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参考人(
岩佐幹三君)
岩佐でございます。
私は、本
委員会において、
原爆被害の
体験者として、再び繰り返してはならない
核兵器の
被害、そして全人類の生存か絶滅かに深くかかわっているこの問題について
意見を述べる機会を与えていただいたことを感謝いたします。と同時に、これまで
参議院において二度にわたり
被爆者援護法を可決していただいたことに対し、深甚なる敬意を表明するものでございます。
今回、
衆議院を通過して本院において
審議中の
法律は、これまで
参議院において可決された
法律の趣旨を受けとめたものになっていないことに遺憾の意を表明せざるを得ません。これに対して、
改正案を発議して
内容の修正に諸
先生が御尽力いただいたことに対して、
被爆者としては心に一脈の光明を見出す
思いでございます。しかし、私はここでその法案等について言及することは避けさせていただきまして、むしろ法の精神となるべき、あるいはその基礎となるべき
原爆被害ということについて述べさせていただきたいと
思います。
私は、ことし三月まで金沢大学法学部におきまして、
法律ではございません、政治学、イギリスを中心とした民主主議政治思想を専門に
研究、教育に携わってまいりました。また、
被爆者の全国
組織であります
日本原水爆被害者団体協議会、通称日本被団協と申しますが、その専
門委員として、昭和六十年度の被団協
調査の取り組み、集計、分析等に当たってまいりました。
お手元に配付いたしました資料「日本被団協
原爆被害者
調査結果から読みとったこと」、これは被団協の編集、出版になります「ヒロシマ・ナガサキ 死と生の証言」というものの一部でございます。その読みとったことを私なりにまとめてお手元にお配りいたしました。これから述べる
原爆被害の概要についての資料に御利用いただければありがたいと
思います。
私
たちは、長年にわたって
原爆被害への
国家補償に基づいた
援護法の制定を求めてきました。
原爆は、まず
被爆者に対して
人間として死ぬことも
人間らしく生きることも許さない、反
人間的な
被害を今なお与え続けているということ、そのような
被害は
人間として決して受忍できるものではないからであります。
その点について、名前を申し上げていいかどうかわかりませんが、
横川参考人の方から
原爆被害について今いろいろ言及がございましたので、私は
調査とそれから私自身の体験に基づいて
意見を述べさせていただきたいと
思います。
私は、
広島の
爆心地から一・ニキロメートルの自宅で
被爆しました。
被爆の瞬間、庭の小さな半坪ぐらいの菜園におりましたけれども、後頭部をバットで殴られたような衝撃とともに地面にたたきつけられ、上から押さえつける
爆風のために身動きできない、目の前は真っ暗になりました。もう一度殴られたら大変だと
思いまして、必死になってはいました。手にさわったものは折れた木切れでございました。こんなところに木切れがあるはずがないがなと思っている間に、もやもやと土煙が上がってまいりました。恐らく数秒だったでございましょう、立ち上がったときには
広島の町は既に消え去っておりました。夢を見たと
思いました。
そのとき、倒壊した家屋の下で私の母が助けてくれという声を上げました。私は、屋根がわら、土壁を破って上半身をやっと滞らせる
程度の穴をあけることができました。しかし、そういう形で潜り込んだ私の前に、家の土台になっているコンクリート、その上に大きな四、五十センチ角のはりが重なっておりました。そのわずかのすき間からのぞき見た母は、あおむけに倒れ、顔じゅう血だらけになっておりました。そして、肩のあたりを押さえている物をのけてくれと言いました。前に進むこともできません。ほかの方から掘るうにも家屋の柱や壁が何重にも重なっています。
そのうち三十分前後で火が回ってまいりました。非常に早く回ってきました。十六歳の少年でしたけれども、そして特攻隊の雄姿を、姿をニュース映画等で見て、自分もそうなっていくんだと死を覚悟していた私でございますが、その火に取り巻かれそうになったときに非常な恐怖心が私の全身を貫きました。私は今もってその約束を果たしておりませんが、間もなく行くからねと言って最期の別れを告げました。後ろの方で般若心経を唱える母の声に後ろ髪を引かれる
思いでございました。目の前に覆いかぶさる建物、それに押さえつけられたまま、じりじりと追ってくる火の手、そして死の瞬間を待つ気持ちといったらどんなだっただろう。なぜ一緒に死ぬ気になってもっと頑張ってやらなかったのか、私が母を殺したも同じだと、どれだけ自分を責めたかわかりません。
助けてほしいと頼みましても、だれも自分のことで精いっぱいで、他人のことなど構っておれないような、
人間として考え、行動できないような状態に
原爆は追いやったわけでございます。地獄と言われるのはまさにこうした状態のことを言うんではないかと
思います。
数日後、母の倒れた場所に厚く積もった灰の中から出てきたのは、まるでマネキン人形にコールタールを塗りつけて焼いたような油でぬるんとした物体でした。それは、とても
人間の死体と言えるものではありませんでした。あの日、あの日と申しますのは六日と九日のことでございますが、
広島、長崎の町では、
爆風、熱線、
放射線によって、このような
人間の死とは言えない異形の死が至るところに見られたわけでございます。先ほど
横川さんもおっしゃいました。私はあえて繰り返しません。
その上、被団協
調査が示すように、当日の
死者の六五%は
子供、女性、年寄りという非戦闘員だったのです。これは私の資料の二十ページ以下にございます。
原爆はこのように無差別で、言ってみれば
人間の絶滅に連なるような残虐性を示す
兵器だったのでございます。
そればかりではありません。あの日の業火の中をくぐり抜けて辛くも生き延びることができた
被爆者の上に、いわゆる
