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参考人(
岡本祐三君) 御紹介いただきました
岡本でございます。
高齢化社会に
対応する一番の問題はやはり寝たきり老人の介護だというふうにことしの総理の施政方針にも出てまいったわけでございますが、
最初に申し上げておきたいのは、今私どもが医療の場でも一番困っているいわゆる寝たきり老人の介護問題、この長期にわたる寝たきり老人の介護問題というのは、昭和四十年代以降
日本の
社会にあらわれてきた非常に新しい問題である、過去の私どもの
社会にはなかった問題であるということを、後からいろいろ立証したいと思いますが、昔から
日本では寝たきり老人の介護というものは家族がやってきたんだというふうな問題ではないということを
最初に申し上げておきたいですね。
今の医療と福祉の最大の接点の問題であります病気とか障害を持った
高齢者の長期介護、長期ケアの問題、これの構造的な背景を
最初にスライドを使って申し上げたいと思います。(スライド映写)
よく言われておりますが、これは
日本人の平均寿命の延びでございます。女性の場合、一九五〇年当時六十二歳ぐらいであったのが現在八十二・二歳になった。平均寿命で八十二歳ということは、これはゼロ歳で亡くなった赤ちゃん、四十歳で亡くなった御婦人、そういう方も全部入れての平均でございます。例えば
高齢化問題が一番問題としてきます六十五歳まで存命された方ばかりを集めますと、
日本女性の平均寿命は八十五歳から八十六歳ということになるわけでございます。男性ですと八十歳ぐらいになります。
厚生省の
調査でも、寝たきり老人の発生率は大体七十五歳以上になりますと三五%というふうに言われておりますから、現在平均寿命が八十二、六十五歳以上の方の平均寿命が八十五ということになれば、すべての
国民のうち三人に一人が寝たきり老人というか介護を要する状態になる。ということは、要介護という事態は
国民皆リスクであるということでございます。
日本のこういう
高齢者の扶養・介護問題に関して家族問題を抜きに語ることはできないのでありますけれども、
日本では伝統的に、旧民法における家族
制度、あるいは
制度に規定されたものでない家族というものが寝たきり老人を介護してきた、あるいは老人を支えてきたという理解があるわけですけれども、これは果たして本当にそうであったかということをちょっと別の観点から見てみたいんです。
これは
日本人の自殺率の経年的な推移をあらわしたグラフでございます。一番端が昭和五年、戦前でございます。右端の方が昭和五十年です。これが一般の全
年齢の自殺率の平均でございます。上のこのグラフが老人の自殺をあらわしております。
日本は御存じのように、先進国の中では特に女性の老人の自殺率が非常に高い。ハンガリーに次いで世界第二位でございます。特に目立つのは、同居世帯の老人に自殺が多い。老人で自殺する方のうち約六十数%は同居世帯であって、老人単独世帯とか老人夫婦だけの世帯の
高齢者が自殺するということは余りございません。主として同居ストレスというか家族と一緒に住んでいるために起こるストレスあるいは孤独、そういうものによって老人は自殺することが現在は非常に多いわけであります。
これはどうしてかといいますと、一人で住んでおって感じる孤独というのは、これは当たり前でありますが、だれかと一緒に生活していて感じる孤独というのは、これは相手から排斥されている、疎外されているわけでありますから、もっとこたえるわけですね。そういう
意味で言えば、同居によるストレス、そういう孤独感というものが逆に非常に老人を自殺に追いやる原因にさえなる。この老人の自殺の傾向を見ますと、
日本は今世界でも有数の老人の自殺大国ではございますが、それでも
日本の歴史の中では老人の自殺は現在は一番低いわけです。
非常に興味深いというか関心が持たれますのは、旧民法の中で家族に老人の扶養というものが特に
子供に非常に強固に法的に義務づけられておった戦前の時代に、老人の自殺というものは現在の一・七倍近くもあったということでございます。老人の自殺の第一原因はずっと病苦でございまして、この病苦も結局は長期にわたる慢性のそういう病気でございます。戦前の
日本の老人は強固な家族
制度に守られて自殺など考えもしなかったろうというのは、これは一種の神話的理解であって、実は戦前の貧しい時代に老人の自殺率というのは非常に高かった。これは、
日本の家族というものがいかに一種脆弱な構造を持っていたか。
現在、寝たきり老人問題がなぜ
社会問題化したか。家族の介護力の低下ということが言われるのでありますけれども、医療の現場におります私の実感から言えば、もともと
日本の家族には長期にわたる
高齢者の介護を支えるだけの介護力などなかった。ないところに大変な問題がここ二、三十年降りかかってきて、それが非常に世帯破綻の要因になってきている。もともと介護力というようなものは極めて小さかったというふうに考えるわけであります。
