○渡部一郎君 私は、
公明党・
国民会議を代表いたしまして、ただいま
議題となりました
宮澤内閣不信任決議案に対し、賛同する
立場から
討論を行うものであります。(
拍手)
私は、本日、
宮澤喜一
総理に対しまして、
政治改革を放棄された
責任を追及し、同氏の民主主義に対する無理解と多岐にわたる虚言癖に対しまして、弾劾の意思を表明するものであります。
総理は、昭和四十二年、参議院から衆議院へ転じられまして、以来、その間に経企庁長官、通産大臣、外務大臣、
内閣官房長官、党
総務会長、副
総理、
大蔵大臣等を歴任され、その経歴、系図はまさに赫々たるものでございました。私も、目をみはってその行動を見させていただいた一人でございます。
宮澤総理は、
政治活動中におきましては、
国会対策の面は別にいたしましても、
政策、特に財政及び国際関係につきましては大変なベテランといたしまして、
我が国の進展に欠くことのできない人材として今日まで
期待されてこられたのであります。最近は、日米摩擦の渦中にありまして、
我が国の前途は大変問題が多く、また、米ソ
冷戦の終結に伴う
世界新秩序の
構築に当たりまして、これほどの適任者はいないという
期待が盛り上がったればこそ、
宮澤内閣が成立したと思うのであり、また、大きな
国民の信望を集めたゆえんであると思うのであります。
ところが、その一方で、同氏に対して極めて不幸であったことは、
日本の
政治の腐敗が極点まで達したときに、その
総理の職につかれたということであります。
金丸副
総理の件を申し上げるまでもなく、ロッキード事件、
リクルート事件、皇民党事件、金屏風事件、
共和事件、佐川事件、このような不愉快な事件がほとんど毎年一回ずつ
自民党の
最高首脳を襲っているのであります。これを根本的に解決せずして、
国民の
信頼を回復することがなければ、もう
日本の民主主義は死んだと同然であるということは、私
たち議員の間のコンセンサスであると同時に、
国民の強い強い願望であります。
総理もまた、
政治改革を必ずやることを誓って就任の際にお述べになりましたことは、私の耳にまだ残っているのであります。「海部前首相の志を継いで、真摯に
政治改革に取り組んでいく」と言われたのは、
平成三年十一月八日、
総理就任後、初の
所信表明演説でありました。
平成四年一月二十二日の
自民党大会では、「党員や
国民の
信頼を回復する唯一の道は
政治改革である」と述べられました。また、
臨時国会の
所信表明演説では、「不退転の覚悟で取り組む」と、「どんな困難に直面しようとも、
政治改革の
実現に
一身をささげる」と述べられたのであります。
そして、本年四月十三日以後、本
会議及び
政治改革特別委員会における百七時間に及ぶ、それこそ熱心な
審議の過程において、こうした
総理の意向が反映していたということを私は認めなければならないと存じます。
おかげさまをもちまして、百七時間の
討論は見事なものでありました。
与野党の
合意は自然に成立の
方向へ、
合意の
方向へと動いていったことは、
委員会参加者のひとしく誇るところであります。特に、
政治資金についてはもとより、
選挙制度についてすらも、もう一歩で
合意するというところまでやってまいりました。単純小
選挙区制からスタートされた
自民党のグループに対しまして、併用制でスタートいたしました社会、公明両党の側ではございましたけれども、政権の安定、腐敗の根絶、あるいは
民意の正確な反映というような点については、おのおの長所を学び、短所を反省しつつ、お互いの間で
党派を超えた
認識が誕生してきたのであります。
特に私が感動を持って想起いたしますのは、
各党の若い
議員たちの献身的な、かつ真剣な
議論でありました。今後の
民主政治は決して悪いものじゃない、いいな、将来に
期待を持てるなという、私は、その尊敬で胸の中が熱くなったことを何回も想起しているものであります。(
拍手)
ところがです。
宮澤総理は、この
論議の過程で、
委員会の
合意をどう思っておられるか、わからなくなるような
