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小森委員 当事者主義というのはもちろんよくわかるのですけれ
ども、現実の問題として、捜査機関を持って警察の協力ももらい、
検察官自体も相当のスタッフを持って捜査できるという立場と、弁護士を一人とか二人とか頼んで防御してもらうというのじゃ、圧倒的に力が違うのですね。体制が違うのですね。私はこれは国会運営に似ておると思うのです。
つまり、政府が法案をつくって出す力と、議会側が、議会側といってもそれは各政党ということになると思いますが、政党の方が法案をつくって出すのとじゃ、それはもう能率とかそういう
一つの機構上の機能とかいうものは天と地の
開きがあるのですね。それで、例えば国会の場合でも、何だ、議院内閣制じゃと言って国会が国権の最高機関じゃと言いよるが、あれは何というざまかと言って
国民はこれを非難するけれ
ども、実際はなかなか、具体的なそのことに対応する力量、そういう
制度の
一つの機構上の力というものを持っていなければならぬわけであります。
公益を代表される検察陣ならば、何もやましいことはないでしょう。もしこの
資料が
無罪で使われれば
無罪でいいわけだし、この
資料を出すことによってそれがさらに有罪であることを確実にするのならそれもいいわけでありまして、
検察官は公益を代表しておるのでありますから、人を罪に落とすということを商売にしておるのじゃないのですからね。しかし今までのやり方からしたら、
国民は、検察や警察は人を罪に落とすところだ、弁護士はそれをどうして助けようかとしてくれる人だ、こういう
判断になると思いますね。したがって、今のようなことでは私は
日本の
裁判の公正を期すことはできない、一方的になってしまうということで非常に危惧するのであります。
きょうのこの
決算委員会に備えて、多少私も、今までの
免田事件とか
財田川事件、
松山事件、
島田事件などの
状況を新聞の社説とか学者の論評とかそういうもので読んでみました。その中に、例えば布団の襟なら布団の襟に血痕がついていたという、その
証拠物たる布団そのものを差しかえてはいなかったか、こういう疑念を新聞に書いてあるのもあるのですよ。
証拠物を鑑定に出すときに差しかえるというようなことも懸念するということを書いていますね。そんなのは極端な極端な例ですけれ
ども、そういうような懸念が生まれてくるということになると、なおさら、
証拠はこれだけありますよ、持って出てもらっちゃいかぬけれ
ども見てくれとか、あるいは持って出ても破損しないようなものについては何日までどうぞ御利用くださいとかいうことが弁護団との間にない限りは、どうしても先ほど来問題になっている自白の問題と
証拠の問題とが検察側の思惑どおりに結びつけられる
可能性がある、こういうふうに私は思うのです。
それで、そこになると濱
局長も、いやそうですよ、そのとおりですよという、私に同感の
答弁はできないと思うから、具体的に申しますと、牟礼
事件というのを御存じでしょう。第八次
再審請求して第八次までやったけれ
ども、途中で
本人が亡くなって
事件は立ち消えみたいになっているそうですが、あの牟礼
事件の場合に、彼女のブラジャーを見せてもらいたいと言って弁護士が申し入れたら、いや、あれはどこへやらここへやらと言って、あっちもこっちも堂々めぐりをして、その言われた先々に行ったら、うちにはない、あっちにあるのじゃないですかということになって、そして一カ月ぐらいたったときに、あれはお見せすることができ。ません、こういう返事が来た。
これは、私は自分でよう確かめていないから、そういうこともあり得るかなと思うことを言うのですけれ
ども、そのブラジャーというのはなくしたのだろう。当然保管すべき検察側がなくしたから、あそこにある、ここにある、あそこにある、ここにあると言いながら、つづまるところ全部当たったらないものだから、いや、あれはお見せできません、一カ月もたって文書でお見せできませんと言ってきたということを私は読みました。
それは何で読んだか、こう言われれば、相当権威がある書物ですから申し上げますが、日弁連から出ている「
再審」という書物の中にそれがあります。ひどいものは、あの牟礼
事件の殺害されたという女性の頭蓋骨がどこへ行ったかわからぬのでしょう。そんなことが
日本の
裁判で——
国民はもっと厳格にやっておると思いますよ。あの頭蓋
骨というのは一体どうなったのでしょうかね。私が見た限りでは、頭蓋骨はどこへ行ったかわからぬ、紛失という
言葉を使っているのですね。あなた、人が
再審請求をやるぐらいのときに、そういう死体の頭蓋骨がどこへ行ったかわからぬようなことでは、私は本当の公正な
裁判はできぬのじゃないかと思いますが、その点はどうですか。