さて、こういう寝たきり老人でございますけれども、最近、寝たきり老人というのは寝かせきりによってつくられていくものである、この認識は非常に普及してまいりました。寝たきりになる医学的原因のトップは現在脳卒中でございます。その次が骨折、その次が筋肉とか関節の疾患、リューマチとか関節炎とか、そういう病気でございます。
そういう病気とかけがで一時的に生命の危機に瀕する。しかし、命を助ける救命的な医療というものは
国民皆保険
制度とか老人医療無料化
制度によって非常に普及したわけでございますが、命が助かった後、障害が残る。この生涯にわたる障害というものを回復させていくリハビリテーションであるとか、在宅に戻った場合にその機能を回復させて維持させていく、そういった医療と福祉を
統合化した援助システムが極めて貧弱であったために、
日本では多くの老人が、脳卒中や骨折とか関節疾患とかそういうもので体が不自由になった場合に、ただ生存させるだけのレベルのサービスしか提供できなかった。そのために寝かせきりの寝たきり老人というものが現在約七十万人もできてしまった。’
人間の体というのは絶えず動かしていてこそ関節が動き、骨は丈夫になり、筋肉は力が保たれるわけでありますから、寝かせきりにしますと、まず関節がかちかちに固まってしまう、筋肉や骨もどんどんその力が衰えていく、そして棒のような寝たきり状態というものができるわけでございます。
ここで重要なことは、寝たきりの原因は脳卒中とか骨折とかそういう病気やけがでございますが、私ども医者の世界、医療の世界でも、脳卒中性寝たきりとか骨折性寝たきりとか、こういう言い方はしないわけであります。つまり原因になった病気やけがは現在はほとんど問題でなくなっている。問題になるのは寝たきりという状態そのものです。御本人が
自分では動くことができない、つまり障害を持った存在である。ということは、寝たきり老人問題をこれまでえてして私どもは病人扱いしてきたわけでありますけれども、これは大変な間違いで、寝たきり老人の本質は高齢障害者であるという認識が非常に重要であろうと思うんです。
日本の場合これを医療の分野でやむを得ず吸収してきた歴史もございますけれども、北欧なんかのいわゆる寝たきりゼロと呼ばれている
社会は、
最初からこれを障害者対策ということで対策してまいりました。障害を持った存在であるから、その第一義的な担い手は
社会福祉サービスでございます。
社会福祉によって障害を持った生活を支えていく、その上に医療であるとか看護というものが乗っていく、これが実は正しい対策であって、
日本の場合、昭和四十年代以降この対策が非常に間違った。医療しか受け皿がなかったからやむを得ないのでありますけれども、そのために寝たきり老人大国という大変一種悲惨な状況を招いてしまったと思うわけであります。寝たきり老人の本質は高齢障害者である、これをまず押さえていただきたいと思います。
こういうふうになりました最大の要因は疾病構造の変化でございます。これは全疾患に占める感染症、急性疾患と、成人病の受療率、医療を受ける人々の割合を昭和三十年から昭和六十年まで比較したものでございますが、昭和三十年当時は圧倒的に感染症、急性疾患が多かったわけであります。成人病、慢性疾患は非常にわずかでございました。それが三十年間で全く比率が逆転しまして、今や感染症よりも成人病、慢性疾患で医療を受ける人の割合がうんとふえました。
慢性疾患というのは急性疾患とどう違うか。急性疾患の中心をなします感染症というのは、病気の原因が体の外からやってくる。慢性疾患というのは体の内側から年をとるとともにわいてくるわけでありますから、一生治らない、内臓や手足に一生にわたる障害を残す、これが決定的な相違であります。
慢性疾患の代表的なものは高血圧でございます。高血圧によって起こる脳卒中、この
死亡率と患者さんの数の変化を見てみますと、脳卒中の
死亡率は救命医療、医療の発達などによりまして非常に急激に低下してまいりました。しかし、命は助かるのでありますけれども、そこで障害を持ったままずっと生存していかれる条件がそろってきた。そこで
死亡率は下がるけれども患者さんの数はどんどんふえていく。
死亡率が下がることによって逆に病人の数がふえていく、障害を持った人の数がふえていく、これが慢性疾患の大きな特徴でございます。感染症の場合には
死亡率が下がれば患者さんの数そのものが減っていく。しかし慢性疾患の場合は逆の関係になります。
これは非常に問題の所在をクリアにあらわしているのでありますけれども、身体障害者の方の数の経年的な変化でございます。黒い棒が昭和四十五年、一九七〇年の数字であります。白い棒が昭和五十五年、一九八〇年の数字でございます。これを見ますと、この十年間で十代、二十代の若年層では身体障害者の方の数は変わっておりません。ところが七十歳代では、昭和四十五年に二十六、七万人であった障害者の方の数が、その十年後には約五十六、七万人と二倍以上に急増しております。何十万人もの高齢障害者が一九七〇年から一九八〇年の間に生じてきた。
こういう大きな問題がどうして
社会問題にならなかったか。
日本の高齢障害者は、そのほとんどが家庭とか老人ホームとかあるいは病院とか、そういう屋内に寝かせきりの閉じこもりきりで隔離されてしまった。