態度をおとりになったのであります。
委員会の理事会におきましては、五月二十八日、今
国会で成立を目指す、新しい
選挙制度は
自民党案と社会、
公明党案の特徴を生かしたものにする、これが二つ、そして次の
選挙は、何と新法をもって行う、この
共通認識ができ、理事会で決議されたのであります。ところが、何とあなたが指揮されている
自民党の首脳部だけがこれに反抗するという
暴挙に出たのであります。これでは
妥協も
合意も何にもできないのであります。
さかのぼって考えれば、
自民党総務会において、単純小
選挙区制案の
提出を党議決定と決められたことが失敗の第一であったわけであります。単純小
選挙区制というのはあらゆる
合意を排除する考え方であり、単純小
選挙区以外の何物をも含まない考え方であります。余地がない。ところが、
国会で
妥協しなければならない、寄り合わなければならない、団結しなければならぬというときに、そういうかたくなな案を持ち出して
最後まで頑張るとすれば、それはもとのもくあみ、もとの腐敗
政治に戻るだけの話であって、それは、口をきかない、
討論をしない、
討論を拒絶する、民主主義を否定するという以外の何物でもないと私は思うのであります。(
拍手)
たとえ衆議院の方において、
自民党案が例えば多数で通ったといたしましても、
野党の多い参議院の方を考えれば、当然それはまた否決になるわけでありますから、よく言われましたように、相打ちで成立しない、不毛の案であったのであります。
私も、社公両党の
提案者といたしましては、併用制において幾通りかの
合意する案があることを公然と示しました。しかも、それに加えて、
野党六党は最終的に、
国民の
皆様方の圧倒的な支持を得まして、併用案よりもっと
自民党案にぎりぎり近づいた
連用制のところで
妥協案をまとめ、その要綱まで
提出いたしました。恐らく数日かかれば、それはさらに一歩進んで
法案としてまとまる予定でございました。
このように
与野党の
合意のための模索、行動に出たのでありますけれども、
総理はこれに対して反応されませんでした。いいとか悪いとかと言うならわかる、だけれども反応がない。私らは、時々傍観的にコメントを述べられますときはそのコメントだけであって、要するに、
自民党執行部がひたすら妨害し、
政治改革を食いとめようとした、これらの
人々の意向に迎合しただけのことであったとしか見えないのであります。
この妨害の方々のお話を聞いてあきれたことは、
自民党自身が定めた
平成元年の
政治改革の大綱すら無視する
暴挙に出られたということなのであります。私が、なぜ
自民党で決めたことを
自民党の方にお話ししなきゃならぬかと、私は時々、けげんな顔をしながら説明したことがございます。
宮澤総理は、御自身はこう言われました。
日本の
政治がこのままならば、一九一二年、大西洋に沈んだタイタニック号と同じ運命になると述べられました。
日本の
政治は泥舟だとも言われました。泥いかだ。であるとも
委員会で
発言されました。
また、さらに深刻なことは、一九三二年五月に起きた五・一五事件を引き合いに出され、「今ここで
改革されなければ
日本の民主主義は大変なことになる。戦前、犬養首相が首相官邸で殺されたことを思い出す」とまで述べられているのであります。そして、戦前の
日本の
政治が軍国主義で亡国に走ったことと同じようなことになるという憂慮まで表明されました。感動せざるを得ない、その話を聞いて。この
総理はわかっていると、私
たちは何回も失望したけれども、思い直したのです。
そして
総理は、加えて、「どうしてもこの
国会でやらなければいけない、やるんです」、しまいには、「私は
うそをついたことはありません」と言われた。そして、「
最後は私が決めます。まとまります。ですから
心配しなさんな」と、これはテレビのマイクに向かって言われたものではございますけれども、派手なことを述べられましたが、それを実際に
実現するという
決意が感じられませんでした。
