運営者 Bitlet 姉妹サービス
使い方 FAQ このサイトについて | login

1994-04-01 第129回国会 参議院 産業・資源エネルギーに関する調査会 第2号 公式Web版

  1. 会議録情報

    平成六年四月一日(金曜日)    午前十時開会     ―――――――――――――    委員異動  二月十日     辞任         補欠選任      小島 慶三君     河本 英典君  二月十五日     辞任         補欠選任      松本 英一君     峰崎 直樹君  三月三十一日     辞任         補欠選任      前畑 幸子君     村田 誠醇君  四月一日     辞任         補欠選任      村田 誠醇君     前畑 幸子君     ―――――――――――――   出席者は左のとおり。     会 長         櫻井 規順君     理 事                 尾辻 秀久君                 吉川 芳男君                 藁科 滿治君                 長谷川 清君                 立木  洋君     委 員                 合馬  敬君                 岡  利定君                 佐藤 静雄君                 関根 則之君                 楢崎 泰昌君                 南野知惠子君                 吉村剛太郎君                 瀬谷 英行君                 堀  利和君                 前畑 幸子君                 峰崎 直樹君                 村田 誠醇君                 森  暢子君                 乾  晴美君                 河本 英典君                 小林  正君                 萩野 浩基君                 星野 朋市君                 中川 嘉美君    事務局側        第三特別調査室        長        堀籠 秀昌君    参考人        学習院大学経済        学部教授     南部 鶴彦君        慶應義塾大学経        済学部教授    深海 博明君        上智大学法学部        教授       猪口 邦子君        社団法人日本フ        ィランソロピー        協会理事長    田中 克人君        日本アイ・ビ        ー・エム株式会        社専務取締役   竹中  誉君        神奈川大学経営        学部教授     松岡 紀雄君     ―――――――――――――   本日の会議に付した案件 ○参考人出席要求に関する件 ○産業資源エネルギーに関する調査  (エネルギー供給課題対策に関する件)  (二十一世紀へ向けての企業行動あり方に関  する件)  (派遣委員の報告)     ―――――――――――――
  2. 櫻井規順

    会長櫻井規順君) ただいまから産業資源エネルギーに関する調査会を開会いたします。  まず、委員異動について御報告いたします。  去る二月十日、小島慶三君が委員辞任され、その補欠として河本英典君が選任されました。  また、二月十五日、松本英一君が委員辞任され、その補欠として峰崎直樹君が選任されました。  また、昨三十一日、前畑幸子君が委員辞任され、その補欠として村田誠醇君が選任されました。     ―――――――――――――
  3. 櫻井規順

    会長櫻井規順君) 次に、参考人出席要求に関する件についてお諮りいたします。  産業資源エネルギーに関する調査のため、本日の調査会に、学習院大学経済学部教授南部鶴彦君慶應義塾大学経済学部教授深海博明君、上智大学法学部教授猪口邦子君、社団法人日本フィランソロピー協会理事長田中克人君、日本アイ・ビー・エム株式会社専務取締役竹中誉君、神奈川大学経営学部教授松岡紀雄君を参考人として出席を求め、その意見をお聞きしたいと存じますが、御異議ございませんか。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  4. 櫻井規順

    会長櫻井規順君) 御異議ないと認め、さよう決定いたします。     ―――――――――――――
  5. 櫻井規順

    会長櫻井規順君) 産業資源エネルギーに関する調査を議題とし、エネルギー供給課題対策に関する件について、参考人から御意見を聴取いたします。  午前は、学習院大学経済学部教授南部鶴彦君慶應義塾大学経済学部教授深海博明君、上智大学法学部教授猪口邦子君に御出席をいただいております。  この際、参考人皆様一言ごあいさつを申し上げます。  本日は、御多忙中のところ本調査会に御出席いただきまして、まことにありがとうございます。  参考人皆様から、エネルギー供給課題対策に関しまして忌憚のない御意見をお述べいただき、今後の調査参考にいたしたいと存じますので、どうぞよろしくお願いをいたします。  議事の進め方といたしましては、初めに、二十一世紀に向けたエネルギー産業あり方について南部鶴彦君から、次に、我が国エネルギー供給あり方国際的施策の展開について深海博明君から、次に、地球環境問題とエネルギーについて猪口邦子君からそれぞれ二十分以内で御意見をお述べいただいた後、一時間三十分程度委員質疑にお答えいただく方法で進めてまいりたいと存じます。  本日は、あらかじめ質疑者等を定めないで、委員の方々に自由に御質疑を行っていただきたいと思いますので、質疑を希望される方は挙手をし、私の指名を待って御質疑をお願いいたします。  なお、意見陳述質疑及び答弁とも御発言は着席のままで結構でございます。  それでは、まず南部参考人からお願いいたします。
  6. 南部鶴彦

    参考人南部鶴彦君) 御紹介いただきました南部でございます。  私のお話し申し上げますのは、エネルギー産業あり方という表題がございますが、特にエネルギー産業におきます規制あり方あるいは規制緩和あり方を中心にしてお話をしたいと思っております。限られた時間でございますので、テーマを一応三つ設定いたしまして、一つ電力事業、二番目がガス事業、三番目が石油事業というふうな形で順を追ってお話し申し上げたいと思います。  いずれも、非常に簡潔に申し上げるつもりでございますが、御疑問がございましたら後ほどまた御質問いただければと思います。  まず、電力における規制緩和ということでございますが、これは技術進歩ということと裏腹の関係にございます。最近、コージェネレーションということがしばしば語られるわけであります。このコージェネレーションというのは、電力と熱というふうなものを同時に供給するシステムということでありまして、実は、それ自体は何ら新しいものでもありません。例えば小学生でも、理科の実験などでモーターを回しますと電気と熱が同時に生まれてくるということを知っているわけでございます。  ですから、現在このコージェネレーション社会的な問題になっておりますのは、そうした非常に古典的な技術というものを使って、実は自分の必要な電力だけではなく他人電力までも供給することができるような供給システムの変化があったということでございます。さようでございますから、コージェネレーションそのものは、いわゆる九電力ないしは十電力電力供給していた時代にありましても、自分のために使う電力という意味では非常に頻繁に使われてまいったわけであります。  現在、問題になっておりますのは、自分のためにつくった電力が余った場合に他人供給すると、こういう問題でございます。余った電力供給するときに、他人に売るために電力の場合には一つ大きな条件がございます。といいますのは、電力の場合には発電以外に送電配電というシステムが必要でございまして、余った電力は、送電配電といういわば道路を使わないと幾ら出ても他人には供給できないわけでございます。  そこで、この余った電力他人供給する場合に、道路に当たります送配電線というものをどのように考えたらいいかということが一番大きな問題になってきます。現在のところ送配電線というのは、電力会社が保有しているそういう道路に当たる部分でございます。ですから、コージェネレーションが行われまして電力余剰につくった場合に、それを他人供給する場合にはどうしても電力会社送配電線というものを貸してもらわなければいけないということになるわけでございます。裏返し電力会社から申しますと、託送と呼ばれておりますけれども、人のつくりましたものを預かって最終需要者まで送ると、こういう仕事を引き受けるということになるわけであります。  問題は、この託送というのを行う場合に、電力会社に例えば強制的に行わせるということが望ましいかどうかということでございます。もちろん、私有財産制度のもとでの資本主義システムでございますから、電力会社の持っている施設を他人が勝手に使うということは、これは法律的にできるわけではございません。ですから問題は、電力会社が納得して他人のつくった電力供給するような仕組みを構築するのにはどうすればいいか、これが託送の問題の一番大きなところでございます。  もちろんビジネスとして考えれば、託送を引き受ける電力会社は、その引き受けたものに対応するペイを払われれば供給に応じるということになるわけであります。つまりその場合には、電力余剰につくって最終需要者供給したいと思っているコージェネレーターとそれから電力会社との間のいわばバーゲニングのところで適切な値段がつくられるかどうかというのが根本的な問題になるわけでございます。  この場合に、実は似たようなケースが電気通信では既に行われております。御存じのように、長距離電話の分野ではNCCと呼ばれます三社がNTT市内電話回線というのを借用いたしまして通信供給する、こういうシステムが既に確立されております。ここでは、NTT市内電話回線を借りるのに当たって、当然のことながらNCC料金を払っているわけでございまして、これをアクセスチャージというふうに呼ぶわけでございます。このアクセスチャージシステム電力の場合も同じように適用されなければならないということは変わりはございません。  ただし、恐らく根本的に違うあるいは注意しなければいけない問題が電力の場合にはあるかと私は思っております。と申しますのは、通信の場合には、市内電話回線NCCが借りるといったときに、実は通常はNTTのあいております電話回線を貸してもらう、そしてNTTがその電話回線を貸すことによって電話供給システムには何ら障害は通常起こらないわけでございます。  ところが、問題になりますのは電力でございまして、電力会社の持っております送配電線に他の電力が入ってくるというときに、実は電話とは恐らく違った問題が起こるかというふうに存じます。  それはなぜかと申しますと、電力システムというのは中央にコントロールタワーのようなものがございまして、そこで電圧を調整し、一定電力供給するシステムができ上がっているわけでございます。そこで、そこに他の電力が入っていくということによって、果たして社会的な供給上の問題が起こらないかどうかということを通信とは違って考える必要がございます。  しばしば系統運営という言葉で呼ばれるわけでございますが、この系統運営というのは、最もシステマチックに電力を安定してかつ最小の費用で送るシステムということだと思います。この系統運営システムに他の電力が入った場合に、それがもたらすいわば効果というようなものを通信の場合以上に注意深く考えなければいけないということがあるかと思うわけでございます。  裏返しに言えば、アクセスチャージというものをとる場合には、実は電力の持っております系統運営システムに他の電力が入ってきてもたらす追加的なコスト社会的なコストというふうに呼んでいいと思います。社会的コストというものを考慮して、そのようなコストを考慮してもなおかつコージェネレーターのつくった電力供給されることによって社会全体の利益が増大する、そういう条件があって初めて託送システムというものを有効に活用することが必要だろうというふうに思うわけでございます。  ですから、経済学言葉ではしばしば機会費用機会というのはオポチュニティーのことでございます。機会費用という言葉を使って説明いたしますけれども、社会的に必要な機会費用というものが託送のもたらす機会的便益、簡単に申しますと電力料金が安くなるということでございますけれども、そういう便益を上回らない限り託送というのは社会的に当然認められるべきだと思います。しかし、社会的な機会費用の方が便益を上回ってしまう、例えば系統運営が外部の電力の参入によりまして大きなマイナスの影響を受けるという場合には、託送というものは慎重にならなければいけないと思うわけでございます。  私は、基本的には規制緩和論者なんでございますけれども、電力につきましては、少なくとも既存の送配電システムというものを前提にする限り規制緩和が望ましい、だから託送もそのまま認めるべきだという議論は注意して考えなければいけないというふうに思っているわけでございます。  それから、二番目の都市ガスLPGの問題でございますけれども、ここで一番大きな問題は、私は消費者選択の自由ということだろうと思います。現在、ガス供給エリアというものを見てみますと、すぐおわかりになりますように、都市ガス供給されているエリアと、それから都市ガス以外というふうに言ってよろしいと思いますが、その他のガス供給されているエリアというものが混在しているわけでございます。そして、このような都市ガステリトリー都市ガス以外のテリトリーの分布が消費者の望んだとおりのものであるというのであれば、これは何ら問題はございません。例えば、都市ガス以外のガスの方が安いとか便利であるというふうな理由で選ばれた、その結果としてテリトリーができ上がったものであるというのであれば何の問題もございませんが、果たしてそうだろうかということが恐らく今後の問題かと思います。  例えば、都市のあるいは大都市周辺人たちは、より都市ガスを望んでいるにもかかわらず、現在のテリトリー規制があるためにどうしても引いてもらえない。よくございますように、目の前の道路反対側は全部都市ガス供給エリアなのにうちの方は都市ガスが来ない。テリトリー制という規制のためにそれは来ないんだということがあった場合、私はこれは決して望ましいことだとは思いません。それは消費者選択の自由というのを大前提に置きまして、その選択を自由にした結果としても、やはり都市ガス以外、例えばLPGが選ばれたというのであればそれは構わないと思うんですが、実は規制存在というものがこの選択を阻害しているおそれがかなりあるのではないかというふうに思っているところです。この辺につきましてはテリトリーに関する規制の見直しが必要かと私は思います。  それから、第三番目の石油でございますけれども、石油の場合には問題はかなり複雑だというふうに思います。石油の問題で一つ大きな問題として出てまいりますのは、やはり内外価格差と申しますか、国内における石油価格というものがその他の国に比べてかなり高いということが一つ大きな問題でございまして、石油業法というものが存在するために、この規制存在がこうした内外価格差一つ原因をなしているのではないかというふうな議論がなされているかと思います。その辺につきましても順序を立てて考えていきますと、問題はさほど簡単ではないと思います。  まず第一に、例えばガソリン価格というものを考えてみますと、我が国ガソリン価格というのは海外に比べて非常に高いわけでございます。それは確かに一つ原因規制にあるかもしれません。しかし、もう一つ根本的な問題としてございますのは、実は石油製品というのは、どれか単独にとってある製品のみの価格というのは本来考えることができない製品だということでございます。  しばしば石油製品連産品だというふうに呼ばれます。と申しますのは、石油製品というのは原油原材料にいたしているわけでございます。この原油を分解いたしまして幾つかの商品が出てくるわけでありますけれども、そのときに、例えばガソリンがそれだけ出てくるのではなくて、ガソリンが出てくると同時にナフサも出てまいりますし灯油も出てまいります。結局、一つ原材料から複数の商品一定の比率で出てくるという形の商品でございます。これはある原材料を使いまして一つ商品をつくる、そしてその一つ商品価格が自動的に決定されるというシステムとは根本的に異なるわけでございます。  そうしますと、まず第一の問題は、我が国のトータルに見た石油に対する需要システムガソリンナフサ灯油その他の発生のパターンを決めているということがございます。そしてその中で、ガソリン価格というのは、実はほかの商品ナフサ灯油その他の商品と同時に決定されるような仕組みになっておりまして、ガソリン値段だけが特別決定されるということは本来あり得ないものなわけでございます。ですから、まず問題は、実際現実に目につくところは内外価格差でございますけれども、我が国エネルギー需要石油需要あり方ということも考慮に入れる必要があろうかと思うわけでございます。  次に、我が国ガソリン価格を例にとって申し上げますと、確かに日本ガソリン価格というのは海外に比べて非常に高いわけでございます。この高いということにつきましても、一応視点ははっきりと二つに分けて考える必要があろうかと思います。  一つは、経済学者がしばしば申しますが、資源の効率的な利用という観点でございます。資源の効率的な利用ということで申しますと、石油価格の現在の水準が非常に高いということが社会にもしかすると大きな効率的利用阻害要因になっているかもしれません。と申しますのは、もしガソリン価格を下げれば、人々は、より多くガソリンを使うということによりまして、安いガソリンがよりたくさん使えるということにおいて利益を得るという可能性があるわけでございます。実際高い価格というのは、そのようなもっと人々が使いたいと思っているガソリンの量を制約しているという可能性があるわけです。このような場合には、結局ガソリン価格を下げることによりまして消費者利益を増大させるということが可能になります。したがいまして、高価格というのが資源利用を妨げているということが言えるわけでございます  しかし、冷静に考える必要がありますのは、果たしてガソリン値段が下がったときに消費者需要がどれだけふえるかということでございます。ある商品などは極端な場合、値段が上がろうが下がろうが消費量はほとんど変わらないというものがございます。それは普通我々が価格弾力性というふうに呼んでいるわけでございますけれども、価格が変化したときにどれくらい需要が弾力的に変化するかという問題でございます。  もし石油につきまして、価格が下落いたしましても需要はほとんど伸びないというふうな、そういう弾力性が非常に小さい財であるといたしますと、実は資源の効率的な利用についてさほど大きな問題はないわけでございます。つまり、例えば値段を下げたとしても消費はほとんどふえないというのであれば、値段が高いということによって消費者は別にそういった意味での不利益を受けているわけではないわけでございます。  次に、もう一つ問題になりますのが、では今度は、高い価格というのは一体何を社会にもたらしているかというと、これは効率性の問題ではなくて所得分配の問題でございます。つまり、高い値段がついていることによって当然利益を上げているグループと、高い価格を支払わされるということによって不利益を受けているグループ二つグループがございます。そして一般的に、もしガソリン価格が非常に高いといたしますと、ガソリンを売っている業界は利益を得ている。その利益というのは消費者が払っているということです。こういう問題でございます。ですから、これは分配上の問題で、果たして消費者がそのような高い価格を払うことが社会的な分配観点から見て公正と言えるかどうかということになるかと思うわけでございます。  社会全体の考え方で言えば、海外に比べて不当に高い価格を払っている、つまり不当に高い値段をつけている側が大きな利益を得ている、そういう分配上のいわば不公平に対する不満というのが恐らくあるように思います。私どもがもしこの問題を考えるとすれば、この分配上の不公平ということがどの程度まで社会的に深刻な問題であるのかということについて、いわば効率性の問題、値段が高いことによって消費が促進されないという問題と分けて考えておく必要があるかと思うわけでございます。  さらに最後につけ加えますと、ガソリン値段あるいは石油製品値段を下げることがそれ自体として本当にいいことかという問題があるわけであります。  と申しますのは、環境に対する影響ということまで含めますと、値段が安くなってみんながどんどん石油製品を使うということは、裏返し環境を破壊するという効果を持っているかもしれません。そうしますと、今度は高価格がついているということは、意図したわけではございませんけれども、結果的には税金をかけて消費を抑制しているという効果を持っている可能性もあるわけでございます。そのような場合には、高価格という問題は、効率性の問題よりもむしろ所得分配という公正感の問題として考えるべきであろうかと思っているわけでございます。  以上で私の陳述を終わります。
  7. 櫻井規順

    会長櫻井規順君) どうもありがとうございました。  次に、深海参考人からお願いいたします。
  8. 深海博明

    参考人深海博明君) 深海でございます。  皆様のお手元に一応私の申し上げたい筋を書いたものが配られておりますので、それをごらんいただきたいと思うんです。  それで私、ちょっと前置きで一言だけ申し上げたいと思うのですが、実はきのうまで十日間、科学技術庁の派遣南太平洋諸国、それからオーストラリア、ニュージーランドを回ってきておりまして、そんな印象も含めて我が国エネルギー供給あり方を大きな視点から、南部先生は詳細にエネルギー産業視点からお話しになったのですが、話をしてみたいと思います。  私の話は大きく三つに分かれております。一つは、こういったエネルギー供給あり方を考える基本的な視点と申しますか前提条件をまず説明させていただき、そしてエネルギー供給あり方課題について私が考えている提一言とまではいかないのですが方向づけを申し上げ、そして最後、簡単なまとめを申し上げたいと思うわけでございます。  そこで、最初の前提的な検討というところを見ていただきたいのですが、我が国エネルギー供給あり方を考える場合に、今の時期というのは非常にしゃべるのが難しい。なぜかと申しますと、そこにも書いてございますように、一九九〇年の六月に一応決まりましたエネルギー長期需給見通し、そしてまた石油代替エネルギー供給目標というようなもの、あるいは八七年六月に決定されました原子力開発利用長期計画というようなものが目下改定中でございまして、前者の方は夏までに、後者は秋までにはそういう方向が明示されてくることになっているわけでございますので、そういうあり方について具体的に審議会あるいは政府レベルでも検討中の段階でございますので、そういう詳細な内容についてお話をするのがなかなか難しい。そこで、どちらかと申しますと、そういった長期にわたる我が国エネルギー供給あり方を考えるべき前提条件といいますか、そこをお話ししてみたいということでございます。  そこで、(2)を見ていただきますと、そこにも書いてございますように、こういった三つのEの同時的達成という考え方は、皆様御存じかとは思うのですが、一九九二年の十一月に通産省がそういった方向を出したわけでございます。エネルギー供給エネルギー供給だけで考えるよりも、むしろ大きな目標の中に位置づけて考えようというのが二十一世紀長期展望で必要なことではないだろうか。  三つのEというのは何かと申しますと、これは御存じのように、経済発展あるいは経済成長、豊かなゆとりある生活あるいは生活大国を実現したいという、これは当然の目標であるわけです。それから第二は、環境問題が重大化してきたわけでございまして、環境保全、エンバイロンメンタル・プロテクションとかエンバイロンメンタル・コンサベーションというようなものを重視したい。それとのかかわり合いでエネルギーの需給の安定化を図ろうということでございます。  この三つのEの同時的な達成、多くの場合、例えば経済成長、経済発展が進めばエネルギー需要がふえてくる、それによって環境への負荷が増大するというような意味で、これらの三つは、通常はあちらを立てればこちらが立たずといういわゆるトレードオフの関係に立つというふうに言われているわけです。それを何とか達成しようという中で我が国エネルギー供給を考える必要性があろうというのが、やはり今後の供給を考える一つ前提として重要ではないだろうか。  それからもう一つは、昨年度この調査会で既に詳細に議論されているわけですが、エネルギー需給の安定という最後のEを考えるという場合にも、需給両面、供給だけを独立して考えることは難しくて、できるだけ有効利用、節約してぎりぎりまで必要量を減らした上で供給を考えると、こういうことが重要ではないだろうか。  そこで、ごろ合わせみたいで申しわけないのですが、私はある意味で言いますと、三つのEを達成するために、三つのS(H)Osというふうにあるんですが、Hを除きますとSOsと、地球が悲鳴を上げているというような意味で三つのSOが重要だというような議論が今盛んに行われているわけであります。こういった供給を考える前提として三つのショーとは何かと申しますと、省エネルギー、有効利用をする。それからまた省エネルギーだけではなくて省資源。これは資源エネルギーに関する調査会でございますが、いわば省資源をいたしますればそれが省エネルギーに通ずるというような意味で省エネルギー、省資源。そして一番大きな問題は、やはり現段階では省廃棄物あるいは省ごみといったようなものが大変重要な課題となっているわけでございます。ですから、そのような意味で、できるだけ需要を最大限効率化していく。それも、総合的に三つの省を推進していくというような形で、そういうものを行った上で考えていく必要性があるのではないかというのが申し上げたい一つのポイントでございます。  それから、第二番目のエネルギー供給あり方を考えるもう一つ視点としては、より広い視点といいますか、時間的及び地域的あるいは空間的な範囲で非常に広い視野から考える必要性がある。これは皆様御存じのように、一昨年の六月に行われました地球サミットと言われております国連環境開発会議でも、いわゆるサステーナブルディベロプメント、持続可能な発展ないし開発を今後目指そうと。しかも、これは世界全体といいますかグローバリーに目指していこうというようなことが言われているわけでございますので、結局今のような議論は、目的を明確にするとしたら、地球大あるいは世界全体のやはり持続可能な発展を目指すというところからエネルギー供給というのを考えるべきではないかというのが申し上げたい点でございます。  そこでは、当然先ほど(2)で申しました三つのEを同時に達成するということであるわけですが、具体的に持続可能な発展というものを提起いたしました環境と開発に関する世界委員会、これはノルウェーの女性首相のブルントラントさんが委員長を務められておりましたのでブルントラント委員会と。これが一九八七年に「アワ・コモン・フューチャー」、日本語訳は我々共通の未来のためにというものでございます。そこでの定義を見てみますと、将来世代がみずからの欲求を充足する能力を損なうことなく今日の世代の欲求を満たすことであるというわけですが、その内容は、実は三つの要件として描かれているわけです。  一つは何かというと、今日世代のすべての人々の基本的な欲求を充足する。ですから、いわば絶対的な貧困に悩むような人がいないようにしよう。それから第二は、それだけではなくて、最低限度の絶対的な貧困が打破されるだけではなくて、今日世代によりよき生活へのあこがれも充足したい。第三、これが時間的な意味で非常に重要ですが、子や孫の世代、将来世代によりよき生活へのあこがれの永遠の充足も目指そうと、こういう非常に大きな目標が掲げられているわけでございます。  そういう意味で言いますと、今後の我が国エネルギー供給というのは、こういう形で基本目標として設定されております世界全体あるいは地球大の持続可能な発展のためのエネルギー供給はどうあるべきか、そこで我が国はどうすべきか、こういうところから問題を考えるべきではないだろうかということでございます。  それから、私きのう帰ってきたばかりなのでこういうことを強調することになろうかと思うのですが、もう一つは、この問題を考える場合に、我々は日本エネルギー供給を内からの論議といいますか、我々の常識で議論してそれが世界に通用すると思っているわけですが、そうでない状況が存在しているんだ、内からの発想と外からの発想といいますか、その間には大きなギャップがあるんだということを前提として考える必要性があろう。  これはどういうことかと申しますと、オーストラリア、ニュージーランドでまさに議論してきたところなんですが、欧米あるいは主要先進国といいますか、あるいは途上国も含めて次のようなことが信じられているわけです。いわゆる経済大国になったら政治大国化を目指すのは当然だ、政治大国化を目指せば当然軍事大国化を目指すといういわゆるエスカレーション命題というのが欧米を中心に広く信じられているわけでございます。日本の内から考えれば、原子力の利用に関しても非核三原則とそれから平和憲法があり、日本ほど平和愛好国家はないんだというふうに考えられているわけですが、それが諸外国に定着しているかというとそうではない。  したがいまして、一番大きな問題は、日本が原子力を推進する、しかも原子力で使った燃料を再処理してプルトニウムを利用しようという路線を図っているわけでございまして、これに関して、日本がいかに平和だと言っても、いわゆる透明性を持って例えばプルトニウムのストックはほとんど持たないようにするというようなことが明確になっていない限り、非常に多くの疑惑を持つ可能性がある。ですからそうなりますと、内からの必要性は、内からの発想だけではなくて外からも支持されるようなこういう日本エネルギー供給あり方を考えなければならないということになろうかと思う次第でございます。これが、私が申し上げたい我が国エネルギー供給あり方を考える前提ないしは基本的な視点であるというふうに思います。  そこで、二番目に入らせていただきまして、それでは今のようなことをいわゆるエネルギー供給あり方に適用したとしたらどういう考え方があり得るのかということでございます。時間の関係で要点だけを説明させていただきまして、また後で御質問いただいた上で詳細な議論は展開したいと思っております。  一つは、最後に申し上げましたそういう内からの発想と外からの発想に大きなギャップがある。それを埋めるというような意味を含めて考えてみますと、エネルギー供給について従来議論されてまいりましたのは国内的なベストミックス論。いわばいろんなエネルギー源がある。エネルギー源のそれぞれの利益と欠点と申しますか、そういう特徴を生かして日本として見て一番うまく組み合わせて使った方がいいんだというような意味で、例えば原子力は何%、脱石油は図るけれども、しかし当面はある程度石油にも頼らなきゃならないというような意味でのエネルギー供給全体に関して、それから電力供給に関しましてもいわゆるベストミックス論というのが盛んであるわけですが、これはあくまでも国内的な視点からのベストミックス論である。  今のような一の前提に立つといたしますと、それを我々はぜひ国際的なベストミックス論に展開していくという必要性があるのではなかろうかということでございます。その前の、前提として述べました世界全体のサステーナブルディベロプメント、持続可能な発展を達成しようというような視点でもし考えるといたしますと、例えば日本のように、技術水準が高くしかも原子力とかそういったものが安全に利用できる国は、むしろ世界的な視点からいったら原子力利用をより多くする。そして、使いやすいエネルギー源であるいわゆる伝統的な石油を中心とする化石燃料なんというのは途上国が使えるような配慮が要るのではなかろうかというような意味であります。  そういう面で考えてみますと、国内的なベストミックス論から国際的なベストミックス論という視点で問題を考えていくということがぜひ必要ではなかろうかということでございまして、これも言うはやすく、具体的にどうするのかというようなことになりますとなかなか問題はあるわけでございます。  それからまた、原子力発電の問題だけに、実は仏その問題の説明に十日間海外に出ていたものですから例が原子力になってしまって申しわけないのですが、例えば日本がいかに安全に利用しようとも、もしまた諸外国でそういったチェルノブイリ級の事故が起これは、日本の原子力利用というのはもう決定的な影響を受けることは確かでございます。そうなってまいりますと、安全に利用できるところが集中的に利用していくというふうな発想が要るのではなかろうかというふうに思う次第でございます。  それから第二は、第二の前提条件で申しましたような意味で、これからの我が国エネルギー供給あり方というのは、持続可能な発展のためのエネルギー供給というスローガンのもとにそれを具体化していくということが必要ではないかということでございます。  先ほどのように考えるといたしますと、これは世界銀行の推計でございまして一九九〇年段階でございますけれども、例えば今世界で基本的な欲求を実現できていない人々、いわば絶対的な貧困レベルにある人々は途上国に十一億三千三百万人いるということが指摘されているわけでございます。そうなってまいりますと、まず第一にそういった途上国のいわば絶対的な貧困にある人々、基本的な欲求を満たされていない人々をどういうふうにしたらいいんだろうか、そのためにはどういうエネルギー供給が要るんだろうかというようなことから始まって議論をしていく必要性があろうというふうに思うのですが、そういう大きな問題ではなくて、もう一つだけぜひ強調しておきたいことがあるわけです。  これは、いろいろなエネルギー供給源がある。(4)のところに書いてございますように、化石燃料、原子力・核エネルギー、自然・再生エネルギーというようなものがあるわけでございます。持続可能な発展のためのエネルギー供給というようなことを考えたときに、個々のエネルギーについて個々の局面でとらえるのではなくて、いわゆる今はやりになっておりますトータルで評価する、これはライフサイクル・アナリシスとかライフサイクル・アセスメントと言われているものでございます。例えば、太陽エネルギーではこれほどクリーンなエネルギーはないんだということが定着しているわけでございます。  ところが、これは電力中央研究所が推計したものでございますけれども、地球温暖化現象というので、例えば太陽光発電であれば、そういう燃料の開発利用から発電の機器の製造過程からすべてを含めてトータルで考えてみますと、実は温室効果ガス効果が一番少ないのは水力、続いて原子力。それで太陽光発電などというのは、水力、原子力の数倍以上の温室効果ガスを特に機器の製造過程で発するというようなことが言われているわけでございます。そうなってまいりますと、持続可能な発展のためのエネルギー供給というような意味で総合的な評価が要るのではないかということでございます。  そこで、具体的にその評価はどういうふうにされるべきであろうかというのが(3)の部分でございます。  ここで重要なことは、私は、四つないし五つの基準に基づいて総合的に評価をしてみる必要性があるというわけでございます。皆さんこれはもう御存じのことではあるのですが、通常は潜在的な可能性といいますか、それだけが比較検討されるわけでございますが、ここで重要なことは、量、質、価格、時間という四つの要素。いわばどれくらいの量のエネルギーが地球自然環境あるいは地球に優しいのか優しくないのか、あるいは用途にうまく合っているのかどうかという質的な側面、それからどれだけのコストで、このコストも狭い意味でのコストでいいのか環境コストを入れるべきかどうか、それが一体いつ利用できるのかというふうないろいろな問題がございます。また後で補足的に説明はいたしたいと思うのですが、こういうことの評価が要るのではなかろうか。  それからもう一つ重要な点は、これは次に猪口先生からも話があろうかと思うのですが、やはり安全保障とか安定的に供給される、あるいは原子力やその他であれば、安全性が確保されて人々が不安を持たないように供給されなければならないということでございまして、こういった視点から個々のエネルギー供給の評価が要るのではないかということが一つのポイントでございます。  本来ならば、(4)のところで個別的な意味でのエネルギー供給の展望を申し上げたいというふうに思ったわけでございますが、時間の関係でこれは後の論議に譲りたいと思うのですが、三つのことだけを簡単に指摘させていただきたいと思います。  一つは、先ほどの南部先生の話とも関連するわけでございますが、これから基本方向としてエネルギー産業について規制緩和が進んでいくことは必至でございまして、規制緩和をどうするかということの各論は南部先生お話にあったわけです。そうなってまいりますと、やはり今まではあるエネルギー源はある部門でやるというような形で指定席的な、これは生田エネルギー経済研究所理事長の話ですが、指定席的な考え方があったわけですが、今後は競合が強まってくるし、またうまく補完して使うというような意味でのRXの問題である。  第二の問題は、化石燃料あるいは石油代替燃料を供給するというのが一つの目標になっているわけですが、その際に②と③ですね、これはロビンスが言う原子力とか核エネルギーというのはハードパスだ、自然・再生エネルギーというのはソフトパスでこちらが望ましいという議論がされているのですが、例えば②の方をとったら③の方は選択できない、本当にあれかこれかの選択なのか。むしろそうじゃなくて、我々は、先ほど言ったような意味で、国内的にも国際的にもベストミックス論を考えるということであればあれもこれも、しかも先ほど(3)のところで説明しましたような、四つないし五つの基準に基づいてうまく組み合わせて利用していくという発想が要るのではなかろうか。  それから、④、⑤について一言ずつ説明をさせていただきたいと思うのですが、こういう国際的なレベルあるいは国内レベルで考えたときに、一つの問題点というのは、自然エネルギー利用しようと賛成する人たちは今までの資源配分とか重点の置き方が悪いと、原子力にあれだけ資金を投入しているのだから、これを太陽エネルギーに投入したらどうなのかというような議論もよくされているわけでございます。ですからそうなると、硬直的に発想をするのではなくてそういう可能性を含めて考えていく必要性がある。しかしエネルギーの場合に、現在の技術水準その他であれば、エネルギーの輸送や貯蔵が難しいということがエネルギー供給上の大きな問題をもたらしているんだということが重要ではなかろうかと思う次第でございます。  時間が来ておりますので、「終りに」の部分は一言ずつ申し上げる形で、また御質問をいただいて詳しく説明をさせていただきたいと思うのですが、私が申し上げたい点は、個々にみんなが考えていることをトータルで合わせてみるとどうしてもうまく合わなくなってきてしまう。ですから、全体を見通し総合的に考えていく必要性があるんだ。  それから二番目は、一つを決めてもう絶対唯一の選択として考えるのではなくて、伸縮的にかつ二正面とか多正面というふうな形でエネルギー供給を考えていく必要性があみ。一つは、トップダウン的に総合的に判断することも重要ですが、ミクロレベルの積み重ねも含めて、いわばそういう面で伸縮的かつ多正面に考えていく必要性がある。  それから三番目の、「政治家の果たすべき役割は」というのは、先生方に要望を申し上げたいと思ったんですが、これは時間が来ておりますので、後で時間が与えられれば申し上げるということにいたしたいと思います。  以上で終わらせていただきます。
  9. 櫻井規順