社会的隔離現象が起こったためにこの問題の所在が多くの人々の認識に上らなかった。長寿
社会というのは実は大量に高齢障害者が発生する
社会なんだということの認識が非常におくれたわけでございます。
亡くなる前の時期別に見た床についていた方の割合、これを寝たきりというふうに簡単に解釈いたしますと、亡くなる二年前から寝たきりになる方が一八・七%、五人に一人である。亡くなる一年前から寝たきりになる方が二六・五%、四人に一人である。亡くなる半年前から寝たきりになる方が三七%。つまり、全
国民のうち四人に一人、三人に一人は一生の間に必ず介護を受けないといけない状態になる。長寿
社会というのは、こういう高齢障害者の問題がすべての人の
人生の最終段階に待ち受けている、こういうことでございます。
介護というのは非常に大変でございまして、ちょっとほっておきますと医学用語で褥瘡、床ずれができてまいります。寝かせきりによって体重が体の一点に集中してかかるためにそこの血行が悪くなって腐ってくるわけですね。これを防ぐには大体四時間ごとに体の向きを変えなくちゃいけない。それからマッサージをして、栄養のあるものを食べてもらう。これを二十四時間態勢で土日なしでやるわけでありますから、極めて過酷な
労働でございます。これを家族だけに負わせますと、家族らしい情愛というものがその過酷な肉体
労働によって奪われてしまう、これはもう当然のことであろうかと思います。
長寿
社会というのは
日本の家族関係にも非常に大きな影響を及ぼしまして、これは模式図でございますが、一九三〇年、昭和初期には
日本女性の平均寿命が六十二歳、女性が夫と死別するときの平均
年齢が五十七歳でございました。一九六〇年代、妻が夫と死別する平均
年齢は六十七・五歳でありました。それが現在は七十四歳に上がりました。
夫と死別するときの妻の平均
年齢が七十四歳。そうすると、夫が
人生の最終段階で障害状態になって介護を要するときに、七十四歳の妻に一体どれだけの介護力が期待できるか。六十代でしたらまだまだ気力も体力もあるわけです。しかし今や七十四歳。そういたしますと、夫が六十三、四歳のときに、いよいよあした定年だと奥さんの前に改まって座って、長いこと苦労かけたな、もう一遍わしが寝たきりになったらあんた介護よろしく頼むと。仲のいい御夫婦であれば、奥さんが、ああ心配要らぬよ、一生懸命私が面倒見てあげるからと幾らかたく約束をなさいましても、いざそのときになると体がもう言うことを聞かない。仲のいい御夫婦でも大変でありますから、仲が悪いとここで悲惨な状態があらわれてくるわけでございます。こういうように
配偶者が
高齢化していったために、夫婦の愛情関係とか人間関係とは関係なく、もう
配偶者が介護できなくなってきている。
こういう老夫婦の世帯が非常にふえてまいりました。私はことし五十になりますが、私の親
世代が大体こういう
年齢構成でございます。今、
日本の五十ぐらいのキャリアウーマンの一番の心配事は、もし親が倒れたらどうしよう、それがまさにこういう
年齢構成の親
たちを抱えている五十前後の女性
たちです。
夫が八十五、六歳、妻が七十九歳ぐらいですか。まだこの夫は寝たきりではございませんから、半分寝たり起きたりで、この老いた妻が食事の世話ぐらいできれば何とか夫婦の自立生活は成り立つ。万年床が敷いてございまして、万年ごたっがある。ティッシュはふんだんにありますし、エビせんべいがあって、病院からもらった薬もある。なぜかファイト一発リポビタン何やらというドリンク剤が置いてありますけれども、多分この後ろの棚には敬老の日にもらった金杯ぐらいは置いてあるんだと思いますが、こういった老夫婦が田舎にたくさん残されてきて、都会に出てきている五十前後の
日本の娘
たち、息子
たちの一番の心配の種になっている。
いよいよ寝たきりになりますとこういう様子になるわけでございます。これは夫が八十六歳、妻七十五歳、完全に寝たきり状態でございますが、私どもの病院から訪問看護週一回、市の方からホームヘルパー週二回、隣の市に住んでいる娘さんが毎週土曜日にやってきて手伝っている。ぎりぎりの生活を続けている。いっ共倒れになるかわからないという状態が極めて平均的な風景でございます。
これは母親が九十五歳、娘が七十二歳。これからの母娘というのは最終的にこういう風景になる。娘といっても決して若いものじゃなくて立派な老人である。
最近の
調査では、赤ちゃんが生まれても男の子より女の子がうんと歓迎されるようになってまいりました。昔は女の子が三
人生まれると家が傾くと言われたものですけれども、今はもう大喜びですね、三
人生まれたら。老後の頼りになるのは息子じゃなくて娘だという認識が非常に行き渡ってまいりましたけれども、一種危険な現象として、最近寝たきり老人の介護者のランキングが変わってまいりました。一位はやっぱり
