○
新井委員 実は十二日にもう法案を決定するという情報があったときに
質問を考えていたものですから、きょうはその決断の後になるだろうという予測でおりましたし、また正直申し上げれば、決断をされる前に問題点を実はこの場で申し上げておきたかったということで、わざわざこちらで問題点を設定して、困難なところがございますよと、
早川さんの意見を途中で入れたりいろいろしながら、そういうちょっと勝手なことをやっておりますので、そこはちょっとお許しいただきたいというふうに
思います。
それでまた、これは
質問ということではなくなって意見の開陳ということになってしまうのかしれませんが、あと
一つだけ、この連用制が持っている問題、これは併用制との選択にも絡んでくる
一つの問題があるのですが、結合という問題ですね。
これは、都道府県単位で結合を認めていくという仕組み
自体はちょっと論外ではないかと
思います。あくまで国政
選挙ですから、都道府県単位でいろいろな組み方が
政党によってできるということは国政
選挙のていをなさないのではないかなというふうに
思います。また、この結合ということを認めますと、結果的に、イデオロギーの対立ということを統合していく要素を持つというよりも、イデオロギーが対立したまま
選挙だけはうまく渡ろうという、非常に実は欺瞞的なことが生じると思うんです。例えば
選挙は
選挙、
政策は
政策、こういう非常に民意を逆に愚弄した
ような形になると
思いますし、イデオロギーの対立ということをそのまま存続させて二大
政党化をさせていくということになっていくとすれば、ちょっと後で申し上げますけれども、連合政権が不安定になるケースなんですね。
後で申し上げますけれども、連合政権が決して不安定でないということは、場合によっては安定であり、場合によっては不安定なんですけれども、不安定であるケースの
一つの理由というのは、大きい
政党間のイデオロギー対立が存続されているということが連合政権の一番不安定要素の
一つとされておりますので、これは実はきょうはお答えをもらう予定で来たんですが、まだ決定しておられないので、意見として、結合という問題には、そういうイデオロギー対立を残したままやっていくという誘因を持っているという不安定面があることを申し上げておきたいというふうに
思います。
それでは、次の問題に移らせていただきますけれども、私は、今
本当に議会が小
選挙区と比例併用をめぐって、信念の対立とか本質的な哲学の違いとかとおっしゃっていますけれども、そういうことを言っていては、いつまでたっても議会の機能を果たさないと思うんです。これを議席率の、得票数と議席という連続量に換算してみますと、必ずしも言っておられることが哲学の違いや本質の違いというよりは、言葉にこだわっている。野党の方は並立という言葉が出るだけで死んだ死んだということになりますし、
自民党の方は併用という言葉が出るだけでもおぞましいという方も出てくるわけで、言葉にこだわっている。それを越えていかないと、要するに合意は成り立たないという気がいたします。
第一点の、得票率と議席率の差に還元するということになりますと、これは実はレープバルトという学者が不均衡指数というのをつくっているんです。これはどういうことかといいますと、各小
選挙区
制度であれ比例
制度であれ、ヨーロッパの二十カ国ぐらいの国の
選挙を見まして、その第一党と第二党の間の得票率と議席率の差というものを平均値した指標なんです。ですから、この不均衡指数が多いほど得票率と議席率の乖離は離れている。この不均衡率の差が小さいほど得票率と議席率の格差は小さいということになりますけれども、こういう指数を使って調べたところ、確かに小
選挙区を選択している国では不均衡率が七・四に達する。しかし、比例区では二・〇である。
日本は四・二である。これは一九四五年から八〇年で。このことをもってヨーロッパの学者は、
日本の中
選挙区を準比例とか比例の変形だとか言っているのは、こういうところに理由を実は持っているわけですけれども。
そのときに、おもしろいことに、小
選挙区において、小
選挙区より不均衡率が高い比例
制度が存在するということを見つけたわけです、この学者が。小
選挙区よりも比例のやり方によってはさらに不均衡が激しい比例
制度が存在するというんです。その理由は、もう御承知のとおり、端数処理の計算方法、それから
選挙区の大きさと定員数の配分の仕方、それから閾値、五%条項があるかないか、もう
一つは併用による超過議席の存在、要するにこういう四点の組み合わせの仕方によっては、小
選挙区よりさらに実はある
意味では安定した議席数を確保できることも理論的に可能であるし、現実にその例があるということを実は証明というか、実証というか、見つけております。
そういうふうに考えますと、いろいろな
意味で得票率と議席率の差ということを考えれば、やはりこれは歩み寄りは絶対なければいけない。ここで言葉にこだわらないで、
制度の仕組みによって両方が歩み寄る可能性は絶対あるんだという確信を持っていただきたいと思うんです。このまま対立に終わる必要は何もない。
そして、次は第二点ですけれども、じゃ
選挙制度が得票率と議席率という差だけの問題かというところにやはり
自民党の重大な問題提起もございまして、これはよく言われております
ように、政権の安定と
責任という、単に得票率と議席率の差を解消しても、政権の持っている安定性と
責任性という問題はどうするんだと、これが実は質の問題というふうになると
思います。
これは、