    会長櫻井規順君) どうもありがとうございました。  次に、猪口参考人からお願いいたします。
  10. 猪口邦子

    参考人猪口邦子君) 私の専門は国際政治ですので、きょうは資源エネルギー問題を国際政治の観点から、また今後の地球的諸問題、これは事務局からいただいた私の課題なんですけれども、この今後の地球的諸問題との関係において意見を述べさせていただきます。  レジュメにありますとおり、大きく分けて、まず冷戦終結後の地域紛争の問題、それから環境問題、それから途上国の貧困と産業化にかかわる問題、この三つの観点から意見を述べさせていただきます。  まず第一に、最近の地域紛争についてでありますけれども、御存じのとおり、我が国の一次エネルギー供給に占めます石油の割合というのは五割を超えておりまして、石油依存度というのは、例えば二〇一〇年度ぐらいを見通しても約五割と予測されておりますので、原油の安定供給と輸送航路の安全は資源エネルギー政策を考える上で基本的な問題であります。  石油だけでなく、日本資源エネルギーをさまざまな部門で輸入をしております。その輸入航路で見てみますと、簡単にごらんいただきますと、まず中近東、アフリカ、あるいは南アジアなど南西方面の航路からは天然ガス、石炭あるいは鉄鉱石、レアメタル、木材などが入ってきております。それから、南のオセアニア地域の方面からは主として石炭と木材チップ、また太平洋の東側からもやはり原油、石炭、木材あるいは鉄鉱石、また穀物が入ってきておりますし、それから、今後は北方からも天然ガス供給がふえると考えられますので、いわば全方面の供給路が重要であります。また、世界各地の紛争が日本資源エネルギー供給に直接的、間接的影響を及ぼすということを考える必要があります。  そこで、ポスト冷戦期におきます地域紛争の見通しとその問題について若干意見を述べさせていただきます。まず、冷戦の終結は確かにヨーロッパには安定をもたらしましたが、その他の地域におきましては、大国の問題に対する介入力の低下を背景に民族対立、宗教対立、国境線問題などが表面化していて地域紛争が多発してございます。冷戦の終結は、例えば昨年九月以降のイスラエルとパレスチナの和解に見られますとおり、大局的には現代国際社会の政治的対立が緩和する背景を成すと思いますけれども、しかし、過渡期の不安定性は楽観できません。  また、国連の紛争解決能力というものもまだ育成途上であります。御存じのとおり、現在国連のPKO活動、平和維持活動は十七地域に及びますが、それだけの不安定性があるということでもあります。また、旧ユーゴ地域やソマリアなど国連が効果的に対応できてない事例もたくさんあります。  先般、国連のブトロス・ブトロス・ガリ事務総長は、これ九二年ですけれども、「平和への課題」というレポートを提出しまして、平和維持活動を越えてより積極的な武力介入を想定した平和執行部隊の概念を出しています。その形に非常に近いとされました第二次ソマリア活動が失敗してございます。このように、国連の今後の紛争解決能力についてはまだ過大な期待を寄せるわけにはいかないという面がございます。  またアメリカは、湾岸戦争に見るように、自分が重要な権益を持つ地域への介入は行っていきますけれども、しかし、これから世紀末を通じてアメリカは内政志向を強めるということが予測されます。したがって、政治的に各地の地域紛争を解決していく力ということについても、これは楽観はできません。  以上のことをまとめますと、冷戦が終結した結果、世界政治におきますセントラルバランスと呼ばれる主要国間の安定は得られましたが、しかし、各地のリージョナルバランスは不安定でありまして、また冷戦期とは違いまして、地域的な不安定性がセントラルバランスを狂わせる危険性がないことから、主要国が紛争解決にどこまで積極的に立ち回るかわからない。したがって、一部に長期化する紛争が残ると思われます。  こう申し上げた上で、ポスト冷戦期の地域紛争の特質を一般的にまとめますと五点ほどあります。まず第一に、地域的に限定的であります。余り波及はしないと思います。ただ、長期化する可能性というのは今申し上げたとおりです。  それから第二番目には、これはアメリカの出方ですけれども、米国のコマンドといいますか指令、米国がみずからコマンドをとってそれを中心とする多国籍軍が積極的に介入する場合は、これは短期決戦で終わるという可能性が非常にあります。それは米国の軍事ドクトリンがベトナム戦争の反省から、戦争犠牲を最小化するということを作戦上非常に高い優先順位に設定している、そういう転換を見たからでありまして、この点については、一般的に入手できる本としましては最近日本語の訳も出ましたシェワルツコフの回想録、これは湾岸戦争を指導した人ですけれども、その回想録などが役に立つと思います。軍事ドクトリンが非常に変わってきています。  他方で、米国はみずからが完全なコマンドを確保しにくい国連旗のもとでの軍事介入は行いたくないという非常に根強い考え方がありまして、そういう意味で米国の介入は非常に選択的になっているということが言えると思います。  それから三番目に、地域内の勢力だけでは紛争解決の糸口を見つけにくいという特徴があると思います。外部からの調停がない限りあるいは介入がない限り、先ほど申し上げたように長期化し死闘となりがちです。なぜならば、冷戦後の地域紛争は、限定的な政治目的のためというよりも、民族、宗教的なエスニックな対立あるいは国境線紛争が多いわけです。そういうものは妥協を許さない徹底対立に陥りやすいので、内部的な紛争解決の契機はつかみにくいというふうに議論できます。中東和平の場合も、全く異質な存在であるノルウェーの外交力が触媒になったことは御存じのとおりであります。  それから四番目に、多くの地域紛争は、通常兵器やそれから途上国の兵器産業のテストマーケットとなりがちでありまして、犠牲の規模は非常に大きく、またそのような経済的機会を求める勢力に対抗する平和への政治介入がない限り、人道的な観点からも耐えられない悲惨な戦場となる危険性があります。  それから五番目に、これは強調したい点ですけれども、すべての地域紛争の背景には貧困と経済破綻があります。国際社会にはどこにもエスニックな対立というのは潜在的にあるものですが、それが顕在化するときには経済破綻への絶望とそれからそれを対外的に転嫁しようとする政治があるようです。ですからその意味では、成長は最大の平和へのとりででもありますし、途上国の人々の国家建設の情熱を宗教的、民族的な対立という方向ではなく経済発展へと向けることこそが地域紛争防止への王道だというふうに考えます。  こういう観点から考えますと、世界各地の貧困を救済し、それから経済発展に寄与することが日本資源エネルギー安定供給の基盤的な条件であると考えられます。  原油に限って考えますと、中東和平の見通しですけれども、これは一方では、今申し上げたように、この地域が経済発展へと邁進して中東のASEANになるようなそういう可能性が出てくれば一番定着します。しかし、二十一世紀に向けてそれを阻むシナリオとして考えられますのは、まず、草の根レベルでの民族対立が解消せず、それを乗り越える国家指導力が不足している場合には中東和平が定着しないというリスクはあります。  それから二番目に、地域覇権を求める勢力が活発化する可能性ということですが、これは、湾岸戦争で油田地帯での地域覇権は許されないことをアメリカは証明しているわけで、また湾岸戦争の結果、そのような軍事力はかなりそがれたと認められます。ただし、オイルマネーで潤う限り、つまり経済発展への邁進なく資金流入が潤沢であるときには地域覇権への闘争が活発化しやすいということもまた事実でありまして、この地域が経済発展競争に目覚めていくことが重要です。中東での再度の有事となれば、やはりアメリカは軍事的に介入すると思いますけれども、その可能性がまた抑止として機能すると思います。  次に、航路の安全確保についてなんですけれども、これはシーレーンの防衛ということです。このシーレーンの防衛についてはその重要性を各国と分かち合うことが必要なんですね。つまり、シーレーンの防衛というのはどういうふうになされているかと考えますと、これは中東からマラッカ海峡を経ての原油航路も含めてですけれども、自分の領海周辺の分担部分の防衛の自己責任を果たすことによって成立していると考えられます。ですからその意味で、日本が分担した海上交通の保護の範囲についてはその責任を果たす決意を明確にすることによって、シーレーンの各部分にかかわる他国にその自己責任を認識してもらうということです。そのような仕組みを基本にしてアメリカが全般的な傘を設けて監視している、こういう方法論になっています。  危機回避の方法論ですけれども、これも幾つかの点を簡単に挙げます。まず、今申し上げたようなシーレーン防衛の自分の分担部分についての自己責任ということですが、それによって防衛網が、防御網が破壊不可能であるということを政治的に堅持していくということです。  それから第二番目は、これはもう危機発生の場合を想定して平時から別の遠回りの航路を練習しておくこと、これは既になされていることと思いますけれども、絶対に必要です。つまり、シーレーンが破綻するということは、破綻させる勢力が出てくるということは、これは主要国に大きな混乱をもたらすことを一つの目的としているという可能性は排除できないからであって、そういうことによって先進国の経済が大きな混乱に至らない、パニックに至らないということを確保していかなきゃならない。  三番目に、同じ理由で備蓄が必要です。現在約百六十日分でありますけれども、これは、先ほどの米国の軍事介入があるときには短期決戦で終わるという観点から考えれば十分です。ただし、原油航路のためにアメリカが軍事介入することについてはアメリカの国内世論の反対が予想されます。ただし、そういう非常に重要なセンシティブな地域での紛争が漫然と長期化するということは考えられにくいんですね。ですから、先ほどの百六十日という数カ月のうちには、これは国際社会の対応があるし、そうでなければ、先ほど申し上げたような人道的な観点からも耐えられない水準のエスカレーションに至る危険性が出てきますので、これは国際社会の対応があり、ですから、備蓄水準は現行水準で大丈夫でしょうと考えます。  それから四番目に、供給先を分散してリスクを分散しておく、供給先を分散しておくということは当然基本政策であります。  それから五番目に、これは資源とその航路にかかわる地域との経済的結びつきを日常から強化しておくこと。中東との二国間関係の強化とか直接投資、経済協力、技術協力、文化交流などを通じての関係強化ですね。  それから最後六番目には、以上にも述べましたとおり、やはり途上国の経済発展全般に寄与して政治的安定に寄与していくという考え方。その場合、とりわけ一般民衆の支持を得られるような経済貢献を主軸にするべきであって、途上国諸国における日本の評価を高めて、また無資源国であることに対する理解と共感を求めると、そういう政策が必要であろうと考えます。  以上で最初の部分を終わりまして、あとは簡単に申し上げますけれども、次に、地球的規模の環境問題とその他のことなんですが、御存じのとおり、地球的環境問題が国際政治の最高レベルで議論されるようになりましたのは、一九八九年のアルシュ・サミット以降で、そのときの経済宣言の三分の一が環境問題に当てられました。その後のG7サミットでも環境問題が非常に強く取り上げられ、先ほどもお話にありました一九九二年の地球サミット、環境と開発に関する国連会議、UNCEDですね、それが開催されて、そこで採択されたアジェンダ21、これが国際政治レベルで地球環境問題の取り組みの指針となり、持続可能な発展というビジョンのもとに各国が国別行動計画を実施すると、こういう段取りになりました。  環境分野というのは、御存じのとおり、温暖化、オゾン層の破壊、熱帯雨林の減少、野生生物種の減少、砂漠化、海洋汚染、有害廃棄物の越境移動、酸性雨、途上国の公害問題など多岐にわたるわけで、それについては別の専門家がたくさんいらっしゃいますので、私は、この問題を国際政治で扱うときの幾つかの特質についてまず申し上げたいと思います。  まず第一に、ソフトローという考え方がありまして、これは緩やかな法律という意味ですね、ソフトロー。これは義務を強制しない法律。これは初めから非常に強い規制にすると、そもそも国際レベルでコンセンサスが得られないのでソフトローという考え方をこの分野に持ち込んでくるということ。  それから二番目は、本国の法の域外適用という考え方で、これは自国の管轄または管理のもとにおける活動が他国または自国の管轄を越える区域の環境に損害を与えないように、エンシュアするというふうも言葉で言いますけれども、確保する、そういう責任についてです。例えば、途上国で日本の直接投資の結果、そこで公害が発生するというような場合についても本国ないし親会社と政府がその責任を問われると、こういう考え方であります。現地法人化していても、その法人に対する実効支配があるかないかで実質的に判断すると、こういう原則が、これは一九七二年の時点でストックホルムの人間環境宣言の原則二十一条で採択されております。先ほどのリオ宣言でも第二原則がこれと同じ同文になっております。これが二番目です。  それから三番目には、予防原則というのがあります。プリコーショナリープリンシプルと呼ばれるもので、これは科学的因果関係の欠如においても、予防的に積極的に対応すべきノンリグレット対応と呼ばれます。例えばCO2と温暖化の関係についても、科学的因果関係を最終的に証明できた段階では手おくれになるというような立場があります。当然、日本は主要国としてこのような精神をリードしていく立場にあると考えます。  環境保全型のエネルギー利用。これはもうほかの専門家も非常に議論されましたので本当に簡単に触れますが、省エネルギー政策の推進とそれから二番目にはコージェネレーションシステムの導入ですね。これは、エネルギーの効率を高めるために下水処理廃熱やごみ焼却炉の熱等、そういう未利用エネルギーを地域的なエネルギー需要を賄うための総合活用に当てるという形です。問題点としては、初期投資が非常に膨大ですけれども、しかし環境対策とはそもそもそういう性格を持つと考えられます。  それから三番目には、やはりソフトパスあるいは新エネルギーの積極開発とその汎用性の確保ということで、太陽エネルギー可能性。これは専門家でいろいろ意見が分かれるところでしょうけれども、やはりRアンドD、研究開発投資を本格的に行った結果どうであるかということを期待したいと思います。あとは地熱発電であるとか風力発電、ウインドファームの問題はちょっと出てきておりますけれども、その消音装置などを日本が開発できるのかできないのか、その辺の投資の価値というものも考えていただきたいし、あるいは超電導応用でエネルギーロスを最小化するということですね。  原子力エネルギーの関係で、先ほど深海先生がおっしゃったように、安全に利用できる国が集中的に利用するという考え方もございますけれども、他方で、国際社会においては自分が使っているのに相手国には使っていけないということはなかなか言えないという見方があります。またそういうことは強制できないという見方もあるということをつけ加えておきたいと思います。  もう時間もなくなりましたので、あとは本当に簡潔なんですが、政策手段として、御存じと思いますけれども、OECDの国際エネルギー機関IEAが三つの分類を出していますね、一つは直接規制、次に経済的手段、三番目に普及啓発ということで。直接規制というのは、環境基準とかエネルギー使用規制とか排出基準とか安全基準。それから、二番目は誘導的なもので、租税とか課徴金とか補助金とか市場創設というようなものでありますね。問題の性格により組み合わせて対応することが必要で、例えば生命や健康被害につながるものは当然最初の直接規制で対応すべきだと思います。  環境税や炭素税が問題となっておりますので、若干の考え方を述べさせていただきますと、日本の税制というのは歳出需要前提に構築されているところがありまして、それに対する経済活動に影響を及ぼすための税、経済の方向性を誘導させるための税、これは専門家の間でピグー税と呼ばれます。これは一九一八年の時点で、ピグーという方が「エコノミックス・オブ・ウェルフェア」という本の中で述べている考え方なんですけれども、その考え方の基本というのは、市場全体の補正を考えて課税するということですね。ですから、歳出需要前提の課税じゃなくて市場全体の補正ということです。その場合のポイントは税収中立的でなければならない。つまり、それを歳出の財源にするべきではなく、環境税を導入するなら所得税や法人税の減税を行って税収中立的にし、経済発展を阻害せず国際競争力の低下を招かないという考え方です。例えばスウェーデンでそれを導入したときには、やはり税収中立的で減税があったので国民合意が成立したという考え方があります。  それから、貿易に与える影響ですが、つまり環境税などをかけると国際競争力が落ちるのじゃないかという考え方ですが、先ほど申し上げたように、税収中立的な導入であればそういうこともないし、それからアメリカが行っている先端的な方法としてフロン、ハロンの規制があります。これはオゾン減耗物質、オゾン・ディプリーティング・ケミカルズを規制するわけですけれども、そこでのやり方というのは、輸入品すべてに対して、フロン、ハロンが残留している場合、それから製造過程において使われている場合に課税するということであります。ですから、アメリカ市場で競う限り同じ条件になってしまうということですね。この場合、例えば輸入業者が製造過程を報告しなければならないし、それをトレースできない場合は一律概算課税五%という形で、自国企業が国際競争力で不利益にならないということを考えられています。  最後に、駆け足で申しわけないですが、途上国の貧困と産業化におけるエネルギー制約ということで、まず第一にポストフォーディズムというのは、これはフォード会社が最初に取り入れた大量生産方式のことをフォーデイズムとよく言います。そういう大量生産、大量消費、大量廃棄、使い捨て文明からの脱皮ということを途上国とともにライフスタイルの一つと考えなきゃならないと思います。  それから、開発インフラを途上国につくるときに、初めからエネルギー制約対応型にしておく。例えば、ハイウェーよりも鉄道をつくる、それからコージェネレーション型の地域開発を初めからするというような環境ODAのあり方というものが必要です。またODA全般の発想が必要です。  それから、核不拡散体制との関係で、これはもう時間ないので深く立ち入れませんけれども、やはり原発エネルギーによらない発展の支援ということが重要です。ソフトパスの積極導入、そのためには日本のような経常黒字国がソフトパスのブレークスルーを提供しなければならないということです。  それから最後に、ウイメン・イン・ディベロプメントという考え方とベーシック・ヒューマン・ニーズという考え方が最近国際社会で非常に重要になっています。そのような民生向上のための基本エネルギー、電信電話網の敷設であるとか電線の敷設であるとか自力更生的発展のための基盤整備であるとか、あるいは衛星通信とかテレビ受信とか夜間学習のための電気とか、あるいは医療、衛生面での向上であるとか、そういうための基本エネルギーを途上国が享受できるための条件日本も協力して築いていくということ。  最後に、本当に最後に、ビッグサイエンスによる人間社会の限界突破力、ブレークスルーの可能性ということも経常黒字国で研究分野で先端に立つ日本では考えなければならないと思います。それは例えば、太陽発電衛星というような新しい分野で、さきにHⅡロケットの打ち上げに成功しましたけれども、今後本格的な宇宙開発とその分野での国際協力に入るときに、どの分野で日本が特徴ある貢献をするかというときにやはりこのエネルギー問題とのリンケージを考えていただきたいということです。  以上です。長くなって恐縮でした。
  11. 櫻井規順

    会長櫻井規順君) どうもありがとうございました。  これより参考人に対する質疑に入ります。  質疑のある方は挙手をお願いいたします。
  12. 吉村剛太郎

    吉村剛太郎君 三人の先生方、きょうは大変お忙しいところを非常に有益なお話をありがとうございました。時間も限られておりますので、簡単に三人の先生方に御質問をしたいと思います。  南部先生、きょうのお話とは直接関係はないのですが、いわゆる電力のピーク時の需要価格の問題で、今日もう我々の生活ではほとんど日常生活に必要な電力というのは十分賄っておるのではないか、このように思っておりまして、あとは、ある意味ではぜいたく品、奢侈的な側面が非常に大きいのじゃないかと思います。そういうときに同じ価格体系といいますものは、これは検討の余地があるのではないかなという気もするんですが、その点について御意見があればお聞かせいただきたい、このように思います。  それから、深海先生ですが、かつてオイルショックで大変なパニックを日本の経済は受けたわけでございます。それが大変な学習効果がございまして、湾岸戦争のときなどはむしろ原油価格が下がったとまではいかないとしても、そう変動はなかったと。そういう面では、日本の経済といいますか、今日までのいろいろな学習効果といいますものがあったのではないか、このように思うわけでございますが、その辺の実態と今後のあり方について。  それともう一つ、七月になりますと、「もんじゅ」ですか、高速増殖炉が稼働に入る。これが一つエネルギー確保の切り札だと、こう言われておりました発足当時と今日では随分もう立場が違ってきておりまして、むしろコスト高というような側面が出てきておるのではないかと思います。また、国際世論でこういうものの使用といいますものが非常に難しい段階になっておりますが、それについての最初の発想と、それから経緯、それから今後のあり方、このような点についてお聞かせいただければと、このように思っております。  猪口先生につきましては、湾岸戦争の後イラクがどうなっておるのか、フセインが国内でどのような立場になっているのか、フセインの野望といいますものがどういうところにあるのか、あれは一つ石油覇権のための戦争であったんではないかと、このように思うんです。今月で抑えられておりますが、またああいうことが起こり得る状況にあるのかどうか、この点についてお聞かせいただければと、このように思います。
  13. 南部鶴彦

    参考人南部鶴彦君) それでは、ピーク時における価格の問題についてお答えいたします。  現在、ピークロードが立ちますのは夏季の、いわゆる猛暑が襲ったときの冷房の問題がほとんどでございまして、冬になって寒いから急に需要がふえるということはほとんど問題にならない状態になっていると思います。その場合に夏季のピーク時における需要をどう考えるかという点では、私も先生と同じ意見でございまして、最低限の冷房ということは必要だろうと思いますが、それ以上のものは一種のぜいたく品というふうな形で、料金というものをうまく使ってコントロールすることが非常に効率性は高いというふうに思っております。  しかし、この場合にも考え方が二つございまして、一つは、ピーク時にたくさん電気を使う人は高い電気料金を払いなさいという、そういうやり方がございます。もう一つは、裏返しで同じ効果をもたらすのは、使わない人は電気料金がその分だけ安くなるという、使わないことに対して一種の御褒美を出すと申しますか補助金を出すというやり方もあるわけでございます。これはピークをカットするという意味では同じ効果を持っているわけですが、分配面では全く違った側面になりますので、そこを考慮した上で価格をうまく使っていくということは、私は今後あるべきだと思います。  ただし、もう一つ条件があると思いますのは、そのように料金が時期によって変化いたしましても、消費者がその価格の変化に迅速に対応できなければいけないわけでございますから、そういう点では、例えば消費者の家庭で手元のコントロールができるような機器を取りつけるということも大事かと思うわけでございます。このことはかってに比べますとはるかに簡単にしかも安くできるようになっておりますから、そういった技術進歩を取り入れた上での料金を使ったピーク時のコントロールということも私は大変重要なことかと思っております。
  14. 深海博明

    参考人深海博明君) 二つの点を先生から御質問いただいたと思うんですが、まず第一の点、いわば第一次石油危機でトイレットペーパーパニックだとか洗剤パニック等々があって、そういうものに学習効果を発揮して、一九九一年の湾岸戦争開始時は実は価格も本当は上がると言われていたんだけれども、戦争が開始されたときには十ドルも下がってしまった、これはどうしてかということの御質問だと思うんです。  一つは、日本経済あるいは日本消費者あるいは産業その他が、実態は不足していないにもかかわらず、いわばパニックに陥ったというような、そういうことを経験的に反省をしたということもあるわけでございますが、同時に、これは世界的にも反省をしあるいは対応が行われてきた。  どうしてそういうふうになったかということの一番の原因は、石油輸出国機構、OPECでございますが、その国々も第一次石油危機のときにこれはもう好機だというので物すごく石油価格を上げた。ところが、その後上がり過ぎたものですから、世界全体あるいは日本経済、特に産業部門は物すごくエネルギー効率を高めると同時に、石油から石油代替エネルギーへの転換を図って、OPECは非常に大きな影響を受けた。  私はその前後にOPEC事務局あるいは産油国を回った経験を持っているのですが、そこではどういうふうに考えているかというと、もうこれからはそういう事態になっても石油輸出国機構加盟国、特にサウジアラビアその他の主要な国々はもう喜んで上げるようなことはしないんだ、いわば他の代替エネルギーとのかかわりでいっても、代替エネルギーへの転換が余り進まない程度価格帯で安定供給をしようというような、そういうことをやってきております。  それから、猪口先生からも話がございましたような意味で、例えばOECDのIEA、国際エネルギー機関ですね、そこではそういう危機管理だとか備蓄をみんなで持とうとか、いろんな形での国際的な対応も進んできているというようなことがあって、全体として上がらなかった。  それからもう一つ、ちょっと御質問をさらに深めるようで恐縮なのですが、実は石油価格の決定メカニズムが第一次、第二次石油危機と現在では変わってきた。いわば市場連動型で、ニューヨークの商品取引所、NYMEXといいますけれども、あるいはロンドンのブレント原油だとか、そういうもののスポット価格と連動するような形で石油価格が決まる傾向が実は強まってきています。そうしますと、ニューヨークの商品取引所だとかそういうところではかなり投機的な人々が参加をして、例えばイラクと多国籍軍との間で戦争が起こりそうだと、それを流せば価格が上がるというような形で実際には操作をしてきたわけですが、実際に起こってみますと、もうこれはすぐに多国籍軍の勝利で終わるのではないかという予測から十ドル下がったというような形で、ですから、そうなりますと非常に投機家の動きが強くなっているというようなこともあって今のような事態が生まれたのではないか。  ただし、私もう一言づけ加えて恐縮なのですが、日本消費者がそういう形で踊らされないと思っていたのですが、最近の米不足であれだけの状況になっております。エネルギーについては確かにそうなんだけれども、みんな正しく悟ってそういうときに冷静に行動できるかということだと。これでまた米についても悟ればもっと賢くなるかもしれないんですが、ちょっとその点はやや不安はございますが、そういうことです。  それから、第二の点でございますが、先ほどちょっと申しましたように、確かに初期の話であれば、原子力を中心のハードエネルギー・パスといいますかそういう路線を考えてきて、軽水炉からその炉の中でエネルギーを繰り返し再生利用できる高速増殖炉、そして最終的には地上に太陽をというような形で核融合ということがバラ色に描かれていたことは確かだというふうに思うんです。  実際に高速増殖炉がうまく利用できるようになれば、その段階では今ほどに経済性が引き合わないということはないとは思うのですが、先ほど御質問いただいた「もんじゅ」というのは実はプロトタイプというか原型炉でございまして、まだ実証炉へ行く最初の段階でございます。諸外国もどちらかといいますと、フランスとか若干の例外はございますが、高速増殖炉は今のところウランの需給バランスその他は短期的にはそんなに逼迫していないというようなことから、一時的な後退を示しているというような点も、先ほど諸外国の状況がどうかというようなことの御質問があったので、そういうことはあるわけです。日本として見ますと、やはりエネルギー資源が乏しいし、そういうような意味で新しい技術開発をしてそういうものに備えておこうと。そういう意味で考えれば、経済性という狭い意味で問われればやはりこれは高くつくのはいわば初期の開発段階ではやむを得ないことです。  ただし、やむを得ないからコストが引き合わなくてもどんどん進めていいかというとこれは問題があるわけでございまして、原型炉から実証炉あるいはそういう形で開発を進めていく過程でだんだん経済的に引き合ってくる可能性はあろうかと思うのですが、初期段階のそういう原型炉の開発におきましてはやはりかなり高くなる。しかもいろいろな形で技術的その他初期の開発段階では問題が起こってくるのも当然でございます。そういった意味で、すぐに経済的に引き合うというよりは、長期を見通して研究開発を進めるというような意味で、どれだけそれに投資をするのがいいのかというようなことになってまいりますと、これはむしろ国民的な世論とかあるいは全体的な政治的な判断も含めての選択が要るのではないか。  ですから、原型炉の段階で経済的に引き合うというようなことはあり得ないわけでございますので、もし経済的に引き合うというような意味で受け取られているとすれば、その説明の仕方なりとらえ方にむしろ誤解や問題があったのではないかというふうに考えております。
  15. 猪口邦子

    参考人猪口邦子君) 具体的な国名を挙げてのリスクは発表の中では控えたのですけれども、御質問がありましたので簡単にお答え申し上げます。  まず、軍事力についてですが、現在最新のミリタリー・バランスとジェーン年鑑を参考にいたしますと、イラクの軍事力は兵力で三十五万人と想定されます。それから海軍力で二・六万トン、戦闘機で三百十六機ということであります。これは例えば近隣のほかの国との比較においては、シリアは兵力で三十万人、海軍力で二・〇万トン、それから戦闘機で六百二十九機。エジプトがやはり兵力で三十一万人ですから、兵力において大体似たり寄ったりで、海軍力でエジプトは五・〇万トン、それから空軍力で五百四十六機という形で、イラクは今例を挙げたいずれの国よりも低い軍事力ということです。イランと比べますと、イランは兵力三十二万人、それから海軍力で十二・五万トン、空軍力で二百九十三機でありますので、そういう意味で非常に低い。  ちなみに、御関心があるかどうかわかりませんけれども、ほかの地域の状態と比べますと、例えば昔戦争がありましたベトナムの今日の兵力は七十万人、海軍力三・〇万トン、航空機二百四十機であります。それから、安全保障上、最近よく話題になります北朝鮮の場合を申し上げますと、陸軍は約百万人、海軍力八・八万トン、空軍力七百三十機。したがって、地域バランスで見ても、それから国際比較で考えてもイラクの軍事力は本質的にそがれたというのが私の結論であります。  ちょっと見えにくいかもしれませんが、これは中東地域での兵力の推移なんです。(資料を示す)  ごらんのとおり、湾岸戦争のときにイラクはこのように突出した兵力を持っておりまして、これで一気に激減するわけです。このグラフを見ますと、ここに大きながけができているわけです。これは戦車数ですが、同じようにがくんとここで落ちています。そして、一番下は作戦に使われている飛行機ですけれども、それもやはりかなりがくんと落ちています。  ですから、湾岸戦争前はイラクはかなり軍事的には地域覇権的な実態を持っていたということで、湾岸戦争以降は今挙げたいずれの分野でもイラン、エジプト、シリアよりも下の水準になっているということがまず事実確認であります。  次に、政治的正当性でありますけれども、これについては政治的野望はくじかれたというのが一般的なアメリカ側の分析でありまして、先ほど申し上げたように、この地域を経済発展に邁進させることができれば、一層軍事的な破壊において地域覇権を奪取しようとする選択をとったサダム・フセインさんの政治的なリシティマシーといいますか、それは低下するであろうと考えられます。
  16. 森暢子

    ○森暢子君 南部先生、これ仮定ですが、太陽光の発電システムをこの間私どもは視察に行ってまいりましていろいろとお話を聞いてきたんですが、これが将来的に各家庭の屋根に取りつけられるようになった場合、余った電力電力会社に売るというふうなことがお話にありました。その場合の価格ですね。それと、電力会社はそれを買うんでしょう、買ってそれをまたほかの消費者に売りますね。そういうふうな価格システムがどうなっていくんだろうか。これは将来の本当に夢のような話なんですけれども、どうなっていくんだろうかということをお答え願いたいと思います。  それから深海先生、最後に「政治家の果たすべき役割は」をカットされましたので、大体想像もつきますけれども、ぜひ先生のお考えを、思いのたけをお聞かせいただきたい、このように思います。  それから、猪口先生も短いお時間で大変たくさんのお話を伺ってありがたかったんですが、先生のレジュメの二番の四ですか、「環境エネルギー問題への政策的手段と問題点」というところですね。ここで、自分が使っているのに他人は使ってはいけないとは言えないというお言葉がありました。  私も感じているんですが、中国が今十二億人口があるとして、この人たち日本と同じように車を持ってあの中国大陸を走り回ると地球の環境は破滅するんではないかと言われております。しかし、日本は今二台、三台持って自由に走り回り、環境を破壊するから中国十二億は車を持ってはいけないということは、これは言えないですね。  それから、いろいろな問題で中国に行ったときに、教育の面でエリートをつくりたい、それから車を持ちたい、電気製品を使って文化的な生活をしたいと、こう言ったから、あなた、エリートをつくってはいけませんよ、日本みたいな競争主義の学校になるとこういういじめの問題が出て、もう学校は今困っているんだからそれはやめなさいとか、それから便利になってもそういうことをすると環境破壊があって、日本はこんなことで困っているんだからもうやめときと、こういうふうに言いましたんですけれども、いえ、それは中国の人たちがこれから文化的な生活をしたいという流れはとめることはできないと、こう中国の人はおっしゃったんですね。  そうなった場合に、全部それをアジアの国々が求めた場合に地球はどうなるかということで、それをどのように、だれがどうしていくかということは、これは大変難しい問題なんですね。その辺のことをお話し願えたらと思います。
  17. 南部鶴彦

