○梶山
公述人 梶山でございます。
環境基本法案に関して私の
意見を申し上げます。
まず、立法をなすには、その基礎となる
社会的事実の認識が重要であることは言うまでもありません。本件
環境基本法については、それが特に強く当てはまります。
例えば、水質汚濁防止法に定められる総量
規制が実態は全く無
意味なものと化している事実、同様に、同法の直罰
規定が実際にはほとんど機能していない事実、このように、
規定があっても空洞化している多数の実態に加えまして、
大気汚染防止法の窒素酸化物の基準値が理由もなく大幅に緩和された事実、河川敷の植生を
意味もなくブルドーザーで一掃する工事が全国的に日々行われている事実、目的不明の林道が
日本じゅうの山を削って精力的につくられている事実、過疎の水源地に三百六十万人もの広域
廃棄物処分場が
二つもつくられようとしている事実、不必要なダムやせきがつくられ、またはつくられようとしている事実など、
日本の
環境行政の存在自体を疑わせるような事実が日々生起しているのが実情であります。
このような事態は、
一つには、これまでの
環境行政の及ぶ範囲が典型七
公害及び原生林等の希少価値を有する一部の自然の保護にとどまっており、縦割り行政が大きな足かせになっていたこともありますが、
環境行政自体、身近な自然の保護を軽視してきたことも否めません。これからの
環境行政は、
地球環境を言う前に、まず河川、森林、海、湖沼等、日常的かつ身近な自然を急速な荒廃から保護することが極めて重要な
課題であることを認識すべきであると考えます。身近な自然を荒廃させる行政に
地球環境問題を論ずる資格はないと考えます。
私は、事態を大げさに言うつもりはありません。しかし、
日本の
環境行政は、実態を無視した楽観論、知らしむべからず、よらしむべしの伝統的なトップダウンの姿勢、縦割り行政による
環境行政立入
禁止の広範な聖域の存在、マテリアルバランスを無視した
資源の大量輸入、
経済成長とのバランスを言いながら、実際には
経済優先の
政策などによって大いに毒されてきたことは疑いのない事実であります。
今回の
環境基本法は、まずこのような実態認識を基本にして
環境行政の根本的転換を図るものでなくてはならないでしょう。そして、そのように重要な
法律ですから、拙速は最悪の選択であることを銘記すべきであります。
国民各層の幅広くかつ十分な討論のもとに制定されるべきものと考えます。
次に、
環境基本法において守られるべき
環境の概念は、単なる
理念論争の問題ではありませんで、
政策の基本
方向を左右する極めて重要な問題です。
政府案の
環境概念は、その点について明確な
視点を欠いているものと考えられます。
まず、都市施設としての道路、公園、下水道などは、都市生活に快適
環境を与える要素かもしれません。しかし、
環境基本法で
保全されるべき対象は、このようなアメニティーの要素ではなく、
自然環境そのものだと考えます。このような
自然環境は、必ずしも
人間にとって快適なものではありません。しかし、生物としての
人類の永続性や
地球のエコロジカルな
循環機能は、このような
自然環境の存在によってのみ保持されているわけです。
これは一見当然のことのようですが、十分に理解されているとは到底考えられません。例えば、河川敷のヨシなどの雑草を一掃し、そこを芝生やベンチで都市公園的施設をつくるというのは、全国どこでも行われています。ひどい例では、ほとんど人の来ない山奥でもこのような工事が行われているわけです。しかも、これらは快適
環境の整備
事業としてなされているのです。
環境について明確なフィロンフィーが必要とされるゆえんです。
現在の
環境行政には、このような問題に関与できないという、いわば半身不随ならぬ、ほとんど全身不随の現象があると思います。要するに、
環境行政が都市計画決定、道路、公園、下水道などの都市施設の計画決定に介入し、かつ、主導権を握る制度が不可欠だと考えます。
政府案、
社会党案ともに、その点について何も触れていないのは大変遺憾であります。しかも、いわゆる快適
環境と
自然環境について、これがある
意味では対立する概念であることの認識が欠けているように思われます。
生態系の
保全と
環境保全との
関係についても同様の問題があります。
生態系の複雑さは、永遠に
人間による理解を超えております。ある種の土壌微生物が絶滅するだけで