自民党の方からは連合政権は不安定である、また野党の皆さんからは連合政権は安定なんだという二つの意見が出されておりましたけれども、これも実は学者が研究したものがございまして、これは野党の方から出ておりましたが、ローレンス・ドッドという学者が一九一八年から七四年にかけてヨーロッパの十七カ国を全部シラミつぶしに、戦争中を除いて調べました。このときに、七七%は実は二党制ではなく多党制だったことは認めております。二党制は極めて少ない。その中で、実はどちらも正しいんです。三分の一、三三%の連合政権は要するに四十カ月以上もった、こういう
意味では安定なんですね。しかし、同じく三〇%の連合政権は九カ月ももたなかった、こういう
意味では不安定なんです。要するに、同じ連合政権でありながら極端なケースが生じるんです、安定した場合とだめな場合と。
これは一体何でだろうか、なぜ同じ連合政権で多党制でありながら、一方は安定する、一方は不安定なんだ。これを考えましたのがあの有名なサルトーリという「
政党論」を書いた学者で、彼の観念によって、安定した場合は、こういうことなんです。限定的多党制と分極的多党制という概念を使いまして、サルトーリの証明は、限定的な多党制は安定するというんです。この限定的多党制の条件は、先ほど申し上げた
一つが、多党制下における大きい
政党間にイデオロギー対立がない、決定的な対立がないということが大条件です。
もう
一つは、小党を阻止する条項があるということです。要するに、小党分裂をさせない。これは、例えばドイツの五%条項とか、あるいはこういうのは
憲法に対する
政党の規定がなければできないかもしれませんけれども、そういう
意味で
政党法によって閾値が設定されている。この二つの場合には連合政権は安定する。分極的ですね。そういう閾値がないし、イデオロギー差が非常にある。これはイタリア的なんですけれども、こういうときには、イタリアは真ん中を挾んで左と右がこんなになっておりまして、しかも小党分裂ですから、このときは連合政権は実に簡単に崩壊するという
意味で安定が不可能であるということを言っておりますけれども、そのとおりだと思うんです。
このときに一番いい組み合わせ、結局多党制下における一番いい組み合わせは、最小勝利提携だというんですね。というのは、何でも巻き込むというのはよくない。極めて安定した大きな
政党同士がぎりぎりのところで過半数を制する
ような政権が最も安定するんだ。要するにこれは、逆を言えば、しっぽが犬を振るというふうにこの間おっしゃったと思うんですけれども、例えば第六党とかあるいはFDPの
ような小さい
政党が加わらなければ政権ができないという状態になりますと、その小さい
政党は大
政党より、より迎合的になるというんです。ワンポイントでシングルイシュー、勝負をしかけてくる。そのことによってインフレあるいは賃金と労賃のスパイラル現象を起こしたり、そういう経験がある。ですから、いわゆる多党下における二大
政党的安定政権というのが実は連合政権として最も望ましいということを言っておりまして、こういう
意味では、我々の考えております政権の安定ということは、別に単純小
選挙区にこだわらなくても、政権の安定ということは決して実現できないことではございませんし、比例代表を加味した中でも、いろいろな知恵の絞り方によっては政権の安定ということはやれることだということは、私は
自民党の皆さんにも理解していただきたいなと思うんです。
それからさらに、
責任の問題を、
自民党の場合は
政権交代によって劇的な
責任をとる、こういう考え方でございますけれども、これも劇的な
責任をとる方がいいのか、あるいはそうした安定した連合政権下において緩やかな形で
責任をとる方がいいのかというところは、まあいろいろと考え方だと
思いますけれども、その
責任の所在というところは必ずしもはっきりしませんが、これもやはり克服できない問題ではないのではないかなというふうに思っております。
私も、実はその折衷案というのを
自分の頭の中ではいろいろ考えてきたわけですけれども、この場できょうはちょっと申し上げることはいたしません。僕の個人的な考えでは、今言ったことの中にすべて含まれていると
思いますけれども、そういう解決の方法もあり得るというふうに
自分では思っております。
最後に、
一つだけ申し上げたいことは、もう時間がございませんけれども、今ほど
政治家とは何かということを私
自身毎日考えてきたことはございません。それは、
一つには
政治不信の中で
政治家をやっているという理由もありますが、やはりカンボジアで高田さんが犠牲になられたという
ようなことを正面に受けて、例えばマックス・ウエーバーという人は有名な「職業としての
政治」の中で
国家というのを定義して、正当な暴力行使の独占体であるというふうに定義しております。これはいわゆる機能的な
国家論とは随分違う定義なんですけれども、要するに、言いかえると、究極的には死を与えることのできる力だと定義しております。我々は国内を見ますと、死刑の復活、死刑ということが実行された。あるいはまた国外を見ますと、少なくとも我々全員が参加して
責任を負っておりますPKO法というものによって
日本人の犠牲者が出た。
こういうことを考えますと、やはり
政治家の
責任というのは、
国民一人一人の
本当に死にかかわる、生死にかかわる重大なところにいるんだなという
思いを改めてするわけでございまして、そういう
意味で、この
政治改革の場で私たちだけが危険もなく、自己犠牲も払わないで、
自分の
選挙が不利になるとか
選挙基盤が変わるのが怖いとか、現実にあそこに行って命をかけておられる方を我々が送り出したにもかかわらず、私たちが何の犠牲も払わないで
お互いに有利なことばかり考えてやるということは、
本当に慎み控え、何とかここで、私の考えでは、どうしても
政治改革の必要が迫られている我が党が極力歩み寄りながら、できる限り合意を図るという、やはり第一党としての
責任を見せる必要があるのではないかなというふうに思っておりますので、
最後に自由民主党の方にお伺いして、
質問を終わりたいと
思います。