    参考人南部鶴彦君) 現在の太陽光のシステムお話がございましたけれども、もうちょっと一般的に言えば、電力会社以外が発電した電力というのを電力会社が買い取る義務があるかどうか、また買い取ることが望ましいかどうか、こういう問題になるかと思います。  まず、この議論をするときに第一前提としまして注意すべきなのは、現在の電力会社のパワーと申しますか、現在の電力会社の置かれている力というのと、それから例えば太陽光が各家庭に普及した後の電力会社の置かれている地位というのは恐らく全然違っているんではないかと思われるわけです。  現在の電力会社は文字どおり独占でございまして、例えば買い取れと言われれば少々ならば買い取る力は十分にあると思います。しかし、例えば先ほども御質問がありましたように、各家庭にすべて太陽光発電が設置されて、家庭はもう電力会社から電力を買う必要がないということになった場合の電力会社というのは、実は電力の売り先はビジネスというんでしょうか企業しかなくなってくるわけでございます。そのような状態になったときに、さらに電力会社にその電力を買い取るというふうなことをいわば命ずることが、果たして企業の方そのものを考えてもできるかどうかということが第一の問題かと思います。  それから第二番目の問題は、やはり太陽光で家庭がつくった電力の品質という問題が大きな問題になるかと思うわけでございます。結局、太陽光でつくられた電力というのは、一般の電力会社供給しております電力よりも品質的には劣るだろうと思われます。劣るという意味は、電力の安定性と申しますか、電圧という技術的な問題を考えましても非常に劣った電力が出てくるかもしれない。これは私も何とも申し上げられませんが、その可能性はあ各わけです。そうしますと、今度はそうした品質の違う電力電力会社に買わせるということ自体が果たして社会全体としてコストを小さくするということに貢献できるかどうか、この点もチェックする必要があるかと思うわけでございます。  一般に、例えば太陽光のお話がございましたのですが、今開発されておりますような蓄電池型の電力と申しますか、電気を直接例えばスーパーマーケットで一月分買ってきて、家に置いておいて、乾電池の親分みたいなのを使いまして自分の必要な電力供給すると。こういうふうなシステムができあがったときには、もはや電力会社は現在の電力会社ではないと考えてよろしいかと思うわけです。  ですから、この議論というのは、やはり電力会社がその技術的進歩があったときにどんなファイナンシャルな意味でも力があるか、技術的にも力があるかということを考えておく必要があるかなと思っているわけでございます。
  18. 深海博明

    参考人深海博明君) 私はふだん思っていることを言わせていただこうと思っているのですが、私は政治家の果たすべき役割、政治家一般論じゃなくて、エネルギー供給といいますか、きょう私が問題提起をさせていただいた範囲内に限って申し上げたいポイントに絞りますが、私申し上げたい点が二つないし三つございます。  一つは、先ほど私この問題提起の一のところの六番目なんですけれども、内からの発想と外からの発想との大きなギャップがあると、世界に理解される日本の政策ないしは選択という、これに関連してのことでございます。  私は十日間ほど海外にいて、そこでも随分いろんな議論をしてきたのですが、日本が平和国家であり憲法で戦争を放棄しているとかいろんな話、抽象論というかそういう原則論だけではどうしてもだめでありまして、これはどういうことかというと、じゃ日本はどうやって軍事力なく世界の平和を確保しようとするのか、日本の世界に対する安全保障政策というのは一体具体的にどうしようとしているのかというような形で、外に向かって納得できるような説明がない限り、原則論だけではだめなんじゃないだろうかというふうに思えてならないわけです。  そこで、日本が従来の欧米型のいわゆる先進国がとってきたのと違う全く別個の安全保障政策を具体的にどういうふうにとっていこうとするのかというようなことをぜひ先生方もお考えいただき、そういう方向を明示する必要性があるのではないか。  その意味では、私もグローバリー・サステーナブル・ディベロプメントと申し上げたのですが、先ほど猪口先生が、こういう紛争が起こる基本的な根本要因はどこにあるかというと、貧困と経済破綻が中心であるというようなことを言われたわけであります。そうなるとしたら、例えばそういう貧困を救うために日本としてはこうしますとか、あるいは経済破綻のためのどういうことをやるのか、それは技術協力というような面もあればODAというようなこともあろうかと思うのです。具体的にどういうふうにやっていくのかという裏づけがあって、それに基づいてスポークスマンとしては、あるいはスポークスウーマンというかスポークスパーソンと言った方がいいですね、そういう意味では私どももいろいろ言ってはいるのですが無力でございます。ぜひ国会議員の先生方が具体的なそういう方向に裏づけられて、ぜひ外に向かってお話しいただいて、そういうギャップを解消していくということが、例えば日本が今進めておりますプルトニウムの利用路線だとかいろんなことについて理解を得、あるいは反発をこうむらないそういう方向ではないか。  それから、第二番目でございますが、内の役割なんですけれども、やはり原子力だけじゃなくて、例えば発電所の立地問題であれ、ごみ処理問題であれ、いろんな問題についていろいろな形で私も現地へ行って話をするのですが、やはりぜひ国会議員の先生方もそういうような意味で、むしろ一般の国民に対して、エネルギー供給についてのいろんな方向づけに基づいてこうしていったらいいというようなことがあるといたしますと、一番わかりやすく説得力のあるのは国会議員の先生ではないかと私はいつも思っているので、ぜひわかりやすい言葉で国民全体に語りかけて説得するというか、方向づけをするというような意味でもっと役割を果たしていただけないかなと、常にそういうふうに思っている次第でございます。そんなことを感じておりますので、ここでそんな点を申し上げさせていただきました。  それからもう一つ、ちょっと今猪口先生になさった質問と関連がありまして、実は時間との関係でこの一の(5)というところを私説明しなかったのですが、一つだけちょっと補足をさせていただきたいと思います。  例えばエネルギーの使用量とか消費量とか、あるいは環境への負荷というようなIというインパクトというのは、基本的には人口と豊かさの程度とそれから技術によって決まってくるというような、これは根本からこういうエネルギー問題とか環境問題を考える基本的なミニマムエッセンシャルズの決定要因を整理したものとしてよく言われているわけでございます。  今の日本のような大量消費、大量生産社会のもとで中国を説得するというのはなかなか難しいとは思うのですが、この調査会でも京大の佐和先生が前にお話しにいらっしゃったときにも、そういう大量生産、大量消費社会をやめて新しいライフスタイルや価値観が重要だという説明をされていたかと思うのです。そういう意味でいうと、日本の新しい意味でのアフルエンスのあり方みたいなものの方向づけがあるとすると説得ができるのかもしれない。  あるいは技術に関しましても、私、つくづくいつも考えるんですが、どうしても何か後追い型の技術移転というのを我々は考えがちである。要するに、重化学工業化をし、モータリゼーションといいますか、そういう形で先進国の豊かさを追っていくという過程をどうも考えがちなんでございますが、むしろ最先端の技術こそそういったような形で大量エネルギー消費にならないような意味で、最も進んだ有効技術だとかそういうものを進んで供給していくという発想も要ると思います。  そうなってまいりますと、中国は一人っ子政策をとり、人口増加の抑制にかなり力を注いではいるわけですが、やはり人々が豊かになってくれば人口増加が抑えられるというような点もございますので、何か私、個々の政策手段の前にやはりI=P×A×Tというようなものに即して問題を考えてみたらいいんじゃないかなと思っております。  ちょっと先ほど時間がなくて省略をさせていただきましたので、森先生の質問とも絡んで補足をさせていただきました。
  19. 猪口邦子

    参考人猪口邦子君) お答え申し上げます。  先ほども少し申し上げましたが、例えばハイウエーよりも鉄道とか、開発のインフラをそもそも援助するとき、あるいはその国が考えるときにやはりエネルギー制約ということを考慮してもらう、そういう助言を行うということが重要だと思います。  国際社会では、途上国は発展への権利と、そういう表現をよく使いまして、先進国はもう既に発展してしまったので、その段階で環境環境と言うけれども、私たちはこれから発展しようとしているのに、それで環境制約を議論として課すのは不公平であると、こういう議論をされます。それに対して対抗する論理というのがなかなか難しいと思います。先ほど申し上げたように、みずからがやっていることを他者に禁止することは国際社会ではなかなか難しいので、日本自身がやはり省エネルギー型、そして交通網についてももう少し公共交通網というものを充実させていく、そういう本質的な社会インフラの整備を重点的に強化していく必要があるだろうと思います。  ですから、具体的にお願いしたいのは、例えばJR各社はもう少し電車の本数を充実させるとか、各地まで整備新幹線を頑張るとか、あるいは各地域においてもバス路線であるとか電車網であるとか、もう少し公共交通で社会全体をよくし、かっそういう開発をするときに先ほど申し上げたようなコージェネレーションシステムというものを模範的に示す。  アメリカ型の大量生産、大量消費で非常に大きな家に住み、そして自由に自動車を乗り回し、家族数台の車を持っているという、これは一つのライフスタイルであって、二十世紀初頭に夢のように語られ、そして二十世紀を通じて実現したライフスタイルであって、そのライフスタイルというのは、これは世界の五億人の人の豊かさへの答えであったかもしれないけれども、五十億人の豊かさへの答えではなく、五十億人への豊かさの答えというのは、やはり先ほど申し上げたように、この時代の経常黒字国が生活の新しいパラダイムとして、あるいは技術のパラダイムとして提示しなきゃならないんだということです。  ですから、日本自身がそれを実行することによってしか中国を環境保全型の開発に導くことは絶対にできないのであるということで、国際的課題というのは結局は国内課題であるわけで、みずからが実行しでないことを他者に説くことはできないのであります。やはりリサイクル社会社会工学であるとか、今申し上げたような公共交通網であるとか省エネ型とか、あとコージェネレーションシステムとして、私はデンマークのある町を見学したときに、そこでは単に温水プールがあるというようなことではなくて、地域の暖房が全部それによって賄われているんです。地域単位のセントラルヒーティングシステムなんです。すべての家の暖房が自動的にセントラルヒーティングになっていて非常に快適でありました。光熱費ゼロであります。ごみ処理の熱を利用して大学とか公共の建物とか全部セントラルヒーティングになっているんです。  ですから、そういう新しいシステムというものを何とか日本も積極的に開発して、アジアの近隣諸国に対して新しい文明のあり方ということを理解してもらえるように努力していただきたい。そういうことにおいて、深海先生のおっしゃるとおり、政治家の先生方のリーダーシップを期待したいとお願いいたします。
  20. 中川嘉美

    ○中川嘉美君 南部参考人にまず伺いますけれども、我が国エネルギー供給を展望する場合、コージェネレーションの導入等によるエネルギーの効率的な利用が重要な課題と、このように言われておるわけです。現在、エネルギーの公益事業の産業電力ガス等の縦割りになっておるわけです。これらの課題、いわゆる効率的利用ということに取り組んでいく上で弊害はないものかどうか。それから、長期的に望ましい産業構造というものはどういうものか。また、横断的に考慮しておかなければならないものにはどんなものがあるか。この辺のことについてお答えをいただければと思います。  次に深海参考人でございますが、オーストラリア、ニュージーランド等に行かれて帰国早々ということでございますが、アジア・太平洋地域においてはエネルギー需要が急増してエネルギー需給そのものが逼迫していると言われている、地域的エネルギー安全保障の重要性ということが唱えられているわけです。一方、地球環境問題に対処していくためには地域的な取り組みが必要とも言われております。我が国は地域内のエネルギー資源開発で積極的役割を果たすことが求められている、こういうふうにも言われておりますが、具体的にどのような地域的構想を持って国際的エネルギー政策を展開していくべきかということ。さらに国としてどのような役割を担っていくべきか。この辺について例えればと思います。  猪口参考人でございますが、エネルギーの安定確保、そしてまた地球環境問題への対処というものを国際的、地域的観点から図っていく必要があると思います。その意味で、エネルギーに関するODAは、基本的には各国の主体的な要請によるものではあるけれども、いずれにしてもODA等による日本政府の役割、これは非常に重要なものがあると考えております。そこで、現行のODA等の政府の施策に対してどのような見解を持っておられるのか。これが第一点。  また、我が国においても太陽光電池等をインドネシア等の開発途上国へODA等によって供与していくことが有効ではないだろうかというふうに考えますが、こういった施策を拡充していく必要性についてどのように思われるか。さらに、これを国際的協調をもって強力に進めるに当たって、現在の国際的制度、組織等は果たして十分なものと言えるかどうか。我が国として国際的に提唱していくべきことがあるかどうか。この辺のことについて、ちょっと件数が多いですけれども、例えればと思います。
  21. 南部鶴彦

    参考人南部鶴彦君) ただいま御質問がございました電力ガス供給システムのことでございますけれども、外国でもガス電力が統合されまして一社で供給されているというシステムはもちろん存在しているわけでございます。結局これは一般論で申しますと、電力電力会社だけ、ガスガス会社だけというふうに分けて供給するのと、それを両方まとめて供給するのとどちらが相対的にコストが安くなるかという問題に尽きるかというふうに思います。一般的に経済学者では最近よく範囲の経済というふうに申しておるわけですが、複数のサービスないしは商品を一度に供給することによってコストが下がるという面があるとすればそれは積極的に推進すべきであるということになるかと思うわけです。  ただ、私は個人的には、そういうふうな統合のシステムというのが現在の技術では確かに望ましいこともあり得ると思うんですけれども、それをさらに推進するというのが果たしていいのか若干疑問がございます。  と申しますのは、エネルギー産業の一番大きな問題というのは、技術革新というのが相対的に少ないということにあるかと思うわけです。これは電気通信と比べること自体が若干無理はございますけれども、通信の場合にはこれから先どんな技術進歩があるか想像もつかないぐらいポテンシャルが高いわけであります。エネルギーの場合にはそれほど大きなポテンシャルがもともとないということはございますけれども、それにしてもどうも技術進歩というのが遅々として進まない。そういうことを考えますと、統合された巨大なシステムをつくるよりは分散型の電源をどんどん利用するというふうな、先ほどの太陽光もありますし、その他地熱もございますし、そういったいろんな各種のエネルギーのソースをうまく利用する、そういうシステムを開発していく、そのインセンティブを与えることが大変重要ではないかと思うわけでございます。  現在でさえ既に電力会社ガス会社は巨大なわけでございますけれども、それを統合するような方向というのが、もしかすると技術開発その他に対して一種の障壁とでも申しますか、前に立ちはだかる壁になりはしないかなというおそれがございますので、その辺は慎重に考えるべきかなと思っているわけでございます。
  22. 深海博明

    参考人深海博明君) 今大変重要な点を中川先生から御指摘いただいたわけでございまして、世界全体を考えるということも重要でございますが、とりわけ日本が属しておりますアジア・太平洋地域、これが先生方御存じのように、非常に世界のこれからの成長センターというか、高い経済成長のポテンシャルを持っているわけでございます。しかも多くの途上国はエネルギー利用効率が悪いし、例えば中国の場合には、最も温室効果がある石炭に八割近く、七割五分以上依存しているというような、そういう面で非常にこれは問題地域でございます。ですから、ここがいわゆる先ほど日本の基本目標として申しまして三つのEですね、うまく経済発展はするし、環境保全もでき、そしてエネルギー需給がバランスするためにはどうしたらいいんだろうか、そういう意味で問題を展開していく必要性があるということはそのとおりだというふうに思うわけです。  それで、具体的に今日本政府がやろうとしていることは、昨年十一月にシアトルでAPECの非公式首脳会議が行われましたし、APECの第五回の会議も行われたわけでございます。そこで細川総理それから熊谷通産大臣が、APEC地域に日本が今国内的に考えております三つのE、いわゆる三位一体的なアプローチを展開しようという提案が行われました。それが非公式首脳会議でも承認をされて、今私もちょっとそれに属しているのですが、通商産業省でそういう研究会を進めております。これは基礎的な研究でございますが、そういうところから一つの方向づけを打ち出したらどうだろうかというような形になっているわけでございます。  それで、ちょっとデータの裏づけで説明をしてみますと、例えばAPECの、いわば先進国以外の国々の一九九〇年の状況を言いますと、GNPのシェアは世界全体で五・六%なのですが、エネルギー消費のシェアは二一・四%、ところが温室効果ガスのCO2の排出シェアというのは一五・七%。先ほど言いました例えば中国とか多くの国が石炭に依存しているというようなこともございまして、そういう状況がIEAの世界エネルギー展望によりますと二〇一〇年にはどうなるかといいますと、GNPのシェアは倍近い一〇・八%になるんですが、エネルギー消費のシェアは一二・四%から一八・一%で、CO2の排出シェアは二二・七%、一五・七%から七%もふえるというようなことです。ここの地域に対してどう対応するかということが非常に重要なポイントになっているわけでございます。  そのような意味一つのやり方としては、先ほど来猪口先生から話がございましたように、成長しちゃいかぬとか日本に見習えというのではなくて、むしろその三つをうまく成立させるためにはどうしたらいいんだろうかというような、そういう形で大きく働きかけていくということが一つの方向ではないだろうか。  それからもう一つは、そういう地域ぐるみの意味で考えますと、例えばこの地域のエネルギーの賦存というような点からいいますと、やはり主要なエネルギーは石炭を中心とするどちらかというとCO2を多く排出するものでございます。そうなってまいりますと、その利用の仕方でクリーンコールテクノロジーといいますか、そういうものを普及していくような意味での働きかけも重要だと思います。  そのような意味で考えてみますと、もう一つは、通産省はグリーンエードプランというのを実際にやっていて、例えば脱硫とか脱硝とかいろいろな形でのデモンストレーションのプラントをまずつくって、それを普及させていくというような意味で考えてみますと、国別に重点地域を選んで、特に中国が重要となってくると思うんですが、そういうアプローチも要るのではないか。  最後に、一つだけ私申し上げたい点があるのですが、実は今中川先生は国としてどのような役割を果たすべきかということを聞かれたわけですが、実は私、アメリカのワシントンDCにある有名な研究機関でありますワールド・リソーシズ・インスティチュートというところと日本の地球産業文化研究所を中心とするところで環境技術移転の国際共同プロジェクトというのをやっておりまして、昨年七月に日米共同声明、研究成果を報告したのですが、そこで私感じてならないことは、日本だけが突出して例えばこういう働きかけをいたしますともう一つの日米摩擦をもたらす可能性があるということでございます。  それで、アメリカ側は、私が憶測も言ってはいけないのかもしれないのですが、やはり環境対応技術とかそういう面で日本が物すごく進んでいると、部分的ではありますけれどもそういうおそれを持っております。それから、最近アメリカは大分中国にアプローチをしているわけです。日本と中国との関係はスムーズにいっておりますが、人権問題が障害となってアメリカは中国へのアプローチがうまく行われていない。そういう面で経済界、産業界の人々は、また日本が先行して今の三Eというような形の達成においてアメリカが出し抜かれるのではないかというような、そういう不安感を持っていていら立ちがあるわけです。  ですから、私の考え方は、日本だけがやるというだけではなくて、今APECの組織を通じてという話になりましたような意味で、少なくとも日米共同とかあるいはOECDレベルというような意味で、日本だけができることはもちろんやる必要性があるのですが、日本が突出しない形で先進国間の協力を旨としながらアプローチしていくということも、もう一つ日米あるいは日本をめぐる今の環境を考えてみますと、そういう面で周到な配慮が要るのではないかということを最後に申し述べたいと思います。
  23. 猪口邦子

    参考人猪口邦子君) お答え申し上げます。  ODAについて御質問いただきまして、私は、この分野といいますのは実に政治や世論が行政を突き動かすという成果を得られたのではないかというふうに評価したいと思います。  日本のODAは長い歴史がございますけれども、今現在のODAを考えますと、今途上国側からの主体的要請によるとおっしゃいましたけれども、その要請だけによりますとよりよい選択可能性ということを一緒に考えるきっかけを得られない可能性がありますので、押しつけではないですけれども、日本から提案するというそういう動きというものも出てきてまいっています。  この要請主義の背景には、内政干渉に対する反発という考え方があったんでしょうけれども、しかし、この内政不干渉の原則というものも、これは十九世紀、軍事的な意味合いでもともと始まった考え方であります。今日では、国境を越えてお互いに関心を持ち地球的コミュニティー全体として考えなければならない問題も多いわけで、例えば人権問題、例えば環境問題ということで、これはやはり国境にそれほど大きく限定されるべきではないイシューだと考えられます。  ですから、環境保全型の援助をするときも積極的に日本から提案するという動きがあってよろしいと思いますし、今日の援助政策をどう考えるかという御質問についても、今現在の政策はかなりそういう方向にシフトしていますので、私としてはかなり評価ができる方向に向かいつつあるというふうに思います。  例えば、今深海先生の方から御指摘もあった脱硫装置とか脱硝装置とか、こういうのは途上国の要請を待ってはやはり出てこない。なぜなれば、それよりはとにかくもっと生産に直接つながるような援助の方がいいという要請になってしまうんですね。ですから、それはやはり先進国の負担でこういう装置をつけて発電しましょうという提案がなされるべきであると思います。  それから援助政策全般の中で、先ほど申し上げたように、国際社会では今女性がどういうふうに開発、環境保全にかかわるかという視点が非常に強く主張されるようになっていまして、ウイメン・イン・ディベロプメントというのは国際的には流行語で、日本ではめったに聞かれないと、そういうことであってはならないと思います。  その際、基本的な考え方は、途上国の女性も受益者であるような援助をすることによって、女性は非常に直接的に新しい生命にもかかわるし、そういう意味では環境に非常に敏感であるという面がありますので、結果的に環境保全型の経済開発に資するんじゃないかという考え方もあるわけです。そういう場合に日本の側、つまり援助を提供する側においても、もっと女性の参画が認められるべきであり、その点においてはお願い申し上げたいのですけれども、やはりこういうODA、環境保全、国際協調という分野においてより積極的な女性の登用、それから女性の政治家の先生方の御活躍ということを支援するような国内合意が欲しいということであります。  それから、援助政策について改善がかなり急速に見られたと申し上げるもう一つの理由は、ひところひもつき援助ということが批判されましたが、今日では先進国の中でも日本のアンタイド率は最も高いわけです。でも、その結果どういうことになるかと考えれば、日本が資金を提供する、そのプロジェクトを受注するのはほかの先進国であったりするわけです。その場合に、やはり日本としての環境ガイドラインを条件として非常に強く主張する権利があると思いますし、そういうことにおいてひるむべきではないといいますか控えるべきではないと考えます。  それから、国際的な枠組みとしましては、もちろん世銀の援助があります。そういうところにも日本のかなり厳しい環境基準を考えていますので、そういう構想力の面でも貢献するということが重要ですし、それから特定の国、地域については多国間でその国の発展を支援し、見守るという多国間の枠組みができている対象地域とか対象国がございます。そういう場合も、そこにおける日本としての構想力の面での指導力といいますか、今申し上げたように女性重視、環境重視あるいは人権尊重というようなことを主張していくということが重要であると考えます。
  24. 立木洋

    ○立木洋君 最初に、南部参考人にお尋ねしたいんですが、エネルギーとしての石炭産業あり方と見通しという問題についてお伺いしたいんです。  一九六〇年に石炭から石油へと大きな転換が図られまして、そしてその後二回にわたる石油危機の中で石炭産業というのは若干見直されたというふうな状況もありましたけれども、いろいろCO2排出なんかの問題で環境問題がありまして、化石燃料の問題というのは非常に厳しい面があるというふうになっております。しかし、可採年数なんかを見ますと、石油の場合には四十五年と言われていますけれども、石炭の場合には三百年以上なんですね。まだ相当の埋蔵量がある。これらの現に我々人類が手にしているエネルギー源を有効に、しかもそういう環境に負荷をかけない形でどう利用していくかという問題があり得るんじゃないかと思うんです。  日本の場合には、一九六〇年代以降いろいろ問題になってから第八次までの政策が出されてきました。いろいろ問題になって新しい政策というのが一九九二年に出されたときには、石炭産業というのは外国との価格差が大変なんだからという形でだんだん量を減らし、そしてコストがやっぱり問題ですから、値段の問題でもいろいろ引き下げられるということになるとどうしてもやっていけない。もうじり貧状態なんですね。だけれども、現に日本の場合はエネルギー資源というのが極めて少ない国ですから、何らかの方法を考える必要があるんじゃないかというふうに思うので、この石炭産業の問題についてどうするのかという問題をお聞きしたいんです。  次に、深海参考人にお尋ねしたいのは、先ほどちょっと先生もお触れになったプルトニウムの問題なんですが、これは「もんじゅ」なんかの問題が出されてきて、再処理のサイクルでやっていくとどんどんプルトニウムがつくられますから、いろいろ原料の面では問題がないんだみたいなことでなされていますけれども、私は一つは安全性が大きな問題じゃないかと思うんです。  フランスの原型炉のフェニックスで出力異常事故が四回にわたって起こった。それから、その後の試運転の段階でもタービンが故障したけれども、自動停止するシステムがあったにもかかわらずそれが自動停止しないで、手動で停止するというふうなことで事なきを得たとかいうふうな問題がありました。また、「もんじゅ」の建設終了後に配管の設計ミスが発見されたけれども、事故はあり得ないといって厳しい審査が行われなかった。さまざまな問題があるんです。  この間もプルト君のアニメが問題になりましたけれども、安全性ということを強調したい余りにああいう形になって、飲んでも問題がありませんみたいことになる。ちょっとこうなるとどんなものだろうかというようなことまで感じられるような状況がありますし、国際的に見ても日本のプルトニウムの問題というのは突出しているんですね。この安全性の問題が一つある。  それからもう一つは、今、国際的には先ほど言われましたプルトニウムの問題。いわゆる再処理の施設にかけられますと、たしか純度が九六%ですね。そして、九割以上になるとアメリカなんかではもう兵器級だと。だから、これはもうまさに核兵器そのものに近い状態にますますなっている。  これは私、この間、質問主意書で出したんですけれども、結局日本では、憲法上核兵器の保有は認められる、ただ政策上核兵器は持たないだけですという態度なんですね。そういうふうなことになってくると、先ほどちょっと先生がおっしゃっておられたいわゆる国際的なギヤップの問題、あるいは国際的なベストミックス論の問題等々も関連してプルトニウムの問題について、今の状況の中で本当に危険性もあり、国際的にもさらに軍縮というふうな方向に行かなければならないのに、プルトニウムの利用ということを世界的に突出した形でやる必要が本当にあるんだろうかということが常々疑問になるものですから、その点についての先生の御見解をお聞きしたいと思います。  それから次に、猪口参考人にお尋ねしたいんですが、私たちも何回か新エネルギーの開発の状況を視察に行ったんですけれども、日本の新しいエネルギーを開発しようとする研究費の予算というのは極めて少ないんですよ。どんどん少なくなるような状況もあったりしまして非常に問題じゃないかなというふうに思ったんですけれども、環境に優しいエネルギー、例えば太陽光発電なんかの問題でも今問題になっているのは、やっぱりコストが高過ぎると。だから、これをどうするかという技術的にクリアしなければならない問題がある。  さらにもう一つの面で言えば、やはり今度、国ではソーラー発電なんかに対する公的な補助もするというふうなことも出されてきているんですけれども、こういう新しいエネルギーを開発し、それを十分に利用していく上で何か政策的にこういうふうなことがあるべきではないか、あった方がいいんじゃないかというふうな、環境に優しいエネルギーの促進という見地から何かお考えがあればお聞かせ願いたいと思います。
  25. 南部鶴彦

    参考人南部鶴彦君) 御指摘のように、石炭というのは我が国ではもうほとんど話題にならないエネルギーになったわけでございますけれども、国際的に見ればいまだに非常に重要なエネルギー源の一つであるということは間違いないと私も思います。  ただ、石炭の場合には、環境問題との関連でいえば、やはり石炭の使い方次第を、どうやって使うかということを工夫しなければ非常に大きな、例えばコスト的に直接コストが安くても社会費用は非常に高いということが懸念されるわけでございまして、その点で石炭の利用方法の開発と申しますか、どういう形で石炭を使うかということがかなりクルーシャルな問題になるんではないかなというふうに思っております。それと、日本の場合、確かにかつては石炭はとれたわけでございますけれども、私もこの問題について専門家ではございませんで、素人的な発想、知っている範囲内のことで申し上げますと、現在日本で掘れる石炭が将来的な安全保障という観点から何か重要な意味を果たせるかというと、私の感じではもうそれは大変無理なんではないかなという気がいたして仕方ありません。  それからもう一つは、実際上石炭を掘るというときに、掘ることは掘れるわけですが、言うまでもなくたびたび繰り返されますような人命を失ってまで石炭を掘るということが非常に可能性としてはあるわけでございまして、私はもうそういうことまで考えますと、石炭のエネルギー源としての費用というのは非常に高いものとやっぱり考えざるを得ないんではないかなと。  エネルギーのソースということでいえば、日本の現状でいえば、例えば炭鉱と発電地との距離その他考えましても、石炭が容易に振れて、しかも輸送費を低く発電できるというほかの地域とは全く事情が違っておりますので、余り大きな期待をかけることは難しいのではないかなという感じでおります。
  26. 深海博明

    参考人深海博明君) 今、御質問いただきましたプルトニウムをめぐる問題というのは、非常に国際的にもまた国内的にもいろいろ議論されている問題でございまして、私が全部お答えできるかどうかはわからないのですが、基本的に日本が考えておりますのは、エネルギー資源の、先ほど来出ております、猪口先生その他の指摘もございましたように、対外依存度が非常に高い。それで、ウランそのものも今の科学で計算すると七、八十年というような形で限られた資源である。ですから、それを再処理してまたウランを取り出すと同時にプルトニウムも利用する方向で考えていけば、オーダー的にいっても、もし高速増殖炉でプルトニウムが利用できて、しかもそれがある程度経済性も引き合うような形での今の原型炉から実証炉、そして実用炉というような形で商業炉までつなぐことができればという、そういう長期的な展望で選択がされているように思うわけでございます。  それで、先ほど来語がございましたように、プルトニウムの利用に関して非常に重要なことは、安全性を確保するということはもちろんでございますけれども、対外的な誤解を避けるためにはどういうことが必要であるかというと、今、先生からも御指摘があったように、一つはいわゆる核兵器に転用できないような形。これからフランスやイギリスからまた三年後、五年後に運んでくるという予定になっているわけでございますが、そういうときには例えば一部はMOX燃料、いわば軽水炉に装荷するようになっているわけでございますから、例えばもう既にMOX燃料の形だとか純粋プルトニウムの形じゃなくて日本に持ってくるというようなことも誤解を避けられると思います。  一番重要なことは、やはりプルバランスといいますか、例えば最近の経験で申しわけないのですが、ニュージーランド、オーストラリアで詳しく聞かれましたのは、そういう面で二〇一〇年にバランスがとれるというだけじゃなくて、年次計画でこう使ってこうなるんだというような話が重要であると。  その意味では、最近話題になっているかと思うのですが、やはり高速増殖炉の開発利用のテンポというのもやや落ち始めてきているわけでございまして、そういうことを考えますと、例えば日本での第二処理工場、今、第一処理工場を六ケ所村でやっておりますけれども、それもそれに応じて延期し、それからまたある程度はというような意味でそういう面で伸縮的に調整をとりながら、プルトニウムをいわば祭らせない形で、しかも誤解を避けるような形で、兵器転用にしにくい形で日本で保有し、あるいは最小限度、ストックを最小にするということが必要ではないだろうかと。  それ以上に私、もう一つの問題は、これは猪口先生に後でお触れいただいた方がいいかと思うのですが、我々日本だけプルトニウムを利用しているような形、平和利用というか商業利用ではそうなっているわけですが、今、核軍縮がこれだけ進んでいるわけですね。そうすると、ロシアからあるいはアメリカから多量にプルトニウムが出てきているわけでありまして、これの国際的な管理システムをどうするのかというようなことが非常に大きな問題になっている。  それからまた、日本の場合には北朝鮮などとは違ってIAEAのちゃんとした査察やチェックも受けておりますし、日米原子力協定その他によってもきちんと処理が行われているわけでございますので、むしろ私は、プルトニウム問題を考えるというのなら、いわば核軍縮によって出てきたものの国際管理システム日本が提案すると同時に、日本の平和利用のプルトニウムについてもそういったいわゆる国際的な管理下でとか、そういうシステムのもとで処理できるような形で日本が積極的に対外的に働きかけていくというようなことも必要ではないかというふうに思っております。  また後でもし不足でありましたら御説明します。
  27. 猪口邦子

    参考人猪口邦子君) 時間が残念ながらなくなりましたので簡単にしかお答えできませんが、先ほど報告の中で申し上げましたように、IEAの分類の中の二番目の方法、つまり誘導的に、これは補助金であるとかあるいは市場をつくるとか、それからそういう努力をしないところには課税をし、するところは免税にするとか、そういういろんな政策的手段は考えられると思います。また、新しい分野でリスクがあるので、やはり国家がしっかりと研究開発投資をそこに行うということが重要で、その意味で、御指摘のそのとおりの予算が少ないという状況は非常に残念であると思います。  もう少し国民世論の側で合意形成をして、目的意識を持って新エネルギー開発を行う。その目的とは何かと考えると、今現在、日本ではそれをさほど行わなくても一応エネルギー充足がありますので議論としてちょっと苦しいところがあるんですが、地球大で見たときに、先ほどから御指摘のとおり、LDC全体がこれから産業化するときのエネルギー見通しはどうなるのかと考えたときに、新エネルギーを開発しない限り日本もまた被害者になるのであるということです。  近隣諸国が石炭ないし原子力エネルギーに過度に依存した開発だけに突進するということ、邁進するということであればそういう問題が非常に発生するので、その点で日本が本質的な形で新エネルギーに依存するかどうかは別として、これから産業化する国々がそれを利用できるように突破力を日本が提供すると、そういうやはり政治的な合意をつくって、そして大きな予算をそれに割いていただくということかと思います。  あと、国際的な協力プロジェクトを組むことも非常に重要だと思うんです。先端分野というのはどの一国の研究力をもっても突破できないぐらいの今や高水準のところでありますので、国際的なチームでその最先端を突破する、こういう指向性が重要なんです。  そう考えますと、先ほどちょっと申し上げました例えば風力利用の場合、ウインドファームは非常に音がうるさいという問題が今それを導入した国々で出てきている。日本は、私これは専門家じゃなくて責任を持って申し上げられないことですけれども、例えば家電装品でも静かな家電製品とか、そういう汎用技術について非常にきめ細かくいろいろとメーカーの方は工夫されるんですね。そういう技術をこういう国際的なプロジェクトに提供する、日本が持っている重要な技術を提供するというような形での国際協力を行いながら、国際的に新エネルギーを共同で開発する。その中で日本も改めでこのような分野の重要性を政治的に認識していく、こういうことを御期待申し上げたいと思います。
  28. 合馬敬

