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猪木寛至君 きょうは、朝鮮半島問題、同僚
議員から幾つかもう質問がなされておりまして、
大臣、
政府の
考え方というものもお聞きしているわけです。
私は、七月八日にピョンヤンに入る予定で北京空港に参りましたところ、ちょうど主席の死去ということなので今回は対応できませんということで入国できなかったんですが、その後、招待状が出まして、九月五日から十日まで行ってまいりました。
私自身、朝鮮半島問題というのは余り興味が薄かったというか、大変認識がなかったんですが、もう三年ぐらい前のことです。私のプロレスの師匠であった力道山という人、これは皆さん御存じだと思うんですが、言うまでもなく戦後に果たした役割というのは大変大きかったというのか、敗戦という中で夢をなくした国民が力道山の試合を見ながら、あるいは街頭テレビに三千人、四千人という人が群がってあしたの希望をつないだというような時代でもありますし、そういうものはいろんな書物にも書かれているわけですが、その娘さんが
北朝鮮におられるというニュースを初めて聞きまして、一度訪問してみたいという興味がわきました。
そしてまた近年、去年、ことしにかけて朝鮮問題が大変緊張して、また日朝の
関係も非常に硬直した状態にあるということで、もしかしたら私の出番かなということで内々にいろいろ
北朝鮮側の人たちのチャンネルを探ってみたんです。それについてはやはり大変厳しいというか、政治的
目的で来られますか、あるいはスポーツということで来られますかということで確認があったんですが、私は政治的なことは別にして、力道山という人が朝鮮半島の出身であるということと、私の恩人でもありますので、その恩返しをかねてぜひ
北朝鮮を訪問したいということで、それで招待状が出たんです。
力道山という人を見ていきますと、戦後大変出世されたというか、プロレスで大成功し、お金も名誉もすべてを手にしたというように出世物語に出てくるんですが、一つは、力道山という人が朝鮮人であるということがタブー視された時代でもあったんじゃないか。これはやはり力道山が
日本生まれで、長崎県の大村出身であるとか、何とか小学校で大変正義感の強い子で女の子を助けたとか、そういう話ができているわけなんですが、実は本当は
北朝鮮の生まれで、子供のときに相撲の一行に連れられてきたというような話になるわけなんです。
ちょっと力道山を通して
北朝鮮を見たときにいろんな側面が見えてきたというか、ありがたいことにいろんな人からこの前私が
北朝鮮に行くということで資料を届けていただきまして、その資料に目を通していくと、いけばいくほど強制連行というか従軍慰安婦というか、こういう問題と重なってくる問題が出てくるんですね。
力道山が
日本に来られたのが十七歳とかあるいは十五歳とか、いろいろまちまちなんですが、十五歳とか十六歳ぐらいの少年が植民地支配をしている国へ喜んで来たかなどうかなということを私なりに検証していくと、力道山という人は三人兄弟で、長男が大変相撲が強くて、そして毎年大会で優勝していた。たまたまその地域に植民地で警察官として行っておられた方が、その奥さんが二所ノ関の後援会長というかそういう
関係の人がいて、娘さんを訪問されたということで、力道山を見初めて、相撲取りにという形になるんです。
これは私、本人に聞いたわけじゃないから何とも言えないんですが、その
日本行きにお母さんが大反対して、すぐにお嫁さんを探してきて結婚させてしまうということからその娘さんができるわけなんですが、そういうものは一切
報道されていなかったというか、戦後、力道山という名前が高まれば高まるほど力道山は
日本人でなくちゃならないという。当時は自民党の大野伴睦先生がコミッショナーをやられたし、それからまた児玉誉士夫さん、右翼の方が協会の会長をやったとか、非常に政治絡みのにおいが出てくるんです。私も入門した当時そういう席にも同席させてもらったことがあります。
私の場合は、ブラジルに子供のときに移民をいたしまして、そして向こうで力道山にスカウトされて入門したわけなんですが、入門するときの話というか、会ったときに、裸になれ、背中を見せろ、そういう場面が、力道山のスカウトされるときと全く同じような場面があって、私はプロレスを見ておりましたし好きだったから喜んで入門することに同意したんですが、力道山の場合は必ずしもそうでなくて入門したと。ですから、力道山のファイトぶりというものを私、我々の先輩として見ていくときに、戦後の国民をあれだけ沸かせた
