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堀委員 いや、法制局はいいです。
実は学者の中にも二つの意見がございます。そして、私の意見に賛成の方は、佐々木惣一さんとか田畑忍さんは私の意見に同じでございますが、東京大学の多くの憲法学者の皆さんは、議院内閣制だから、要するに今の議員が提出したものとみなしていいのではないかという解釈が、実は今総理がおっしゃった議案の中に法律案を含める、こういう
認識になっておるようであります。
実はちょっと私自身の過去の経験を
一つ申し上げますと、私は昭和三十三年六月二十六日に、当時文教
委員をいたしておりました。一九五八年の五月の
選挙で私
どもは百六十六名当選をいたしました。そのとき、たしか議員総定数が四百七十八ではなかったかと思うのでありますが、それに対する百六十六でありますから大変な数でございまして、そこで私たちは
委員会の志望を認められないで、党から一方的に私は文教
委員、だれだれはどこ
委員という規定で、実は文教
委員になったわけでございます。
五月の二十五日に当選しまして、そうして、六月の二十六日に実は学校長の管理職手当に関する法律というものが文教
委員会にかかりました。そうして、その中で私が
質疑をしております最中に、私の斜め後ろにおられました、この間お亡くなりになりましたが、新潟県選出の稲葉修衆議院議員が、私が一息ついたところで突然大きな声で何かおっしゃったわけですね。そこで、私はどうなったのかと思いましたら、前の方に辻原弘市、それから櫻井奎夫等の
理事が、文教
委員長は坂田道太さんでありましたけれ
ども、
委員長席へ殺到しまして、うわあっとこういうことになったわけですね。私は国会へ出てきてまだ一カ月余りで、一生懸命勉強してまじめな
質疑をしているのにそういう
事態が起こった。これが強行採決と言われるものですね。だから私は、一九五八年といいますと今からもう三十五年前でありますけれ
ども、国会へ来て
最初の
質問なんです、これは。その
最初の
質問をやっている最中に強行採決。
この強行採決がなぜ起こるかという問題は、閣法という形で多数党の自由民主党と政府が、それも政府がつくったのを自民党がそれから見るのじゃなくて、自民党の皆さんは法案作成の過程でいろいろと接触をしながら政府案ができてくる、こうなっていますから、政府と多数党が
一つになっているわけですね。これが議員同士のディスカッションで強行採決やるといったって、それはできないですね。結局、私
どもが政府とやっておるときに強行採決というのは起こるのですね。
だから、私が今この問題で申しているのは、この間、私
どもが牛歩をやります。そうすると大変な国民からの批判があります。当然です。しかし、昔はあんなことやらなかったのですよ。どういうことかというと、本
会議の討論やその他は時間に制限がなかったのです。だから、六時間も七時間もあの壇上で、要するに、そういう強行採決の後は私
どもはいわゆる反対討論をやって、抵抗の意思を国民の皆さんに理解していただくということにしていたのですが、そのうちに自民党の皆さんがせっからになってきて、発言時間がだんだん縮められて、今や十五分ぐらいですかね、平均すると。十五分で討論が終わっちゃうのでは、それは何か抵抗の手段を考えなきゃいかぬというのが実はああいう牛歩という格好になって、国民の前に私たちの抵抗の意思をあらわす手段になっているわけです。
だから、国会の今度の政治改革の中で最も重要なのは、私は国会改革だと思うのですよ。国会改革をきちんとしないで、あと政治改革なんかあり得ないのです。だから、そのためには、私は要するに今の閣法をやめて議員立法にしたい。
私は、一九六〇年、昭和三十五年から公職
選挙の特別
委員をいたしまして、今回は予算
委員になりまして外れましたが、この前のときに公職
選挙の特別
委員長にお願いをして、この
選挙法やその他の問題は、これは政治家固有の問題なので政府との間で論議をするという話はおかしいんじゃないですか、議員同士でひとつ論議をしましょうということで、
委員長が了解をしていただいて、公職
選挙の特別
委員会では、前の国会は、要するに
委員が手を挙げたら
委員長は何党の方でも順番を見ながら、あるいは何回も手を挙げていればそのことも配慮しながら、一人五分間の発言を認めていただくというのを実はやっていただくことにしました。
そうしましたら自民党の若い方から、堀さんのおかげで私たち初めて議員になったね、自覚が持てるようになった、これまではただ黙って座っているだけだった、それが手を挙げれば
自分たちの意見を野党の皆さんにぶつけられるし、また、野党の
質問に我々は答えられる、初めて自分は議会に来た思いがする、こういうことを自民党の方から伺いまして、私は大変それはよかったんだな、こう思っているのでありますが、これは公職