配偶者でありますが、嫁というのが第二位の座を滑り落ちまして、このごろ第二位が娘に変わってまいりまして第三位が嫁である。嫁がだめなら娘へという危険な乗りかえ現象が実際起こってきている。けれども、娘といえども母親が九十超えればもう七十近いわけですね。娘さんが三人いても七十近い三人姉妹がぞろっとそろうわけでありますから、介護戦力としてはほとんど当てにできない。家族介護というものは構造的にもう破綻を来しかけております。
それで、老人と
子供の同居の問題を少し取り上げてみます。
日本では
子供が老人と同居して介護してきた。これが
日本の伝統的な美風である。ところが実際は、国際的に見てみますと、一九五〇年代、アメリカ、イギリス、ノルウェー、フィンランド、スウェーデンでもこうですね。欧米諸国でも、要するに第一次産業、農業とか自営業、そういうものが非常に多い時代には老人と
子供の同居率は結構高いわけですね。それが、
社会が工業化
社会に入っていくとともに家族は急速に縮小、解体されていきます。
日本でも一九七〇年代から本格的な工業化
社会に入るとともに同居率は急降下していく。
結局、
世代を超えた者の同居構造というものは、いわゆる家業、その家に自営業というものがあって、同じ生産活動に従事する中でその生産のための技能が親から
子供に時間をかけて伝承されていく、親
世代の知識とか技能がずっと役に立つ、あるいは親子二
世代が一緒に働くことが生産活動としても非常に効率がいい、そういう中で成立するわけでございます。
ですから、今のテレビドラマなんかでも
世代を超えた人間環境を描こうとすれば、必ず京都の漬物屋さんであるとか大阪の旅館であるとかあるいは信州のみそ屋さんであるとか。先生方はテレビをごらんになる時間はないでしょうけれども、今一番人気のあるドラマは越後の造り酒屋の「夏子の酒」というドラマがございますが、全部そういう家業というものがある世界で描かれている。家業のない世界で
世代間の問題を描こうとすると、やっぱり「ダブル・キッチン」の世界になってしまうわけですね。こういう自営業というものがどんどん崩れていく中で、同居構造というのは必然的に崩れていかざるを得ないわけです。
三世帯同居の世帯数は、
日本全国で一九七五年で五四%、九〇年で四〇%、大都市近郊では二五%。これは、家族間の人間関係の変化ではない。
子供が親孝行の気持ちを失ったとかそういうことじゃなくて、産業構造の変化そのものが家族を縮小解体していく。そうでなければ産業そのものが成立しなくなっていくわけでありますから、この構造はどんどん進まざるを得ないですね。
それから、働く女性の増加。四十台、五十台の女性が働いている割合は、六〇年代では二〇%、七〇年代三〇%、八〇年代に四五%。現在五〇%を超えておりますから、専業主婦のようにずっと家にいて老親を介護できる、そういう女性はいわば天然記念物のようにどんどん減っていかざるを得ない。これも産業構造の変化のなせるわざでございます。
同居構造として三世帯同居と国勢
調査ではあらわれている世帯でも、私どもも訪問看護などしましてよくわかったことは、同居はしているんですが息子夫婦、娘夫婦は昼間働きに出ている、老人は昼間ひとりで寝たままで暮らしている、こういう風景でございますね。ずっと寝かせたままで、ベッドのところにお弁当が置いてあって、お茶が置いてあって、そばにポータブルトイレが置いてある。横の壁にはいざというときにかける電話番号があって、コードレステレホンが置いてある。こういった日中独居と申しますか昼間独居である一種空洞化した同居構造というのが結構あって、こういう状態で果たして介護と言えるのかどうか。要するにほったらかしである。こういった同居構造も実は入ってみればたくさんあるわけでございます。
この大きな変化を形成してきたバックグラウンドはこのような産業構造の変化でございます。一九五〇年代、
日本でも第一次産業はまだ五〇%ぐらいあった。これがこの約三十年間で約一〇%以下に減る。この大きな
就業構造の変化というものが家族形態というものを根本的に変えてしまった。この中で起こってきた問題である。
先ほど七十五歳以上の
高齢者が障害者になっていく割合が約三五%あると申しましたが、これは
日本の女性の生存パターンの変化をあらわしたグラフでございます。
どういうふうに見るかと申しますと、一番下のカーブはこれは明治二十四年の第一回の
調査でございまして、こちらが平成二年、最終の
調査でございます。ゼロ歳のときに十万人女性が生まれる、これを簡単に十人というふうにいたします。そうしますと、明治二十四年から昭和初期にかけて、ゼロ歳で十
人生まれた
日本女性のうち、まず二人ぐらい、二・五人ぐらいが五歳までに亡くなってしまう。これはもちろん赤痢とかジフテリアとか、そういう急性の感染症でございますね。それからどんどん病気で亡くなってまいります。
六十歳、いわゆる還暦まで到達できる
日本女性は、昭和初期まで四・五人でございました。十人中四・五人、少数派であったわけですからこれは非常におめでたいわけで、この時代まで還暦をお祝いすることは十分
意味があった。今、還暦まで生存される
日本女性は十人中九・八人でございますから、珍しくも何ともない。還暦になってお祝いのお金は欲しいけれども、もう本当はお祝いなんかしてほしくない、そういう時代になったわけでございます。