エネルギーはどこから出てきたのかなということを思うと、やはりこれは民族意識というか抑圧されたそういうものとかいろんなものが重なって、そしてあのリングの中であの力が出てきたのかなと私なりに判断をするわけなんです。
そういうことで、今回の訪問でまず最初に朝鮮のアジア・太平
洋平和
委員会というそこの
委員長さん、全容淳さんという方の招待と、それからもう一つは朝鮮国家体育
委員会委員長の朴明哲という方、これが力道山の娘さんのだんなさんということで、向こうへ行ったときに大変好意的にというか、歓迎をしていただいたわけなんです。
一つは、やはり言葉とか会釈とかということよりも心の奥の中にあるものというのは、私どもはリングの上で日ごろ戦いで相手の心を読むことになれているというか、そういう職業をやってきた男ですから、本当にこの人たちが心を開いて我々を迎え入れているかどうかということは感じる部分がありました。やはりこの日朝の問題というのは物すごく底が深いんだなという気がいたしました。それは力道山の、これは
北朝鮮側から出た「力道山物語」という本があるんですが、英語で書かれてありまして、またそれを訳したものがあるんですが、そういう中に随所に出てくる。だから、我々が見ていた力道山、
日本から見た朝鮮半島というのとはまた逆に、朝鮮半島から見た
日本また力道山というものを見たときに、本当にそこにある問題というものが何となく見えてくるような気がするんです。
先ほどお話を聞いていて、確かに
日朝関係あるいはアジアにおける
関係とか戦後処理とか、もういろんな問題があるわけなんですが、その根本にあるものはやはり差別という問題、これがなくならない限り本当の心のきずなというのはできないんじゃないかなということを痛感したんです。
差別というものはいつから生まれてきたのかなと思いますと、私もちょっと歴史をひもといてみましたら、一九〇三年、四年、ロシアが
中国あるいは朝鮮半島に攻め入った、その後に伊藤博文さんという方が向こうで、統監というんですか、そういうことで
日本の植民地支配になっていく。その時代から差別というものが出てきたような気がするんですね。
それで、ひとつ
日本人というのは何だろうかなという、私も海外を回って、また試合でいろんなところに行って自分なりの存在を見ることがあるんですが、チマ・チョゴリ問題からいろんな問題、先ほど同僚
議員からも出ておりましたけれども、差別を通して
日本人が、私はよく東南アジアにも団体を連れていったことがあるんですが、旅行で行かれている人たちのそぶりというか、ホテルにおいて大変横柄というか、あそこの人たちを見下げた態度でコーヒーショップに座って足を組んで、それこそ犬を呼ぶような感じで口笛を吹いてウエートレスを呼んでいる姿というのをよく見たことがあるんです。
それと同じ人が例えば
アメリカに行くと、まさに借りてきた猫のようにおどおどしながら非常に卑屈な態度でコーヒーをオーダーする。これは一つは、いいとか悪いとかを抜きにして、
日本人が持っている逆に言えば劣等感というか、あるいは一方では優越感。だから、力道山という人が入門するときに、植民地支配をしていた
日本、軍というか、そのときに
日本人が弱者あるいは強者に回ったときの態度というのをそういう部分で私は見るわけなんです。
多分、朝鮮半島を支配しているときに、強者という立場に立ったときの
日本人というのは大変横暴な振る舞いをしたんじゃないかな。全部が全部そうじゃないと思いますけれども。そういうものの恨みというものが例えば今度は恨の思想というか、一回仕打ちを受けたら一生忘れないという、これはまた朝鮮民族の一つの遺伝子とでもいいましょうか、それが怨念となって残っている。いまだにやはり、これは南北問わずに抗日戦争というか戦争のあれを忘れないようにという教育を徹底してやっている姿というのがある。
そうすると、そういう時代を知っている人であれば、
日本人のすべてが悪いわけではなく、いい人もいる、そういうことを判断できるけれども、時代がだんだん過ぎていくと悪い部分だけが強調されてずっとこれが残っていく、そういう問題がある。そうすると、次の世代に本当に平和が来るかというと、全くそういうものじゃなくて、逆行するような形になっていくのじゃないかという気がするんです。
ですから、逆に
日本人というものを自分なりに判断すると、たまたまちょっと私ごとになって申しわけないんですが、去年私はあるスキャンダルに巻き込まれてというか、連日テレビで私の
報道をされまして、あることないことを。
日本人がかつて大陸でやっていた集団リンチというか、団体になったときの
日本人というのは大変理性を失ったような行動に出やすい。それが去年、私の全く根も葉もないことについてもうとにかくテレビがやたらに書き立てる、事実を