したがって、党をリードすることができず、結局、党内に派閥が多く、党中労あれども党なしという状況の中で、四役に任せるとか、いろいろな御説明は伺いましたけれども、結局追い詰められ
て初めて重い腰を上げるというやり方で動かれた手法というものが、この
政治改革全体を破壊したのではないかと悲しく想起しているものであります。
総理、私は、このような弾劾の言葉を述べるのは、むしろ遅きに過ぎたかもしれません。
総理は、今年の初頭、さまざまな問題について、既に
国民のひどい反発を買っておられました。
竹下内閣や田中
内閣の末期のように、支持率二〇%前後にまで落ち込まれました。こういうふうになると、それから一カ月ぐらいのうちに
自民党の中では交代が起こるというのが今までのやり方でございました。
確かにまずかったかもしれない。景気は上向かない、日米摩擦はひどくなる、そして大汚職事件はなかなか片づかないというふうでございますから、そういうふうになったのも当然かもしれません。しかし、それが半年もそのまま続いたということの方が私は不思議だと存じます。
総理が出処進退を
決断しなければならぬ日がこんな遅くなったのは何なのか。私は、そこに本院
議員の良識と、そして政党政派を超えた支持があったことを感ずるのであります。それは、七月七日から始まるところの
先進国首脳会議であります。あなたの活躍を
国民は何となく
期待していた。国際通だ、何か問題があったとしても、英語でうまくしゃべってくれるのじゃないかな、英語のしゃべれない者にとっては、これは支持表明の別の形であったのではないかと存じます。
しかし、ここのところへ来てなぜこんな急に、逆につぶれてしまったか。それは、
外国の賓客を迎えて、
政治改革すら実行できないような反民主的な
政府を抱えていたら、
日本国民としてはみっともない。そして、そのみっともないままに
外国の偉い人と何が約束できるかという、
国民の燃え上がるような意思が背景にあったとしか言いようがないと思うのでありますが、いかがでしょうか。(
拍手)お客が来るときは、お座敷は掃除してお迎えするのが
日本の礼儀であります。
「易きを去って、難きにつくは、丈夫の心なり」というのは古いことわざです。あなたはその
反対の道を行かれました。遺憾に存じます。「李下に冠を正さず」、「瓜田にくつを入れず」、その単純塗言葉も、あなたにとりましては悲しい思い出の言葉となるでありましょう。私は、その意味で、今の
政府の
立場は既に瀕死の
状態であったと存じます。あなたに残された唯一の道は、
内閣総理大臣としての
責任をとり、
国民に率直に謝罪するしかないと存じます。
それにしても、あなたの対応は常にちぐはぐで、遅過ぎました。
会期延長を
野党党首が申し込んだときは派手にお断りになり、党議決定を変更しないという
総務会の確認があってから、改めて
議長に頼んで
党首会談を要望する。これだけでも、
議長に対して何と失礼なことだったかと私は存じます。
また、
特別委員会の理事に対して、授権を求めていた理事
たちに対して授権しないでおいて、すべてが終わったときに、
委員会で
採決を求めるように党幹部が指示されるのを放置されたままでした。これはちぐはぐであります。
委員会に属される
自民党のある
議員が申されていたことを私は思い出します。渡部さん、私
たちは
討論するときに、君の方を向いて
討論しているのではないですよ、党内で前からライフル、後ろからミサイル、頭の上から原爆がおっこってくる中でやっているのですと申されました。この悲しいジョークもまたお耳に入ってないでしょうから、お伝えしておきたいと存じます。
私どもは、今、
日本の
国民が憎悪の言葉を持って
政治改革の行方を見ていることを改めて
認識したいと思います。何党がいい、何派が悪いなどというようなたぐいではなく、私
たちは今、
国民全部に個人の
責任でこたえなければならぬときが来たと思うのですが、いかがでしょうか。(
拍手)
政治演説会を国へ帰って開こうとしたら、みんなが演説会場から帰っちゃったとおっしゃっている言葉を私はこの耳に聞いています。