○
原田(義)
委員 教育は百年の計とも言われます。ある時期にそれが失敗いたしますと、それはもう本当に国家の存亡にかかわる、そういう大事なことでございますので、ぜひまたそういう機構、定員といいますか、さらには予算の配分、こういうところで他に先んじて、他に比較して特に重点配分をしていただきたい、こういうふうに要望をしておきたいと思います。
国立学校のこの
法律案につきまして、
改正自体は
学部の改廃というようなそういう部分だけですけれども、私はやはり
大学教育の根幹にかかわることをいろいろここで論じるべきではないかな、こう思うわけです。実は私は、かねがね日本の
大学教育というのはどんな
問題点があるのだろうかということをよく考えることがあるのですけれども、たまたま私は先日、まだ新しい
大学なんですけれども、多摩
大学という学校の学長の野田一夫さんという方にいろいろお話を伺ったことがあるのですよ。実は目からうろこが落ちるというか、自分自身が漠然と感じていたことをこの野田
先生は、いろいろな論文やらいろいろなメディアを通じまして、極めて熱心に自分の所説を説いておられます。
若干私なりに解釈しながらちょっと御説明をしたいと思いますけれども、まず日本の
教育、これはもう非常に国際的にも高い水準にあると言われているのですが、それは初等
教育、中等
教育にほとんど限ったことだというわけですね。
大学教育というのはむしろ非常に問題がある。国際水準にしても、もう途上国の
大学教育にも劣るのではないかということを指摘されるわけであります。このことは、私も自分自身の経歴に引き直しても、例えば
大学には入ったけれども、要するになかなか勉強せぬ。
大学というのは、学校へ入るまでは非常に難しいけれども、入ってしまうと、何か花よチョウよと遊んでいるうちに四年間たって、それで就職と、俗に言う入るのには難しいけれども、出るのは極めて易しいというのが日本の
大学の実態だ、このことはもうみんながそう言っているのですね。だれも反論しないというのは、恐らくもうほとんどこれは正しい指摘ではないかと思うのですよ。
私は地元に、オーストラリアから来ている若い学生に半分アルバイトでいろいろ仕事をさせているのですけれども、これがもう日本の
大学の甘さというか、ほとんどレジャーとアルバイトしかしてないでよくこれで学校ができていくなということを言われるのですよ。今までのところはそれがのんきに認識はされておりましたけれども、これではいけないということでこの野田
先生は、とにかく日本の
大学教育のどこに間違いがあるかというと、
大学というところは
学術研究をするところであると同時に高等
教育をするところ、これは二つの意味合いも持っているのだけれども、結論から言うと、日本の
大学はその目的としては専ら
学術研究にのみ力点が置かれて、その本来の
大学の目的である高等
教育、要するに
教育をする、そこの部分が甚だないがしろにされているのではないかということなのです。要するに、学校のシステムにも問題がある。学校の
先生にも大いに問題がある。それゆえに学生に何の緊張感も伝わってこないのは当たり前のことで、そういうことで勉強も余りしない、何となく四年間で遊んで出てしまう、そういうところがあるのではないかというのがこの指摘なのです。私ももう本当に我が意を得たりという感じがするわけであります。
日本の
大学の、例えば教授陣、教科内容、
教育方法、それから
私立大学は特に経営能力とか、それから学生の勉学意欲、そういうようないろいろな側面をとりますと、どう見ても外国の実態に劣るのではないかな。それはなぜかというと、一つには
大学の
先生、教授ですね、この教授の選び方といいますか、その資格に、
大学教授というのは教員だけれども、自分自身はまず
学術研究を専らする人だというふうに思っているらしいのですな、自分は学者なのであって、学問をすることが大事なのだということで。ただ問題は、学問学績のところで大いに効果があればまたいいのですけれども、ここのところが甚だ疑問のまま、いや、自分は
教育者としては、どっちかというと片手間とは言いませんけれども……。
ですから、例えばいろいろな指摘の中、私もこれは実際の経験といいますか、記憶があるのですけれども、何といったって一冊古いノートを
大学の
先生がつくれば、もう十年一日のごとく同じことを言っていればいい。それによって学生が興味を持って情熱をそこで沸かすようなことは、こんなことではできませんよ。
そういう意味で、私がここでこの説明を通じて申し上げたいのは、やはり
大学というのは
教育をするところではないだろうか、もちろん
学術研究も大事だけれども、それ以前に
教育を授けるところではないだろうか、こういうことなのですね。そういうふうに思いますと、例えば
大学教授への資格といいますか、それも
教育者としての
検討というのは余りないらしいのですね。専ら学者としてどういう
研究をしてきたか、どういう功績を残してきたか、その辺が
大学の
先生としての資格になっておる。さらには、一たん教授として学校が始まりますと、その辺についてそれを
評価し、それからそれに刺激を与えるというのは、
制度的なものは何らでき上がってないらしいのですね。
ですから、結局
先生は、もちろん自分で意識をもり立てる
先生はいろいろな世の中のことを学びながらそれを授業に取り入れようとするけれども、そうでなければ、専ら自分のライフワークである
研究の方は一生懸命やるけれども、生徒を教えるということについては甚だ努力が足りないような気がする。
それで、別にこの学校の宣伝をするわけではないのだけれども、多摩
大学という創立三年か四年目の学校においては、生徒が教員を
評価する
制度というのをきちっと確立しているのだそうですよ。
先生が言うには、これは日本でどこかほかにサンブルがあればと思ったけれども、どうしてもなかったのでアメリカとかよその国のそういう
制度を一生懸命勉強して、かなり翻訳するような格好で、要するに自分たちの
先生が学生の側から見てどうだろうということを
評価する。そうすると、その
評価点で学校の側が、非常に
教育に熱心な人かそうでないかということがはっきりわかるわけです。もちろんこれは単純な
評価の仕方では問題があると思いますけれども。いずれにしましても、そういうことによって学生の側から
先生の側にいろいろな注文を伝える。それによって、自分たちが教えてほしいのはむしろ
教育、それは高い授業料を払って
教育をいただこうと思って来ているわけですから、学校の側も当然その需要に対してマッチする指導をしていただかなければいかぬ。そこのところが例えば十年一日のごときものであったり、それからしょっちゅう休講が行われる、それから学校も中途から始まったり途中で終わったり、その辺が甚だ残念な部分である。
私が申し上げたのはあるいは極端な例かもしれぬけれども、何といったって言えるのは、日本の
大学生が勉強しない、余り水準が高くないということに対しては、行政も国を挙げてこの問題を深刻に考えなければいけない、そういうふうに考えるわけであります。もちろん
大学には長い伝統とか
大学の自治とか教授会の自治とか、いろいろそういう問題がありますよ。ですから、その議論をもちろんそういうことにも及ぼさなければいかぬわけですけれども、いずれにしても大事なことは、
大学という場所が高等
教育にふさわしいものであって、それなりの実績、それなりの目的をちゃんと持っておるということがどうしても必要ではないかな、こう思うわけであります。
若干偏見といいますか、若干情報の少ないところからの私の個人的な意見かもしれませんけれども、
人材を育成する、
教育をきちっとやるというような観点からこういうことを述べさせていただいたわけでありますが、なかなか幅広い話なものですからお答えしにくいかと思いますけれども、
大臣、私が申し上げましたことについて何か印象でもいただければと思います。