寝たきりが多発します七十五歳、ここまで生存できる
日本女性は、戦前の時代では十人中わずか二人あるいは二・五人ぐらいでございました。このうちの三分の一ぐらいが、いわゆる寝たきりになってもただ家でひたすら寝かしておくだけでありますから、大体一週間か二週間で亡くなってしまった。
昭和二十七、八年当時、小津安二郎監督の「東京物語」という映画でも、主人公のお母さんであります、東山千栄子さんのお母さんは六十八歳で脳卒中になって尾道で倒れるわけでありますけれども、ただ家で寝かせておくだけなんですね。それで、開業医の先生がやってきて何か注射らしきものをして帰っていく。
私が
子供のころ、昭和三十年前後までは、脳卒中、当時脳溢血と申しましたけれども、脳溢血で倒れたらとにかく絶対に動かしてはいけない、お便所で倒れたらそのままそこへ布団を敷いて寝かせておけと。そうしますと、今で言います脱水症状をすぐに来すわけですね、食事も入らない、水も入らない。そのうち肺炎とか尿路感染症とかそういうふうな感染症がやってまいりますから、大体
高齢者が脳卒中になったら長くて一月あるいは二月ぐらいで亡くなっていったわけであります。私の親なんかもよく言っておりましたけれども、
最後は息子の嫁さんに下の世話してもらわなくちゃいかぬ、そこで想定されておった期間というのは大体一月か二月。そういうものが想定されておったわけで、それが昭和四十年代以降七十五歳まで生存できる
日本女性の数がやっと十人中三人ぐらいになって、今十人中八人が七十五歳まで生存される。この七十五歳以上の後期
高齢者の大量発生というものが介護を要する老人の大量発生の母集団になっていくわけでございます。これは昭和四十年代以降の現象です。
そして、昔は老人は医者にかかりませんでした。これは
年齢階級別に見た外来受療率の年次比較でございます。
これは
日本国民の中で、
自分は病気だと病院にかかった、そういう方の割合を見たものでございます。一番下のカーブは昭和三十五年、
国民皆保険
制度ができる前の年でございます。このころ
日本の六十代、七十代の老
人たちが医療にかかる割合は、何とゼロ歳から五歳までの
子供よりも低かったんです。よほど体が悪くならないと医者にかかれなかった。これは、もちろんこの当時の老人は
年金もございませんし、
子供たちに医者にかかる費用を無心できなかったということです。
国民皆保険
制度が昭和三十六年に発足しまして十年近くたった昭和四十五年、この時代になってやっと老人が医療を受ける割合はゼロ歳から五歳の
子供より少しふえるぐらいになってまいります。当時、国本とか家族の負担は五割ございました。昭和四十八年に老人医療無料化
制度が導入されて、以後六十代、七十代の老人の受療率というものは急激にふえてまいります。
入院の動向に関して申しましても全く同じことで、もっとその変化は激しいです。昭和四十五年ぐらいまで老人が入院する割合というのは非常に低かった。昭和四十五年以降急激に老人の入院率は上がっていく。脳卒中になったりそういった場合でも救急車を呼んですぐに病院に入院させることができるようになるのは昭和四十年代以降なんです。ここで救命率、命を助けるということの割合が非常に高まっていく。しかし、その後のアフターケアが全くなかった。これが昭和四十年代以降に
日本の
社会に高齢障害者が大量に生まれていった医療的な面のバックグラウンドでございます。
長寿化と医療の普及、そして
日本が産業構造が変わって核家族化していって移動
社会になっていく、こういう現象が昭和四十年代以降一斉に起こって、寝たきり老人問題というものが
社会問題化していくわけでございます。ですから、現在寝たきりという形になっている八十代前後の
日本の
高齢者たちは、
自分たちが若いころ寝たきり老人というものを見ていないわけであります。存在しなかった。ですから、彼らの
人生設計の中に、何年にもわたって寝たきりになって介護を受ける、そういったことは頭の中におよそ想像もできない状態だった。現在寝たきりになって、もうどうしていいかわからない。ただ頼れるのは家族だけということが今起こってしまったわけです。
そして現在、これは二月七日でしたか、毎日新聞に出ておりましたように、老人の虐待事件というものまで出てまいったわけであります。要介護の老
人たちが放置されておったり、積極的な虐待行為を受けている、そういった事態まで出てまいったわけでございます。
高齢者が
高齢者を介護している、こういう風景が一挙に昭和四十年代以降ふえてまいります。これに対してどういうふうな援助が可能であるか。
これは私どもの病院でございます。私どもの病院の中に在宅ケア科というセクションがございまして、訪問看護婦さんが二人、理学療法士が一人、運転手さん一人、こういうチームを組みまして、病院を退院したが通院できない、そういった障害のある方にサービスの出前を十数年前からずっと続けてまいりました。
まず医療の出前でございます。医師の往診。それから訪問看護です。床ずれができないように家族に介護の指導をする、あるいは直接介護をする。夏なんか非常に暑くて食欲がない、そういう場合にはブドウ糖を点滴する。いろんなそういう看護の出前サービスです。