原爆症と言われる
急性症状が襲いかかりました。
私も、あの日建物疎開に動員された女
学校一年生の妹の生死を求めて、一カ月
広島の町を歩き回りました。ちょうど九月六日、私はたまたま郊外におばが住んでおりまして、この家も傾いていたんですが、そこで世話になっておりましたが、そこへたどり着くなり倒れ込んでしまいました。体じゅう赤い斑点が出て、のどが焼けるように痛く、何も口にすることができない状態になりました。
急性症状です。たまたま近所に疎開していた歯医者さんが、一日に十数本の注射を打ってくれたそうです。私は存じません。そのせいかどうかわかりませんが何とか助かりましたが、同じように治療を受けた他の二人の
被爆者は亡くなったそうです。
このような
原爆被害の現状、アメリカ占領軍の
原爆被害の隠ぺい政策のもとで、
被爆者は国からの対策を受けることなく、自分で自分の身を守らなきゃならないというもがきの中で亡くなっていったわけでございます。
最初の
被爆者対策、
医療法が昭和三十二年にできるまでこのような
被爆者の死は続きました。私は、
被爆者の
被爆後の日々は、まず死があり、その後に生、しかもその生も病と死と直面して闘う生だったと
思います。
かなり時間を飛ばして申しますが、実は私もここ数年、白血球が一万二千を超える状態が続いております。検査をしたところによりますと、脊髄と甲状腺かどこかで白血球がつくられるのだそうでございますが、何か脊髄でつくられる白血球の量が多いそうでございます。先月下旬、風邪を引きましてかなり呼吸困難に陥って入院いたしましたけれども、来週あたりには検査してみなければならないと思っております。このように表面上は元気そうに見える私でございますが、いつ発病しても不思議でない状態にあるのではないかという不安におののいております。この私ですらそうでございますから、もっともっと悪条件の中で苦しみながら生き、闘っている
被爆者、この
被爆者の苦しみはまさに
原爆のもたらした
被害にほかならないと私は考えております。
それを
データ的に明らかにしたのが被団協の
調査であったのではないかと
思います。不安や苦悩に満ちた生活を送ってきたために、こんな苦しみを受けるくらいなら死んだ方がましだとか、いっそあのとき死んでいた方がよかったと考えたことがあるあるいは今も考えている
被爆者が
調査対象者一万二千余りの中で四人に一人もいること、このことにぜひとも注目していただきたいと
思います。
原爆は、
人間の生きる意欲を喪失させるほどの
被害を与えているからでございます。資料の四十二ページ以下にそのことが一応述べでございます。そして、今も
東京の
被爆者の方がことしになって五人も亡くなったということでございますが、
調査の中でも四十七人の人がそのような生きる意欲の喪失の中で
自殺を遂げております。
さらに資料では、
白血病と
がんによる死没者、
死亡率の推移等、三十ページ以下に示しておきました。近年になって、先ほども御指摘があったと存じますが、
がんによる死亡が急増していることがおわかりいただけると
思います。その上に、この
調査で明らかになった注目すべき点としては、比較的若年で
被爆した
年齢層の人が、今日の常識からいって年若くして死ぬ、すなわち早過ぎる死を強いられているという実態でございます。こうした
データから見て、
被爆者は今日なおおくれた
原爆死を遂げさせられているのだと言うこどができるように私は
思います。
調査の結果から私が読み取ったことをまとめた資料において、
原爆被害についての時系列的な
流れを踏まえて、
被爆者の死と生、先ほど申しましたように死があって、その死を乗り越えた
人間が生きながら死んでいくというこの
原爆との対決に生をかけている
被爆者、こういう形で私は
調査のまとめを示さざるを得ませんでした。このように、ちょっと繰り返し仁なりますが、
被爆者にとって
被爆後、言いかえれば戦後とは、何物にも増して病と死、そしてその不安との闘いであったことについて国民的な理解をいただきたいと思っております。そういう観点があるために、そのような
被爆者の死と生という観点を取り上げたわけでございます。
このような
原爆被害を、仕方ないものとして受忍することができるでございましょうか。ここで、大変おこがましいことを申し上げます。お許し
願いたいと
思います。もし、
先生方がこのような
被害の
体験者でございましたら、
先生方はこれを運命として御容認なさいますでございましょうか。恐らくそうではないと
思います。
被爆者は決して受忍することができません。それを受忍することは
原爆被害を容認することになり、私
たちが体験したような
被害が自分の
子供たち、孫
たち、さらには全人類の上に再び繰り返されることを認めることになるからです。私
たちは、
原爆、
核兵器と一瞬たりとも共存することはできないと考えております。あくまでも私
たちが
国家補償の
援護法と言うのは、このような観点に立っているからでございます。
核兵器の即時廃絶は
被爆者の悲願であります。そして、現代に生きる私
たちの果たさなければならない全人類的な課題だと信じております。
被爆者援護法の制定は、国が
原爆被害を補償することによって核戦争
被害を拒否する権利を打ち立てるもので、再び
被爆者をつくらない誓いを国として高らかに宣言するものであると私
たちは考えております。
原爆被害を再び繰り返さないという観点については、今拝見した法案の中に盛り込まれているように存じますが、ここで述べましたような
広島の心、長崎の心と言われる
被爆者の悲願を、ぜひとも日本の心にまで広げていただきたいと
思います。そして、
被爆国日本の国の基本精神、基本方針として国の内外に向けて宣言し、そのあかしとしてぜひとも
国家補償の立場に立った
援護法が実現するよう、一層の御尽力をお
願いいたしたいと
思います。
私は、このように
被爆者調査と私自身の体験をもとにして
意見を述べさせていただきました。どうもありがとうございました。