選挙の特別
委員会に限らず、予算案は、これは政府の提案でありますから、私
どもと政府がやるのが当然でありますし、もう
一つ条約の批准の問題も、これは議案として政府が提案をして、それで政府と論議をするのが当然でありますが、その他の法律案はこれからひとつすべて議員立法で、議員同士で論議をするということにすれば、まず議員の皆さんは勉強しなきゃなりませんね。勉強しなければ、いつ何とき何を聞かれるかわからぬということでありますから、そのためには議員が勉強しなきゃいかぬ。
ところが、ここでまた
一つ次の政治改革の問題に移るのでありますが、今の
選挙制度では私なかなか勉強が難しいんじゃないかと思うのですね。私
どもが当選をしましたときに、上のクラスに横山利秋さんという先輩がおられました。この方が昭和三十三年の総
選挙で最高得票で当選をされたのです。私
どものグループの一人でございましたので、一年生はひとつ横山さんに最高点で再選できるような秘訣を一遍聞け、こういうふうに言われまして、私
どもの仲間は横山さんに、どうしたらああいうふうになるのですかということを聞きましたら、横山さん、何でもない、金曜日の夜の夜行で
選挙区へ帰って月曜日の夜行で東京へ戻ってくると。要するに金帰火来ですわ。ですから、
土、日、月と三日間は
選挙区でしっかりやって、そうして国会は、衆議院は火曜日から金曜日までしかないから、金帰火来ということで夜行列車で帰ってやりさえすれば必ず通るというのが横山利秋さんの私たちに対する話でございました。
私もそれを遵守して、銀河という夜十時ごろの東京発ですかで帰りますと大阪へ七時ぐらいに着くのですが、同じ列車で横山さんが乗っていきますと、午前二時か三時に名古屋へ着くのですね。それで私は、横山さん、そんな夜中に着いたんじゃ大変でしょうと言いましたら、いや、一刻も早く帰って、一寝入りしてから
選挙区を回らなきゃだめだ、こういう話でして、これが今の実は中
選挙区制というものの非常に大きな問題点ですね。今これが個人本位の
選挙制度です。
そこで、私は外国の議会の方たちといろいろ国際
関係をやっておりましてお会いをすることがあるのですが、私は当選十一回なんと言いますと向こうの人はびっくりするのですね。大体、政党本位の
選挙制度のところは五、六回でチェンジをするのですね、みんな。それは党が決めることですから五、六回でチェンジする。十一回なんというのは考えられない、こういう話なんですね。しかし、これは実は個人本位の
選挙制度なものですから、その票が安定した場合には、前回の
選挙は党の方針で無所属、社会党推薦ということで
選挙に出ましたけれ
ども、十万票以上の票をいただくということで、私の
選挙区の一番古い、長老であります原健三郎さんよりは上に行って四番目で当選するということができたわけでございます。
ですから、やはりここは、今度は議員がしっかり勉強するためには二つの問題が要るのです。その
一つは、ドイツでは要するに公務員が政党の仕事をやってよろしいというふうに法律でなっておりまして、そのための費用も実は予算に組まれて、かなりの人たちが行っております。
ドイツでは、連邦官吏法五十二条で、官吏は特定の党派でなく全国民のために奉仕すべきことが規定されているが、一方同法第五十三条は官吏の政治
活動を認める規定を置いており、従って政党への加入も自由である。
これにより官吏がその地位に基づき政党で直接働くということはできないが、例えば、官吏が連邦議会内の院内会派に出向してその会派のために働くということは行われており、その場合、その者の給与は、議会予算として計上される会派手当から支払われている。例えば野党社会民主党(SPD)の場合、その院内会派に勤務する
課長クラスの職員約九十名のうち、約半数が官吏出身者で占められているという(一九九〇年現在。ちなみにこの当時SPDの院内会派に支給されていた会派手当額は年間約二千八百万マルク、
日本円にして約二十三億円である)。
ドイツが議会の問題を重視しているというのは、今の官吏が出向して法律案をつくる手助けをするというだけではなくて、院内会派に支給されているSPDの会派手当がこの一九九〇年で二千八百万マルク、
日本円にして二十三億円国が出しておる。私は、こういうことは大いにドイツのやっておりますことを見習って何としても、今の憲法及びその他の問題で議員立法を中心にすることには何ら抵抗はないのでありまして、問題は私たちのそういう能力の問題、ですから勉強しなければいけません。同時に、それを手助けする仕組みの問題、当然今の衆議院法制局のようなものも大いに強化をして、人的にも強化をされるということが必要でありましょうが、私はこれらの問題を含めてひとつ宮澤総理の御見解を承りたいと思います。