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國弘正雄君 入学試験の問題というのは、ちょっと私予定していた質問の
順序と変えてお尋ねをいたしますが、今大臣が新しい
学力観とかあるいは
選択の
範囲の
拡大というようなことをおっしゃいました。それに力を得てこのお尋ねをするわけであります。
この入学試験の問題というのは、私は何も一
文部省だけの管轄
範囲内のごとではないと。
日本社会のある種の
あり方とか我々の価値観というようなものが濃厚に影を宿しているのが入学試験の
あり方だと思うんです。
元駐日大使でありましたライシャワーさんが、そのライフワークである「ザ・ジャパニーズ」という書物の中で、
日本という社会は物すごく変化を恐れない社会だと、そして新しいことにどんどん手を出して実験していくことをいとわない社会であるのに、以下の二つの点においてだけは全く変化を恐れるというか変化を忌み嫌うという珍しい社会だというようなことを彼の主著に書いております。
その二つの領域というのは、
一つは、これは後でちょっと時間があれば御質問申し上げたいのでありますけれども、
外国語
教育。
日本の
外国語
教育というのはどうしようもなく保守的だということを彼は言っておる。それからもう
一つは、入学試験の
あり方であると。この二つだけは、どうしてあんなに変化をいとわない
日本人がここまで守旧的なんだかよくわからぬというようなことを述べております。
何も私は
アメリカの
大学制度が一番すぐれているとかなんとかということを申し上げるつもりは毛頭ございませんけれども、例えばハーバード
大学を
一つの例として引きますと、入学を認めるか認めないかというときの
能力判定の物差しが大変に複数あるわけですね。大変多様にわたるわけです。この指とまれというときに、この一本の指だけにとまらせるのでなくて、この指とまれというふうに例えば十本なら十本の
選択肢を出して、そのどれか
一つにとまってほしい、そうすればうちの
学校に入れますよということをハーバードが実行する。イェールも同じような、しかし違った物差しを提供する。カリフォルニア
大学もしかりシカゴ
大学もしかりというようなことで、何かとにかくある種の
能力というものがあるとすれば、その子は必ずどこかの
大学に入学を果たすことができるというようなことなんですね。
その
一つの顕著な例ですが、ある
アメリカの高校生がインディアンのチェロキーの部族に非常に
関心を持って、そして休みや暇があればチェロキーの部落に入り込む。それでチェロキーの
言葉を身につける。そして、彼は音楽の才能が非常にあるんですけれども、チェロキーの民族音楽をこれまた身につける。そして、
自分でチェロキー語の詩をつくって、チェロキー民族音楽の符をつけて、そしてコンサートを開いて友達や知人を呼んでこのミニコンサードを成功させた、こういうケースがある。そのことを調べたあるいは聞きつけたハーバード
大学は、この子をそのゆえに、つまりチェロキー音楽やチェロキー語を身につけたというそのことのゆえに、真っ先にうちにいらっしゃいといって入学を許したというようなケースがあるわけですね。
果たして、例えばアイヌ音楽に、アイヌ語に強い
関心を持ち、それなりの成果を上げた
日本の高校生が、例を挙げて悪いかもしれませんけれども、北海道
大学にそのような形でひとつ受け入れられるであろうかどうであろうかというと、恐らく答えはノーであろうというふうに思うんですね。
ですから、さっき大臣が
仰せになった
選択の
範囲の
拡大というのは、高校の課程もそうでございますけれども、入学試験に当たっても各
大学がいろいろ
工夫発明をして、そしてできるだけ違ったさまざまな
能力を持っているような
子供たちを入れると。ただ単に一回こっきりのぺーパーテストの点数が高いか低いかということだけで判断をしないというような仕組みが持たれないと、これから価値の多様化とかなんとかというようなことを言っているわけでありますから、ちょっと
日本の将来にも暗い影が投げられるのではないかなという気がするわけであります。
このことは、何も
文部大臣お一人あるいは
文部省だけのお仕事だとは思いません。
日本社会全体が人間の多様な
能力というものに対してもっと温かい目を向けていくという姿勢が必要なわけでありますから、一
文部省あるいは
文部大臣のお仕事とは思いませんけれども、ひとつお考えの中のどこかに潜めておいていただきたいと思うんですね。
それに関連するんですが、
日本には非常に悪名高い指定校制度というのがございます。ある大企業に勤めようと思うと、ある特定の
大学の卒業生でなければ全然試験も受けさせてもらえない、門前払いを食らうというような事情があるわけですね。
それで、そういう指定校制度というようなものがありますと、どうしてもいわゆる有名
大学に入らなくちゃどうしようもないということになって、そこで入学試験が激化をする。有名
大学に入ろうと思うと有名高校に行かなくちゃいけない。有名高校に入らなくちゃならないということになると、有名中学、有名小
学校、有名幼稚園、ひいては有名保育園というような悪循環が出てくる。その悪循環の始まりは、私は企業側にあると思うんですね。つまり、企業というものは今や非常に大きな力を
日本社会において持っているわけで、いわば生殺与奪の権を握っているようなところがございますから、企業がいつまでも指定校制度というようなものに固執いたしますと、非有名校の
子供というのは全く希望が持てないということになる。
私は、まあ私事にわたって申しわけないんですが、有名校で教えもいたしました。
国立の
女子大でありますが、超有名校で教えました。あるいは
私立の大変有名な、最近人気の
大学でも教えました。それから、いわゆる非有名校でも教えました。よく見ておりますと、有名校、非有名校の違いというのは本当に
学生に関する限りそんなにないんですね。できるやつはできるんです。やるやつはやるんです。しかも、非有名校の
子供というのは
大学の名前で勝負ができないものですから
自分自身を磨いていく、
自分自身を研さんしていくことによって非有名校卒業生といういわばマイナスを何とか克服しようとして非常な努力をする。有名校でぶらぶらしているやつは
学校の名前に寄りかかっていますから、大して
勉強もしないというふうなことがある。これは社会的に見ても非常に不公平だと思うんです。
そういったようなことがあるので、これは
文部大臣に対するお願いですけれども、労働大臣あるいは労働省とも
お話し合いをいただいて、指定校制度というものを一挙にやめるわけにはいきますまいけれども、徐々にその色彩を薄めるようにひとつ労働省もお考えいただく、
文部省もお考えをいただく。そうしないと、この指定校制度が今までのような形で続く限り受験地獄というものは終わらないかもしれない。
確かに、十八歳の
子供が少なくなるという面はありますけれども、しかし理念として指定校制度というものはいかがであろうかというふうに思うんですが、
文部大臣の御見解及び労働大臣とそういうことについて話してみようというふうなお考えがおありかどうかを伺いたいと思います。