それから在宅でのリハビリ、これが非常に効果がございます。これまでの在宅のリハビリの概念というのは、病院で機能をピークにまで持っていって、それを家でいかに維持するか、こういうのが一般的な考え方でございました。私どもはそうじゃなくて、在宅でリハビリをやりますと、病院でリハビリできなかったような
高齢者が非常に意欲を持ってリハビリに励むようになって、病院でやるよりもさらに効果のあるケース、こういうのがたくさんわかるようになってまいりました。
まだ
日本の地域は医療・福祉資源、特に福祉サービスの資源が乏しいわけで、地域の中の資源を総動員するといいますか、やりくり算段いたしまして協力体制をつくっていくということが大変重要であって、まず第一の協力対象は保健所でございます。保健所の保健婦さんにも訪問看護をやってもらう。
もう
一つのパートナーは当然福祉でございます。先ほどから言いますように、対象は障害を持った
高齢者でありますから、その生活を支える手段がなければどうしようもありません。ホームヘルパーでございます。私どもの病院のあります大阪府下の松原市というところでは
社会福祉協議会がホームヘルパーをやっております。昭和六十年代、十年ぐらい前は人口十三万のこの町にホームヘルパーはわずか六人ぐらいしかおりませんでしたが、現在ゴールドプランとか府知事のヘルパー倍増計画というものによってヘルパーが四十四人ぐらいにやっとふえてまいりました。非常に大きな戦力になりました。
ヘルパーに関して
二つちょっと申し上げたいのは、
一つは、ホームヘルパーを設置したんだけれども利用者がない、ニーズがないんだ、よくこういう言い方をする地方自治体があるんですが、これはとんでもない話で、ヘルパー、福祉の世話になるということにはまだまだ
日本の市民には心理的抵抗がございます。それはヘルパーさんに来てもらって助かった味を知らないということが大きいです。
ヘルパーを導入する場合に、まず保健婦、看護婦、医者、そういった資格を持った医療職が先に世帯に入っていって、そういう
人たちがホームヘルパーの利用を進めますと非常にスムーズに導入されてまいります。私どもの地域ではヘルパーを一人ふやせばすぐにフル回転してまいります。医療が先行して福祉サービスを入れていく、こういう関係が現在の
日本では一番必要なやり方だ、ノウハウだと思うんです。
もう一点は、ホームヘルパーは
日本では滞在型と申しまして、一日に二時間ぐらいぽんと行ってべたっと仕事をして、それを週二回、三回やる、こういう滞在型のヘルパーが主流でありますが、北欧諸国では二十四時間のホームヘルプサービスをやる場合には、そういう滞在型ではなくて巡回型です。一回の滞在時間は三十分から四十分ぐらいでありますけれども、一日二回、三回と反復していく。実はこの方が家族も非常に助かる。それからヘルパーを効率的に動かすことができます。
特に滞在型というのは一種家族との置きかえ的なイメージでありますからなかなかプロとしての職業的イメージがわきません。巡回型ヘルパーで行って三十分ぐらいで非常に手早く手際よく介護をして、さっと次のところへ巡回していく、そうすると、やっぱりさすがプロだな、こういう感じも出てまいりますし、巡回型のホームヘルパーというものに発想を変えていくということが、これから非常に重要であろうというふうに思います。
それから訪問看護ステーションでございます。これはもう最近の厚生省の施策としては非常なヒット
政策だと思うんですけれども、私どもの地域でも現在二カ所できまして大変よく機能しております。棚にバイクのヘルメットが載っておりますけれども、非常に機動性を持って訪問看護をやっている。看護婦さんに直接公的な保健基金から報酬が支払われる。画期的な
制度であろうと思うんです。
病院、保健所、
社会福祉協議会、特別養護老人ホーム、医師会、こういった地域の中の医療とか福祉のセクションが相互に協力し合える関係をつくっていく。私どもの地域では、十数年間やってまいりまして、現場での切実なニーズを媒介にして二者協力、三者協力が生まれてきて十数年たってこういうふうに全体的な協力関係ができ上がりました。市がこのネットワークの事務作業の責任を四年前から持ってくれるようになりまして、このシステムが非常にうまく動くようになりました。市の総合福祉会館というところをベースにしてネットワークの協力的な関係が持たれております。
これは毎月一回定例的にやっております
高齢者サービス検討会議。保健所のメンバーがいたりホームヘルパーがいたり、それから病院のスタッフ、特別養護老人ホームの
人たち、そして市の福祉の
人たちがいる。月一回全員が集まって全体的な会議を持ちます。
高齢者サービス検討会議の構成メンバーは、特別養護老人ホーム、
社会福祉協議会、病院、保健所、それから市の民生部、それと訪問看護ステーション。これは月一回でございます。