人類も絶滅しなければならないという事実は、多くの人には理解しがたいところでしょう。
生命誕生以来三十五億年の歴史の中で、
地球は何度も
温暖化と冷却を繰り返してきました。我々が
地球温暖化を問題にするのは、
温暖化それ自体ではなく、それが途方もなく急激に起こるために
地球上のあらゆる
生命がついていけないからだと考えるべきです。なぜなら、
温暖化自体が
人間にとって、またあらゆる
生命にとっていいことか悪いことかを決定できると思うのは、思い上がりだからです。
私は、
環境は管理するものではなく、また管理できるものでもないと考えます。
人間にとっての
環境と他の生物にとっての
環境を区別できると考えるのも誤りでありましょう。我々のなすべき
環境保全とは、
自然環境の改変を最小限にすることに尽きると考えます。
生物の多様性は、単に遺伝子
資源の問題ではありません。
人間と他の生物は、運命共同体なのであります。かつての針葉樹林による拡大造林
政策が、今、
日本の森林の
危機を招いているように、エコロジカルな目で
環境をとらえないと、
環境保全のための
施策がかえって
環境を荒廃させる結果になりかねません。
本
法律案の目的及び
理念においては、このようなエコロジカルな
視点が欠けていると考えます。例えば、
環境基準の設定
一つをとってみても、それは、
人間の健康に問題があるかという
観点で決定されるべきではありません。魚や虫のことを考えない
環境行政は、根本的に誤っていると考えます。
第三に申し上げたいことは、
国民と自治体軽視の行政では
環境は守れないということであります。
法は、その基礎となる立法事実と
社会的コンセンサスがなければその本来の効力を発揮しません。
環境基本法に関して言えば、立法事実とは、
環境を
保全しようという
国民の欲求であり、
社会的コンセンサスとは、
基本法の示す
社会システムに対する
国民の合意であります。
大量生産、
大量消費のライフスタイルの見直しということが
環境問題に関してよく言われますが、それ自体は異論がありません。しかし、そのような意識を持った
人間が集まっても、高度に複雑化した
社会においては、ばらばらでまとまりのない個々の行動が
環境保全という目的の達成を妨げることは疑いがありません。個々の主体の
役割を具体的に位置づけ、
社会システムを構築する、それが必要です。
国民、自治体、
事業者にそれぞれ
環境保全に参加する権利を与え、かつ、それに相応した義務が設定されなければなりません。
私が申し上げたいのは、
環境問題は、何よりもまず個々の
国民、企業及び地域の問題であり、自分が感じ、日常見通せる範囲での
活動が基礎になるということです。ですから、地域の
環境は住民が主体になり、自治体が責任を持って
保全していく、それが当然であり、そうでなくては地域の
環境保全は果たせないと考えます。
今までの
環境行政は、住民や自治体の主体性が余りにも希薄でした。広域行政の名のもとに中央集権的な
環境行政が行われてきたと思います。住民の参加と自治体の責務が健全に果たされるためには、何よりもまず開かれた行政が保障されなければなりません。そのためには、言い古されたことですが、住民参加と情報の公開がすべての基本となります。
地域の自治が
環境行政の基本です。
環境保全は地域の自治なくしては守れません。しかもこれは、地方自治は民主主義の学校という言葉と同様に、
環境における住民自治はあらゆる
環境教育など問題にならない最高の
環境教育であることを銘記すべきであります。このような
環境における住民自治を軽視しながら、白々しい
環境教育など言うべきではありません。
地域の自治に反する広域行政は、必要最小限であるべきです。広域行政が必要な場合があることは否定できませんが、例えば、水
資源開発や
廃棄物処分場の建設の場合などに常に問題にされるように、山村と都市、河川の上流域と下流域との間に見られるような地域的な不公正、つまり国内における南北問題を発生させる危険を常に有していることに思いをいたすべきでありましょう。
環境行政においては、地域自治との関連でいえば、条例が重要です。国の
法律は一地域の必要だけでは変わりません。相当地域に需要が生じないと変わらないのです。つまり、法の
規制が
社会の発展におくれ、かつ硬直的なのは宿命的なのです。国が権限を握っていて、それを小出しに地方におろしていくという従来の
手法は、住民や自治体の
