイ ソモキノ アイヌパテッ オカプネアコロカ ネウシケウン シサムネマヌプ ウパシホルッケ エカンナユカラ エクパルウェネ。
インネシサム エッヒオラーノ ユクアウッヒ
シペアウッヒ ニアドイェヒ ハットホ チコイカラカヲ オロワノアナッネ アエブカイサム
アウフイカクニ チクニカイサム アイヌウタラ ケメコッペアナッネ ケメコツパワ オドタヌオドタヌ ライワアラパパ シツヌワオカ アイヌウクラカ アイヌイタッ エイワンケクニシサムオロワ ハットホアンワ アイヌイタッエイワンケ、 エアイカプパプ ネプネクス チイェワピリカプ アイヌイタッ ネアコロカ タネアナッネ ウララシンネ ラヨチシンネ ウコチャンチャンケペコロ クヤイヌアコロカ タネオカ ペウレアイヌウタラ ヤイシンリッ、ヤイモトホェプリウェンパワ イタッネヤッカアイヌプリ ネアヤッカ フナラパワ、ウゥォポキン ウゥォポキン エラムオカイパコロ オカルウェネ。
ネヒオロタ ニシパウタラ クコラムコロヒエネオカピ アイモシルン アイヌウタラカ コエドレンノ シサムモシリタ オカアイヌカ ェネネヤッホ アイヌネノ アイヌイタッアニ ウコイタッパワ ラッチオカ、アプンノオカクニ
コサンニヨワ ウンコレヤン ヘルクワンノネアゴロカ アイヌイタックイェ、アイヌイタッ エネアンクニ チコイコカヌヒ ラモッシワノ クヤイライケナー
アイヌ民族の言葉で
言葉のあやではありませんが、
日本の国土、国土の上から選び抜かれてこられた紳士の皆様、淑女の皆様が肩を接しておられる中で、成り行きに従いアイヌ語でしゃべらせてもらえることに心から感謝を申し上げるものであります。
私は、アイヌの国、北海道沙流川のほとり、二風谷に生をうけた萱野茂というアイヌです。意気地のない者、至らない者、私なので、昔のアイヌのようにアイヌの言葉を上手には言えないけれ
ども、きょうのこの日は、
日本の国の国会議員の諸
先生方がおられるところに、アイヌ語というものはどのようなものか、どのような言い方をするものかお聞き願いたいと私は考え、アイヌ語を私はここで言わせていただいたのであります。少しですので、私のアイヌ語にお耳を傾けてくださいますようお願い申し上げる次第です。
ずっと昔、アイヌ民族の静かな大地、北海道にアイヌ民族だけが暮らしていた時代、アイヌの昔話と全く同じに、シカであってもシャケであってもたくさんいたので、何を食べたいとも何を欲しいとも思うことなく、アイヌ民族だけで暮らしておったのだが、そのところへ和人という違う民族が雪なだれのように移住してきたのであります。大勢の
日本人が来てからというもの、シカをとるな、シャケもとるな、木も切るなと一方的に法律なるものを押しつけられ、それからというもの、食べ物もなく薪もなく、アイヌ民族たちは飢え死にする者は飢え死にをして次から次と死んでいったのであります。
生きていたアイヌたちもアイヌ語を使うことを
日本人によって禁じられ、アイヌ語で話をすることができなくなってしまいそうになった。言っていいもの、使っていいもの、アイヌ語であったけれ
ども、今現在は、かすみのように、にじのように消えうせるかと私は思っていたが、今現在の若いアイヌが自分の先祖を、自分の
文化を見直す機運が盛り上がってきて、アイヌ語やアイヌの風習、それらのことを捜し求めて、次から次ではあるけれ
ども、覚えようと努力しているのであります。
そこで、私が
先生方にお願いしたいということは、北海道にいるアイヌたち、それと一緒に、各地にいるアイヌたちがどのようにしたらアイヌ民族らしくアイヌ語で会話を交わし、静かに豊かに暮らしていけるかを
先生方に考えてほしいと私は
思い、ごく簡単にであったけれ
ども、アイヌ語という違う言葉がどのようなものかをお聞きいただけたことに、アイヌ民族の一人として心から感謝するものであります。ありがとうございました。
次に、蝦夷地に対する
歴史認識についてということで御
質問申し上げたいと存じます。
アイヌ語を含め申し上げたことは、私の家系が体験したアイヌの
歴史、アイヌの気持ちのほんの一部であります。北海道のアイヌは、今このような
歴史を踏まえて新たな共生
関係をつくるために、旧土人保護法にかわってアイヌのための新しい法律の制定を求めています。
政府は、この法律制定の是非を検討するため
関係省庁による検討
委員会を発足させ、既に六年目を迎えてしいます。そして
政府は、この法律制定の前提として、例えば先住民族であるとか先住権についての定義や概念が
国内においても国際的にも確立していないとして法制化を渋っています。
私自身、一人のアイヌの物書きでありアイヌの彫刻師であります。考古学者でも
歴史学者でもありませんし、今はやりの形質人類学などはとてもわかりません。また、余り古い話、縄文とか弥生時代の話をしようとしているわけでもありません。
日本の社会に近代的な政治体制とか近代的な法律
関係ができたころからの話をしたいと
思います。
例えば、
政府が今も日ロ
両国の最大の
課題としている北方領土の問題は、安政元年にさかのぼってのことですから百四十年来のことであります。
日本と韓国、朝鮮のことで言いますと、植民地支配の原点であります日韓併合のときから数えても八十四年前からの話であります。ですから、アイヌモシリと
日本の
関係もそのほどの話であり、
政府として
責任のない話とは言えないことであると思っています。
日本とロシアのこと、
日本と朝鮮のことが未解決の問題であるとするなら、アイヌモシリと
日本の
関係だけを解決済みとするにはいささか手前みその都合のいい話ではないでしょうか。ですから、
政府の皆さんと専門的な議論をするつもりはありませんが、私は長い
歴史の中で起きてきた事実についてこの機会に
お尋ねし、確認したいと思っております。
これから私が話すことは、私が話すことではなく、
平成四年の中学生の社会の教科書に書かれていることであります。それは、江戸幕府の時代、朝鮮も鎖国をしていたが家康の時代に国交が回復した。「琉球王国は、十七世紀の初めから薩摩藩に支配されるようになった。しかし、その後も中国とは独立国として貿易をおこない、中国は、琉球王国を属国あつかいにしていた。また、蝦夷地では、アイヌが独自の社会をつくっていた。」と記述されております。
すなわら、ここでは
日本の社会から見たとき、アイヌが占有していた当時のアイヌモシリ、蝦夷地でありますが、これは朝鮮や琉球大国と同じように独立した国であるとの認識を明らかにしているのであります。文部省が中学校で教えているこのような
歴史認識について、
政府も同様の御見解と受けとめてよろしいでしょうか。この点についてお伺いしたいのであります。