それから毎週一回、定例の連絡調整会議。これは個別のケースの検討をいたします。訪問看護婦さん、ホームヘルパー、特別養護老人ホームの指導員の方、保健婦さん、それから市の民生部の方、そしてボランティアの方がいる。それぞれ、例えばヨシダさんならヨシダさん、病院が主に責任を持ってかかわっているそのケースに対して、特別養護老人ホームのデイサービスを週一回使わせてもらえないか、福祉に対してはホームヘルパーの派遣回数をもう一回ふやしてくれないか、こういった協力を要請することによって、乏しい資源でありますけれども、やりくり算段して、
一つの家庭に医療や福祉というものが非常に緊密に連絡を持って入っていくことができる。
このうちなんか、ここに府の職員である保健所の保健婦さん、それから病院の看護婦さん、それから市の福祉のヘルパー、こういった違う組織の職種が協力して入ってきますから、月曜から金曜までどこかが援助に行くことが可能になる、こういったことができるようになるわけであります。
この方は六十歳のときにクモ膜下出血で倒れられました。国家公務員でありました。病院で手術をいたしましたけれども、うまくいきませんで半分植物状態みたいになりました。病院に入院して、後在宅に移して七年
たちますけれども、床ずれ
一つできておりません。非常に立派なケアが行われている。これにはやっぱり条件がございますね。この方は国家公務員でございましたから、公務員共済
年金という安定した
年金がございます。障害者加算もある。
所得が安定している。部屋が非常に広いから、外から援助に行きましても自由に動ける、物も置ける。安定した
所得と広い部屋、そして丈夫な介護者がいらっしゃるということが大事ですね。
何といっても、
日本の在宅ケアは頑丈な家庭介護者がおられませんと成立しないわけであります。毎晩一時と五時に起きて御主人の体の向きを変える作業を約七年間ずっとやっておられます。土曜日は時々息子さんが来て肩がわりしております。まくら元からすぐお湯が使えるように住宅の改造なんかもしてございます。それから病院からは訪問看護婦さんが行く、ヘルパーが週一回入る。非常に手間のかかる介護に関しては外から週二回ぐらい援助に行く。それに加えて医師の往診も月三回ございますから、非常に安心感がある。奥さんの非常な努力に加えて、外部からの
社会サービスとのコンビネーションで七年間こういうケアが維持されております。
あとは、在宅のリハビリテーションによって非常に大きな変化が起こるということを見ていただきたいと思います。
これは府営住宅の一角でございます。
この方は七十六歳の折に脳卒中で倒れられて右半身の不随になりました。開業医さんの往診があって、保健婦さんが援助に入って、ホームヘルパーも週一、二回入るようになりました。保健婦さんの要請で連絡調整会議にこの方が挙がってまいりまして、私どもの病院に訪問看護と訪問リハビリの依頼がございまして、二年前、この方が七十六歳の折に訪問リハビリに入りました。行った当座は本当の寝たきり状態で非常にうつろな表情でございました。
これは在宅リハビリの
一つの形、寝返り練習ですね。右半身不随でありますけれども、左半身の残った力を利用して寝返りの練習をまず始める。座る練習に入る。約一カ月
たちますと座れるようになります。座るということは非常に大事なことで、背中とかおしりの周りの筋肉がこれで
強化されてまいります。そうしますと、左半身の残っている方の力を軸にしましてベッドから車いすに移ることが割に簡単にできるようになります。
これは病院から退院して二年目に初めて車いすに座れたときの風景でございますが、非常にうれしい表情をしておられる。
私どもが北欧で学んだことでございますけれども、こういう方々は病人ではない、高齢障害者の方ですから、こういうパジャマとか寝巻きを着ているとやっぱりだめなんですね。人格性が出てこない。特に
日本のような洗いざらしのネルの寝巻きとか浴衣を着せますと人格が壊れてしまうんです。周囲がその人を見る目が人格を持った存在として見ない。すぐに平常服にかえてもらいました。そうするとやっぱり雰囲気が違うわけです。人格がぐっと出てくる。普通の暮らしをなるべくしてもらう。
家の中の段差をシルバー人材銀行の方に頼んで全部埋めてもらいました。五カ所ぐらいあったんですが、一万五千円で全部やってくれました。そうしますと家の中を全部動ける。ずっと天井を見ておった生活が一変するわけです。
こうなりますと、やはり北欧並みに外出ができるようにしないとこのケアというのは完成しない。ところがこの公団住宅の一階に何と四段の段差があるわけでございますね。
日本の家屋構造は本当にぐあいが悪いです。
この四段の段差をクリアするには四メートル近いスロープが要ります。そこで大工さんに頼んで組み立て式のスロープをつくってもらいました。これは四万五千円かかりました。今はやっと市の方からの補助金が出るようになりましたが、この当時は自己負担でやっていただきました。軽いですから奥さんが一人で組み立てられる。ちゃんとこうして四メートルのスロープがかかるわけでございます。これから住宅改造というのも非常に重要なんですけれども、必ずしも大がかりな改造でなくても、こういう器具的な感覚で物を置いていけばかなりの改造的な効果というのは得られるということです。
