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衛藤(晟)
委員 イタリアの問題はいろいろなことをやはり私どもに教えてくれている、教訓があると思うのですね。これは足切りの問題もありますが、今回の
社公の案でも一%が足切りでございますから非常に問題はあると思いますけれども、まずやはり小党分立や腐敗の問題が起こってきたと思うのですね。
そこで、ちょうどある新聞にこういう記事が出ておりました。「ある
政治学者は「
国民の意思を出来る限り
政治に反映させるには
政党が多い方がいい、との
考えで、確かに独裁者を防ぐという歯止めにはなった」という。しかし半面、比例代表リストの順位や
選挙区の選定などをめぐって、党のボスの顔色ばかりうかがう
政治家が増え、党内独裁者とそれに従順な
政治家たちという図式が出来上がった。」まあこれは、ここだけ読むと、我が党の比例代表だって余り褒められたことじゃないのかもしれませんけれども、「さらにイタリアでは多くの
政党が乱立し、常に過半数を占める
政党は存在せず、
政権は連立を余儀なくされた。その結果、
政党は権力に参画する駆け引き、折衝にしのぎを削るようになった。」という、これはイタリアの方の
政治学者の文を書かれておりますけれども、やはりここに書かれておりますように、小党分立の可能性、イタリアでは十四ないし十六という
政党ができ、そしてこの連立
政権の駆け引きの中で常にキャスチングボートを握るところ、そこから腐敗が始まっていった、大変な
政権の不安定を招いていった、あるいは党指導者というかボス支配が続き、そこが腐敗を招いたということになっているんだと思うのですね。
そこで、私はやはりこのことを本当に
考えますと、いわゆる民意の反映ということと民意の集約ということを今までも議論されましたが、やはり本当に
考えなければいけないなという感じがするのですね。
イタリアの
国民は、このような
政治の不安定や腐敗を望んだわけではないと思うのですね。そこで一票投じたんだと思うのです。しかし、それは
国民の意思を反映されたところの、投票されたところの民意というか、反映されたところの民意と集約された民意というのがこのように逆の結果を生むケースが出てきたのですね、結局。
皆さんはちゃんと民意を一票一票入れたんだけれども、しかし集約されてきた全体の
政治という構図から見ると、
自分たちの心とは物すごく離れていたという結果が出てきたわけですね。大きな矛盾を持ってきたんだと思うのですね。だから、
選挙で民意は反映されたかもしれないけれども、
政治では民意が反映されない。
ですから、私どもはやはりこのことを
考えたときに、反映された民意と集約された民意というものはできるだけイコールにならなければいけない。これは、制度改革の中で常に最優先、最優先というか、非常に大きな関心を持って
考えなければいけないことだというぐあいに思うのですね。ここに私は、やはり比例制における
一つの問題があるというぐあいに思うのですね。
それからまた、ある新聞にはこういう文もありました。「候補者名簿を作成する党指導部ではなく、「
国民が直接選ぶ」こと」を欲したんだということがあるのですね。私は、なるほどなというぐあいに思っているのです。結局、比例代表制度というのは、党の幹部がこの名簿を出さなければいけない、そこにいわゆる民意と離れたものが存在する。
国民は、できるだけそういう中間的な権力を任せるということよりも、もっともっと直接的に選びたいんだ。これは最近の世界の流れでもあるわけですね。
とりわけ冷戦後、僕は二つの大きな流れが起こってきたと思うのですけれども、すべての国で
政治制度の変革期に当たったということ。もう
一つは、できるだけ直接的に選びたい。例えばマーストリヒト条約の批准を見ましても、ドイツの場合は上院では全会一致、下院でも圧倒的な多数でこれを批准するんだけれども、フランスでは、議会は多数を持つけれども、投票してみると本当に僅少差だ。いわゆる民意というものと議会の意思というものの乖離が起こりつつある。これが全体的に今
政党不信という形を招いていると思うのですね。このことを第一に頭に入れて、私は今
考えなければいけないのではないのかというぐあいに思っております。そういう面から、
政治資金の問題ももう一回
考えていかなければいけないと思うのですね。
ですから、我々は簡単に
政党中心、
政党中心、それは今は中
選挙区制度というのは、とりわけ
自民党にとっては余りにも
議員個人に大きな負担をかけ過ぎました。これは、本当に我々としては大変な制度であります。きつい制度であります。そのことは私どもも十分に承知をいたしておりますけれども、そのことが安易にただ
政党中心だといって、このように流れていいんだろうかということは、本気に心配をしなければいけないんではないのかという気がするのですね。
今、ですから私は、世界的に問われているのはこのような
政党のあり方ではないのか。国家と
政党と
議員とそれから有権者
個人、
国民との関係が、もう一回私はちゃんとした形で議論をされて、問い直されなければならないのではないか。ちょっと我々は安易な改革になったのではないのかという反省を、私は今回のイタリアの例の中で見たわけであります。
例えば、ここに
社公の方おられますけれども、戦後四十数年間、
国民は、
社公民、共産党のような、いわゆる組織
政党のような、党の幹部の力が極めて強い
政党にというか、ちょっと言い過ぎもあるかもしれないけれども、そのような組織
政党に対して余り多くの期待をしなかったのですね、逆に言えば。結果としては、
自民党は自由と
民主主義という
一つの理念を持ったけれども、あとは非常に
議員個人が物すごく苦労するけれども、必死で民意を吸収しょう、そしてそれを党に持ち帰って政策化しようという、そういう環境をつくってきたのですね。
そういう中で、いわゆる組織だとか理念というものから余りがんじがらめにされない、自由なものを持っていた。その自由なものを持っていた
自民党が、民意をまさにより吸収し、より政策的にも反映してきたという結果ではなかろうかな。私はそういう
意味では、最近起こっている
政党離れという世界的な傾向は、なるほどな、これは
日本でも恐らくそうなんだろう、過去四十年間その実験をやってきたけれども、やはりそうではなかったのかという感じがしているのです。
それで、今何でもかんでも、何もかも
政党中心になればいいんだということに対して若干の反省を込めながら、
政党のあり方を今後はやっていかなければいけな。いんじゃないかというぐあいに思っているということだけまずは申し上げておきたいのですが、これについて
各党、三党の代表の
方々、どうでしょうか。