    ○合馬敬君 二問ほどお伺いしたいんですが、もちろんわかっている範囲内で結構です。  南部先生深海先生に伺いますが、私も原子力発電はこれからの日本エネルギー供給の非常に大事な最大の問題である、こう思っておりますが、現実問題として原子力発電所を設置するのに計画から十年以上、もう今や二十年かかるんじゃないかと言われていますね。それで、私ども政治的にいろいろと、原子力発電の重要性だとかいろいろなことをやっておるわけですが、現実には総論賛成、地域に行きますとどうもやっぱり反対が非常に強うございます。そういうのを受けましてなかなか県知事さんも動けない、こういうことでございます。  そういう意味で、学者先生の立場から、地域住民が納得するようなやり方があるのかどうか。今、例えば原子力発電所を設置してもらえれば交付税をたくさん出してあげるとか、地域の住民のいろんな施設を拡充してあげるとか、いろんな特典を、えさといいますか、そういったようなものも出しましてやっておるわけです。それに倣いまして何かもう少し、学問的とは言わず、そういったような何かやり方があるのかどうか、これをちょっとお聞かせ願いたいんです。  それから猪口先生でございますが、先ほどからも中国の話が出ましたけれども、やっぱり中国も今、年間一〇%を超えるという大変な成長を遂げておるわけでございまして、エネルギー消費もこれはどんどん膨大なものになってくると思います。  そういうことで、中国もこれまではエネルギーの輸出国ということだったようでございますけれども、タリム盆地の開発もうまくいかない、それから今度はパプアニューギニアですか、石油の開発の権利を獲得したとか、西沙、南沙の争いもしょせんはこの海底油田の利権の戦いであると。そういうことで、今、確固としたエネルギー政策を中国が持っておるのかどうか。それがまた長い目で見ますと、先ほどシーレーンの話も出ましたし、いろんな関係で日本に対するエネルギー供給の問題、ひと昔前の話であればエネルギー供給源をめぐって戦争まで起こしかねなかった時代もあったわけでございますから、そういった意味でいろんな紛争が生ずるのではないかという懸念を持っておるわけでございます。  これからの中国のエネルギー政策、ある意味では環境問題もありますし、現に日本日本海側は中国からの、黄砂じゃなくて、あれは炭じんですか、大変な被害を受けておるといったようなことも聞いておりますし、中国もやっぱりクリーンエネルギー政策をやってもらわなきゃいかぬ。しかし、石炭以外ではなかなか高くつくということもあるでしょうから、そういう意味で何か日本がこのエネルギー対策に対して原子力発電を中心として協力ができるのかどうか。そういった面も含めて、お考えがあるところで結構でございますから。
  29. 深海博明

    参考人深海博明君) 今、原子力の立地問題その他に関して御意見をいただいたわけでございまして、これはむしろ先ほど先生からは、学者として、研究者としてどうかというふうに聞かれたんですが、余り研究者としてはお答えできないことで申しわけないんですが、まず私が今考えております点から説明をさせていただきます。  どうも原子力発電というものあるいは核エネルギーというものに関して今の全体的な国民というか日本での評価というのは、どちらかといいますと、例えば原子力発電は迷惑施設であるとか、あるいはこれは必要悪だけれども過渡的なエネルギーとして、将来自然エネルギーというかそういうクリーンな再生可能なエネルギーにつなげるまで何とかしようというような話ではあるんですが、本当にそういうとらえ方でいいのかどうか、それがまず一つの大きなポイントではないか。  私は最近、持続可能な発展のための原子力という位置づけをすべきであろうと、こういうふうに思っているわけでございます。これは一つは、先ほど来私も申しましたし猪口先生からもお話が出ましたように、南側の途上国、中国を中心とするそういうものがどんどんこれから発展をしていくというようなこと、それから人口も百億にはなるであろう、場合によっては二百二十億という話もあるわけですが、そういうような形、そして化石燃料は今の段階では、特に石油などというのは限られた枯渇性資源であるというふうなことを考えてみますと、一つはやはり資源制約的な意味、あるいは時間を通じて考えるような意味で原子力ないしは核エネルギーというものの位置づけをもう一回問い直してみる必要性があるんではないかというふうに思えてならないわけであります。  私は、そういう持続可能な発展のための原子力という位置づけで考え直してみるというのが一つ学者としての発想としては必要なごどのように思われてならないわけでございます。  学者以外といいますか、私が例えば立地地点やその他に行って話をしてみて感じる点がございますので、二点だけ説明をさせていただきたいと思うんですが、一つは、特に立地地点に行きまして若い例えば青年商工会議所の主要メンバーであるとか地元の方々と話したときに、非常に重要なことは、実際には原子力発電によって供給されているエネルギー利用しているのは大体大都市、首都圏であるわけでございまして、非常に不満を言うのは、そういう施設をいわば僻地に立地させておきながら都会の人たちは冷たい。例えばそういう意味で連帯感を持ってくれるとか、あるいはそういうことでありがたいから、何らかの形でそういったものに報いる。例えば首都圏の人々や大都市人々が何らかのそういう働きかけを自分たちにしてくれるかというと、決してそうではないんだという意味での不満が物すごく強いわけであります。  やっぱり一つは、そういう恩恵を受けている都市住民あるいは本当にそういうものを受けている人たちがむしろ連帯感を持ち、そういう意味での働きかけをしていくことがどうしても必要ではないかというのが一つでございます。  それから第二の点は、今おっしゃいましたように、新規の立地地点は、最近のリードタイムといいますか懐妊期間を考えますと、二十年を超えて二十五年程度というようなことになっているわけでございます。同時に、具体的に話をさせていただきますと、私、海外出張をする直前に松江でシンポジウムがございましてそこへ行ったんですけれども、いわゆる島根原発の立地地点は第一、第二発電所があるわけでございます。その町は鹿島町というんだと思うんですが、第三発電所、第四発電所をつくってほしいというような形で中国電力に申し入れたんだと。あるいは福島でも東京電力にそういう意向もあるわけでございます。  そのような意味で考えてみますと、新しい位置づけのもとに、先生が御指摘になりましたように、それが自分たちにとってある意味では、ただ電源開発三法その他で公共施設ができるとかそういう形だけじゃなくて、そういう都会の人々も連帯感を持ち、自分たちのいわば直接的な福祉とかあるいはそういうものにはね返ってくるような措置をもう少し考えていくといたしますと、これは理想的だというふうに先生から怒られるかもしれませんけれども、迷惑施設ではなくてやっぱり持続可能なために貢献しているんだというような前向きの評価もそのうちには出てくるんではないかというふうに思っている次第でございます。
  30. 猪口邦子

    参考人猪口邦子君) これは私の意見じゃなくてアメリカ側の軍事分析なんですけれども、最近よく中国の軍事化の勢いということが指摘されています。原子力エネルギーについては、既にここでもけさから御議論がいろいろありますとおり、平和利用でありますけれども、しかし転用の可能性ということを完全に排除するということは理論的に難しいということです。  そういう前提がある以上、私は、それはどこの途上国に対してもですけれども、先ほども申し上げたことですが、基本的に非常に強く過度に原子力エネルギーに依存するような開発を日本が進めてあげるというようなことは、日本をめぐる安全保障環境その他全般的なことを考えますときに、それは好ましくないのではないかという考えを持っております。  冷戦後の国際社会の中で核不拡散体制の徹底ということが非常に大きな課題にもなっているわけで、その観点から見たときに問題があるかもしれないという分析がされている国々が御存じのとおりあるわけですけれども、そのような国々は、例外もありますけれども、かなりの部分は平和利用という形でその技術を開発してきた国々でありますので、やはり途上国のエネルギー開発ということを考えるときに、国際社会全体の安定という観点から見ても何としても、先ほどから議論がある新エネルギーとか、そういうところで新しい突破力を提供したいというところであります。  中国が今後エネルギー問題を背景に供給源をめぐって紛争に至るようなそういう可能性があるかどうかということを御議論されましたけれども、将来の非常に長期的なことを見通すことはなかなか責任持ってはできませんので難しいんですけれども、経済発展に邁進するときにやはり戦争は非常にマイナス要因になります。そういうことはこのアジア・太平洋地域においては歴史の問題に照らしても合意があると思いますので、そのようなシナリオというのはなかなか想定しにくいと思います。  完全に排除できることを保証できるかと言われれば、将来のことは何事も一〇〇%ということを論じることはできないので難しいですけれども、私は、予見し得る未来においてそのような形で中国が非常に好戦的な態度に出てくるということは、今の国際政治分析からは非常に考えにくいことであるというふうに思います。  ただ、中国のエネルギー制約が緩和され、そして中国が開発の権利といいますか、先ほど申し上げたようなその点で非常に不利益をこうむっているというような認識に至らないで済むような国際協力が必要ですね。エネルギー開発における国際協力が必要であると思いますけれども、そのためには先ほども申し上げた開発のあり方そのものから考え直していくといいますかそういう努力、地味な努力でありますけれども必要であると思います。  例えば、先ほどハイウェーか鉄道かということを言いましたけれども、中国が車社会になるのか、新幹線社会になるのかということを考えるときに、例えば新幹線社会になるための協力をどれほど日本が積極的にやっているかということを考えます。その点で、例えばフランスの方が積極的にそのシステムを中国に売り込んでいるわけで、日本は売り込むというよりも、そのような非常にすぐれた大量輸送の方法を提供していいんじゃないだろうか、供与していいんじゃないか。そういう政策とあわせながら、より大きな枠組みの中でこの問題を考えていただきたいというのがお願いでございます。
  31. 櫻井規順

    会長櫻井規順君) お約束の時間が大変限られてまいりました。なお三人の理事、委員から発言希望がございます。発言者はお一人の先生に一問に特定していただきまして、三人の発言を求めたいと思います。
  32. 関根則之

    ○関根則之君 猪口先生に、今の合馬先生の問題と関連するんですけれども、西沙諸島、南沙諸島がこのごろ大変にぎやかになってきて、この間ラモス大統領がベトナムへしばらくぶりで行ってそれらしい会談もしてきたんじゃないかと思います。今お話を承っておりますと、むしろ特に南沙列島、あそこへ中国が出ていくのは石油資源を確保していく、そういうことが主眼なのか、あるいは戦略的な、シーレーンを含めて将来の領土的な問題もあるでしょうし、そういう戦略的な観点から出ていっているのか。その辺がよくわからないものですから、どの程度石油資源としての南沙列島、西沙列島、あの辺のところの問題を評価していったらいいのか、何かお考えがありましたら教えていただきたいと思います。
  33. 猪口邦子

    参考人猪口邦子君) 御指摘のとおり、石油資源の問題だけではないと思いますね。  先ほど申し上げたようなポスト冷戦期においてそれぞれ、例えばロシアは旧ユーゴスラビア地域の和平のあり方について、一部の新聞報道によれば、大国主義というような対応をとっていて、自分のプレゼンスとそれから国際的な役割ということをともすれば非常に積極的に主張したいという動きに出ています。その向こうを張ってということではないかもしれませんけれども、中国もそういう政治的なプレゼンスをポスト冷戦期であるだけに主張したいということもあるかもしれない。  それから、国内的に成長への期待が高ければ高いほど現実がそれに追いつかないことの剥脱感といいますか、不満が潜在的に多いわけで、これはいろんな報道でも最近指摘されているところです。そういう不満を外側に転嫁するというようなことがあるとすれば、これはやはり先ほどから申し上げているとおり、国内の経済成長が順調な推移を見ることによって、またそれによって近隣との平和的な関係ということにこそ経済発展の道がある、相互依存を築くことにおいてこそ発展の道があるということを認識してもらうということにつながると思いますので、そういう形での日本の協力ということを考えるべきではないかと思うんです。  私は、アジア・太平洋地域の国際情勢については、今こういう状況があるけれども、日本はこれからどうなるのかという、そういう何といいますか、突き放した見方ではなく、何も所与なものではないというふうなアプローチの仕方、つまり未来は日本の出方によって変えることができるんだと。中国の発展をどう支援するかによって何か所与なものとして中国が突然紛争に至るとか、そういうことでは全くないのであって、平和的なシナリオということを日本の出方がまた決定することができるのであるという、そういう国際問題へのアプローチあるいは認識の仕方ということを私たち全員が身につけていくべきではないかと考えます。
  34. 藁科滿治

    藁科滿治君 それでは、ちょっと時間がなくなってしまいましたので、南部先生にひとつ絞って御質問いたします。  最近、ガス事業法の改正が行われまして、大口需要に対する自由化の方向が進んでおります。これは規制緩和の実体経済への影響という意味で実験的な事例として非常に注目をされているわけでございまして、そこで規制緩和の進行に当たって派生するマイナス面をできるだけ少なくしてソフトランディングを果たしていかなきゃいかぬ、そういうふうに考えているわけですが、さて、そこでどういった点を重点に対策を引いていくべきか、先生のお考えを伺いたいと思います。
  35. 南部鶴彦

    参考人南部鶴彦君) 短時間には大変お答えするのは難しいんですが、一つ例えば今お話しの例に出ました大口割引の例で申しますと、少なくとも経済学者が考えるのは、大口割引をすることによって他のだれも損害を受けることはないわけですが、大口割引を受けた人はその分だけ利益が上がってくる。つまり他人に対しては何の条件も変わらないけれども、ある特定の人が利益を受けるという形での改善というのは望ましいことだというふうに私どもは普通考えるわけでございます。  ですから、そういうことでいうと、もう一つ観点のいわゆる公平性という点から特定の人だけが恩恵を受けるというのは望ましいのかと、こういう議論が出てくると思いますが、規制緩和の基本的考え方というのは、そうした公平性の議論よりも、重心は、そういった他の人の条件一定としておいてあるグループ利益を得ることがあるならば、それは社会的な利益になるんではないかというふうな考え方だろうかと思います。  問題は、ですからそれが余りにも押し詰められますと、結局、特定の利益を受ける権利を持った人というのは同時に大変恵まれた人であるという可能性もあるわけでございます。大口割引の場合でいえばビジネスユーザーというのがほとんどでございますけれども、そのビジネスユーザーがそうした大きな利益を受けて、かつそれがいわば経済的な力のバランスから見て非常に望ましくない方向にいくということがもし予想されるとすれば、やはりそれは規制緩和の弊害という観点議論されるかと思います。  いま一つは、規制緩和に便乗するという問題が私は非常に大きいかと思うわけです。これは一般にクリームスキミングと呼ばれるわけでございます。一見すると、規制緩和によりましてある特定の供給者が自由を得て、そして競争が盛んになるということは大変に望ましいように見えるわけでございますけれども、実はそれはよくよく国全体を見てみると、他の人たちがそのようなことを可能にしている、あるいは負担をしているということがあり得るわけでございます。  例えば、現在NCC電話料金というのが非常に下がったということがよく言われます。これはエネルギーではございませんけれども、一番わかりやすい例ですが、よくよく眺めてみたときにそれは本当に国民全体の利益になっているんだろうかということを考えますと、もしかするとNTT電話を使っている我々、それは国民全員でございますけれども、国民全員が一定の負担をしながら実は長距離ユーザーの料金を安くするのを補助しているということになってはしないかというふうな話が可能だと私は思います。  ですから、そういう点で言いますと、やはり規制緩和の中でその負担はだれがしているか、分配あるいは公平というふうな問題は果たして担保されるのかというのが根本的な問題ではないかなと思っております。
  36. 櫻井規順

    会長櫻井規順君) まだ御質疑もあろうかと存じますが、予定した時間が少し過ぎておりますので、以上で午前の参考人に対する質疑を終了いたします。  参考人皆様一言御礼申し上げます。  参考人皆様には、長時間にわたり有益な御意見をお述べいただきまして、まことにありがとうございました。ただいまお述べいただきました御意見につきましては、今後の調査参考にさせていただきたいと存じます。本調査会を代表いたしまして厚く御礼申し上げます。ありがとうございました。(拍手)  なお、参考人から御提出いただきました参考資料のうち、発言内容把握のため必要と思われるものにつきましては、本日の会議録の末尾に掲載させていただきたいと存じますので、御了承願いたいと存じます。  それでは、午後一時三十分まで休憩いたします。    午後零時三十二分休憩      ―――――・―――――    午後一時三十二分開会
  37. 櫻井規順

    会長櫻井規順君) ただいまから産業資源エネルギーに関する調査会を再開いたします。  委員異動について御報告いたします。  本日、村田誠醇君が委員辞任され、その補欠として前畑幸子君が選任されました。     ―――――――――――――
  38. 櫻井規順

    会長櫻井規順君) 産業資源エネルギーに関する調査を議題とし、二十一世紀へ向けての企業行動あり方に関する件について、参考人から御意見を聴取いたします。  午後は、社団法人日本フィランソロピー協会理事長田中克人君、日本アイ・ビー・エム株式会社専務取締役竹中誉君、神奈川大学経営学部教授松岡紀雄君に御出席をいただいております。  この際、参考人皆様一言ごあいさつを申し上げます。  本日は、御多忙中のところ本調査会に御出席いただきまして、まことにありがとうございます。  参考人皆様から、二十一世紀へ向けての企業行動あり方に関しまして忌憚のない御意見をお述べいただき、今後の調査参考にいたしたいと存じますので、どうぞよろしくお願いいたします。  議事の進め方といたしましては、初めに、企業の社会貢献のあり方について田中克人君から、次に、社会貢献活動の取り組みについて竹中誉君から、次に、企業の海外進出と現地社会との融合策について松岡紀雄君からそれぞれ三十分以内で御意見をお述べいただいた後、二時間程度委員質疑にお答えいただく方法で進めてまいりたいと存じます。  なお、意見陳述は着席のままで結構でございます。  それでは、最初に田中参考人からお願いいたします。
  39. 田中克人

    参考人田中克人君) 田中でございます。  本日は、私どもが日ごろやっております社会貢献問題について国会の方でお取り上げいただきましたこと、大変ありがたく思っております。  この問題、ここ数年ぐらい日本で盛んになってきたところでございます。これはかなり日本の民主主義の根幹ともかかわる問題ですので、まだまだ研究途上でございますし、学者の先生方あるいは実務の方々初め、意見交換しながら内容を深めている段階でございますので、私も皆さんに十分納得いただけるお話ができるかどうかわかりませんが、現時点での、私どもが今把握しているところを述べさせていただきます。  お手元にレジュメをお示ししていると思いますが、私に与えられたテーマは企業の社会貢献のあり方ということでございます。この中で、まず企業の社会貢献とは何かということについてお話をさせていただきまして、次に、二番と三番を入れかえて、三番の方からお話をさせていただくという順で進めたいと思いますので、よろしくお願いいたします。  社会貢献というと、何というか非常にお上の意識が強い言葉だというようなことをよく言われますけれども、これはアメリカでのフィランソロピーという言葉をどういうわけかこの社会貢献という形で日本で訳して、これが今定着しておりますので、必ずしもフィランソロピーイコール社会貢献というイメージじゃないんだというふうには思っております。  フィランソロピーというのはギリシャ語の合成語でして、フィランという愛とそれからアンソロボスという人類という言葉の合成語で、人類愛とか慈愛とかというふうに英語では訳されております。いわゆるフィランソロピー活動といいますか、ボランティアとか寄附活動を通じて世の中の問題点を自分たちで解決していこうという考え方がフィランソロピーの社会参加意識だと思います。そういった立場から考えますと、このフィランソロピーという言葉の持つ意味というのをもう少し広げていかなくちゃいけないというふうに思っております。  これを企業の中に当てはめていきますと、主として株式会社になるわけですけれども、株式会社の場合には、いわゆる資本主義社会の中でやっぱり一番効率よくやっていく方法として会社組織というものがあると思います。その中で企業の使命といいますか、もともとは株主、出資者の自分利益追求ということがまず第一にあったと思いますので、会社が利益上げて自分たちが利益を取得するというような考え方。  それから、やはり社会が発展する中で、そこで働く従業員の立場とか待遇ということも大事であるということになってきて、従業員の生活の安定向上というようなことも企業の中の役割の一つになってきたと思います。  それから、やはりサービス、いい商品社会に提供するということ、これは大事なことだと思います。悪い物を出してそれで利益を上げるというようなこと、こういったことはもう今の社会では許されないくらい今の社会が成熟したということだと思います。  今の株主に対する配当、従業員に対する待遇、それからいい商品を提供する、この三つのことで今まで企業というものが成り立ってきたと思うんですけれども、やはり企業が存在するということによってその社会がいろんな形で影響を受けるわけです。企業が来ることによって学校もつくらなければいけない、それから道路も整備しなくちゃいけない、そういったいろんな問題が出てまいります。そういったときに企業がそのままでいいのかという問題があるわけですけれども、やはり株式会社の場合には株主の権利というものがすごく保護されておりますので、アメリカといえども、企業がそういった社会の問題に対して寄附をしたりするということはなかなか認められないということでずっとまいりました。  これの方向が変わったのが、一九五三年にニュージャージー州でA・P・スミス社というミシンメーカーといいますか、機械の製作会社ですけれども、そこがプリンストン大学に千五百ドルの寄附をしたということがございました。そのときに株主が、本来その千五百ドルは株主に対する配当である、そういう意味では株主の権利侵害であるという訴えを起こしたわけです。それに対して裁判所が判決を下しまして、やはり企業が成り立っていくためには十分に教育を受けた社会あるいは十分に教育を受けた人々存在することが大事であるし、またそういった人が企業に入ってきてまたさらにいい製品を出していくというようなことで、企業がそういった形の寄附行為することは差し支えないという判決が、これは非常に画期的な判決だったわけです。一九五三年といいますと、日本の昭和二十八年ですから、これはもうごくごく最近のことと言ってもいいかと思います。それを契機にして、アメリカでいろんな企業財団ができまして、その企業財団を通じての社会貢献活動というふうに変わってきたと思います。  そういった意味で企業が、先ほどお話しした三つのほかに、こういった形で社会貢献していくというようなことをいわゆる企業市民という概念で呼ぶようになってきております。要するに、企業も一市民と同じように社会に参加して社会をよくしていくために協力していくのは当然のことであるというような考え方、これをコーポレートシチズンシップと言い企業市民というふうに日本語では訳しておりますが、企業市民という考え方が出てきました。そういう意味で、企業の社会貢献とは何かという場合に、やはり企業の社会に対する義務の一つであるというふうに考えていいのではないかと思っております。  次に、そういう中で日本がどうなのかということを考えてみたいと思います。日本の場合、レジュメに書いてあります戦前のフィランソロピー活動と戦後の立ちおくれということでお話ししたいと思います。  日本の企業の場合も、昭和二十八年以前、当然明治時代から企業は存在しているわけで、資本主義が明治維新とともに日本で芽生えて株式会社もできてきた。そういった中で明治二十九年に民法が施行されまして、その三十四条で公益法人に関する規定というものができたわけです。それを契機にして民間の学校ですとか病院ですとか社会福祉関係の団体が出てきまして、そういったところが中心になって社会貢献をやるというような風潮が出てきました。そういう意味で、日本も明治時代の後期から大正、昭和の初期にかけては非常にフィランソロピー活動というものが盛んに行われたというふうに考えられます。  例えて言いますと、三井財閥が三井慈善病院、三井報恩会とか、住友財閥は大阪の図書館とか美術館を寄附するとか、日本生命は日本生命済生会という財団をつくってそれを通じて社会貢献したとか、それから渋沢栄一さんなんかも個人としては中央慈善協会、今の全社協ですか、全国社会福祉協議会の前身になるようなものをつくって社会貢献しておられます。個人ではたくさんおられます、森村さんとか大原孫三郎さんなどという方は非常に著名です。そういう形で明治、大正、昭和の初期にかけて日本が本当に企業を通じて、あるいは個人を通じて社会貢献をやっていた。  にもかかわらず、アメリカの場合は昭和二十八年まで企業の寄附というものが認められなかった。ここの違いは何かといいますと、明治初期のころの日本の企業というのはいわゆる資本と経営が一体化していたというふうに思います。ですから、資本家イコール経営者ということで割と自分の会社の利益を自由に処分できたという面もあったと思います。アメリカの場合は資本主義が非常に進んでおりましたから、そういう意味では資本と経営が分離していたということがあったと思います。また後ほどそれは触れたいと思います。  それから、やはり儒教の思想とか、留学した人たちがキリスト教の考え方を身につけて帰ってきたりとか、当時はロックフェラー財団とかカーネギー財団というのがアメリカでできていました。これは企業がつくったんじゃなくて個人でつくった財団、いずれも個人てつくった財団ですけれども、判決の前からそういったものはできておりました。そういったところに触発されて日本のフィランソロピー活動というのは非常に華々しくスタートしたと言ってもいいかと思います。  なお、もう一つ見逃せないのは、ノーブレスオブリージュというような考え方がヨーロッパであるんですが、高貴な人というふうによく言いますが、要するに社会的に身分の高い人は困っている人を助けるべきだという考え方が普通にあるわけです。そういった考え方が、日本では明治時代の経営者というのは武士から変わっていったりなんかしていましたから非常に誇りを持っていましたので、利益を上げるということよりは自分たちが社会に尽くすというような考え方がやはり強かったんじゃないかと思います。そういう意味で、ちょんまげの時代から明治にかわってさまざまな社会貢献が行われたということは我々は誇りにしていいことなんだというふうに思っております。  それが戦後どうなったかといいますと、戦後は何といいましても第二次世界大戦で経済も国民社会ももう壊滅的な破壊を受けていますから、ほかの人たちのことを見ているというよりも、自分自身が生き残らなくちゃいけないというような精神的ゆとりがなかったということもあると思いますし、何といってもゼロからの出発ですから、欧米に対して追いつき追い越せという考え方、これがい言葉であったと思います。そういったところから日本は独特の経済システムというものができ上がったと思います。  それは政官財、政界、官界、財界が一体となった複合体制といいますか、これが日本を代表する組織みたいになって動いたと思います。ですから、政府が大体これからの日本社会の青写真みたいなものを描きますと、それに対して企業はその指針にのっとって仕事をするというようなことで、海外に行くときも、どうしても政府や何かが先に行って道をつける。その後を日本の企業が行くというようなことで、非常に日本の企業が海外にも進出しやすかったし、国内で事業を展開するにしてもそういったバックアップが非常に強かったというようなことがあったと思います。  そういったことから、やはり公のやることに対して民間が口を出さない方がいいというような雰囲気が自然と広まっていったのではないかというふうに思います。そういう意味で、日本社会というものは一つの価値観で動いてきた、政官財一体になった一つの価値観で動いてきたというふうに思います。そういう意味で一元主義というふうに言われるんでしょうか。  そこがアメリカや何かになりますと、非常に自由主義の国ですから、いろんな価値観を認める、いろんな考え方を認めるという立場からいきますから、何か問題があったときに政府や何かに気兼ねするというようなことじゃなくて、とにかく自分たちがこの問題は、社会で必要だと思ったらすぐやっていくというような形、いわゆる多元主義といいますかプルーラリズムといいますか、そういった形で海外なんかは進んできたと思います。日本の場合は、どうしても日本株式会社というような形で一体として動いてきたためにそういった動きができなかったんじゃないかというふうに思います。  それから、法人に対する考え方の違いというのもあると思います。  日本の場合は、企業というのは法人実在説的な考え方で、企業というものは存在しているんだ、現に存在しているんだからこれは長く継続させなければいけないという考え方が強いと思います。そのために、株式なんかもいろんな銀行とか証券とかそれから同業者で持ち合うというような形で、いわゆる株の配当に関する感覚というのが薄いと思うんです。継続的な営業ができればいいんだということで、株を持っている人も、それはお互い監視し合ったり協力し合っていくので株を持っているというような感じですから、株の配当を求めるということがないんだと思います。  それに対して、アメリカあたりの会社に対する考え方は、これは確実に、法人というものは単にトンネルだというふうに考えていると思います。自分がその会社の株を五〇%持っていれば自分はその会社の五〇%を所有しているという、要するに法人擬制説というんですか、法人は単なるそういった利益を獲得するための方便であるというような考え方をしていますから、どうしても株式の配当というものに関してはシビアになってまいります。  そういった考え方からいきますと、アメリカの場合は、個人がそういう形で株の配当を受ける、社会貢献は自分のその得た利益でやっていくというような形で、やっぱり個人の社会貢献活動というものも非常に盛んになっていく。日本はそういった意味でやっぱり立ちおくれていくし、戦後は資本と経営の分離というのがだんだんと進んできましたので、こういった社会貢献問題というものがなかなか脚光を浴びなかったということ。  それから、もう一つ見逃せないのは、憲法八十九条の規定が一つ阻害要因になっているのではないかというふうに思います。  憲法八十九条の規定は「財政」の中にあるもので、公の財産の支出、利用の制限ということで、これはこの間の政治改革法案の中の政党助成法の問題とも関係してくるんではないかと思います。これをちょっと簡単に読んでみますと、「公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のためこ、この後が関係あるんですが、「又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。」というのが憲法八十九条の規定なわけです。  ここのところでは、私立の学校であるとか、いわゆる慈善、教育、福祉団体に公の金を使ってはいけないという規定になっているわけです。ですから、この憲法の精神は、そういう意味では官民一体ではなくて、官と民とを切り離すという考え方がこの条文の中にはあると思います。これは、連合軍がこの憲法をつくるに当たって、日本はすぐ大政翼賛会的に官も民も一緒になってかかってくるからというようなことがあったんだろうと思います。アメリカにはない規定を日本の憲法につくったということは、官と民を切り離しておくことが日本の力をそぐことになるという考えがあったんだろうというふうに思います。  この中で、公の支配に属するというのはどういうことかということですが、これはその組織の予算権とか人事権、事業に関して、公、国が発言権を持っていなければいけないということだと思います。今の私学教育に出しているのも私学振興法がそういった法律を通じてやっているんだと思いますし、社会福祉法人法とかというものを通じてやっているんだと思います。厳密に言えば、ここのところでどの程度公の支配が及ぶのかということが争いになるんだろうと思います。  それから蛇足で恐縮ですが、この間の政党助成法なんかの場合もこれに当てはめて考えた場合に、果たしてどこまで助成金に関して公の支配が及ぶのかということを考えた場合、この問題に必ず抵触してくるのではないかというふうに思っております。  そういったようなことで、戦後どうしても立ちおくれてしまったということがあると思います。にもかかわらず、今フィランソロピーというものが非常に重要だと言われてきている。なぜ今そういった状況になってきているかということを考えてみますと、国内的要因としましては、企業が高度経済成長の中で公害問題を発生した時期があります。その時期に、やはり企業の社会的責任というものが問われましたし、初めて企業というものをどう考えるかということが市民レベルで議論されていきました。  それから、一九七二年に日本列島改造論が発表されたときに、これが全国的な土地の高騰につながって物価の上昇につながるということで、企業の行動のあり方、企業の経営姿勢というものが問われましたし、反企業ムードというものも非常に高まってまいりました。そのときに、一九七三年の三月に経済同友会が「社会と企業の相互信頼の確立を求めて」という提言、それから同じ五月に経団連が「福祉社会を支える経済とわれわれの責務」という提言を出しまして、公害防止や地域社会との調和、融和、それから消費者の立場を考えるとか、福祉社会をつくっていかなければいけないということを、このときに経営者側としてかなり真剣に取り組もうという姿勢を示したわけです。  ところが、その翌年に石油危機が起こりまして、その間企業としてもそれから一般の人たちにしても、企業の社会的責任を追求しているよりも、今どうやって日本はこれを乗り切ったらいいかというようなことの方に関心と重点がいきまして、何となくせっかく盛り上がったそのムードが後退していったという経緯が一つあると思います。  それがしばらく続いて、その間に今度は日本も公害を克服しましたし、それから企業もやはり社会的責任をということで、その間いろんな財団やなんかをつくって社会貢献をする姿勢を示してきました。  そうしているうちに、今度問題は、むしろ海外の方から飛び火してきまして、アメリカに進出している日本企業が非常に評判が悪い。これは貿易摩擦という面だけじゃなくて、アメリカの地域社会から非常な非難を受けているというようなことが起こってきました。これはなぜ起こるかというと、日本の企業がアメリカに土地を買って工場進出するわけですけれども、アメリカ社会というものをやはり日本が十分に理解していなかったんだと思います。  アメリカの場合は、御存じのように、メイフラワー号で大陸にたどり着く。例えば、ボストンにおり立ったもうその日から、食事をつくる、雨露をしのぐというのは一緒に行った人たちみんなでやっているわけですから、そういう意味では、本当にその人たちが中心になって毎日を生き延びる。その中で教会をつくる、学校をつくるという形で、コミュニティーというものを非常に重視して発展させてきた国なわけです。  ところが日本の場合は、そういったコミュニティー意識というものが全くありませんから、日本の企業がアメリカに進出して、土地を買って、そこのところに現地要員を派遣しても、その人たちが地域との交流というものに関して意を介さないできたと思います。例えて言えば、日曜日になれば、向こうの人たちはほとんどが教会に参りますが、日本からの派遣社員は、奥様がデパート、御主人はゴルフというようなこと。そういったものをやっぱりアメリカの人たちが見ていて、それでも学校はちゃんと公立学校、自分たちは便益を受けている。にもかかわらず何も地域に対してやっていないといったようなことが、やはり日本の企業批判になってきたわけです。  現地に行った人は、だんだんとその批判がどういうことなのかというのがわかってきて、本社に対してやっぱり現地で寄附とかコミュニティーに参加しなくちゃいけないというレポートを送っても、本社の方ではそんなことわかりませんから、冗談じゃないまだ土地を買っただけで工場もできていない、商品もできていない、利益も上がっていないのに寄附なんてとんでもない、それはできて利益が上がってからのことだというようなことで、現状がわからないからぼんと返していく。それで、現地の人はかなり悩みながらやっている。それで時間が経過する。そういう中でやっぱりだんだん悪化してきたというようなことがあったと思います。  そういった意味で、日本の企業が海外に出ていった場合、その地域でどういうふうにしていくかということが問われ出したことも、企業がその社会貢献を考えていく一つのきっかけになっていったんじゃないかというふうに思います。  それから、今国際的な要因としては、やっぱりソ連、東欧の民主化ということ、東西ドイツの統合、それから湾岸戦争に代表される地域紛争、難民問題、発展途上国の社会問題、環境問題もそうですけれども、一つの国だけで、その当事者国だけでは解決できない、ほかの国がバックアップしなければいけない、むしろ地球全体として考えなければいけない問題というのがどんどんと発生してきています。こういった問題を解決していく場合に、政府サイドだけではなかなかきめ細かなものができない。そうすると、それは政府以外の組織、団体あたりがやっていかなくちゃいけないんじゃないかということで、そういったところでも企業あるいはそのほかの組織の必要性というようなことでこの社会貢献問題というのがクローズアップされてきたと思います。  そういった中にあって、経団連は何度もアメリカに調査団やなんかを派遣していったわけですけれども、その成果の一つとして、海外事業活動関連協議会というようなものを一九八九年に発足させます。CBCCと訳しておりますけれども、これはアメリカに進出している企業が中心になって財団法人をつくりまして、そこに各企業が金を拠出して、その金をアメリカのボランティア団体とか社会貢献団体、そういったところに寄附をするという形で、日本に対するそういった批判を和らげていこうというねらいがあったのだろうというふうに思います。向こうのユナイテッドウェイというようなところとかコミュニティー財団とか、そういったところに寄附をしたり、それから識字運動を広めたりというようなことで、日本という国はやっぱり思い切ってその気になってやるととことんやっていきますので、ほかの国よりも評判がいいくらいやっていったという面もあるかと思います。  そういったようなことで、今企業としてもやはり社会貢献をやっていかなけりゃいけないというようなことになってきたと思います。  それで、その海外事業活動関連協議会に続いて、経団連が一%クラブというものを提唱しました。これは御存じと思いますが、企業の利益の一%、個人の場合も所得の一%相当を社会貢献のために使っていこうというような呼びかけでございます。これ自体はまだ数はそれほど集まっておりませんが、この一%クラブの提唱というのが各企業に与えたショックというのは大きかったんじゃないかと思います。これを契機にして各企業が企業の社会貢献というものを真剣に考えるようになっていったというふうに思います。  それから、続いて企業メセナ協議会というのができました。メセナというのは文化学術支援というようなことで、日本の場合はスポーツなんかも入るんだと思いますけれども、そういった方面の支援をしていこうということで、企業メセナ協議会というのができました。  それから、一九九一年には大阪コミュニティー財団というのができました。これはアメリカにあるコミュニティー財団をそのまま日本に取り入れたんですが、大阪の商工会議所が中心になって始めたもので、これはマンション型支援というふうに言われています。普通の場合寄附をしますと、その寄附をその企業がいろんなところに割り振るということですが、これはもう寄附するときに、これは教育に使ってほしい、これは青少年問題に使ってほしい、これはがん撲滅に使ってほしいと、拠出者があらかじめ目的を指示して出していくというようなことで、こういうふうに指示できるというのでマンション型というふうも言い方もされております。  それから、私どもの日本フィランソロピー協会というのは、九一年ごろから企業市民会議という形でこの問題を取り上げてやってまいりました。その当時は昭和三十五年にできた社団法人国民政治研究会というジャーナリスト中心の不偏不党の団体だったんですが、なぜそれが社会貢献問題に入っていったかといいますと、これは要するに、日本が民主主義国家がどうかという民主主義の問題どこのフィランソロピーというものは切っても切れない関係にあるというふうに考えられます。  それで、こう言っては大変失礼ですが、永田町中心ではなかなか政治もよくなってこない。しかし、これは何に原因があるかというと、やはり国民の意識というものが非常に低くなってきているんじゃないか、国民が物を考えなくなってきていると。それは高度経済成長の中で企業の採用の仕方にも問題があったと思います。ある程度のレベルの大学を出れば、学部、学科を問わず全部採用する。それで採用した後、企業研修という形で自分の企業になじむ教育をやっていく。それでまた、企業の中にいれば大体人生最後までいけるんじゃないかという安心感みたいなものを持っている。したがって、社会参加しなくとも何となく生活できるんじゃないかという雰囲気があったと思います。  そういった中で、やはり国民の意識をどうして変えていくかということを考えた場合に、こういった社会参加、国民をまず社会に参加させる必要があるだろう。そうした場合に、一番人間を抱えている企業が今までの企業戦士の育成ということではなくて、やはり今までの企業戦士を社会に戻していく、そういう考え方が必要じゃないかということで、三年前から各企業の社会貢献担当者の方々の研究会を中心にやってまいりました。  この三年間でかなりのところが、大手のところはほとんど社会貢献セクションというものをつくってきたと思います。やはり日本の企業の担当者というのは優秀ですから、この三年間で相当勉強しちゃって、あらゆることを大体把握してしまった。そうすると、今度次にやることがなくなってくる。じゃ、何をやるかというので、結果的には一番横並びでできたのが、ボランティア休暇・休職制度というのがいろんな企業でこれは採用されました。ただ問題は、そういう制度はできたけれども、実際にそれを活用している人というのは非常に少ないし、つくったけれども全然活用者がいないという企業も現にあります。  そういう意味で、どうしてもやらなくちやいけないと思うとすぐやってしまうんですが、やはり社員一人一人の意識調査をして、その意識調査の積み重ねの中で、自分の企業はどんな形の社会貢献がいいのかということを考えていかなければいけないんだと思います。非常に悪い癖で、横並びでやってしまうものですから、せっかくの制度も疑心暗鬼を生むという結果になって、これはこれからの課題だろうと思います。  それからバブルの崩壊で、広告費、交通費、交際費の三Kに加えて社会貢献費も削るというふうなことになって、それで今この社会貢献問題は下火になってきているんじゃないかと言われますけれども、決してそうではなくて、むしろ企業が寄附ができないという分、社員の社会参加を非常に促すという方向に来ております。社員の意識がどんどん変わってくるという意味で、私は、本来の企業の貢献のあり方としては健全な方向に進んでいるのではないかというふうに思っております。  時間がないので、とにかく早口でしゃべって大変申しわけありませんが、もうちょっと時間をいただきたいと思います。  企業の社会貢献というのは、まだ緒についたばかりですので、これからの問題だと思います。基本的な考え方として、要するに今風題なのは、個人が家を出てから会社に行くまでは社会じゃなくて、会社に行ったところから社会が始まるというのが現状だと思いますが、これをやっぱり変えなくちゃいけないんだと思います。  企業の方も、例えば車いすを百台寄附した、そうすると新聞に載った、広報部は頭をなでて褒められる。これは決して社会貢献じゃないんだ。そこの社員が、駅で階段を上がれなくて困っている車いすの人のところを素通りしているのが現状ですから、そういった形では企業が社会貢献しているとは言えないと思います。社員一人一人の意識が変わっていって初めて企業が社会貢献していると言われるのであって、やはり社員の意識というものに重点を置いた形でこれからいろんなテーマをやっていかなければいけないんじゃないかと思っております。人と企業の意識はそういう形でやっぱり変えていく必要があるだろうというふうに思っております。  それから日本の場合は、この下に参考図として書いてありますけれども、政府と企業、この二つのところで今まで回してきたと思うんです。それに対して、これから必要なのがフィランソロピーセクターと言いますが、これはインディペンデントセクターとか第三セクターとかいろんな呼び方がされておりますが、いわゆるここはNPO、NGO、ノン・プロフィット・オーガナイゼーション、非営利の民間公益活動をやるグループというふうに見ていただきたいんです。  要するに、ボランティアとか公益法人、企業がつくる企業財団、そういったものも位置としてはここに位置する。ここに対して企業が寄附行為を行って、このフィランソロピーセクターに属している団体が社会のいろんな問題を解決していくということだと思うんです。ですから、このセクターが大きくなれば、政府のその部分の役割が少なくなっていくという意味で、小さな政府が志向されるという考え方になると思います。  この間も厚生省で高齢者社会の問題が提起されていましたが、本当に高齢者社会になって介護者が必要になったときに、その人を全部公務員として国で雇っていったら、それはもう財政の破綻は目に見えていると思うんです。やっぱりフィランソロピーセクターを充実してここでボランティアを養成する。それで、そういったボランティアの人たち、ボランティアというと言葉はあれですけれども、もうそういう時代になったらボランティアというんじゃなくて、国民一人一人が義務として自分たちの社会をつくっていくということで社会参加をしていくという意識が出てこなければいけないわけですから、そういう形でこのセクターというものを強化していく必要がある。  そういった場合に、今二つの大きな問題点がある。その一つは、やはり企業がこういったセクターに寄附をしていく場合の税制面の問題があると思います。  それからもう一つは、こういったところで公益法人としてやっていく場合に、法人の今の許認可、これはもう二年三年とかかる上に、原則として認めない方向であったり、それから目的が一つずつ役所ごとに変わってくる。ある企業が環境問題、青少年問題、老人問題をやりたいといった場合に、それは環境庁、労働省、全部一つずつ財団をつくらなくちゃいけないというような状態になります。やはり多目的財団というものを認めていく方向、それから許可制じゃなくて、ある程度条件をそろえたら認めるという認可制に。  それから、やはり極端な言い方をしますと、例えばカンボジアあたりに行く場合に、三年間か五年間行ってくれば十分できてくるというようなときに、法人格があるとないとでは非常に動きが違いますし、企業の方も寄附がしやすいかしやすくないかという問題が出てきます。そういった場合、例えて言えば、時限立法的に五年間だけ法人格を認めるというようなことがあってもいいんじゃないか。  このフィランソロピーセクターの育成という点から考えていった場合に、法人の許認可問題それから税制問題、この二つの問題は避けて通れない問題だろうと思いますので、いずれこれはまた先生方に御検討いただきたいというふうに思っております。  こういった形で、国民一人一人が社会参加して、自分たちが社会をつくっていくんだという考え方、この考え方が今ありませんから、日本は権利意識は持っているけれども義務感がない、社会参加意識がないという意味で、日本は民主主義国家ではないんだというふうに私は今考えております。  そういう意味で、こういった社会貢献問題を通じて国民の社会参加を促して、日本を本当の民主主義国家にしていくということがこれから国際化社会に出ていく日本にとって非常に重要なことであるというふうに考えております。  以上です。
  40. 櫻井規順