手元にブレーキのある車いすに乗せますと、後ろ向きに安全におろすことができます。そして公園に散歩に行くこともできるようになる。もう生活は一変してまいるわけでございます。
こちらは娘さんなんですが、こういうふうになりますと家族関係は非常に大きく変わってまいります。これはスーパーマーケットに一緒に買い物に行かれた風景です。
この方にも立派な息子さん、娘さんがいらっしゃったんですけれども、寝たきりになってからついつい足が遠のいていったわけです。なぜかと申しますと、寝たきりの親をお見舞いするというのは非常に気が重いわけですね、うっとうしい。例えば久しぶりに御両親の家へ行かれましても、お母さんには体に気をつけて頑張ってくださいよ、こういう声をかけることができるんですが、寝たきりのおやじさんにかける言葉というのはなかなかないですね。頑張ってちょうだいというのもむなしいですし、体のぐあいはどうかと、ぐあいが悪いに決まっていますからかける言葉がない。何となく足が遠のく。しかし車いす生活ができるようになりますと、きょうは一緒に買い物に行こうとか公園に行こうとか気軽にかかわれるようになるわけですから、家族関係がぐんぐん回復してくる。車いすでデイサービスとかいろんなサービスが使えるようになってまいります。こういうふうな在宅リハビリというのは実は大変効果があるということがわかります。
こういった公園へのレクリエーションなんかもできます。非常に生活が展開されていきます。
時間がございませんのでざっと流していきますが、ここにも寝たきり老人の方がありました。
最初は本当に表情が暗いわけです。
在宅リハビリを始めて座れるようになります。そして
自分で
自分の鼻くそをとれるようになりますと表情が戻ってまいります。少しながら自己決定の世界が出てくる。ビールでも飲んでいただきますと表情に威厳が出てまいります。どんどん表情が変わってくる。座れるようになりますと表情がぐっと変わります。
これはこの方が初めて外出できたときの風景でございます。言葉はもう出なくなっているんですが、道端に咲いている菜の花をとってほしい、こういうしぐさをされた。とってあげるとふっとにおいをかぎにいかれたわけです。この方の感性がこんなふうにあったんだ、この方の肉体の中にこんなみずみずしい感性があったということも外に出て初めてわかるわけであります。女性に囲まれると実にうれしそうな顔をしておられますけれども、こういったことも寝たきりの生活の中では絶対にわからないことです。
完全な寝たきり生活六年間、奥さんはそばでベッドを置いてつきっきりで介護をしていましたが、こういうひどい床ずれができておりました。これは訪問看護で約一年かかって治しました。
座る練習をしていきます。座れるようになりますと表情がぐっと柔らかになってまいります。こういう段差の多い入り口でありますが、何とかなります。スロープを二段にかけて渡せばよろしいわけであって、どうってことはございません。これによってこの方はリクライニング式の車いすを使って外へ出られるようになって、特別養護老人ホームの特別入浴サービス、寝たままで入れる入浴サービスが使えるようになりました。
公園へのレクリエーションなんかにも参加できるわけでございます。
日本のいわゆる寝たきり老人の約九割は、やりようによってはちゃんと車いす生活ができるようになるというふうに実感しております。これは神社を使いまして、こういう方々を集めて一大パーティーをやっておる風景であります。こういう風景をすべての市民に見てもらうことによって、
自分たちも年をとれば体が不自由になって、介護の要る、車いすの要る生活になるんだ、そのためにはどんなふうな町づくり、どんなふうな政治を求めていったらいいのかというようなこともおのずから実感されるわけでありますから、とにかくこういう方々を外へ出していく、これは非常に重要だろうと思うんです。
大体こういうふうに考えております。地域ケアの第一段階はまず介護負担を軽減しなくちゃいけない。
社会福祉サービスを家庭内に導入していく。福祉の世話になることに抵抗のある
日本の市民、このバリアを突破するには、先ほど申しましたようにまず医療が入っていく、保健婦さんでも結構でありますが、医療が先に入って福祉のサービスというものを導入していく。これが大変重要なノウハウだと思います。
第二段階は、まだまだ乏しい
日本の福祉サービス、そういったものと医療というものを効率よく導入していくために医療と福祉のネットワークづくりをしていく。みんなが協力し合うという意識を持ってネットワークをつくる、これが第二段階の重要な作業であろう。しかし、この段階まではつらさの分かち合い、しんどさの分かち合いという世界であります。さらに進んで寝たきり解消から楽しみづくりへと、介護の世界にああいう喜びを入れていくことによってこの世界が非常にポジティブな価値を持った世界こなっていく。かかわる者が皆楽しくか
かわり合えるようになる。寝たきりを解消するということは御本人だけでなく周囲にとっても大変大事なプロセスだということを強調したいというふうに存じます。
以上で説明を終わらせていただきます。