○金子(一)
委員 そうなのかな。我が国のサラリーマン九〇%、二〇%のブラケットにおさまっているわけでしょう。これでいいんじゃないですか。別にそれで所得税率を何かしようなんて考えなくたっていいんじゃないかな。
ちょっと余談であります。
我が国の社会のいいところというのは何かなと考えてみますと、所得、消費、資産のバランスの観点なんですけれども、我が国はやはりお互いにみんなで最後は支え合っていこう、落ちこぼれをなるべく少なくしていこう。これは我が国の社会の持っているいいところ、村社会、家社会から来ているのだろう、こう僕は思うのです。
アメリカみたいにちょっと能力があると、ハーバードかビジネススクールを出てどこかの
証券会社に入って、会長になって高額収入を得る。そうじゃないと、うっかりするとホームレスへ行ってしまう。これは
アメリカに失礼だったら撤回しなければいけませんけれども、そういう
部分がある。我が国の社会はそこがちょっと違うのだろう。我が国が持っている昔からの村社会、家社会といういわば
日本のいいアイデンティティー、所得税の平等化というところがもう一つそれを支えてきた大きな要因ではないのかな。
我が国所得の第一分位と第五分位なんて使いますけれども、格差五倍でしょう。
アメリカで十倍をはるかに超えてしまう。イギリスでさえ九・一倍。
十倍超えてしまいますとどうなるかといいますと、十倍以内だと割と平等な社会。
藤井大蔵大臣と私の所得格差、閣僚資産紹介のベストスリー、ベストツーでしたか、それでもまあ十倍以内でしょう。だから、私が
大臣から三回おごられても一回はおごり返せる。そういえば最近ちっともおごってくれないじゃないですか。全然おごってくれなくなってしまった。冷たくなってしまったですね。
そういう、一回おごり返せるという社会は、
大臣と私の関係はいわば水平なんです。友達。友人。従属しない。十倍超えてしまうと、これは主従の縦の関係になってしまう。そういう
意味で、我が国の社会が五倍というのはある
意味でいい社会じゃないのか。
例えば
日本とアジアの諸外国とを比べると、中国の内陸部に行くとこれが百倍近くになってしまうとか、バングラデシュなんかに行きますと同じようなことになる。むしろ、その十倍以内という
部分の我が国のよさを東南アジアに輸出する。つまり、東南アジアの諸国と我々の関係を所得格差という観点で今は申しておりますけれども、十倍以内にしてしまうということが二十一世紀の我が国の
課題だと逆に私は個人的に思っているのです。国内ではそれは進みましたから。
所得の方は、戦後所得の平等化というのは、これは我が国国民の中に定着をした唯一絶対と言ってもいいくらい一つの真理になってきていると思っているのです。
しかし、それでは資産の方はどうか。この税調の文章の中にも、資産性所得を含め資産に対する課税については、抜本改革以来、利子課税の見直し、
株式の譲渡益の課税、地価税の創設、土地譲渡益課税の適正化等々、いわゆる資産家層に対する課税はかなり強化されてきている、この成果を踏襲しみたいな、要するに資産課税が何となくでき上がったみたいな
政府税調の書き方になっているのですが、私はこれは物すごく疑問なんです。
大体、土地譲渡益課税とか地価税の創設とかという資産課税の考え方を、ずっと踏襲しながらつくり上げてきたみたいな書き方になっていますけれども、実態はそうではないのです。その時その時の
経済状況において、土地が上がてしまった、しょうがない、地価税をつくろうよ、土地譲渡益課税なんというのは、ここに当時の
専門家もおられますけれども、その時その時によって上げたり下げたりしてきているのです。
そういうことで、必ずしも資産、消費、所得のバランスでもって資産課税が今まで議論されてきたなんて、税調はいろいろ議論されたでしょう、大蔵省もいろいろ考えられたでしょう。我々もいろいろ議論してきましたけれども、しかし、資産、消費、所得のバランスという前提の中ででき上がった議論ではない。むしろ、同僚の
石原議員から話がありましたとおり、三代続いたら土地は全部召し上げみたいな、これは相続税の議論ですけれども、そんな哲学、これは共産主義ですよ。大蔵省はそういう
意味では共産主義だと私は思っているのです。そんなのが国民のコンセンサスを得たとはとても思っていないのです。ちょっと余談になってしまいましたけれども。
それからもう一つ、話は戻りますけれども、私はそういう
意味で二〇%のブラケットまでの給与所得者が九〇%もいれば非常に平等化も進んでいると思っているのです。これは、細川さんのときに働き盛りの負担という言葉が盛んに使われたのですが、この働き盛りというのはどこの層もしくはどこの階級なんでしょうか。これは局長でも
大臣でもどちらでも。