    会長櫻井規順君) どうもありがとうございました。  次に、竹中参考人からお願いいたします。
  41. 竹中誉

    参考人竹中誉君) ただいま御紹介をいただきました日本IBMの竹中でございます。  本日は、このような大変立派な場で弊社の社会貢献活動の事例を御紹介申し上げる機会を賜りまして、まことにありがとうございます。  本題に入ります前に、ちょっと数分お時間をいただきまして、日本IBMという会社の概要について御紹介をさせていただきたいと思います。  日本IBM、設立は一九三七年六月十七日でございまして、コンピューター等情報処理機器及びサービスの研究開発、製造販売を日本において行っている会社でございます。資本金は千三百五十三億円でございまして、米国資本でございます。社員数は現在約二万二千名、会長は椎名武雄と申します。社長は北城恪太郎という人間でございます。私どもの事業年度は暦年でございまして一月から十二月でございますが、昨年度の売り上げは一兆一千五百七十八億円でございまして、事業環境の厳しさ等ございまして史上初の二百八十五億円の赤字を計上いたしました。  以上が弊社の概要でございますが、我が国におきまして企業の社会的貢献という課題が大変社会の注目を集めまして、今お話がございましたように、経団連一%クラブの活動の開始でございますとか、企業メセナ協議会の設立てございますとか、あるいはまた各企業別に社会文化活動支援のための専門部署の新設といったような産業、企業の動きが非常に活発になってまいりましたのが一九九〇年ごろからであったというふうに認識をしております。  この背景としましては、企業の存在意義が、よりよい製品、サービスを市場に提供することを通じまして適正な利潤を上げて税金を納めることであるというふうな伝統的な考え方がいろいろな社会の変化の中で通用しなくなってきたということであろうというふうに考えております。このような環境の中で私ども日本IBMも、大変ささやかではございますが一応まじめな努力を社会貢献活動分野において行ってきたというふうに考えているわけでございます。  一九九〇年ごろ以降、企業の社会貢献活動がマスコミも含めまして世間の高い関心を集めました状況の中で、弊社は随分数多くのマスコミのインタビューでございますとか、またいろいろの場で私どもの活動の事例報告をさせていただく機会をいただきました。厚生白書の平成三年版でございますとか、あるいは一九九一年に出されました経済同友会の「「多元価値経営」への転換」という提言書がございますが、このような中で大変すぐれた社会貢献活動の実例として幾つかの会社が紹介をされたわけでございますが、我田引水的でございますが、私どももその一例として紹介をいただいたわけでございます。  このような環境の動きの中で、一企業といたしましてこういった紹介の御依頼をいただくということは大変うれしいことでございますし、基本的には積極的に対応をしてまいりました。私自身も日本IBMの実績に自信と誇りを持って参画してきたつもりでございます。  そういった中で、私どもそういったことを積極的にやっているけれども、何となく日本の大企業の多くは社会貢献活動にほとんど余り関心がないんじゃないかというふうな感じを勝手に持っておりました。  しかしながら、しばらくこういったマスコミの方々とインタビューしましたり、いろいろ議論をしましたり、またいろいろなところにお招きをいただきまして実例報告なんかをいたしましたり、またこの分野の我が国の実態につきましてささやかながら勉強いたしますうちに、これが私の大変大きな誤解であるということを認識いたしました。社会貢献活動をまじめにやっておられる日本企業がかなりいるんだなという実情を認識したわけでございます。  例えば、地域の学校の校舎の建設への支援でございますとか、あるいは町や村等の地域社会への寄附、町をきれいにする運動への参画、お年寄りのための特別のプログラムというふうな活動が結構たくさん行われているわけでございます。このような活動の背景には、昔から言われます情けは人のためならずというふうな我が国の伝統的な価値観が企業組織の中に根強く生きているんだなということを実感いたしたわけであります。  それでは、私ども日本IBMでございますとかあるいは富士ゼロックスさんでございますとか、外資系企業が社会貢献活動のよい例として引き合いに出されることがなぜこんなに多いのかということなのでございますが、すべて詳細に調査検討したわけではございませんので一実務家としての判断でございますが、日本企業と我々のような比較的大規模な外資系企業とを比べてみまして最も大きな違いの一つは、それぞれの企業の持っております考え方あるいは制度のわかりやすさの違いではないかというふうに考えるわけであります。社会貢献活動分野だけではございませんし、またそれぞれのやり方にはそれぞれの妥当性があると思いますので、事のよしあしの価値判断は別問題でございますが、一般的に言いましてわかりやすさという切り口で物を見ました場合に、日本企業の慣行、制度というのは非常にわかりにくいという面を持っている、それがこの社会貢献活動の分野においてもあらわれているんじゃないかという感じが非常に強うございます。  釈迦に説法でございますが、我生日本人一般の考え方としましては、やはり人間というのは大体皆同じような価値観を持っていまして、考え方もまあそんなに大きく変わらない。以心伝心というのが最善のコミュニケーションであるというふうな感じもございますし、黙っていてもよいことをやっていれば世間はわかってくれるというふうな陰徳的発想もあると思うわけであります。  一方、欧米、特にアメリカに強いかと思うのでございますが、の考え方は、人間というのは一人一人が違うんだ、歴史、文化はもちろん多様でございますし、そういった中で育った人間の価値観、考え方、意見が違うのが当然であるという前提でいろいろなものを構築してきていると思います。  私どものIBMを例にとって御紹介させていただきますと、現在世界約百三十カ国で事業活動を行わせていただいているわけでございますが、人種、民族、言語、文化、歴史等々大変多種多様でございます。そういったさまざまな価値観を持って、さまざまな考え方を持っているさまざまな国の人たちにIBMというものがどういう考え方、どういう理念、理想を持っておって、またその理念を実践していくために、この理念を空念仏に終わらせないためにどのような仕組みをつくっているのか、またその仕組みに基づいて具体的に何をやっているのかというふうなことをみんなに理解してもらうということを念頭に置きまして、会社の考え方、行動等を整理して構築をしているというのが実態だと思うのでございます。以心伝心というのとはやはり発想が全く違う、事のよしあしは、繰り返しになりますが別でございますが、違うことは確かでございます。  そういった観点でこの社会貢献活動というものを見ました場合に、企業の社会的貢献活動の具体的内容もさることながら、自分たちの考え方や具体的な行動をできる限り第三者にわかりやすくする、透明性を向上させるということが国際化環境が進行する中でますます求められていることではないかというふうに考える次第でございます。そういった観点から弊社の例も一例として御参考に供し得るのではないかというふうに考えるわけでございます。  日本IBMの社会貢献活動の実情につきまして次に若干御説明をさせていただきたいと思いますが、基本的な考え方は、親会社IBMの創立者でございますT・J・ワトソン・シニアという男がおりまして、よく日本の松下幸之助さんに非常に価値観、哲学が似ているという話が出る人物でございますが、大変経営上の天才であったというふうな感じがいたします。一九三五年の時点で既に、企業は社会全般に対する義務を持っているということをみずからの経営哲学として表明をいたしました。日本IBMもこのIBM全体の一員といたしまして、私どもの経営理念の一つに、顧客、社員、株主というふうな方たちへの責任に加えまして、よき企業市民たるべしということを経営理念の一つとして明記をしているわけでございます。  これを経営理念の一つとして明記をしているわけでございますが、この理念を紙に書きまして壁に張っておくだけでは何も起こらないわけでございまして、この理念を具現化するためにどのようなことをやっているかということを次に御説明させていただきたいと思います。  このよき企業市民たるべしという経営理念を具現化するために、まず、毎年税引き前利益の一%から二%を社会貢献活動に使うということを経営の指針として決めております。これがまず第一点でございます。  それから次に、この一%から二%の社会貢献活動費用を実際に実行していくために企業の中に組織をつくりまして、社会貢献担当部門というのを一九七四年以来設置をしております。現在は、取締役が長としてその任に当たっておりますが、この社会貢献担当部門担当の取締役の責任は、日本IBMとしてどれだけ立派な社会貢献活動を企画、立案、実施したかということでございまして、彼の給与、報酬はその評価によって決まる、すなわちどれだけ立派な社会貢献活動を実現したかということによって決まる、こういう仕組みをつくっているわけであります。  同時に、全社の寄附貢献活動を検討するという観点で寄附委員会というものを設置いたしまして、役員クラス八名から成る委員会でございまして、私が現在委員長をやっているわけでございますが、毎月寄附案件を審査いたしましてこれを実施していくということでございます。  それから第三に、毎年会社といたしましては、売り上げ、利益、投資、人員というふうな経営計画を樹立いたしまして事業活動を行うわけでございますが、当然のことでございますが、この社会貢献担当部門から出てまいりました企画をもとにいたしまして、毎年毎年の社会貢献活動をこの経営計画の中に組み込むことによりまして実施に移していくという形をとっております。すなわち、まず理念がありまして、理念を具現化するための経営指針としまして税引き前利益の一、二%をこれに充てるということを決めまして、その決められた範囲におきましてそれを着実に実行していくための組織をつくりまして、責任者を配置いたしまして、その部門が責任を持って経営計画の中にこれを盛り込んでいくという対応を行っているわけでございます。  先ほど申し上げましたように、約百三十カ国で事業活動を行っておりまして、社会貢献活動というのが共通の理念でございますが、どのような社会貢献活動を行っていくかということは、それぞれの国の社会事情、経済事情、政治事情等によって判断が異なってまいりますのでそれは各国に任されておりますが、どの国においてもこの四つの原則だけは守ってもらいたいというのがございます。  それはお手元のレジュメにも入っておりますが、IBMの社会貢献活動に関するガイドラインというものでございます。IBMの営業活動に直接関係しないものでなければならない、見返りの経済効果を期待しないものでなければならない、特定の個人の利益にかかわらないものでなければならない、それから政治活動、宗教活動と関係のないものでなければならないというこの四つのガイドラインを基礎といたしまして、この原則だけは守ってください、それの範囲内においてはそれぞれの国の事情によって各国のIBMが実施をしているわけであります。  日本IBMとしましては、こういった理念、組織、システムを持ちまして、原則に基づきまして過去二十年ほど重点的に三つの分野に及んでこの社会貢献活動というのを実施してまいりました。その三つと申しますのは、一つは身障者福祉でございます。二つ目は難病医療研究の援助でございます。三つ目が科学技術の振興という分野でございます。それから、最近ここ数年新しい分野といたしまして国際交流の促進、これはアジアから参っております留学生の方に生活、研究の資金援助を行うというものでございますが、そういったもの。それから、環境保全の面というふうな分野を重点領域としてやっております。  身障者福祉は、大変重点的にやっておりますのが目の不自由な方々に対する施策でございまして、盲導犬の寄附でございますとか、あるいはウエルフェアコンサートと申しまして、音楽グループがいろいろな施設を訪問いたしまして団らんのひとときをつくるとかというふうなことでございます。  一番大きいのは点訳広場というものでございまして、目の不自由な方が本をあるいはいろいろな読み物をお読みになるときに使われる点字というものでございますが、コンピューターの技術を使いまして点字本をつくるという技術を数年前に開発いたしました。全国に約千五百台のパソコンを配置いたしまして、ボランティアの方々の協力を得まして、小説でございますとかラジオのテキストでございますとかいろいろな読み物の点訳を行っております。ネットワークでつながっておりますので、北海道で作成をされました点訳本が一気に沖縄でとれるというふうな環境が、一九八八年から始めまして今日やっと完成をいたしました。大変この対象者の方々に喜んでいただいているというふうなことでございます。  こういった活動を二十年来やってまいりまして、数年前からこれは一つの会社のプログラムとしてやってまいったわけでございますが、社員の参画を奨励するということをやろうということで、先ほどお話のございましたボランティアサービス休暇・休職制度というものを一九九一年に導入いたしました。  休暇の方は、年間十二日間の特別有給休暇、通常の有給休暇にプラスするものでございますが、十二日間の特別有給休暇を与えるというものでございます。身障者施設に参りましたり、あるいは高齢者の施設に参りましたり、いろいろな活動があるわけでございますが、おかげさまで九一年には十三件、九二年には二十三件、九三年には四十六件というふうに参加する社員の数が着実にふえてまいっております。  それから、ボランティアサービス休職の方でございますが、これは原則一年、最高二年までの有給休職でございます。これも一九九一年から実施したものでございますが、現在は七名の者が青年海外協力隊というふうなことで、中国でございますとかブータンでございますとかフィリピンでございますとかというふうなところに出てまいったりしておりまして、これまでの累計で十四名の社員がこれに参加をしております。  それから、この二つは専ら時間面でございますが、金銭面でボランティア活動支援プログラムというものを同じく九一年から実施をいたしました。これは、社員あるいは社員の配偶者あるいは定年退職者が社会のいろいろな施設に参りましていろいろなサービスをやっておる、自分が活動をしている施設の中に何か必要な物品がある、あれば大変助かるというふうな申請がありました場合に、百万円を限度といたしまして実際にそういった活動をやっている社員に付与しまして、その社員がその範囲内でこの施設に寄附を行うというものでございます。こちらは同じく九一年からでございますが、九一年四十件、九二年二十三件、九三年二十一件というふうな状態で推移をしております。こういった活動を通じまして大変大きな価値観の変化が幅広く起こっているなということを痛感しております。まだまだこれからという面も大いにあるかと思いますが、そこに新しい息吹が感じられるという印象でございます。  こういった考え方に基づきまして、IBMあるいは日本IBMが社会貢献活動というものを実施してまいりました。情報産業は大変順調に伸びてまいったわけでございますが、ここ数年来大変革に見舞われておりまして、IBM全体としましては、昨年、一昨年、いずれも赤字決算でございました。日本IBMも、先ほど申し上げましたように残念ながら昨年は赤字決算でございました。情報産業の将来自体は大変大きな可能性を持っていると思っておりますが、現在の大変な変革期の中で大変厳しい状況に直面をしております。いろいろな面で経費カット等を実施しておりますが、私どもとしましては、この企業理念として掲げました社会貢献活動は何とかして継続をしてまいりたい。  先ほど税引き前利益の一、二%がめどだと、こういうふうに申し上げたわけですが、これはあくまでもめどでございまして、この数字自体を理念として考える一つのめどとして考えておりまして、赤字になったからなしというふうなことは決して考えておりません。IBM全体として見ましても昨年も一昨年も百億円を超える社会貢献活動を実施しておりますし、また日本IBMも過去三年間、去年も含めまして約十億円の社会貢献活動を実施しているわけでございます。  これからの企業の競争、企業の評価というのは、単にお客さまあるいは市場ということではなくて、対社員、対社会、対株主といった総合的な局面を含めたものになるというふうに考えておりまして、私どもとしてはバランスのとれた努力を今後も続けてまいりたい。  日本人が日本人同士で日本人のために築いてきましたこの大変すばらしい社会を新しい環境のもとで再構築する時代に入ってきているんじゃないかというふうに考えておりまして、そういった中で企業が果たせる役割ということを十分に認識いたしましてこの社会貢献活動を推進してまいりたいというふうに考えております。  やはりその中で一番重要な要素は、トップマネジメントのリーダーシップと、それからこの社会貢献活動を基本的な経営理念として定着させるという物の考え方ではなかろうかというふうに考えておりまして、そこから後のものは自然にある意味ではついてくるんじゃないかというふうに考えている次第でございます。  以上で私どもの事例紹介にかえさせていただきます。ありがとうございました。
  42. 櫻井規順