関係なしに。それが何となく、今暴力は使えませんからそういう筆の暴力、あるいはマスコミの暴力ということで出てきたんじゃないか。それが
日本人じゃないかなという私は気がするんです。
それがいいとか悪いとかは抜きにして、その民族が持っている特異性というもの、そこからこの朝鮮半島問題というものを見て、今私は私なりにスポーツ外交ということで向こうの方に心を開いてもらおうと。だから、その全容淳さんとの会見の中で当時、今はミサイルが全部
日本列島に向いているということですけれども、一体どうなっていますかという質問をしてみましたら、大変笑いながら、いやこれはお互いの信頼が醸成されれば自然と
解決する問題ですよということを言われておりました。だから、それを裏返して言えば、本当に信頼
関係ができてないからそういう問題が発生するのかなと。
それからもう一つは、やはり大変閉ざされた国でもあるということから、マスコミが好きなように書き立てる。テレビの解説者あるいは雑誌の解説をする方たちが、要するにこれは売名行為とでもいいましょうか、事実とは
関係ないニュースをどんどん流していく。そうすると、もっと過激なニュースを書かなきゃ売れないということで、もっと書き上げる。そういうことによって我々がこの朝鮮問題について非常に混乱している。
そこで、私自身が全容淳さんと会ったときの会談をちょっと御披露しますと、まずそういう雑談もありましたが、金正日書記の健康はいかがですかということで質問しましたところ、大変ありがとうございます、気を使っていただきまして、至って健康でありますというメッセージがあったんです。それは私なりに、言質はとれませんが、ああこれは間違いなく一部で言われている病気説とかそういうこととは別に健康であるなということを確認させてもらったんです。
それともう一つ、力道山の遺族を来年まず御招待しようかなと。先ほど
大臣も言われていました民間外交というか民間交流、こういうことは大変必要であるということで、私自身、私なりの判断でその機会を、何か理由がないと向こうも出てこれないだろうから、そういう機会を利用してもらって多くの人にこちらを見てもらいたいということで、一月の四日に東京ドームで私自身がリングに立つんですが、六万人という前で試合をしようと。
力道山という人は大変有名で国民は知っていますが、プロレス自体を知らないからそれを見ていただこうということで企画して提案したところ、普通はこういう話というのはトップダウンで来ますから、なかなか下から上げていってもすぐに返事がおりてこない。ところが、この場合においては即答で返事が返ってきて、努力しますということがあったんで、この政治
体制はどういうふうになっているかなということを私なりに判断したんですが、金日成主席が亡くなられてその後大変混乱しているということであったんですが、生きておられるころから金正日さんがもう指揮をしているということで、そんな混乱が起きてないというような判断というか、向こうの方もそのことを言っておられました。
またもう一つは、来年春先にひとつ平和のイベントを企画しますけれどもいかがでしょうかと。非常にマスコミに対する批判が強かったんですが、我々同行記者が一人いたんですが、我々のグループということで行ってもらって見たままを
報道してもらったりと。そういうことで、要するに
北朝鮮側がいろんなことをアピールすればするほど、例えばマスゲームなんというのは完璧にすばらしいことをやるわけですけれども、やればやるほど我々から見れば奇異に見えるというか、そういうことで、大事なのはやはりイベントというのは大衆の中で、そしてそれを正直な形で伝えるということで、それにはやはり
北朝鮮側が一方的にこうだああだと言っても我々はなかなか受け取りにくい。
ですから、私どもは一つの役割として、あなた方がメッセージを送りたいことを世界に送る役割を果たさせてもらいますよ、それには世界からいろんな人を呼びますし、そしてその中でいろんなものを見せてもらってそのままを
報道しましょうという企画を出しましたら、それに対しても大変すばらしい企画でありますから
検討しますということで、ついこの二十二日に私の秘書が北京で向こうの平和
委員会の副
委員長と会談をいたしまして、私が出した提案についてすべてお受けします、そして来年のイベントは金正日書記から直接の指示が出ましたので必ず実現、成功させるようにという指示がありましたというメッセージをもらったんです。
そういうことで、近々自社
さきがけですか、三党の
訪朝団が行かれるそうですが、一つは、社会党さんが
北朝鮮とは一番
