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堂本暁子君 織り込んだつもりというふうにおっしゃる。ですから、そういうふうに読もうと思えば読めないことはない。例えば「
環境への
負荷の少ない」というような表現なんです。それは解説で、これは
環境保全型
社会への転換であり、それから消費
社会からの脱却であるというふうに読みなさいという解釈がついている。しかし、これから百年たったときに果たして「
環境への
負荷」ということをそういう形で子供
たちが読むか、
市民が読むか、それはもう大変難しいことだと思いますし、例えば「すべての者の公平な
役割分担の下に自主的かつ積極的に」というようなことも書いてありますけれ
ども、たった一行の
市民草案の方が明確でわかりやすくて、読み違えることはない。これは解説がなければ読めない。そういうことでは大変困ると思うんです。
たまたま私、
大臣に御本をいただいたんですが、とても全部は読めなかったんですけれ
ども、印象に残ったのは、非常に悠久的なお話の中で、特に東洋的な物の
見方の中でおっしゃっていらっしゃる。
人間の文明というのは、
人間の野心によって大きく赤い信号が今やともってしまったとおっしゃっている、まさにそのとおりだと思います。みんな進歩だと思ってひた走ってきた。
経済成長とか、それから効率とか科学とか文明とかという道の中で、気がついたらば私
たちは自然に対しての敬けんな心を失っていたと申しましょうか、そういうことをここにお書きになっていらっしゃるんだと思います。
ですけれ
ども、私は
環境庁にそういった心が少ないんじゃないかと思うんです。自然に対して、それから
市民に対しての敬けんさがない。
環境庁かと言うとむしろ私も非常に僭越な物の言い方で気が引けます。私自身が今や車に乗り、そういった
意味で文明を享受している、
自分の中におごりを見るような気がいたします。もっと敬けんでなければいけないし、素直でなければいけない。ほかのどんな
法案だって大事ですけれ
ども、どんな
法案よりもこの
法案はそういった
意味での謙虚さの中でお互いにつくり上げていかなければいけない
法案だというふうに私は
考えます。
今おっしゃったような御
説明、十分に織り込んでいるということではなくて、「自然の恵みを平等に分かち合う権利と
責務」、余りにもはっきりしていて素直でございます。この
言葉で十分だというふうに私は思います。しかも、ストックホルム宣言でも、もうそのころから自然に対しての権利とそれから
責務、両方を私
たちは認めてきているわけです、
日本国としても。どうして国内的にそういったことを素直に認められないのか。
そして、そのことが財界の方の裁判の関係がある、
官庁からの反対があるということで、
最初に申し上げたような
官庁間の調整ででき上がった
法案だということで、私はこの
法案というのはそういった
意味でできることなら
国会で
市民の
法案に書きかえるぐらいの、もうどこも字が残らないぐらいこの
市民案に近いものに
修正できるものならしたらいいんじゃないか、そんな気持ちがするぐらいに、そういったつくられ方に
基本的な疑問を持ちます。そのことはもう幾ら議論してもしようがないので、
意見として言わせていただきます。
次に、
環境基本法案の中の
自然環境の
保全とはどう定義しているのか。大気、水、土壌など
自然環境なのか、それとも
生活環境なのか。
生活環境と
自然環境との関係をどうとらえておられるのか、そのことについてお答えください。