    会長櫻井規順君) どうもありがとうございました。  次に、松岡参考人からお願いいたします。
  43. 松岡紀雄

    参考人松岡紀雄君) お手元にお配りいたしております資料に沿いまして御報告させていただきます。  社会の中に企業が存在した場合、その企業に対して社会人々が一体何を期待するかというのは実は国や地域によって違います。それからまた、同じ国、地域でも時代とともに大きく変化しております。最近の十年間あるいは二十年間のアメリカにおける変化、これは注目に値すると思います。  今、アメリカに日系の製造工場というのは約千七百出ていると言われておりますが、その多くは御承知のように現地社会からいわばぜひ来てほしいというお誘いを受け、大変期待され歓迎されて出ていったわけでございます。  なぜ現地社会日本の企業を歓迎したかという最大の理由は、失業が多い中で雇用を生み出してくれるということでございました。もちろん、事業ですから何年かすれば利益を上げてくれる、そうすれば税金も納めてくれる、あるいは現地で部品その他の調達をしてくれるだろうという期待がございました。それからまた、雇用された現地の人たちもやがて幹部として登用されるだろう、そういう期待もございました。一方、別の面では、例えば環境などは汚染してもらっては困る、そういうふうな要望、期待というものがありました。  今申し上げた期待というのは、実はこれは本業に関することであります。本来の事業活動に関することですが、先ほどここ十年、二十年のアメリカにおける大きな変化と申しましたのは、そうした本業以外に、地域社会に対して寄附やあるいはボランティア活動という形で役割を果たしてほしいという期待が非常に高まってきたわけでございます。これが先ほど来お話の企業市民とかあるいは企業フィランソロピーという言葉であらわされていることでございます。問題は、アメリカにおいてここ十年、二十年の間にどうして変化が起こったのかということを先生方にぜひ御理解をいただきたいわけです。  よくマスコミなどでも、それはアメリカ社会の伝統であるという言い方を見かけますが、私ははっきり言って間違っていると思います。アメリカ社会の伝統ではありません。先ほど田中参考人お話にもございましたように、むしろアメリカにおいて、社会に寄附とかボランティアとして貢献するのはあくまで個人の判断、個人の意思に基づくものであって、そこに企業が介入するということはむしろすべきでないというのがアメリカの伝統だったわけです。ところが、そのアメリカの伝統がどうして変わったかということです。  私は、その第一番目の理由は、アメリカ社会の三重苦だと思います。三重苦という言い方は私が名づけたわけですが、それは、私自身がここ七、八年の間に百五十以上のアメリカの企業を実際に訪ね、アメリカ企業のそうした担当者、経営者の方々と意見交換をした結果の私の認識でございます。  三重苦とは何か。まず第一に麻薬問題であります。二番目が公立の初等中等学校の荒廃でございます。三つ目が貧困問題でございます。  時間がありませんのでこの三点について詳しくお話しすることはできませんが、お手元にお配りしております資料の最初のページをめくっていただきまして、一と打ってあるページをごらんいただきたいと思います。これは私の著書の中に翻訳して紹介してあるものですが、「アメリカの子供たちのある一日」という資料がございます。  それによりますと、十三歳から十九歳までの、いわば女子中高校生と言ってもいい年代の妊娠が毎日二千七百九十五件と報告されております。また、真ん中あたりに十三万五千とありますが、けん銃を持って登校する子供たちの数が毎日十三万五千人だと報告されております。最近のロサンゼルスの事件その他で御注目だと思いますが、私は日本のマスコミを通じても、アメリカのそうした実態、悩みというのが日本において余りにも知られていない、理解されていないというふうに申し上げなければなりません。  初等中等教育の荒廃については、一つだけお見せさせていただきたい。(資料を示す)これは雑誌の表紙でございまして、表紙に三〇%と大きく書いてあります。何が三〇%かと申しますと、あなた方の従業員でこの表紙の英語が読めない人たちが三〇%職場にいるんだと、それが企業の大変なコスト高につながっていると。この雑誌だれが出したのか。全米商工会議所の機関誌でございます。  貧風について申し上げますと、アメリカ政府の公式の統計が出ております。これは最新のアメリカ政府の統計集でございます。商務省から出ております。これによりますと、今アメリカで最低生活水準以下の国民が幾らいるかという数字が発表されておりますが、三千五百七十万八千人と発表されております。全国民の一四・二%でございます。  ここまで申し上げても皆様方、アメリカのことだから水準が高いんだろうと思われるかもしれませんが、四人家族で年収が一万三千九百二十四ドル、現在の為替レートにして百五十万円ございません。それでそうした実態。日米関係がこれだけ親しいと言いながら、日本でこうした事実について一体どれだけの方が御認識なのか。また、ロサンゼルスの暴動の直後に、私がアメリカ旅行しておりましたときにニュースで話題になっていたのは、ロサンゼルス一帯だけで毎晩貧しいがゆえに晩御飯を食べないで寝ている人たちが六万八千人いると報告されているわけでございます。  こうしたアメリカ社会の三重苦からどういうふうになったかといいますと、七〇年代末から八〇年代にかけて、このままいったら日本にやられてしまう、アメリカのこうした社会の根本を立て直さないといけない、とりわけ公立の小中高の教育を立て直さない限り日本にやられてしまうという認識です。  二番目、何が問題かと申しますと、背景は何かと申しますと、そうした問題が仮に日本であったとしたら、それは文部省の責任であり、警察の責任であり、厚生省の責任であると言われると思います。ところが、そもそもアメリカという国はボランティア活動によってでき上がった国です。政府に任せたらろくなことはない。これはだれの言葉がというと、レーガン大統領の言葉なんです。政府に任せば必ず不正が起こる、むだが起こる、政府に任せちゃいけない。それとプルーラリズムという言葉がございます。何かの権限、例えば教育なら教育ごと文部省にすべての権限を与えると必ずおかしくなると思います。一カ所に権限を集中してはならないんだというのがアメリカの信念で、そうした信念から見ると、日本という国がアメリカとしては最も許せない仕組みの国だと、フランスもそのように見えるようでございます。  そこで、問題は何かということで、お手元の資料のその次のページをごらんいただきたいんですが、これは私がかねてから御理解いただくために書いている図なんですけれども、真ん中に社会問題あるいは社会課題があったとします。それにだれが取り組むのか。先ほど申し上げましたように、日本では政府が取り組むんだと。じゃ、一般国民は何をしているのかというと、税金を納めているわけです。一人一人は会社人間になっているわけです。企業も事業に専念する。そのかわり実は税金はたっぷり払っているわけでございます。  ところがアメリカは、そうした社会仕組みはそもそもよくないんだと。伝統からいっても、政府ができる前に民間の非営利団体というものが社会の中で大きな役割を教育、文化、福祉、すべての面でしてきたわけです。政府の足りないところを補うのではないんです。政府より先に取り組む権利を持っていたわけです。そうした考え方です。民間の非営利団体はお金がありません。だれかの支援を得なければなりません。それをだれが支援するのか。もちろん、政府の補助金ということもあったわけですが、主役はむしろ個人の寄附だったわけです。日本で寄附と申しますと、一般の方々も有名な、例えばIBMさんのような企業がするものだという理解をしているわけですが、アメリカは根本的に違います。  三ページ目の資料、円グラフをごらんいただきたいと思います。  一九九二年のアメリカにおける寄附というのは千二百四十三億一千万ドル、これは連邦の歳入予算の一一%という莫大な金額であります。恐らく、日本の福祉予算を上回っていると思います。ところが、先生方に御理解いただきたいのは、この寄附を一体だれがしているのかということなんです。実は、ほぼ九〇%は遺産の贈与を含めた個人がしているわけです。企業の寄附というのは全体の四・八%しかございません。その点をくれぐれも御理解いただきたいと思います。寄附というのは個人がするものだという考え方がアメリカでは定着しているわけです。その民間の非営利団体が社会の教育、文化、福祉のさまざまな役割を持つ。  ところが、ここに大きな変化が一九八〇年代に起こりました。レーガン大統領の登場です。八一年にレーガン大統領が登場して、小さな政府だということで政府の補助金を大きくカットいたしました。そこで、それにかわるものを民間のそうした機関は企業に求めるようになった。企業としても、このままほうっておいたらアメリカにおいて事業活動ができなくなる。つまり、従業員を採用しようとしても読み書きもできない。  トヨタ自動車の子会社がアメリカで事業をしておられる。ついこの間まで社長をしておられた方のお話を先日伺いましたけれども、その工場において品質管理のためにいわゆるQCサークルを開きたいということで高卒の十名、優秀そうな人を集めて、五・二、五・三、五・四、五・五、五・六と数字を与えて、はい、この平均はと、そしたら一体何人できたか、正解者はゼロだったということであります。一番それらしい答えが全部を足していたというんです。じゃ、高卒ではだめかということで大卒の五人を集めて同じ質問を出した。もう一度正解者はゼロだったというふうな、これはついせんだってトヨタ自動車の子会社の社長を五年間務めて帰ってこられた方から伺った話でございます。みんながみんなというわけではありません。しかし、そうした厳しい状況に置かれている。それに対して、企業が本業に徹していたのではあすのアメリカ企業はないという大変な危機感を持っているということです。  したがいまして、アメリカの企業のいわゆる社会貢献、社会貢献という言葉自体私は著書の中でも嫌いだと書いております。社会貢献なんという生易しいものではない、自分たちがあすこの社会存在できるかどうかということをかけた活動だ、市民としての責任感に基づいた活動だ、そういう認識であります。イメージアップなどという生易しいものではないということを御理解いただきたい。  では、具体的にどういう活動をしているか。まず一つは、やはり企業寄附ということがあります。企業寄附に関して申し上げますと、今アメリカ企業は、先ほどIBMさんのお話がありましたが、全米平均では税引き前利益の一・六一%の寄附を行っている、これが全米企業の平均だと言われております。もちろん、中には五%クラブ、二%クラブとありまして、税引き前利益の五%あるいは七・五%の寄附をしているという企業がありますが、大企業の場合はやはり一%前後というのが平均的な数字でございます。この点に関して、そうはいってもやはり日本の企業よりも多いということは事実でありますが、先生方にひとつ御理解いただきたいのは、お手元にお配りしております資料の七ページをごらんいただきたいんです。一これが先進国における企業の実質的な税負担を最近の数字を見て比べてみますと、日本の企業は実質的には税引き前利益の四八・八%を税金として納めております。それに対してアメリカは、州によって異なりますが、カリフォルニア州では三一・九%であります。この差は約一七ポイント、税引き前利益の約一七%あります。ということはどういうことかというと、アメリカ企業が寛大に寄附をしていると言われている寄附の十借の額を日本の企業は黙って余計に政府に税金として納めている。政府の方々、政治家の方々はよほどその責任を認識していただかなきゃ困る。よく日本の企業は寄附が足りないからけしからぬと言われる政治家の方がおられるが、私が直ちにかみつくのはそういう理由であります。  次に、赤字企業はどうするのかという問題がありますが、アメリカの場合、従業員による寄附ということが行われる。日本では想像もできないでしょうけれども、アメリカの企業では当たり前のように、毎年秋に職場で従業員の募金活動というのを行います。それに基づいて、多くの場合給与天引きで給与から引かれている。そして、会社でまとめて、あるところあるいは幾つかのところに寄附する。恐らく日本では信じられないようなことがアメリカでは常識として行われております。  その中心になっているのがユナイテッドウェイということで、日本語に訳すれば中央募金会、これは百年以上の歴史を持って、各地に独立して千九百ばかりございます。その団体でございます。そこが地域のそうした企業、職場で集めた募金を集めて、それをもって地域の福祉活動に寄附をすると、そういう動きでございます。  ちなみに、こちらにいらっしゃるアメリカのIBMさんでは、数年前のことですけれども、従業員募金だけで年間に四十三億円集まっているという、これも日本では信じがたいようなことが起こっております。  そうしたお金の寄附だけでは先ほど来申し上げたアメリカ社会の困難を乗り越えることができない、一向に効果が上がらないという悩みをアメリカは持ってまいりました。八〇年代の後半です。そこで出てきたのが、従業員をボランティア活動としてそうした社会の三重苦に当たらせるということです。その典型的なものが何かというと、アダプト・ア・スクールという、これも日本では信じられないような仕組みであります。アダプトというのは何かというと、養子にするという意味です。ア・スクールですから学校を養子にする。つまり、職場が地域の公立の学校と養子縁組を結ぶというのが現在アメリカで十四万組ございます。  例えば、ホワイトハウスもワシントンDCの黒人の多い小学校と養子縁組を結んでいる。ホワイトハウスの職員がボランティアとして出ていって、授業を教える。それはなぜかというと、英語の読み書きもできない、高校生になって何割も足し算、引き算ができない、そういうふうな状況に学校の先生だけでは足りないということで、企業の人たちが乗り出しているということであります。  これに対しては、実は日系企業も各地でそうした努力を現在しております。ハネウェルを私は訪ねましたけれども、ミネアポリスのハネウェルの本社、先生方は御想像いただけるでしょうか。あの世界に知られたハネウェルの本社のあの立派なビルの一階の一角が、今から三年前、私が訪ねたときは工事中でございました。何の工事かというと、それは妊娠をした女子中高校生三十名が九月から通える公立の学校として施設を提供するために学校に改造したわけです。そして、提供したわけです。  これはなぜかというと、その会長がたまたまそうした学校をよその州で見て大変感動しまして、自分の州に必要だということで、副知事さん初め皆さんをそこへもう一度連れていって見たわけです。人に言うよりもまず自分のところで実践しようということでされたわけでございます。  最近はやっているのは、アダプト・ア・ハイウエーということです。これは高速道路を養子にする。これからアメリカを御旅行なさったら、ハイウエーの右側を走りますから、ハイウエーの右手の土手を注意してぜひごらんいただきたい。各地にアダプテット・バイ・何とかという看板が出ております。それは何かというと、このハイウエーの一マイルもしくは二マイルごとに企業もしくはさまざまなグループが養子縁組をしているわけです。養子縁組ということは、その地域が結局財政難で、州当局がそうした整備も十分にできない。そうしたら、企業や民間のグループがその一マイル、二マイルを自分たちで引き受けました。花壇をつくったり木を植えたり掃除をしたり、そういうふうなのを引き受けましょうということです。  先々週、私はワシントンにおりましたが、ワシントンではそれがアダプト・ア・ブロックです。ブロックというのは通りから通りまでの一区画をブロックと言います。そのブロックごとに地域の企業が養子縁組をして、その掃除を引き受けました。そういうふうな活動が全米で展開されています。  次の識字活動、これはいわゆる英語の読み書きをできない子供たちが多い、というよりもむしろ大人が多いわけです。それに対して企業が乗り出しております。雑誌社のタイムが何と言っているかというと、この識字、文字を読み書きできないということがアメリカの時限爆弾だと言っております。つまり、まだ爆発していないんだけれども、将来いつか爆発してアメリカが壊れてしまう、その時限爆弾になっているということです。例えば、日本のトヨタ自動車等が現地で最も力を入れているのはこの識字運動であります。  それから、託児所の問題があります。アメリカではゼロ歳児を持つ母親の半分以上が外で仕事をしていると言われております。そういう中で、子供を安心して預けられる託児所がないというのが大きな悩みであります。それに対して企業がさまざまな努力をしております。例えば、IBMのように地域の託児所に寄附をして、そして設備を充実してもらう、それで従業員の子供を預かってもらおうという考え方のところもあります。例えばジョンソン・アンド・ジョンソンなどという製薬会社は、私も訪ねましたけれども、本社、工場の敷地の中に大変立派な託児所と幼児教育を兼ねた施設を設けている、そういうふうな努力をしております。  それから、先々遅参りましたボストンでは、ストライド・ライトという子供用の運動靴をつくっている会社ですが、ここは、子供たちと老人とを分けるのはよくない。今会社で働いている人たちにとっては、朝子供を託児所に預けて、そしてお年寄りは老人ホームに預ける、それは期しなきゃならない。それだったら、同じところにあった方がいいでしょうという考え方。それから、子供たちにとっても老人と接することが教育上非常にいいという最近の教育心理学的な考え方から、本社ビルの五階の半分を託児所兼老人ホームに改造をいたしました。そうしたことを社会貢献活動の一つとして取り組んでいる、そういう例がございます。  ミールス・オン・ウイールズ、福祉関係の先生方はよくご存じだと思いますが、車に乗った食事という意味ですが、例えばこれは3Mという会社で、三百人ばかりの従業員の方が登録をいたしまして、毎日ではありませんけれども、交代で二人の従業員がコミュニティーセンターで温かいお弁当を六人分預かりまして、それをお昼休みの時間にお年寄りに、いわば閉じこもったきりの買い物もできないというふうなお年寄りに配って回る。これは、実は日本でも最近そうした運動が始まりましたけれども、企業の方々がボランティア活動として展開している。  デトロイトでは、老人、障害者の方々の家のペンキ塗りをフォード自動車その他の企業の従業員の方が土曜日に総出で応援してやる、そういうふうな活動も出ております。  エイズ感染者に関する支援では、リーバイ・ストラウス、これは会長ハースさんの発想で、エイズに感染しても首にすることはもちろんしない、最後まで、働ける限り働くように場所を提供しましょう。それから、もう治らないわけですから、最後まで医療費も面倒見ましょう。そればかりでなく、他社の経営者に対しても同じようにしましょうという訴えをしておられますが、このリーバイ・ストラウスがエイズ問題に関して日本においてもリーダーシップを発揮していただいていることは御承知のとおりでございます。  あと、時間の関係がありますので割愛させていただきますが、ADAというのは、先生方御存じだと思いますけれども、九〇年七月二十六日にアメリカで成立いたしました障害を持つアメリカ人法というふうに訳されているいわゆる障害者保護に関する法律ですが、これは障害者保護ではありません。障害者の当然の権利をちゃんと認めよう、そういう環境を整備しようという法律です。単に雇用するだけじゃなくして、その人たちがちゃんと昇進できるようにきちんと働ける環境を提供しよう、その人たちが職場に通えるような交通機関の整備をきちんとやりましょうということです。  先ほど来のアメリカの悲惨な話からは御想像がつかないかもしれませんが、全米の路線バスの半分以上が車いすの方が一人で乗りおりできる設備を持っている。ニューヨークに至っては九八%以上だという数字は、ニューヨークに住んでいた私も信じられない思いなんですが、日本としてはよほど深刻に受けとめてみなければならない数字だというふうに私は感じております。  専らアメリカのことを申し上げましたけれども、アメリカ企業のそうした動きが実は諸外国に今大きな影響を与えております。フォードあるいはIBM、GM、リーバイ・ストラウス、そうした企業が諸外国に出てアメリカにおけるそうした実践行動を海外にも移そう、日本もそうですけれども、そうしたことがヨーロッパにも大きな影響を与えているというのが現在の姿かと思います。  最後に、日本として何を考えるべきかということですが、やはり国民のボランティア精神の育成ということについてさまざまな角度から考えなければならない。  今、専ら企業の姿勢を申し上げましたけれども、アメリカに出ていったときに、あるいは諸外国に出ていったときに一番問われるのは駐在員及びその家族の姿勢であります。特にアメリカにおいては、公立学校あるいは私立学校もそうですけれども、学校教育というのはいわば父母が力を寄せ合ってつくり上げるという考え方をしております。そうした中で、日本人がややもすれば日本の習慣でお金だけ払ったら全部預けっ放しという姿勢、これはアメリカでは絶対許されないということであります。  アメリカでは、十八歳以上の成人の五一%が一人平均年間約二百二十時間のボランティア活動をしているという統計が出ております。しかも、これは社会的に地位が高い方ほど多くのボランティア活動をしているという統計が出ております。  それ以上に注目しなければならないのは、十二歳から十七歳までの、日本で言えばまさに受験期の子供たちの六一%が週平均三・二時間のボランティア活動をしているという事実。その期間を日本ではただひたすら学校の勉強と塾に通わせている。こういう教育で国際貢献のできる人材、あるいは世界的に尊敬を受ける人材が育つわけがないというのが私の切実な思いであります。そのためにも、政府依存の国民の体質を変えるような一人一人の国民の善意、創意というものを生かすような社会仕組みというのを何とか考えていかなければならないというのが私の思いです。  先ほど寄附のお話を申し上げましたが、先生方にきょうぜひごらんいただきたいと思って私が持ってまいったものを最後にごらんいただきたい。(資料を示す)  これは何かというと、ちょうどかつての東京の電話帳のような大きなものが二冊。この中を開きますと、私は目が悪いですから虫眼鏡で見なければならないような小さな字で、アルファベット順にたくさんある団体の名前と住所が書いてあります。これは何の資料かと申しますと、アメリカにおいて、いわば日本の国税庁に相当するところから、ここに対する寄附は個人も企業も寄附金控除が受けられますよという団体の名簿です。これに相当する名簿が日本には長くなかったわけです。私は講演その他でその点を、日本は民主主義国でないのか、そうした団体があるにもかかわらず政府はどうしてちゃんとそのリストを発表してくれないのかと言ってまいりました。二年前ですか、それが発表されました。ごらんいただきたいのは、これなんです。  これはもちろん全部ではありませんで、社会福祉法人、学校法人その他あるんだけれども、いわゆる特定公益法人の大きなところはこれだけだと、八百幾らです。アメリカは幾らあるかというと、五十万以上ございます。これらに対する個人及び企業の寄附が寄附金控除の対象になる。日本で寄附金控除の問題も言いますと、それは寄附金の限度額の問題だというふうに大蔵省の方はおっしゃいます。私は、そこのところが根本的に間違っていると言い続けているんです。限度額の問題ではないんです。限度額はもちろんアメリカは多いです。アメリカは多いんですが、それ以上に、どこに対する寄附が税制上の寄附として認められるかというその点の違いなんです。  国民のそうした創意、善意、そうしたものを生かすような社会をつくる上で、この寄附金の仕組みをぜひ一度根本的にお考え直しいただきたい。その上で、先ほど私の図で申し上げた、日本は政府と企業だけで一般国民は会社人間になっているという、そういう社会をひとつ考え直すべきだと。  もう一つ社会の中にフィランソロピーセクター、あるいはアメリカでは最近インディペンデントセクターという言い方をいたしますけれども、いわゆる民間の非営利団体、それをぜひお考えいただきたい。なぜならば、アメリカ社会の魅力と言われるもの、もう具体的な例は申し上げませんけれども、皆様がもしアメリカのニューヨークにいらっしゃって、あそこへは訪問したいと言われるような博物館、美術館、これはことごとく政府がつくったもの、企業がつくったものではありません。いわゆる民間の非営利団体、皆さんの個人の寄附とボランティア活動で成り立った、それによってアメリカの魅力ができ上がっているんだということをぜひ一度見直していただきたいというのが私の思いでございます。  どうもありがとうございました。
  44. 櫻井規順

    会長櫻井規順君) どうもありがとうございました。  これより参考人に対する質疑に入ります。  自由質疑にいたしますので、質疑を希望される方は挙手をし、私の指名を待って御質疑をお願いいたします。  なお、質疑及び答弁とも御発言は着席のままで結構でございます。
  45. 関根則之

    ○関根則之君 田中先生、松岡先生もおっしゃったかと思うんですけれども、何か社会貢献というものがないような社会は民主国家じゃないんだというようなお話なんです。確かに社会貢献というものが必要であろうということはわかるんですけれども、それがあるかないかがストレートに民主主義の存在に関係するというのはちょっとよくわからないので、そこのところを少しわかるようにお教えをいただければありがたいと思います。  それから、一問ずつお願いをしたいと思うのですが、竹中先生、IBMは私もちょっと見せていただいたことがあるんですが、従業員に対する厚生施設とか、いわばフリンジベネフィットで大変手厚くおやりになっているんじゃないかと思いますけれども、組合はありましたか。このごろどういうふうになっているか。組合というか、従業員に対するいろんな勤務条件の点でちょっと変わった理念をお持ちだし、具体的なスケジュールも違っているんじゃないかと思うんですが、その辺の最近の考え方、もし差し支えなければお教えをいただければありがたいと思います。  それから松岡先生に、アメリカの社会が、政府にばかり頼らないで自分たちでボランティア活動なり地域社会のためにそれぞれ貢献をしていく、役割を果たしていくということ、大変結構なんですけれども、反面、それだけのことをやっている国民であるのにどうして小中学校が荒廃してしまうのであろうか。あるいは家庭が崩壊をし、先ほどお話しのような小さな子が妊娠をする、そういう事例が多くなってしまっている。要するに、一たん家庭なりなんなりから社会へともかく問題を出して、それを個人個人が社会問題としてボランティアを通じて対応策を講じていると。その辺のところがちょっとよくわからない。  それだけの公共的な精神を持ち、社会をよくしていこうというだけの情熱を持っている人たちがそろっているのであれば、まず他人のことを考える前に自分の子供のことを考え、自分の親のことを考え、家族のことを考えるんじゃないか。その辺のところはどういうふうに先生は御理解をいただいているのか、お教えをいただければありがたいと思います。
  46. 田中克人

    参考人田中克人君) 社会貢献がない社会は民主主義社会じゃないという、私の考えは、結局民主主義というのは権利と義務というものの両輪がうまく作動していくことによって可能だろうというふうに思っているんです。  例えば、戦後日本に民主主義というのが入ってきたときに、我々自身が食べるもの、着るもの、住む家もないという中で、権利意識というものは身についてきたと思いますけれども、いわゆる義務感、社会に対してとか周りの人に対してとかという義務感の部分が、果たしているゆとりがなかったということもあるかもしれませんが、義務感というものがやっぱり欠如してきたと思うんです。その部分を補ってきたのがやっぱり行政だというふうに思うんです。ですから、あらゆる問題を行政が肩がわりしてやってきた、それにおんぶにだっこで来てしまった。それが当たり前という感覚で今日まで来ていると思うんです。  一時、松戸市だったですか、すぐやる課というのができました。あのときはマスコミ含めてこれはいいことだというふうにはやし立てていましたけれども、私は本当にあのときにきわまれりと。自分の家の敷地の中で猫が死んだとか家の前の下水が詰まったとか、そういったものを電話一本で市役所の人が来て掃除をしたり片づけたりすることが本当に健全な社会なのか、それは当然自分たちでやるべきだし、あるいは地域としてやるような問題じゃないかと思うんです。  だからそういった意味で、あらゆるものを行政依存にしてきて、自分たちはその外にいるというようなことがもう習い性になってきている、その体質がやっぱり今日の日本人をつくっていると言ってもいいんだろうと思うんです。これは、国際的に日本人が批判される場合も恐らくそういったところに問題があるんだろうと。日本人は、経済的には力はついてきたけれども、そういった自分たちが汗を流してやるとかというところに欠けている。私は、そういったところをどうやって補っていくか、もう一度国民に義務感というものを植えつけ思い起こさせる方法の一つとしてこの社会貢献問題というのがあるんじゃないか。  社会貢献というのは、国民一人一人が社会に参加してそこの中で問題意識を持っていく、そこで自分たちが考えていくということです。例えて言えば、先ほど車いすの話をしましたけれども、あれは社会貢献だというふうに企業サイドでは言うかもしれませんが、私はその従業員が、車いすの人たちが階段を上れなくて困っているときに手を差し伸べないというその感覚では、やっぱり企業の社会貢献にはなっていない。  要するに義務感の欠如というのは、先ほど言いました企業の中で生活が自己完結しそうな状況もありますから、そういう意味では社会というものに対して触れなくてもいいというふうな面があるわけです。そういう意味で、企業の常識と社会の常識というのがやっぱりどんどんかけ離れてきていると思いますので、私は今その常識を一般のところに戻していく。そうした場合に、企業としては一人一人が社会参加していく機会を与えていく。そうすると、その人たち社会に参加したときにいろんな人と出会う、今まで会社の中で出会わなかった人たちと出会う。  例えば、高校時代の同級生で優秀だった男が今交通事故で障害を持っている、そして彼が本当に施設の中でもう埋もれてくさっている。だけれども、こういう人に車いすを与えたらもうちょっと活動できるんじゃないか。そういったことを会社に話として持ってきて、会社で話題になって出していくと、そういったようなことが必要なんだろうと。そして、その人がそういった人との交流を深めている中で、その施設がいかにももう古びている、何とかここを建て直すなり修繕をしてやりたいと。そうしたことを今度会社に話として持ち込んだときに、企業がそこまではできないということになると思うんです。それじゃどうしてやるんだ、どうするんだというところで初めて、その人が行政の問題とか福祉政策の問題とか国の問題というところにたどりついてくる。そこで初めて政治的な問題に目覚めてきて、初めて政治というものを自分の目で見る、肌で感じたものを問うてみるということができていくということです。そういったことでやっぱり社会参加していくわけですね。  そういったプロセスがありませんから、今、投票といっても行こうが行くまいがそれほど自分の生活に関係ないという状況の中で政治的無関心が出てきていると、その投票率が低いということも民主主義社会を損ねているということと、それから個人の意識の中にそういった自分の義務感というものが芽生えていないという意味で、やっぱり完全な意味の民主主義国家にはなっていないんじゃないかという意味で申し上げたわけです。
  47. 竹中誉

    参考人竹中誉君) 先生御指摘の変化がちょっと起こっておりますので、一九九二年までとその後に分けまして今の御指摘に答えさせていただきたいと思います。  IBMはアメリカで一九一四年に誕生いたしました。九二年まで終身雇用を守りまして、レイオフを一切やらないということを誇りにしておりまして、また、先生御指摘のように大変手厚い福利厚生を持っております。また、社内の人事もいわゆる外からのスカウトをやらない、全部中から偉くしていくんだというふうなこと。いろいろ原則を持っておりまして、私も十年ぐらい前に人事部長をやっておりましたときに、まるで日本の企業のやり方と同じじゃないか、こう言いましたら、いやそのとおりだと、ただ我々の方が先にやっているんだと、こう言っていましたけれども。そういったことでやってまいっておりまして、大変日本的なやり方だったと思います。  日本IBMもIBMの一員としまして、ボーナスなんというものは向こうにはありませんから、私どもは日本ではボーナス制度をとるとかというふうな日本的な調整はやりましたけれども、基本的な考え方としては、おかげさまで余り人間というものに対する考え方において彼我の差を感じずにやってこれたということがあったというのがこの間までの現状であります。  それから、そういった中で組合の面でございますが、日本IBMの中には組合はございます。ただ、オープンショップでございますので、出入り自由ということでございますので、ここ二十五、六年はもう入る人間がほとんどおりませんで、二万五千人の社員の中で組合員は、ちょっと正確な数字わかりませんが約二百名という現状であります。  それから、御存じのようにヨーロッパは国によって法律が違いますのでちょっと正確なところはわかりませんが、アメリカのIBMも組合員はおります。ただ、アメリカの労働法によりまして社員の過半数の信任を得ませんと会社との交渉代表権が出てまいりませんので、大多数の社員が組合を信任しない、自分たちの条件交渉代表者として信任しないという形でございますので、組合員はおるわけでございますが、会社として労働条件の交渉をしなきゃいかぬという組合はないという状態でずっとこれまでまいったわけであります。  先ほどちょっとお話をさせていただきましたように、数年前から情報産業が大変な変革が起きまして、エネルギーで言いますと石炭から石油に移ったというふうな感じの変化が情報産業の中で起こり良して、正直言いましてIBMは多少それに乗りおくれたわけでございます。そういったものに合わせて変化に対応していくために、大変大胆ないろいろな、人間の配置の変換でございますとか設備投資の変換というようなことをやってくる中で、大変残念ではございますがアメリカのIBMでは初めてレイオフを実施せざるを得なくなりましてやったわけでございます、日本IBMでは終身雇用を守り続けておりますが。  それからもう一つは、これもIBM創立以来初めて最高責任者を外部から連れてまいりました。これに伴いまして、幹部社員の何人かが外部から入ってまいりまして、これは私もIBM三十数年でございますが、大体トップ、社長、会長はもちろんでございますが、その次あたりでも外から人が入ってくるというのはIBMの歴史で初めてでございまして、今大変大きな変革期に直面しているというふうに認識しております。  ただ、雇用の安定というふうなものが、社員にとってはもちろんでございますが、企業にとっても大変大きなプラスがあるということは、これはもう親会社も含めまして十分認識しております。このレイオフは、泣いて馬謖を斬るといいますか、生き残るためにやむを得ないという決断でございますので、ここから先IBMの文化がどういうふうに動いていくかということは、ここ二、三年の間に経済環境を含めてどこまで我々が立ち直せるかということによりまして変わってくると思うんですが、基本的なところはそう変わらないことを期待しておりますし、大事なものは大事にしていきたいというふうに考えております。
  48. 松岡紀雄

    参考人松岡紀雄君) 二つ御質問いただいたと思います。  まず最初の社会貢献と民主主義国家云々の関係でございますが、これは何を民主主義国家と呼ぶかという定義によって答えというか理解は違ってくると思うんですが、私はむしろこういうふうに考えております。つまり、特に共産圏諸国の崩壊以来、自由経済と民主主義体制、これがいわばこの世の中の最高の仕組みであるように一般に理解されているかと思うんですが、私はこの二つには致命的な欠点、欠陥があるというふうに考えております。  それはどういうことかと申しますと、社会において非常に重要なことはたくさんある。考え方としては、自由経済なんだから自由にやればいいじゃないか、やれるんだよということなんですが、実はそれはお金があればという話です。お金があれば自由にやれますという話です。お金がない場合にはやれないわけです。  そうすると、お金がないんだけれども、これは社会としてやらなければならない非常に重要なことだという場合、原則としては民主主義国家ですから、それこそ国会でそうしたものが審議されて、法律で決められて、そして政府が行うということが理屈なんですが、私もきのうラジオで国会中継を聞いておりましたが、国会が重要なことを審議してくれているとは民主主義国家において到底思えない。これは日本のみならずどの国をとってもそういうことなんです。国にとって最大に重要なことというのは国会で、一体どこでどうされているのか、少なくとも一般国民からは全くわからない。  先ほど来申し上げておりますフィランソロピーセクターとかあるいはアメリカで言うところの第三セクターあるいはインディペンデンスセクター、民間の非営利団体の活動というのは、実はその自由経済体制と民主主義体制の欠陥を補う役割を持っているんだ、それが私の認識でございます。  そこで次の問題なんですが、では、そうして立派な活動を、ボランティアその他をしているアメリカにおいて、なぜ一方でそのように悲惨な社会問題があるんだということですけれども、これは歴史的な経緯を考えなければなりません。一つは、やはりアメリカの歴史から見れば、黒人の人たちがついこの間まで実に悲惨な状態に置かれて、教育もろくに受けられない貧しい状態、あるいは人間として扱われない状態についこの間まであったわけです、歴史的に見れば。  そういう意味で今非常に困難な状況にあるということと、もう一つは、日本と違ってアメリカが実に開かれた社会であるということです。開かれた社会というのは、例えば先生方ミネアポリスという町をお考えいただきたい。アメリカの地図を開いて本土のちょうど中心部にある、ちょっと北の方にありますけれども。このミネアポリスというアメリカの本当に中心にある町が、実はその町の公立の小学生の過半数がマイノリティーなんです。白人がマイノリティーになって、マイノリティーが過半数になっているんです。  それはなぜかと言うと、例えばベトナムのああいう難民が出たときに、ああいうボートピープルを受け入れようというときに、アメリカの中でもミネアポリスの人たちが一番に手を挙げて我が町に迎え入れようということで迎え入れてきたわけですね。その結果、公立の小学校では過半数がマイノリティーというふうな現象が起こる。そして、そこでさまざまな対立、困難も抱えているわけです。  こうした開かれた社会というのがアメリカなんだ。そして、それに伴うさまざまな困難、これをまた乗り越えていこうと今努力しているのがアメリカであるというふうに思います。逆に言えばアメリカのそうした姿勢、アメリカ国民の姿勢があるから、あれだけ開かれた社会でありながらあの程度の問題で済んでいる。  しかも、私自身の学生を見ても、日本の若い学生が、例えば大学を卒業してから、やはりむしろアメリカで生活したいと。あれほどアメリカに対して魅力を感じるその原因がどこにあるのかというのは、私は日本人としてよほど考えてみなければならないことだというふうに思っております。
  49. 瀬谷英行

    ○瀬谷英行君 松岡さんを中心として、ちょっと一般的な問題でお尋ねしたいと思うんです。  私は大正八年の生まれなんですよ。だから、恐らくこのメンバーの中じゃ最年長だと思いますけれども、私が小学校や中学校にいた時分は、学校が終わってから塾に行くという習慣がなかったんです。学校が終わってうちへ帰るとかばんを置いて遊びに行くというのが、私だけじゃなくて、ほかの連中もみんなほとんどそうだった。  ところが、今お話を聞いてみると、十二歳から十七歳までのティーンエージャーのうち、三時間もボランティア活動をやるということを聞いてびっくりしたんです。それからまた、この表、アメリカの子供たちの一日というのを見たら、銃を持って登校する子供が十三万五千と書いてあるんです。こんなことは我々には想像もできなかった。  こういう悪い面もあるけれども、ボランティアなんという言葉は、第一私たち子供のころは聞いたこともなかった。だが、それにもかかわらず、我々そういう教育を受けていても、社会へ出てから勉強不足で仕事にならないというやつはいなかったですよ。ちゃんとそれぞれ仕事をやってきました。  こういう相違というものは一体どこから出てきたのかな、こう思いましたけれども、やはり疑問に思ったのは、塾に通うということが、せっかく塾に通って三時間も四時間も勉強するということが何にも身についていない。知識を単に詰め込むというだけの話だ。人間形成に役立っていない。こういうことになると、やはりこれはむだなことをやっているような気がするんです。  やっぱり社会に貢献をする、アメリカのいろんな話がありましたけれども、そうすると、ボランティア精神やらお互いに助け合うという精神があれば郷土愛というのも生まれてくるし、郷土愛がそれこそ愛国心にもつながるしということになると思うんです。今の日本のような教育のシステムから言うと、果たして郷土愛が生まれるだろうか、あるいはボランティア精神が伸びていくだろうかという疑問が出てくるんです。  だからそういう問題に対して、日本の教育のシステムあり方がこれでいいのかどうか。一体どうしたらいいのか。外国に引けをとらないだけのやっぱりそういう立派な知識を、常識を備えた人間を育てるためにはこれでいいのかという疑問が出てくるんですね。  その辺について、せっかくですからこの機会にどうすべきか、今の日本の制度をどういうふうに改革したらいいと思うかというようなことについてお考えのほどをお述べいただきたいと思います。それぞれ。
  50. 田中克人

    参考人田中克人君) 塾の問題ですけれども、私は、私の話の内容と関連づけた部分でお話しさせていただきますが、私も小さいときには塾はありませんでした。塾ができてきたのはもっと後だろうと思います。実は私の子供もことし大学受験しましたけれども、小学校四年のときからもう塾に通って中学受験して、高校まではそのままで、大学はまた受験でした。もうそれを見ていると本当に驚きます。ですから、子供が小学四年になるまでは、私は日曜日の朝子供がかばん提げて電車に乗っているのが何のことなのかがわからなかったんです。この子供たち何しているのかなと思いましたけれども、毎日曜日になればもう七時台の電車に乗ってみんな塾に行って試験を受けるわけですから、そういうのがもうずっと何年間も繰り返されてきているわけです。  なぜこういうことが起こるかというと、私の認識では、これは高度経済成長の中での企業というものの採用の仕方とやはり密接不可分なんじゃないかというふうに思っているんです。要するに、企業の方の採用も、やっぱりある程度のレベルの大学を出ていればほとんど採用される。そういう意味で、あるレベルの大学に子供を入れるということは親の責任みたいな感じになってきたと思うんです。  それは結局、そのときの企業側にしても、そのほかの中学、高校、大学の採用の場合も、要するに点数中心でやっていっていますから、大手の企業に入るためにはどうしてもその点数中心のところをクリアしなくちゃいけない。そうすると、学校教育ではそれはもう無理ですね。  それから、かつて日比谷高校が東大に一番入れていたのが、学校群制度になってから日比谷とか都立高校がだめになって、それでどちらかというとほとんど進学する人がいなかったような私立高校が受験体制をとったために、今やそこが準御三家とかなんとかと言われて超進学校になっているというとんでもない現象が出ているわけですけれども、それはやっぱりどうしたってそういう方向にいってしまうと思うんですね、点数主義でいけば。  ですから、そういった形で大学まで行く。それで大学に入ると、ほとんど企業の方としてもその大学に入っていれば大体採用されるということがありますから、今度はそれほど勉強しなくてもいいということで大学生は遊んでいく。  それで企業の方は、先ほどもお話ししたように、学部、学科、専門というものを関係なしに、これだけの人数が必要というので青田刈りでとにかく学生を採ってしまう。採ってしまった後は、今度そこで社員研修というものが徹底的に行われて、その会社の人間に仕上げられて企業戦士になっていくと。結果はそうなっていくわけですが、やっぱり結果的には企業戦士に育て上げられてしまうわけですけれども、そこの企業に入るまでの方法論でいくと、今のような塾がなければ入っていけないというシステムになっていると思うんです。  それに対する今反省が起こってきて、やっぱり企業の常識と社会の常識がこんなに違ってきたところで、ここで初めて企業犯罪というものが起こって、今までエリートコースでずっと小学校からそうやってきた人がある日突然逮捕される。そうすると、彼なんかはどうして自分が逮捕されたかわからないですね。企業の中で一生懸命働いてきて、企業の利益のためにやってきているわけですから、その企業の中ではそのやり方は通用してきているわけですよ。それがどうしてなのかがわからない。それが社会の常識と企業の常識のギャップなんだと思うんです。それで企業犯罪が起こって、企業の方としてもいろんな反省点の中でやはり社会とのかかわりということになってくる。そこでやっぱり企業の社会貢献問題、フィランソロピーという考え方が出てきているんだと思うんです。  だから、そういったものの反省に基づいて、企業がボランティア休暇・休職制度やなんかをとって、今いる社員をどんどんと社会の常識に近づける努力をしていると思います。  それから、これから採用する人に関してはボランティアの経験があるかとか、大学の方でもボランティアの経験があればそれを優先するとか、松岡先生のところなんかもそういうような形で、要するに偏差値じゃなくて人間性という形で入学を決めたり、企業の方もそういう形で採用するというふうに変わってきていると思うんです。  そういう変化が起こってくれば、おのずから子供たちも塾に行くよりは今度はボランティアとかをもっと広げていくというような方向に変わっていくだろうというふうに思います。そういう意味でも、この企業の社会貢献を通じたフィランソロピー活動というものがもっともっと社会の中に根づいていくことが恐らく塾をなくしていく一つの方法にはなるだろうというふうに考えます。
  51. 竹中誉