関係が深かったと思うんですが、今回の自社連立という問題に対して大変不信感を持っておりました。今まで対立していた党が一緒になってどうなのかなと。そういうことは、きょう私は決して批判とかそういうことじゃなくて、向こうの方が思っているという私が得た情報をきょうは
大臣に聞いていただきたいと思いまして。
それで、また一つには、通常我々が一人で行動するというと外務省もかなり神経をとがらせるようですが、今回は割とおおらかにというか、
中国の
日本大使館の方も大変
協力的に、特に余田さんという朝鮮半島問題の方によく動いていただきました。
そういう
意味では、
国交のない場合にスポーツ交流を通じて、スポーツというのはだれも反対しませんし、平和というのは全くだれも反対しないテーマで、私自身、自己宣伝を言うわけじゃないんですが、そういう非常に緊張している政治の壁が高ければ高いほど入っていきやすい場面があると思うんですね。
そういうことで、まだまだいろいろお話ししたいことがたくさんあったんですが、今回、私自身訪問しまして、そして提案したことに対しての返事が大変いい方向で参りました。そして、正確に言いますと、四月二十九日、ピョンヤンで百万人のイベントをやりましょうということで話がまとまったわけです。百万人というのは、これは集めることは簡単らしいんですね。一週間あれば集めますよと言っていましたが、しかし実際にはそのイベント自体は百万人が見ることはできませんから、五・一競技場というのがあるんですが、これは十五万人収容できるという大変すばらしい競技場で、そこでそのイベントを開催しようと。
そのときに、もしできれば我々だけじゃなくて
政府のというよりは外務省も加えてもらって本当の
意味のきずなを、まあすぐにはできません、これもやっぱり信頼
関係というので。一方では
政府がこれから道を開かれるでしょうし、我々は我々として民間としてのまた道も開き、そういう
意味で一日も早く朝鮮半島問題を。
それからもう一つ、差別問題ということ、これはやっぱりどこかで上っ面だけで
議論するんじゃなくて、ここに七十万という在日朝鮮人、この人たちが受けてきた仕打ちと、また彼らが持っている劣等感とでも言うんでしょうか、私どものプロレスの団体の中にも朝鮮国籍のパスポートを持っている人たちがいるんです。そうすると、海外へ遠征するときに一人だけ走っていくわけです。どうしておまえ、そんなに急ぐんだと。我々はその人が朝鮮人であるのはみんなわかっているけれども、しかし本人はそれを知られたくないという
意味で団体よりも先に行って手続を済ませる。
そういうことと同時に、我々の側に、
日本人の側に存在するもの、例えば会ったときには非常に愛想よく話していますが、離れた瞬間にあれば朝鮮人だよというような会話がすぐに出てくる。これがだから逆に言えば、朝鮮人の同化問題というか、
日本国籍を取ってくださいと、これはかって総理府からもいろいろ指示があったようですが、そういう問題。
やはり朝鮮民族として堂々と生きていけるような
環境づくりをしてあげなきゃいけないんだと思うし、また私自身が差別という問題について、
アメリカを遠征しているときにジャップということで、アパートを借りょうと思って行ったときに私の顔を見てアパートを貸さなかったと。これは地域によりますが、テキサスなんかは逆に非常に親日的というか、
日本人には好意的だったんですが、当時テネシーなんというところに行くと大変そういう差別があった。そういう中で今は非常に
日本人も
アメリカの社会の中で生きやすくなっていると思います。
同時に朝鮮民族が、もう一世から五世にかわっていると思いますが、その人たちが本当に、やはり民族というのはこれは尊重しなきゃならない問題でもあろうと思うんで、そういう
環境を早くつくってあげたいなと思っております。
ちょっと一方的にしゃべってしまって済みません。大体の質問のことはお聞きしたので、私なりの今回の訪朝における感触というものを述べましたが、私も
政府にこういうことを申し上げる機会がなかったもので、この場をかりて
大臣に聞いていただいたわけなんです。
そしてもう一つは、最後にやはり統一という問題ですね、南北統一というもの。これはやはり一つの民族が分断されているというのは非常に不幸なことで、唯一命残された国じゃないかな。そういう
意味で、今までの
米朝交渉あるいは核の問題、これはなかなか
日本の出番がなかったかもしれません。そして、この統一問題というのは最終的には両南北の指導者あるいは国民がそういう気持ちにならない限り統一はできませんが、
日本として何かその辺の、過去に犯してきた罪というか、戦後におけるいろんな問題と別に独自に何か役割がないんだろうか、それをひとつお聞きして終わりにしたいと思います。