    参考人竹中誉君) 今先生御指摘の塾問題というのは、私も小さな子供がおりまして、もう本当に息の詰まるようなあれで、こんなことじゃ日本の将来が危ないというのは本当に実感として同感でございますが、実は子供だけじゃありませんで大人の世界でも全く同じようなことが起こっているんじゃないかと思います。  妻が夫と子供のために一生懸命やって夫は外で働くというふうな秩序がいつの間にか通用しなくなりまして、家庭の中も何となくばらばらになってきまして、離婚率も上がってきているというふうなことも起きております。会社の中も、上司の言うことを部下が聞くのは当たり前、会社のために自分を犠牲にするのは当たり前という価値観が崩壊をいたしまして、過労死問題が取り上げられるというようなお話もございましたけれども、そういった問題が各所に出てきておりまして、一つ一つは大変違った問題のようでございますが、私は根はひょっとすると同じじゃないかという感じがいたしております。  これは、戦後の日本の繁栄を築いてきた日本システム、すなわち組織の中においては個人より組織が、グループの中においては個人よりもグループが、国家の中においては個人よりも国家がということを、すなわち個人を犠牲にしてグループ主体で築いてきた我々のシステムというものが大変大きな曲がり角に差しかかりまして、それを我々自身が今何とか変えようともがきながら、しかしなかなかいい解決の糸口が見つからないというところで、いろいろな入間関係のしがらみでありますとか組織関係のしがらみでありますとかいうものに押しつぶされながら悩んでいるということのいろんな現象が出てきているんじゃないかという感じがいたしております。  それじゃどうしたらいいんだということで、私はどうも余りどうしたらいいんだということを幅広くあれするほどの学はないんでございますが、一つだけ、大変我田引水的でございますが、この日本人だけてつくっている社会、お互いが余りにもしがらみができ過ぎまして動きがとれなくなっている社会、これを変えていくために、一度強引にもっともっと外国人をこの日本社会に入れまして、またもっともっと外資系企業を優遇してこの日本社会に入れまして、少なくとも外国人の方が日本人よりはもっと個人を主体とした考え方が強うございますから、そういったことを実現することによって何か新しい時代に向けての風穴をあける端緒になり得るんじゃないかというふうに考えております。
  52. 松岡紀雄

    参考人松岡紀雄君) 個人的なことになりますが、私は二十年ばかり企業に籍を置いておりまして、それから神奈川大学の経営学部が新設されるときに招かれてまいりました。そういう意味で、企業と絶えず比較して、あるいは企業の立場から教育なりあるいは学生を見るという気分がまだ抜けない面がございまして、そういう意味で先ほど先生の御指摘の点も大変共感いたします。  何が問題かというと、まず一つは、日本が結局偏差値という一つの物差ししか持たないそういう社会になってしまっている。社会にはさまざまな個性を持った人たちが必要であり、またそれによって魅力ある社会が生まれてくると思うんですけれども、偏差値という一つの物差ししか持っていない。一つしかないがためにどういう問題が起こってくるかと申しますと、私幾つかの大学で授業を持っておりますが、結論から申し上げますと、若者の間に恐らく五%前後の自信家というかうぬぼれの若者と九五%の劣等感を持った若者を育てているのが今の日本の教育だ、そういう思いがしてなりません。  それともう一つ、先生方お気づきかどうか、私どもの体育関係の教員が大変心配していることですけれども、入学してくる大学一年生の体力というものが物すごく低下しているわけです。これは日本の将来を考えた上でもこういうことを放置しておくということは大問題だと思います。  それと、もう一つ御紹介させていただきたいのは、かつて私のところで仕事をしていた者が、その後アメリカの大学院で博士号まで取ってアメリカで生活して子供を育てているわけですけれども、その人が日本の教育とアメリカの教育を比較していわく、両方とも大きな問題がある。アメリカは個性教育ということで、何かその人のいい点を探していわばおだて上げる。その結果、本当は大した力もないのにとんでもないうぬぼれを持った連中を大勢育てているといった、大変皮肉な見方をしております。  日本はどうかというと、先ほどの先生の御指摘と関係あるんで、日本は、あなたがいい大学に行くためには家族も何もみんなが犠牲になりますよと、そういう状況で子供を育てている。つまり、あなたはほかの人のために犠牲にならなければならないというのではなくして、あなたのためにならみんなが犠牲になりますよということで十八歳まで育て上げておいて、どうして社会に貢献できる人材が生まれるんだというのがその人の言い分で、私は大変共感するところがありました。  アメリカはどうかといいますと、アメリカの子供たちは大体十五歳までに三分の二の者がボランティアを体験すると言われております。それはどこで体験するかというと、多くの者は実は教会なんです。ところが、その役割を果たすものが日本にはないというときに、アメリカでもう一つてきているのは学校なんです。アメリカの私立の学校は昔から、アメリカではボランティアとは呼ばないでコミュニティーサービスという言い方をするわけですけれども、いわゆる地域社会へ奉仕というふうも言い方をしたらいいでしょうか、これは以前からあったわけです。  ところが、問題は公立の学校なんです。公立の学校でそういうことを義務づけていいのかどうかということは、ここ十数年、アメリカでも実は大変な議論を呼んでおります。メリーランド州のように、州を挙げて州の教育委員会から、高校を卒業までに七十五時間のコミュニティーサービスをしなさい、そうでなければ卒業資格はありませんよと、そういうふうな州もありますし、地域によっては二百時間、二百五十時間というふうなところもございます。ところが、そうしたものを強制することはいいのかという問題、それと学力の低下が一方でありますから、足し算引き算、英語の読み書きもできないのに何でコミュニティーサービスだ、とにかく勉強をさせるという主張もあります。  それからもう一つは、貧しいがゆえに子供たちが家族の生計のために放課後仕事をしている。それを、いわばコミュニティーサービスということでただ働きを義務づけるということは果たして許されるのかという非常に深刻な議論もアメリカではなされております。しかし、方向としてコミュニティーサービスを子供たちに義務づけるというのがアメリカの一つの傾向ではございます。  私の思いから申し上げますと、日本においても、例えば文部省がそういう動きを合しておられるわけですけれども、文部省が命令をして義務づけるというふうなやり方は私は避けていただきたい。むしろ個々の学校あるいは個々の地域で独自の考え方、地域の実情に根差した対応をされて、そして子供や父母が学校の選択の余地があるような、そういう姿でコミュニティーサービスを信じられるところは進めていくということがいいのではないか。  それから、もう一つ社会としては、先ほどもお話があった、先生方ぜひ御確認いただきたいんですが、私は私どもの学部をつくるときにアメリカの二百数十の超一流大学といわれるところの入学者選抜条件というのを調べました。ハーバード、コロンビア、エール、スタンフォード、プリンストン、有名な大学全部入っております。それら二百数十の大学の中で入学者選抜に当たってボランティア活動を評価しない大学は一校もないんです。こうした事実について、やはりはっきりと日本で私は受けとめる必要がある。  また、履歴書を書く場合にも、必ずボランティア活動という欄に、いつどういう形のボランティア活動をした、そうした長年のボランティア活動あるいは社会的に有為なボランティア活動、創造的なボランティア活動、リーダーシップ、そうしたものが企業においてもあるいは大学入試においても評価されるような社会、そういう社会というのを日本も私は考える時期が来ているのではないか、そんな思いがいたしております。
  53. 堀利和

    ○堀利和君 田中先生と松岡先生にまずお伺いしたいんですけれども、これは私の体験も含めて質問といいますか、お伺いします。  日本企業が海外に出ていったときに、私もよく聞くんですが、現地の方々を雇うときに障害者を雇わないというような現地からの御批判を聞くんです。もちろん、我が国では障害者の雇用促進法という法律があって、民間企業は従業員の一・六%を法定雇用率として雇うように義務づけられています。もちろん、行った先の国々にもそれなりの制度がありますから、それに応じた形もとることはあるんですけれども、アジアの方ではなかなかきちんとした制度がないということで、アジアに出ていった日本企業が現地では障害者をほとんど雇っていないということの御批判があるんです。  企業の社会貢献というのは大変重要なことでもありますし、期待もするんですが、どうも私の目から見ていると、企業が外に向かって社会貢献する以前に、みずから企業の経営方針として障害者を雇うとかというものが、本当にそこら辺が希薄なものというふうに感じるんです。  さらには、以前にもニュースでお聞きになったと思いますけれども、例えば我々見えない者が髪の毛を洗う場合に、私は余りリンスを使いませんけれども、シャンプーとリンスの区別がわかりにくい。シャンプーの方をざらざらしたキャップにすると。考えてみたら、目の見える人も頭を洗うときには泡が入らないように目をつぶっているからこれは便利だということで、見えない者に対してそういった手でさわってわかるような印をつけることでみんなが使いやすいということがある。  あるいは銀行では、ほとんどATMといって、以前はボタンを押すということですから点字が書いてあって、私も押しやすくて現金引き出しもできたんですけれども、今では光ですからさわってもわからないし、さわってもどこか別のスイッチになっちゃいます。  企業にとって一つ商品とか製品をつくり出す中でも、それを利用する、扱う者の中にハンディを持っている人がいるわけですから、つまり、企業経営の内部においてそういうものを十分配慮といいますか理解というんでしょうか、ということに気づかない生産システムになってしまっているようなところを感じるんです。  ですから、もちろんボランティアあるいは社会貢献というのは重要なんですけれども、その以前に、企業の中にその辺のハンディとか社会貢献を必要とするような、対象となるような人たちのことを考えるところがどうも弱いんじゃないかなというのを私は体験的にも感じるんですけれども、その辺をどういうようにお考えかということです。  松岡先生には、先ほどADAのお話がありましたけれども、アメリカでは確かに、路線バスでも車いすのまま乗れるようなリフトバスが大分走っております。しかし日本では、例えばリフトバスを走らせるというときになりますと、バス事業者あるいは鉄道の場合もそうですけれども、果たして民間の事業者がそういった福祉的な側面、ハンディを持った人たちも安全にまた自由に乗れるようにするということについてまで企業の方針として責任を持つのか持たないのか、これは日本では大きな論議になるんです。そういうのは国なり地方公共団体の公がやるところであって、民間事業者はそこまではやらなくてもいい、それはもう福祉的な対策なんだというようなところで、つまり公と民との責任のなすり合いといいますか、というのも感じるわけです。  ですから、民間活力というのは非常に重要なことで、何でもかんでも公の方に頼るというのはよくないんですけれども、民間の事業者を含めて国民の中にそういった認識なり意識が育たないうちに公の方の責任が薄くなってくると、結局困るのは利用者なんだということがありまして、その辺の公と民の責任の持ち方をどのようにお考えかということをお聞きしたいと思います。  そして竹中先生には、私視覚障害者でありますから、点訳広場のあの壮大なシステムの確立て視覚障害者は読書の環境が大変前進してすばらしくなったということをここの場をかりて感謝申し上げたいと思います。  そういった社会貢献する際、やはり企業の経営方針として企業も市民、企業市民という理念、当然そういう基本的な考え方、理念があるから社会貢献が、点訳広場という壮大なものができるんだと思うんですが、その際に、日本の企業の行動を見ていますと、不況になってきたり赤字欠損が出たりするとそこを負担といいますか重荷というふうに企業としては感じてしまうんじゃないかというような気もしないではないんですけれども、その辺のこともどんなふうにお考えか、お伺いしたいと思います。
  54. 田中克人

    参考人田中克人君) アメリカでの日本企業の障害者採用の問題というのは、確かに以前あったと思います。日本の企業が向こうで採用するときに、日本式に成績優秀な順にずっと採っちゃうわけです。これはもう地域ではとても認められないわけですね。その地域はいろんな人種の人たち、いろんなハンディを持った人たちやなんかいるわけですから、その人口比率に応じて採用していかないと地域では受け入れられないというようになっています。その辺がわからない時期にはかなりそういったことのトラブルがあったようですが、最近はその辺のところは大分日本企業の方はわかってきているんではないかというふうに思います。  それから、障害者の採用の仕方というのは日本では一・六%というような義務づけをされていますが、海外に行くとそれが適用されないということで、確かにまだおくれているというふうに思います。ただ、このフィランソロピーの考え方も、先ほどお話ししましたように、ここ三、四年、企業の中で真剣に取り組まれてきておりまして、そういったセクションも特別設けてきていますし、その人たちはそれなりに相当研究してきています。ですから、そういう意味で企業の側で一・六%採用せよという労働省の一律の押しつけ、あれは現実には無理なんですね、各企業がそれを受け入れるのは。だから、各企業ともそうじゃない方法でそれを達成しようということで今かなり苦労していると思います。  例えば、丸の内に本社があるところが、それじゃ障害を持った人に朝ラッシュの中を来いというようなことはこれは無理なわけですし、そういった施設が公共機関の中でもまだできてきていません。このバリアフリーという問題もまた本当にそういう意味では重要な別に論じなくちゃいけない問題ですけれども、企業の方としては特例子会社というようなものを今つくり始めてきていますし、そういう中で障害者の人たちの雇用機会をつくろうとしていると思います。  それから、今、洗剤のお話がありましたけれども、むしろ障害者の人たちの側からの必要で生じて我々自身が非常に便利に使っているものだってあるわけですよね。オムロン太陽の家というのが大分県にありますけれども、あそこなんかは本当に障害を持った人と健常者とが一緒になって仕事をやっている。それもオムロンとかソニーとかそういった企業ですから、いいかげんなものじゃだめなわけですね。かなり精度の高いものを求められるわけですが、そういったものをはかの工場と劣らないものをつくっているわけです。  そういった中で、我々が例えばテレビのチャンネルをボタン一つでやっているようなもの、あれもやっぱり障害を持った人がチャンネルを回せない、どうしたらいいかというようなところで考えたりとか、それからシューズですか、ズックとは言わないんですね、最近はもうちょっと別な名前があるのかもしれませんが、ひもで結ぶということができないというのでマジックテープでぱっとやる、ああいうのもそういうことです。  だから、そういう意味では健常者とか障害者とかということじゃなくて、みんなが一緒になってやっていく中でいいものが開発されるわけですから、これからの企業としては障害を持った人と健常者とが一緒に仕事ができるような職場づくりというものを念頭に置いてやっていく必要があると思います。そのためには、会社の階段からトイしからあらゆるものを変えていかなくちゃいけないと思います。  それから、企業の方として今そういったものに対応するために必要なのは、アメリカなんかではあるんですが、ジョブコーチというような考え方。要するに、障害を持った人を会社で採用してもその人に合った仕事というもの、その人を活用できる仕事というものが与えられないわけですね。お客さん扱いにしてしまっている。そうすると、その人はとてもそんな会社にはおれないというのでやめてしまうということがありますから、そういった人を採用してその人たちの能力を十分に引き出せるような仕事を与えるための訓練を受けた人というんですか、そういったジョブコーチの制度なんというのも日本企業の中で取り上げていくとかというようなことで、これからそういった意味では相当変わっていく方向にはあるだろう。  というのは、若い人たちの方がフィランソロピーという考え方に関しての感度はすごくいいということです。私どものところで学生のためのフィランソロピー講座というのを去年始めましたけれども、これに参加してくる学生さんは企業の社会貢献担当者とディスカッションさせても全然負けません。むしろ企業の人たちは企業のためという一つ枠があって一歩踏み出せないがために押しまくられるというようなことがありますし、そういった人たちは体験ボランティアというようなことでいろんな施設にも積極的に行きますし、そういう中でいわゆるノーマライゼーションというものを実感してきていると思います。  現時点では確かにおくれている。それはもうついこの間まで高度経済成長の中で企業戦士が育成されてきたわけですから、その人たちが一朝一夕にそう変わるもんじゃない。しかし、企業の努力によって今、少しずつ変わってきていますので、方向としては、このフィランソロピー活動というものをいろんな意味で世の中に社会に定着させる方途というものを、先ほどの法人のつくり方、税制面その他いろんな面で先生方にお考えいただきたいというふうに思います。
  55. 竹中誉

    参考人竹中誉君) 先ほど先生御指摘のとおり、業績が悪くなってまいりますといろいろな経費を削減するというプレッシャーが生じることは事実でございまして、こういった社会貢献活動についてももっと見直そうという動きは生じております。  ただ、物の考え方としましては、私どもはやはりよき企業市民であるという考え方、理念を大切にしたい、この理念を守り続けていきたいというふうに考えております。ちょうど個人でも、金もうけも大切だけれども、やっぱりあの人は立派な人だというふうな存在であり続けたいというのと同じじゃないかと思いますが、そういった理念を守っていきたいと思っております。  幸い親の方も、ここ二年ばかり赤字が続いておりますけれども百億を超える社会貢献をやっておりますし、私どもも昨年赤字にはなりましたけれども、一昨年十数億の社会貢献活動をいたしました。昨年は十億をちょっと切りましたが、しかし本当に大事なものは守り続けたつもりでおりますので、苦しいときは若干、ちょっとことしは勘弁しておいてくださいというふうなことをやらざるを得ない面があるかと思いますが、この基本的な理念と、またそれに基づく行動というものは大事にしてまいりたいというふうに考えております。
  56. 松岡紀雄

    参考人松岡紀雄君) 私、御質問いただいた三点の一番最後の赤字の問題を先に一言申し上げたいんです。  私、日本でぜひ実現していただきたいことがあるわけですが、今、IBMの事例で御紹介がありました。アメリカのIBMが赤字経営の年に、日本円に直して百億円以上の寄附をしているわけですね。これが税制上一体どう扱われるのか、こういう問題がございます。  アメリカの場合、寄附金控除の限度額というのは、日本とは違いまして資本金相当分というのはございません。税引き前利益の一〇%ということであります。ということは、税引き前利益の一〇%ですから、赤字の場合には寄附金控除は全くできないというのがアメリカの実情なんですが、そのかわりに実はアメリカの場合は五年間繰り延べの制度が認められているわけです。つまり、ことしは例えばIBMは赤字で控除は全くできない、しかし来年、再来年あるいはその次、五年間繰り延べて利益ができたときに過去の分を控除するということが認められているわけですね。  ところが、日本の場合は資本金相当分と利益相当分と二つから構成されておりますから、赤字でも資本金相当分があるということにはなるんですけれども、そのかわりこの繰り延べの制度というのは認められていないと思うんですね。だから、その点をぜひ日本においても御検討をいただきたい。つまり、どういう制度がいいのか。繰り延べということになると日本IBMさんが、ことしは赤字にならないと思いますけれども、赤字になっても安心して寄附を続けていただけるということになります。  それから一番最初の御質問の、日本の企業が海外に出たときに障害者雇用について意を用いていないのではないかという御指摘ですが、これは私は両方あると思います。非常に努力しておられるところもあるし、また何か逃げてしまおうとしているそういう企業もあるというのが実情で、マスコミはどうしても問題になった悪い方の事例は紹介なさるんですけれども、いい方の事例はマスコミに登場することはまずないわけですね。そういう意味で、日本の企業の中にも両方あるということをまず御理解いただきたいわけです。  ただ、アメリカと日本と比べますと、私は法律が根本的に違うと思います。つまり、日本は一・六%という数字、私はこの強制的な数字は逆にゆがんだ現象ももたらしているとは思うんですけれども、逆に一・六%員数合わせさえしておけばあとは問われないという奇妙な問題が起こってくるんですね。ところが、アメリカの場合は何%障害者を雇用していようとも常にきょう新たに採用するときに差別があってはならないわけです。それから、採用をして員数合わせだけではない、そういう人たちがやはり責任ある仕事について昇進もしていけるような職場環境というものも設ける責任というのが企業にあるわけですね。  きょう詳しく御説明する時間がありません。たまたま私、アメリカのIBM本社が障害者雇用についてどういうふうに意を用いているかというパンフレットをきょう持ってきたんですけれども、これにはもうまさに圧倒されるばかりです。  例えば病的に身長が特別低い方が社員にいらっしゃるとすれば、IBMでは特製のサイズの机やいすを用意なさる。あるいは目が全く見えない方もいらっしゃるし、あるいは私のように目が大分見えにくいという者もいます。そうした場合、例えばコンピューターにして、お手の物とは言いながら、普通の十六倍の文字の大きさになるディスプレーを用意されるとか、あるいは点字のプリンターを用意されるとか、音声の出るコンピューターを用意される。あるいは会議室に入るのもボタン一つでドアがあく。あるいは耳の聞こえない方もこうした会議の話が全部理解できるように、IBMの社内の会議にも手話通訳がつく。あるいは社内報という新聞、雑誌が会社に出ておりますが、これは普通の印刷物では読めないわけですね。そうしたものはカセットテープに吹き込まれた社内報を用意される。  IBMのそうした対応、これは法律ができる前からしていらっしゃるわけですけれども、これを見たときに私は、極端に言えばIBMが赤字になるのは当然だと。これだけ配慮をしておられる。それを日本の企業の、IBMは赤字になったといって何かばかにするような態度というのは、私はとんでもない話だというふうに日ごろ思っております。  それと、ADAに関する御質問については、これは非常に難しい問題だと思います。つまり、さまざまな対応にはコストがかかるわけですね。そのコストを一体企業の負担だけにしていいのか、あるいは税金なりなんなりで負担していくのがいいのかという問題ですが、私はこれからの社会、来世紀に向けての社会の方向としては、一方だけが持つということはできないと思います。そういう意味で、企業とそれから公とが分担し合うような日本的な仕組みというのを今後考えていくべきではないかというふうに感じております。
  57. 長谷川清

    ○長谷川清君 続けて松岡先生にお願いしたいと思います。  企業のそういう活動はよくわかってきたんです。これを縦軸とすれば、横軸に地域コミュニティーのサービスの組織があるのではないか。よくテレビで、飛行機が墜落したときに真っ先にそこに駆けつけているのがボランティアの人々、消防車や救急車が来る前にそこにいる、こういうのも私は現実に見たんですけれども、この地域ボランティアの組織というのが大体どのくらいの規模ごとにどのぐらいの稼働率で、恐らく一〇〇%動いちゃいないと思うんですが、会費やなんかどのぐらいか、持ち寄っているのか、その場清算なのか。そんなようなことで、輪郭がどうもわからないので、地域コミュニティーの問題について、もしおわかりでしたら教えていただきたい。  それから竹中先生にお願いしたいんですが、昨年の実績でも減収減益で赤字だ、それでも十億出している、給与の方はどう動くか。給料は収益が上がれば上がる下がれば下がるという、フロートしているのか、定期昇給制度のようなものは制度として導入されているのか、していないのか。給与は上下するものかどうかをひとつお聞きしたいと思うんです。  それから田中先生には、これはちょっと具体的じゃないんですけれども、先ほどから権利と義務の関係や日本の民主主義の成熟度、中学一年ぐらいとかという感じのものになっていると思いますが、このことが今の日本の憲法と直接間接にかかわっている因果関係があるかどうか。  といいますのは、自由という言葉とか権利という言葉は、今の憲法で自由は九カ所使われていますね。それから権利という言葉も九カ所便われている。最低限度の生活を営む権利の前書きに始まりまして、ずっと公務員罷免の権利とか勤労の権利、いろいろ九カ所あります。それに対して責任という言葉は一カ所しか使われていない。憲法十二条。それと義務という言葉は二カ所しか使われていない。納税の義務と勤労の権利を有し義務を負うという、この義務が二つ。  そういうことから考えますと、自由と権利はきら星のごとく十八カ所あの小さな冊子の中で使われておりますが、責任というのは一カ所しかない。その一カ所が憲法十二条で、この憲法で国民に保障する自由及び権利はみだりに乱用してはならない、公共の利益に利する責任を負う、こうなっていますね。  これは憲法はまだ五十年たっていませんし、我々はどちらかというと、憲法と聞くともう九条の戦争放棄、ここがぽんと飛び込んできます。それと権利と自由がわっとある。だからまた中学一年ぐらいなのであって、憲法を変えるまでもなく今の憲法をよく熟読玩味して、もう少しく憲法十二条に目を向けてみると、義務は二カ所ではあるけれども、それに対する権利の裏側に、自由の裏側にそういう責任があるという、だんだん全体の憲法の精神がこれでわかっていく。それを促進するためにという意味一つ一つの法律がある。今現在は、製造者には製造物責任法、PLを今回出しました。  一つずつそういうふうにして、個人には個人の責任がありますよ、義務もありますよ、企業には企業の責任があるし義務もあるんだということを今の憲法のもとにおいてもどんどんやっていこうと思ったらいけると思います。そういう因果関係は、先生がさっきおっしゃったように、本当の民主国家じゃないよということは、私は、現行憲法のそういう精神をもっともっと啓蒙していく、そして一つ一つの法律でそれをつくり上げていくというプロセスの中で、中学一年がだんだん健全に高校、大学、そして社会に通用する一番日本的でしかも調和がとれたものにしていけるのではないかなと思いますが、いやそれはちょっと甘いよと、こういうお考えなのか。その辺のところの反論だけをひとつお聞かせいただきたい。
  58. 田中克人

    参考人田中克人君) 私は、憲法は、恐らく日本人は全部読んだ人はいないだろうと思うんですね。そこが問題なんだと思うんです。  学校教育の中で憲法をどこの時期に教えているんでしょうか。憲法の精神を教えているところはありますけれども、憲法全文に関して習うのは恐らく法学部の学生ぐらいじゃないかと思うんです。やっぱり国の基本的なものに関しての教育がなっていないんだと思います。特に日本の憲法の場合は、我々が血を流して戦ってとったというものじゃなくて、敗戦の結果、来たものですね。内容は私は決して悪いと思いません。それだけに、もっとあの憲法の精神、どうしてこの憲法なのかというようなことが学校教育の中で徹底的に教えられなきゃだめだと思います。そういう時期がなくて権利義務というようなこと、子供にはわからないですね。  私は、まずこの憲法教育、そういった中で学校教育というものがどうしてもさわりたくない部分、言ってみれば文部省と日教組というんでしょうか、そこのところで対立関係の中にあってお互いの暗黙の中でそういったものが語られないで来ている。それを語れば九条の問題とかいろんな問題が出てくるというようなことがあるのかもしれませんが、非常にそういった政治的な判断で基本的なところがゆがめられてきているんじゃないかというふうに思います。  特に、今のと関係して歴史教育なんかは、やっぱり縄文式とか昔のことも大事なんですけれども、向こうの方に時間をほとんど費やして近代になったときには三学期で終わりというので、現代のことは教えないというのが大体今の教育のあれですね。  しかももう一つは、今の憲法のことを比較しても、何というんですか、最近はいわゆる憲法とか国会の仕組みとか国の仕組みを教えるものは別な、昔は社会科の中で私どもは全部入っていたと思うんですけれども、別なものになって選択制になっているんですね。そういったものは勉強しなくともいいようになっている。この選択というのもやっぱりおかしいんだと思いますし、そういった意味で憲法の精神というものが国民の中には浸透していないというのが一つ。  それから、今の教育のことでちょっと追加して言いますと、国際化時代と言っていながら日本の歴史教育というのは非常にゆがんでいるんだろうと。  これはシンガポールの例で申しますと、シンガポールの中学二年生の歴史の教科書は二百七十ページぐらい、数字はちょっと違うかもしれませんが、二百七十ページぐらいあると言われております。そのうち日本がシンガポールを侵略したという歴史を教えている部分は七十ページ近くその記述があるというんですね。ところが、日本の歴史の教科書でシンガポールに日本が侵略したということを教えているのはどのくらいあると思いますか。七つか八つの教科書があると思います、日本では会社別に。その中でシンガポールの侵略について触れているのは二社の教科書だったと思います。それもたったの三行です。  これだけ歴史という本当に一つの事実が日本人は三行あるいはゼロ、向こうは七十ページ、こんなに歴史の認識において段差があって、どうして国際協調とか国際貢献ができるのかということだと思います。  そういう意味で、歴史教育なんというのもやっぱりそういうところで見直さなくちゃいけないと思いますし、あらゆる意味でその教育の現場を、先ほど瀬谷先生でしたかお話がありましたけれども、その辺のところを洗い直していかないとだめだと思うんです。それなしに憲法を改正するとかしないとかの議論が先にあるのは、僕はナンセンスだと思います。  そんなことでよろしいでしょうか。
  59. 竹中誉

    参考人竹中誉君) IBMの人事制度といいますか、社員に対する給与の基本的な考え方は、それぞれの国の産業界の一流水準を保障するという考え方で組み立てられておりまして、したがいまして国によって違いますが、日本IBMの場合は、日本IBMの給与、賞与、退職金制度というふうなものは基本的には日本の他の企業と制度的にも慣行的にも類似でございます。  あえてユニークなといいますか、多少特色的なことを申し上げますと、一つは、年功序列的要素と実績的要素との組み合わせというふうに考えますと、他の日本の企業に比べまして実績的要素はより大きいということが言えるというのが第一点でございまして、第二点は退職金水準が相対的に非常に高い。この二つが特色と言えるんじゃないかと思います。  したがいまして、もちろん定昇、ベースアップ制度はございますし、業績によって給与が影響を受けるということはございません。賞与は若干上下することはございます。
  60. 松岡紀雄

    参考人松岡紀雄君) 私には、地域コミュニティー活動がどの程度のレベルで行われているのかという御質問だったと思います。  これに関しては同じアメリカの中でも地域によって非常に違いがあるということで、一概にこれが平均だという言い方はできないかと思うんですけれども、一番住民のそうした活動が見られるのはやはり学校であり、それから消防活動だと思います。  日本で特に都会で生活しておりますと、例えば消防なんていうのはまさに消防署にお勤めの方が消防活動に当たるのだという認識なんですけれども、アメリカのような日本の二十五倍というようなああいう広い国土でそれぞれのところに日本的な消防署を配置するというのは、これは考えてみたら不可能なわけですね。そういう意味で、火事が起こったときに住民がまさにいろんな道具を持って駆けつけてくるという、これがアメリカ社会の姿だと、そういうふうに思います。そういうことで、いわゆる消防活動などというのがボランティア活動の発露の一つのチャンスだと、変な言い方ですけれども、そういうことです。  それから、もう一つは先ほど申し上げた学校です。学校の場合、これは地域によってさまざまですけれども、例えば公立学校であっても、自分たちの子供たちが通う小学校、中学校に社会科の先生にはこういう先生をぜひ招きたいということで、父母が相談し合ってよそからいい先生を引き抜いてくるというふうな活動、これもまさにボランティア活動で行われているわけで、日本的な感覚からはちょっとやり過ぎかなという気がしないでもないですけれども、学校のさまざまな行事あるいは生徒に問題があるというふうな場合も、父母が力を寄せ合って駆けつけていろいろ対応する。これが日本の駐在員が一番ひんしゅくを買う。  つまり、そういうことを全く予期しておりませんので、お金さえ払えば済むものだというふうに思いますが、もっともお金といえばこれも問題がありまして、アメリカの学校に関するお金というのは不動産に基づいて支払うことになっている、教育税は。ということは、向こうで不動産を持ってない駐在員の場合、直接的には教育に関する税金は払ってないというふうに見られる。もちろん間接的には家賃から払ったということになるんですけれども、直接的には払ってないというふうに見られてしまうんですね。本人にも認識がない。そういう点一つ問題がある。  それから、もう一つ徹底しているのは戦争の場合ですね。例えば湾岸戦争に行った人たちが二十万人以上ありましたけれども、あの人たち一体だれが行ったのかということで日本側でどれだけ検討されただろうかということです。  私は、CNNその他を見て、あるいは現地の人たちに聞いて感じるのは、あれは兵隊さんが行ったんではないんですね。一般の会社員あるいは大学生が湾岸戦争に駆けつけたわけです。それはどうしてそういうことが起こるかというと、アメリカの制度として、いざというときにそういうことに行きますという登録をすれば、いわば奨学金がもらえるわけですね。貧しい人たち、あるいはそういう奨学金をもらいたいという人たちが特にそれの登録をいたします。そうすると、この前のように、いざ鎌倉というときにそういう人たちに呼び出しかかかる。あらかじめサインしておりますから行かなきゃならないということになりますし、またそれ以外にも自分から手を挙げてお国のために行きたいと、まさにこれがボランティアなわけですね。  だから、アメリカでボランティアということを言う場合、戦争に駆けつける人もボランティアというふうな呼び方をしているということと、それから最後にもう一度教会のことを申し上げたいんですが、教会の力が衰えたとはいえ、やはり統計から見ますと半数近くのアメリカ人が教会に行っているということになります。教会に行っている場合、単にお祈りをしているだけじゃなくして、礼拝の後さまざまな形で地域のためにボランティア活動にいそしんでいるわけですね。そういうふうな姿が日本社会との大きな違いかなというふうに感じます。  それともう一つ、災害があった場合です。ハリケーン、それから山火事。アメリカで山火事があったときにテレビで何と言っているかというと、今回の山火事は特別危険だからボランティアの人は来ないでくれ。これはほうっておいたら大勢来ちゃうんですね。だから来ないでくれという放送をしている。これはちょっと日本では考えられない姿かなというふうに思います。
  61. 立木洋

    ○立木洋君 田中参考人竹中参考人のお二人の先生に同じ質問をしたいんですが、先ほどちょっと御説明があったかと思うんですけれども、つまり企業本来の責任、本業といいますか、その問題と社会に対する貢献とのかかわり合いというのをどういうふうにお考えになっているかという問題です。  最近になりまして企業の社会に対する貢献というようなことをいろんなところでお話を聞くようになってきたんです。さっき松岡参考人がおっしゃいましたように、なかなか新聞には出てきませんけれども。先般も浜松に行きましたら、今あそこに大きな楽器製造のあれがありますけれども、かつては楽器の町と言われていたけれども、今や市民のニーズを取り上げて音楽の町と言われるように変わるほどそういう市民との結びつきが生まれてきているというようなお話も聞きました。  ところが、本来の任務という、先ほど同僚議員もちょっと指摘されましたけれども、よい商品を必要に応じて提供できるような仕事、それから働いている従業員が安心して生活できるような条件やあるいは労働条件等々について、実際にそういうことが日本で起こってきているいろんなところへ行って聞きますと、企業城下町というところなんかへ行って聞きますと、なかなかいい反応ばかりじゃないんですね。不満があるんです。そして、何かちょっとやってくれるみたいだけれども、あれはカムフラージュだとか、いろんな批判的な声があるんですよ。  だから、本来の意味でアメリカの状況なんかとは違っている面もありますし、企業の社会に対する貢献という言葉松岡先生は余り気に食わないとおっしゃいましたけれども、責任というのがいいのか何と言うのがいいのかわかりませんけれども、本当に社会に対する企業のあり方、責任という問題あるいは貢献という問題が本来の企業とのかかわりでどう考えられ、位置づけられなければならないのか。  例えば今、大きな不況の問題が起こって空洞化が起こってくると、社会の貢献どころじゃないんですよ。どんどん海外に行ってしまうと地域経済は大変なことになる。それから公害が起こる。何年たってもこの問題に対して企業は責任を負ってくれないじゃないかというふうな問題だとか、あるいはつくった品物で事故が起こった、この責任をどうするんだと、これは大変な問題があるんです。だから私は、本来の企業のあり方、責任のとり方とその社会の貢献がどういう位置づけをされるのかということは、よく考えておかないと日本の場合これはいけないんじゃないかという気がちょっとするものですから、お二人の先生にその考え方の問題をお聞きしたいと思うんです。  それから松岡先生の方には、実は私、先生が詳しく書かれたアメリカでの企業市民というのがどういう活動がやられているかというのを読ませていただいて非常によくわかったんですけれども、そういう状態にある中でなぜアメリカではああいうふうな形が行われるようになったかという背景もよく理解できるんですけれども、例えばアメリカなんかの場合には、社会的に見てみますと、国際的にいろいろな貢献をしている企業がどれほどこの企業は貢献しているかということによって、その町では社会に貢献している企業の製品をより多く買おうじゃないかというふうな運動まであるだとか、つまり社会仕組み自体がやっぱり日本と違うんですね。  そういう中において企業がどういう企業市民としてのよりよい行動をとっていくかという問題になり得ると思うんですけれども、日本の場合、先ほど先生がお挙げになった三つの点、これは確かにそのとおりだと私も思います。その中で、日本の今の状況の中で企業として果たさなければならない社会的な貢献といいますか、社会的な責任、今、何が一番重要だとお考えになっているのか、その点を御説明いただければありがたいと思います。
  62. 田中克人

    参考人田中克人君) まず今の、利益が出ていないときとか、それから事故が起こって企業自体がそれどころじゃないという、そういう事態というのはそれは十分想像できると思うんですね。ですから、私は企業の社会貢献の中で継続性というのはとても大事だと思うんです。  その継続性をどういう形で確保するかということは常々考えに入れておかなければいけないと思うんですが、やはり単年度単年度でやっていくとどうしてもそういう問題は起こりますので、私は、企業財団をつくって、財団の方に利益が上がっているときに資金を流してその財団を通じて社会貢献をしていくという面を企業は持っておくべきだろうというふうに思います。先ほどの私の参考図の中のいわゆるフィランソロピーセクターの強化というものを企業がそういった財団づくりを通じてやっておくというようなことは考えられるだろうと思います。  それから、義務なのかどうかということだと思いますが、私は義務になっていかなければいけないと思いますし、先ほどちょっとかなりの早口でまくし立てましたのであるいは正確に伝わらなかったかもしれませんが、やはりもともと企業ができてくるときの最初のつくった人の意図というのは、それによって自分利益を得ようということだと思うんですね。そういう意味で、出資した以上それに見合った利益をとろうということでどうしても自分中心、出資者中心で会社なり社会というのが動いていたと思うんです。  それがいろんな社会の発展の中で、企業を経営している金を出した人だけで社会をつくっているわけじゃありませんから、やっぱり勤労者、働いている人たち、この人たちを大事にしなければ企業だって続いていかないというようになってきて、働いている人たちの待遇とか生活の安定なんかというものに力を入れなくちゃいけないし、これはもう当然のことというふうになってきているだろうと思います。  それから、不良品を出しても売れればそれでいいという考え方があるわけですが、そういったものも社会では受け入れられないし、そういったことはむしろ犯罪行為につながっていく。今度の製造物責任なんというのもそういう意味では企業に対して、企業の社会への責任というか、企業のあり方を問うているものだと思うんです。社会の成熟度に応じて企業というものが変質していかなければいけないんだろうというふうに思います。  そういう中で、企業市民として、今おっしゃられた例えば城下町ができれば、そこのところに製品を納めるとかあるいは部品を納めるというようなときに三々五々来てもらったのでは企業としても困りますから、当然日時を決める。そうすれば、そのときに集中すればそこの町は交通渋滞に陥るとか、企業があることによって地域社会に対して大きな変化を生んでいくわけですから、そういう意味では当然のこととして地域に対してそういった迷惑をかけているものを返していくとかというのは当たり前のことだろうと思います。  それから、もう一歩踏み込んでいけば、本来企業が物をつくって売っていくという場合、適正利潤というのをもう少しきちっとした概念をつくっていいんじゃないか。ちょっと乱暴も言葉になりますが、企業自体がある意味では許された搾取というような状態なんだろうと思うんですね。いいサービス、いい商品を提供する、それによって我々の生活が豊かになっていくわけですから、そのために対価をとるのは当然だということですが、やっぱりある一定のもの以上をとればそれはとり過ぎなんだろうと思うんですね。  ですから、許された搾取というような感じでそれが適正利潤というものをもう少しきちっと見ていって、それを超えたものは社会に還元していくとか、これからの時代において今までと違った企業の社会存在理由というんですか、そういったものをもっと考えていく。その中では当然社会貢献というものは義務化していきつつあるだろうというふうに考えております。
  63. 松岡紀雄

    参考人松岡紀雄君) 社会に貢献するそうした企業を住民あるいは消費者が評価することによってその企業がさらに伸びていく、あるいはそうした活動がさらに盛んになるというそういう姿、私はこれは望ましい姿だと思うんですが、やはりアメリカにそうした機運というものが方々で見られるということは日本として考えたいことだと思います。  例えば一つの事例で申し上げますと、私が以前勤めておりました松下電器の前の山下社長から聞いた話ですけれども、松下電器のある工場で障害者の方々が製品をつくっている。そうすると日本では、どうも製品の品質に問題があるんじゃなかろうかということで一般の方からも歓迎されない。ところが、たまたまアメリカ松下電器の担当者が日本に来たときにその話をしたら、その製品をぜひくれ、それだったら絶対アメリカでみんなが喜んでくれるということで、むしろそのことを訴えてアメリカで非常に売り上げを伸ばしたという日本と正反対の反応が一般の市民の間から出てくるということ、これはやはり私は、日本のそれこそ教育の過程で、恐らく小さいころからの教育で考えなければならない問題かと思います。  それから次の御質問で、日本の企業が取り組むべき課題は何だろうかと。私の全く個人的な乱暴な言い方をお許しいただければ、もちろん環境問題は私は大変重要だと思っているんですが、もう一つ私がいわば危機感を持っておりますのは、最近の少子化現象、つまり子供が余りにも少なくなっているという姿、これはそれこそ日本の国が存続し得るのかどうかという、大げさに言えばそこまでの問題だと思います。  なぜ子供がこんなに少なくなっているのか。この原因は幾つもありますし、また専門家の方々の分析をまたなければならないと思いますけれども、私は、若い女性の方々が安心して子供を持てる環境に今ないという姿、これが非常に問題だと思います。  そういう点を例えばアメリカと比較した場合、実はたまたま午前中こちらにお座りになった猪口先生が私の本をお読みくださって、週間朝日の書評でその部分だけ取り上げてくださったんですけれども、実はアメリカのジョンソン・アンド・ジョンソンという会社で、先ほども御紹介したように、本社や工場に大変立派な託児所をおつくりになって、従業員の方々が安心して子供を預けることができる。大事なことは、日本だとお母さんが困るのは、ちょっと子供が風邪を引いたりしたらほかの人にうつるからということで預かってもらえない。親は休まなきゃならないというような問題が現実にございます。そういうことに関してここの場合には、少々の病気でも安心して預けられる、そういう施設、設備を整えた託児所を備えているわけです。  だから、そういうふうなことも日本では、東京の都内の会社が都心に託児所を持っても、まず満員電車で子供を連れていくわけにはいかないと、そういう問題がありますから日本的な対応をしなければなりませんけれども、まず一つはそのことを考えなければならない。  それからもう一つ、私、各地で今申し上げていることは、子供を数多く持てないもう一つの理由は日本の教育費の高さだと思います。そういう意味で私は、小さな企業を含めて、たとえ一年間一人分でもいいから奨学金を各地で出し合おうじゃありませんかと。それで、奨学金を各地でプールして、例えば二人目以上の子供さんの奨学金をお互いに地域で助け合って出すとか、これだったら個人もできるかもしれません。それをまた税制上でも恩典を設けるというふうな制度、そうしたことを考える。  それからもう一つ、私は、日本の教育の大きな問題として、いわゆるクリエーティビティー、創造性を押しつぶしてしまうような教育を今やっているんじゃないかということ、これが日本の将来に非常に大きな問題になると思います。そういう意味で、これもアメリカの企業に教えられたことですけれども、企業が芸術、文化になぜ金を出すんだ、寄附をするんだという問題があります。  日本だと、ややもすればそれはイメージアップで名前を売り込んだり、あるいはいい会社だと思ってもらうためにやるんだというふうに思いがちですけれども、私が訪ねたニュージャージーのその会社の方は、いや、これは地域の子供たちの創造性を豊かにしたい、そのために企業として何ができるかということを考えたときに、やはり芸術、文化が盛んな社会というのは人々に創造性が高まってくる、そのおかげで企業も繁栄するんだと。じゃ、どうすれば創造性が高まるか。芸術、文化を盛んにするんだと。そのために有名な画家の絵を買うとかそういう話ではなくして、地元出身の若手の芸術家を支援する、そういうふうな活動に力を注いでおられるわけです。  私は、企業として、創造性創造性ということを多くの方はおっしゃるんですけれども、経営者の方に、じゃどうしたら日本社会で子供たちなりあるいは大人も含めてですけれども創造性が高まるのか、そこにぜひ知恵を用いていただきたい、そんなふうに思っております。
  64. 中川嘉美

    ○中川嘉美君 長時間にわたってお疲れかと思いますが、一問ずつ伺いたいと思います。  田中参考人に対して伺いますが、我が国企業の社会貢献活動は、経団連においても企業利益の一%をこれに充てるように指針を示すなど、最近は非常に関心が高まっているわけです。しかしながら、まだ日本においては企業の社会貢献に対する認識は不十分である、こういう意見も強いわけであります。諸外国の実情等を考慮しながら、我が国の場合、企業の社会貢献活動が基本的にどのような観点で展開されるべきかとか、あるいはまた現状のどのような点が問題であるのか。この質疑に入る前の先生の御説明でも十分理解ができるわけでありますが、最後の部分でしたか、これからは人と企業の意識を変えていかなければならないということをたしか言われたと思いますが、そのために具体的にどのような手法が考えられるのか。この辺についてひとつお答えをいただければと思います。  次に、竹中参考人でございますが、日本においては社会貢献活動は外資系企業の方が熱心であるというふうに言われております。特に日本アイ・ビー・エム社は社会貢献活動を重視しておられる企業と聞いておりますけれども、従業員に対して社会貢献活動の重要性についての啓蒙を、これからの課題ですが、今後どのように行っていかれるのか。  さらに、円滑な社会貢献活動を進めるに当たって、政策上、先ほど述べられました重点領域というもののほかに、将来的にどのような対策が必要と思われるか。将来的な問題としてお答えをいただければと思います。  最後に、松岡参考人でございますが、海外進出企業が現地といわゆる融合を深めるためには、当然社会貢献に対する姿勢というものが重要であると思いますけれども、これ以外にどのような点に配慮する必要があるかという問題が一つあると思います。  また最近、マレーシアにおいて放射性廃棄物質問題が生じたわけですけれども、こういったトラブルが出ているわけです。日本企業が海外に進出して事業活動を展開するに当たって、現地との摩擦を生じないよう十分な対策が必要ではないかと思いますけれども、基本的にどのような点が重要であるのか、この点についてお答えをいただければと思います。
  65. 田中克人

    参考人田中克人君) 人と企業の意識を変えなければいけないということなんですが、その方法論ということですけれども、人の意識を変えるとか企業の意識を変えるというのはそう簡単にはいかない、とても難しいことだと思うんです。私が先ほどからお話ししているのは、個人の意識を変えるのはやはり自分の属している組織の中にいるのではなく、そこから出ることだろうと思います。  そういう意味で、やっぱり社会参加ということを促すことが一番いいだろう。企業の中にあって毎日企業の人たちと接触していると、その企業の中の論理はよく身につくけれども社会のことがわからない、そういうことでは変わらないと思うんです。それからマスコミ自体がそういった国民の意識を変えるという方向には余りいってないと思いますので、そういう意味でやはりフィランソロピー活動を通じて社会参加を促していく。社会参加することによっていろんな人の価値観、いろんな人と出会う。そういった中で自分というものを見詰め直して、自分の位置づけというものをやっぱり変えていくしかないのだろうと。恐らく学校教育やなんかでは変わらないと思うんです。  この間も日の出町に学生と父親と泊まり込みでボランティアに行ったんですけれども、そのときなんかも、子供がボランティアに行くと言ったら、お父さんがちょっとおれもついていきたいというので、お父さんが来ているんです。今までと逆のケースで、やっぱりみんな変わろう、変わりたいという気持ちは持ってきていると思うんです。ですから、そういった人たち機会、チャンスを与えてあげるということが大事だと思います。  それで、あのときは炭焼きをやったんです。三十年物の杉の木を切り倒して、炭窯に入るように切って、それを山の上から運んできて炭窯に入れて点火するんですが、その三十年物の杉の木が一本幾らかということなんかも聞いてみると、やっぱり考え方が変わってくるんですね。三十年物の立派な杉の木ですから、みんなに言ったら、一番高く言ったのは十万。その次は三万、五万で、一万以下と言った人はいないんですけれども、実際には七百円なんです。  そういう話を聞くと、あそこに行ってあれだけ立派な木がある。それで、またその木を切るわけですから、今までの感覚からいけば、環境問題からいったら、あれだけ育った木を切り倒すということは何事かというふうになります。しかし、本当にいい木を育てるためには間伐が必要なんです。だから、小さいときから切って木を育てていくということがどうしても必要なことで、これは自然の摂理にかなっていることで環境破壊とは関係ないんだというようなことも、学生はそこで初めてわかるわけです。  それから、花粉症なんというのも、枝打ちやなんかをやらないということによって山がどんどん今放置されてきているわけです。三十年かけて七百円だったら、それはもうただで持っていってもらった方がいいというぐらいですから、そういった山の荒廃が我々の生態系にまで影響を及ぼしてきているということとか、企業の中にいてはわからないことが社会に出て全く違ったことをやることによってたくさんのことを知る、それによってやっぱり変わっていくと思うんです。  ですから私は、そういった機会をどんどんとこれからつくっていく、企業自体がそういった機会をつくろうとしていることが企業の健全化が期待できる部分だろうというふうに私は思っております。  それから、企業の意識を変えていくのはどうしたらいいかというと、これに関してはやっぱり世論だろうと思いますし、その世論に動かされて今各役所がいろんな形で提案しています。先ほどの一・六%もそういう意味では企業に意識を変えさせるための一つの方法でしょうし、厚生省や労働省がボランティアの云々とかを出してきているのもそうでしょう。世論によって行政が動く、それが企業を変えていくというふうなことで、やっぱりそういう意味では世論づくりが本当に正しい方向でやられていくということがとても大事なことだと思いますが、必ずしも今この社会貢献問題に関してマスコミが十分に理解しているとは到底思えないです。  今、恐らく政治部記者の人たちにフィランソロピーと聞いて歩いたってほとんど知りません。そういうような状況ですから、そういった人たちの意識をどうして変えていくか。ですから、新聞社の人もボランティアの記事を書くだけじゃなくて、まず自分でやってほしいなと思います。そういった人たちも含めて社会参加させていくというふうなことで変えていくんだろうかなというふうに思っております。
  66. 櫻井規順

    会長櫻井規順君) 竹中参考人、ちょっと私の不注意で失礼しました。前の立木理事の質問にもあわせてお答え願いたいと思います。
  67. 竹中誉

    参考人竹中誉君) わかりました。  それでは、ちょっと恐縮でございますが、先ほどの本業と社会貢献の関係をどう考えるかということにつきまして私どもの考えを御紹介させていただきたいと思います。  私は、社会貢献活動というのは企業が存続、発展していくための重要な活動だというふうに考えておりまして、いわゆる製品、サービス、よりよいものを提供して金をもうけまして税金を払っていくという本業はもちろん大切ではございますが、それだけではだめだという認識が広まってきているんだと思うのでございます。これは、国の発展度合いでございますとか企業のサイズ、発展度合いというふうなことにもかかわると思います。  ちょっと余りいい例じゃないかもしれませんが、野球選手にいたしましても、無名の間は野球さえうまけりゃいいと思うんですが、すっかり一流選手になりますと、野球の技術がうまいだけではもう一つファンに受け入れてもらえないというふうな、大変雑な比喩でございますが、そういったレベルに日本の企業あるいは日本の国家が達してきているんじゃないかというふうに考えております。  したがいまして、企業にとりましての社会貢献活動というものは博愛主義ではないと言うと言い過ぎかもしれませんが、博愛主義のみではなくて、みずからの存続、発展のための環境整備だろうというふうに私は考えております。  環境というのもいろいろございますが、顧客に対する環境、社員に対する環境社会に対する環境、株主に対する環境という考え方ができると思いますが、博愛ではないという言い方を単純に言いますと、先ほどちょっとお話の出ました公害問題、公害を起こして訴訟で争ってそれにかかる費用と、事前に公害を防止するために手を打ったときとどちらが得かという、多くの場合、事前に公害を防止した方が企業にとっては損得計算が得の方にあれするという研究結果もなされております。  ちょっとそこまで単純に言っちゃいますと味もそっけもなくなりますが、基本的には存続、発展のための活動というふうに位置づけております。  それから、私の一番最初の話のところでちょっと補足をさせていただいたんですが、私は日本企業というのは結構社会貢献活動をやっているというふうに考えておりまして、単純に言うと、どうもそれが明確な理念、明確な考え方によって整理をされていないために、いいことはいろいろやっているんだけれども、どうも位置づけが明確じゃないために余り理解されない。PR下手と言うとちょっと語弊がございますが、そういううらみがあるんじゃないか。だから、そこのところをもうちょっと理念レベルから整理をしていくことが必要なんじゃないかということを申し上げたかったわけでございます。  私どもの社内での社員への理解を図るための活動でございますが、管理者教育、課長教育、部長教育なんかのプログラムの中でも必ず取り上げておりますし、また私どもの社会貢献活動というものを社内の新聞、雑誌等で随時紹介をいたしましたり、一年に三回ぐらい幹部社員を集めましての会議なんかをやりますが、そういうときにも必ず社長からそういったことの重要性を述べるということをPRとしてはやっております。  もう一つは、やはり一番重要なのは社員を参画させていくということだろうと思いまして、これは先ほどちょっと御紹介をいたしましたボランティアサービス休暇・休職、あるいは社員のいろいろな施設に対する寄附の援助というふうなことに加えまして、ボランティア何でも電話相談というふうなことで相談受け付けという対応もしておりまして、できるだけ社員を参画させていくということでございます。  しかし、ちょっとこの件あたりで驚きましたのは、むしろ社員の方からの、特に若手社員のこういったものに対する意識が大変高いということを痛感しておりまして、これはやはり日本社会の全体の流れじゃないかという気もいたしますので、長期的にはかなりいい線が出るんじゃないかというふうに考えております。  それから、私どもの重点領域、今後さらに何か新しいことを考えておるかという御指摘でございますが、新しい領域というものを超えることは今ちょっと考えておりませんで、現在のものをもうちょっと充実をさせていきたい。特に国際交流の分野というので、今はアジアからの留学生に奨学金を出すとか、日本の学者の方々に私どもの経費で向こうの研究所に行っていただくというふうなことをささやかにやっておりますが、もうちょっと幅広くこの辺を考える必要があるんじゃないかなというふうに考えております。
  68. 松岡紀雄

    参考人松岡紀雄君) 最初の御質問の部分は、先生恐らく御着席の前にちょっとお話させていただいたことかと思うんですけれども、企業としてこうしたいわゆる社会貢献の以前に、やはり本業でもって社会貢献するということが不可欠だと思います。  それは、一つは雇用を生み出すということもありますし、あるいは新たな技術を生み出して、それを通じて社会に貢献するということもあろうと思います。あるいは利益を上げて税金を納める。あるいは海外に出た場合に、とりわけ現地で部品その他を調達するというのが現地社会の発展のために大きく貢献いたします。また、現地の人たちを幹部として登用していく。あるいは現地のさまざまなグループの声に耳を傾けていく。その社会の一員となるということが重要だと思うんです。  最近、ステークホルダーという言葉日本語としても非常に広く知られるようになってまいりました。これはどういうことかというと、ストックホルダー、株主という言葉に非常に似ているわけですけれども、従来株主のお金でもって企業はつくられてきた。とりわけ、アメリカ企業はストックホルダーの期待にこたえることが経営者の最大の責任だというふうに言われていたんですが、株主以外に重要な人たちが企業を取り巻いているんだという意味で、利害関係者という意味でステークホルダーという考え方が出ております。つまり、企業を取り巻く従業員もそうですし、お客さんもそうですし、取引先もそうです。地域社会もそうですし、あるいは政府もそうです。そうしたさまざまなステークホルダーと私は健全な関係を築くということを言っておりますけれども、これが企業として非常に重要な時代になっていると思います。  先ほどマレーシアの例をお出しになられたわけですが、ああいうことはやはり外国であろうとどこであろうともあってはならないことで、ただ問題は、企業が組織として非常に大きくなったときに、社長がいかにちゃんとした考え方を持っていても、その末端できちんとそうした対応ができるというのは実は組織として非常に難しいわけです。  そういう意味で私は、経営者として大事なのは、先ほどIBMさんからも御紹介ありました、我が社は何のためにあるのだという企業理念といいますか経営理念というものをはっきりと打ち出して、それを何万人何十万人の企業であろうとも隅々にまで徹底する。それをただ額にかけて張ったぐらいでは徹底しょうがないわけで、アメリカの企業などにも例外はありますけれども、それを繰り返し繰り返し実際の場面でどういうふうに当てはめるのかということを議論し合って、日ごろから頭にたたき込んでおくというか、そういうことが必要だと思うんです。  それから私は、社会としては今どちらかといえば余りにも批判ばかりし合う社会日本はなってしまっているんじゃないかと思います。つまり、悪いことをしたらとにかく徹底的にたたかれるわけです。ところが、とりわけいいことをした企業を称賛するという姿勢が非常に私は欠けていると思います。それで、企業はどちからといえば、私は広報が専門ですけれども、傾向としては何もかも隠す方向に動いてくるわけです。これは結果として私は健全なことにならないと思うわけで、アメリカもそうですけれども、すばらしい活動を絶えず称賛する、そういうことを意識的にしていいのではないか。  それから、今の御質問ではなかったんですが、先ほどのことにひっかけて一つだけ追加させていただきたいのは、高齢化社会に今向かおうとしているわけですけれども、日本で高齢化社会という場合にいかに高齢者を保護するか、助けるかという議論をしているわけです。  ところが、私は数週間前にアメリカに調査に伺いまして、非常に頭を打たれるようなショックを受けたんですが、アメリカの発想は逆なんです。むしろ高齢者の方々にいかに社会に貢献するチャンスを与えるかということなんです。だから、まずアメリカにはそもそも法律上の定年というものはございませんけれども、しかし六十歳なり六十五歳なりで仕事を退かれ、まだ元気だ、能力も持っている、意欲も持っている、そういう方々が地域でさまざまなボランティア活動をする機会を民間及び政府機関の中に推進する機関ができているわけです。そうした形で推進している。  私は、それのお世話をしておられるニューヨークの方に、この方もおじいさんですけれども、一体ニューヨークのボランティアで一番の高齢者はお幾つですかと伺ったら、答えは何歳だとお思いになられますか。百九歳ボランティアだと。どこでボランティアをしているかというと、病院なんです。病院が一番高齢者にボランティアしやすいんです。例えば患者さんの洗濯物を畳む、あるいは高齢者の患者さんの話し相手になるということはそうした方にもでき、そして生きがいを感じる。私自身、ああそういえば万一ちょっと倒れてもすぐ面倒を見てもらえるなという気にもなったわけです。そういう動きはもちろん日本国内にもあるんですけれども、何か意識の転換というのを図っていいのではないか、そんな感じがいたしております。
  69. 櫻井規順

    会長櫻井規順君) まだ御質疑もあろうかと存じますが、予定の時間が参りましたので、以上で参考人に対する質疑を終了いたします。  参考人皆様一言御礼申し上げます。  参考人皆様には、長時間にわたり有益な御意見をお述べいただきまして、まことにありがとうございました。ただいまお述べいただきました御意見につきましては、今後の調査参考にさせていただきたいと存じます。本調査会を代表いたしまして厚く御礼申し上げます。ありがとうございました。(拍手)  なお、本日、参考人から御提出いただきました参考資料のうち、発言内容把握のため必要と思われるものにつきましては、本日の会議録の末尾に掲載させていただきたいと存じますので、御了承願いたいと存じます。
  70. 櫻井規順

    会長櫻井規順君) 次に、派遣委員の報告を聴取いたします。尾辻秀久君。
  71. 尾辻秀久

    ○尾辻秀久君 委員派遣の概要について御報告申し上げます。  櫻井会長藁科理事、長谷川理事、山下理事、立木理事、合馬委員、関根委員、楢崎委員、佐藤委員、南野委員、瀬谷委員、森委員、星野委員、萩野委員と私、尾辻の十五名は、去る三月十五日から十七日までの三日間、静岡県、大阪府において産業資源エネルギー問題に関する実情調査を行いました。また、その一環として、十五日の午後、浜松市において地方公聴会を開催いたしました。  一日目は、まず浜松市において、バスの中で関東通産局から管内の概況説明を聴取した後、財団法人浜松地域テクノポリス推進機構及びテクノポリス浜松市都田開発区を視察いたしました。  浜松地域テクノポリスは、昭和五十九年三月に通産省から地域指定を受け、既存の産業技術集積を基盤として、音と光と色の未来都市をテーマに、産学官の調和を図りながら地域づくりが展開されておりました。視察しました推進機構は、その中核主体として技術情報の収集、提供、異業種交流の促進、人材の育成を図るとともに、地域産業技術高度化の支援等を実施しておりました。  また、都田開発区は、浜松市の開発したテクノポリスの中核拠点であり、二百四十二ヘクタールに及ぶ六十八区画全域の分譲が終了しておりました。内発型開発と言われているとおり、これらの約七割は地元企業が占めており、また、六十四社は既に操業を開始しておりました。  午後は、ホテルコンコルド浜松におきまして、静岡県における企業行動を初め、従業員活動、消費者活動、社会貢献活動等について、地方公聴会を開催いたしました。  公述人は、石川嘉延静岡県知事、上島清介ヤマハ株式会社代表取締役社長、野口武利連合静岡会長、佐藤和子株式会社ソナティ・エイト代表取締役、鈴木晨夫財団法人静岡総合研究機構副理事長の五名で、意見陳述の後、質疑が交わされました。  まず、石川公述人からは、静岡県管内の景気動向について、輸送用機械、一般機械等の輸出比率の高い業種が集積しているため、昨今の円高の影響を強く受けており、雇用の減退と産業の空洞化等の懸念が示されました。そのような状況のもとで、静岡県は産業の高度化、地域の活性化へ向け、取り組みとして、社会資本の整備、産業集積の促進、技術開発、静岡ブランドの情報発進、学術、教育の振興、高齢化・少子化社会への対応等広範多岐にわたる施策を推進し、地域間競争に勝ち抜きたいとの表明がありました。  次に、上島公述人からは、現在、企業は価値観、戦略、マネージメント、労使関係などすべてにわたって変容を迫られており、企業と地域の関係についてもこのような変化の中でとらえることが必要と強調されました。その場合、産業経済の問題、地域コミュニティーの問題の二面から考えることができるが、前者については、需要構造、産業構造、円高等の一企業の枠を越えた変化が進み、人員削減や生産拠点の海外移転等も行われており、雇用による企業の地域貢献には限界があるとし、この問題についてはむしろ行政の果たすべき役割が大きく、テクノポリス構想のように、企業の持つ知恵、技術、人材などを生かせる施策が望まれること。後者については、企業のメセナやフィランソロピーは、景気や企業間の横並び意識によらず、企業哲学に基づく行動でなければならないとし、また企業は従業員を会社に縛りつけるべきではなく、地域コミュニティーや家庭に戻すことも必要であること等の見解が示されました。  次に、野口公述人からは、戦後約五十年を経過した我が国の経済はある意味で峠に差しかかっているのではないかとの懸念が表明され、その中で輸出関連産業については、工業製品技術蓄積の薄さが表面化しているとの指摘がありました。その一方で、次世代産業をいかに構築していくか等についての国家戦略がないこと、また高齢化、少子化で必須となる外国人労働力の受け入れ体制が不備であること、個性を伸ばす教育がなく独特の技術が生まれにくいこと、国際化の中で英語教育も不十分であること等の指摘がありました。  次に、佐藤公述人からは、地域の暮らしの質を高め、地域社会をより豊かにするため、企業と消費者の協同が求められており、これにより地域で生産されるものの質の高さが暮らしに反映され、消費者主導の物づくり、市民的ネットワークによる流通も期待される等の見解が述べられました。そして、企業と消費者とが地域のアイデンティティーを共創できれば地域の活力が生まれることから、行政はこのような新しい発想が実践できるように情報提供、条件整備を進めてほしいとの意見が述べられました。  最後の鈴木公述人からは、企業の役割の中で今日メセナ、フィランソロピー等社会貢献活動に関心が高まっており、静岡県内の企業へのアンケート調査でも、八〇%以上の企業が企業市民との意識を持ち、これに取り組もうとしている等の実態が述べられました。そして、これらの企業の活動は地域社会の企業の信頼を高めるものであり、今後発展させていくため、行政に対しては税制上の優遇措置のほか、社会貢献活動の事例集、マニュアルによる情報提供等を要請しておりました。また、企業もリサイクルの推進等社会的要請にこたえていくほか、人材、技術、サービスといった経営資源を生かし、横並びでない各企業なりの特色を出して長期視点からの社会貢献活動に取り組んでいくべきである等の意見が述べられました。  以上の公述人の意見聴取に対して、派遣委員からは静岡県における産業空洞化阻止に向けた施策、同県における中小企業の現状とその育成策、従業員のボランティア活動へ向けた環境整備、高齢化社会への対応等についてそれぞれ質疑が行われました。  二日目は、まずスズキ株式会社湖西工場を視察いたしました。  自動車産業は経済の低迷と円高により厳しい経営環境にあり、スズキも売上高、生産台数とも前年度に比ベマイナスとなっております。このため、設備投資も合理化、効率化、エネルギー対策などに重点を置くとともに、バブル時代に急激にふえた部品数の共通化を図りコストの削減に努めております。なお、当工場は軽・小型乗用車等の完成車組み立てを行っており、また夏祭、サマーフェスティバル等の地域交流、浜名湖クリーン作戦、乳児院慰問など地域活動。にも力を入れております。  午後、大阪府に入り、バスの中で近畿通産局から管内の概況説明を聴取した後、三洋電機株式会社ニューマテリアル研究所を視察いたしました。  当研究所では、太陽電池の高効率化、高信頼化及び太陽光発電システム技術を研究しており、単結晶及びアモルファスのシリコンを利用した製造プロセスを保有しております。ソーラーエアコン、スレート式太陽電池がわら、単結晶シリコン電池の製造システム等を視察しました。また、研究所側から、太陽電池モジュールコストは現在一ワット当たり千円であるが、二〇〇〇年には二百円を目標に取り組んでいる。今後の課題として、技術面では太陽電池の性能向上、インバーター、保護装置等システムコストの低減、需要の喚起面では個人住宅や公共施設への補助の拡大、ODAの活用が挙げられました。  三日目は、まず関西電力株式会社関西国際空港エネルギーセンター及び関西国際空港熱供給株式会社を視察しました。  我が国初めての二十四時間運用可能な関西国際空港が、本年九月開港予定となっております。当エネルギーセンターでは、大阪ガスより燃料の供給を受けてガスタービンにより四万キロワットの発電を行い、空港内に電気供給するほか、その際発生する廃熱を関西国際空港熱供給株式会社に供給、空港内の地域冷暖房を実施することにしております。こうしたコージェネレーションシステムによって熱効率は七〇%と飛躍的に改善されることになります。なお、空港島の地盤沈下が課題となっておりますが、その対策としてくいにジャッキを採用し、沈下の修正を行っております。  次に、大阪ガス株式会社泉北製造所第二工場を視察いたしました。  大阪ガスは、近畿二府四県の約五百六十万戸を対象にクリーンエネルギーであるしNGを原料とした都市ガス等を供給しております。当施設は、インドネシア及びオーストラリア産のLNGを受け入れ、同社生産量の五〇%に当たる年間四百四十万トンの都市ガスと発電所用ガスを製造しております。  以上でありますが、最後に、今回の調査に当たり御協力をいただいた関係各位に厚く御礼を申し上げ、報告を終わります。
  72. 櫻井規順

    会長櫻井規順君) 以上で派遣委員の報告は終了いたしました。  本日はこれにて散会いたします。    午後五時八分散会      ―――――・―――――