役割を正当に評価しているとは到底言えません。それは、
環境保全に対する住民パワーを萎縮させる結果を招いています。私は、住民、自治体を主体とした
環境行政の展開を強く望むものです。その点、
政府案は、従来の中央集権的構想から一歩も出ていないと考えられます。大変遺憾であります。
次に、
環境基本法における企業の行動及び責任の問題について
意見を申し上げます。
個々の
国民に抽象的な責務を
規定しても
環境保全型
社会の形成はできないことは、企業についても同様に当てはまります。企業
社会と言われる今日、
環境保全型
社会のための
社会システムを形成するためには、企業の行動及び責任の原理を明確にすることは極めて重要です。
企業の責任については、
原因者負担原則ないしPPP原則が言われます。また、
環境税、外部不
経済の内部化など
経済的手法の導入が言われます。これらの原理は、大変あいまいで、かつ抽象的ではありますが、
政府案、
社会党案においても見られます。しかし、余りに抽象的です。
企業はもともと営利を目的とし、その行動の動機は利潤の獲得ですから、
環境保全への動機は外部から付与しなければなりません。企業行動のこの狭まれた行動原理を考慮すれば、そこには単なる
経済的誘導
政策にとどまらず、企業行動についての新たな原理の確立と
社会的責任の所在を明らかにする制度が必要と考えます。
企業行動を
環境保全型に誘導するための
経済的
政策はもとよりですが、具体的な問題として私が申し上げたいのは、第一に、企業に営業資金を提供する金融機関の責任を強化して、融資した企業の
環境責任を金融機関が連帯して負う制度及び
環境監査制度であります。特に金融機関の責任制度は、企業
社会の意識転換に決定的な
役割を果たすものと考えられます。この点はぜひ御検討いただきたいと考えます。
第五番目に申し上げたいのは、
理念法よりも具体的手続法をということであります。
今回の
環境基本法案は、いずれも若干の
規定を除いていわゆる
理念法であり、具体的なものは今後の問題として残されています。しかし、
基本法だからといって
理念的なものにとどまるべき必然性はありません。諸外国の例を見ても、一九九〇年十一月のイギリスの
環境保護法、九一年六月のデンマークの
環境保護に関する
法律、準備中のドイツ
環境法典総論編などにおいても、極めて個別的かつ具体的な
規定が多数置かれています。
日本における今日の
環境問題は、今すぐにでも具体的な
施策の転換を求められている点が多数存在します。
理念法をつくり、それから何年かかけてこれを順次具体化していくというのは、余りに悠長であり、状況判断を誤っているものと思います。しかも、
法案においては、
環境保全型
社会形成のための具体的困難な問題はすべて先送りした感があって、将来における具体化の展望を
国民に示しているとは考えられません。
アメリカ、EC、EC
諸国が、その
政策の当否は別として、次々と具体的な
環境政策を打ち出しているのに比べて、基本的認識に欠けるところがあると思います。
私は、今回の
環境基本法においては、
理念はもとより不可欠ですが、具体的法の定立が不可欠であり、かつ、実体法よりも手続法を重視すべきだと考えます。公正な手続が保障されれば、
環境の
保全をどのようになすべきかは、その手続をもとに
社会的合意を形成することによって決めていけばいいのです。要は、そのような公正な手続をどのようにつくるかです。
しばしば
環境権の問題が
議論されていますが、私は、これは実体的権利として
規定すべきものではなく、
環境の
破壊、汚染等の行為に対して、個々の市民がその直接の利害の存在を超えて、だれもが行為者や行政に異議申し立てをし、一定の
措置を請求し、さらに訴訟を提起するなどの参加及び手続
規定の中に解消されるべき問題だと考えます。
このような基本的手続要求権を保障するためには、情報公開、自治体や住民の権限、企業、金融機関の責任制度など、その周辺の制度や手続がどうしても必要になります。
環境基本法においては、まさにこのような具体的手続
規定こそ重視されるべきであり、またこれは、抽象的
理念や実体
規定よりも重要という
意味では、
基本法において
規定するのにふさわしいと言えます。
次に申し上げたいのは、他の
法律等との
関係であります。
今回の
環境基本法の提案に伴って、若干の
関係法律の廃止及び改正が提案されています。しかし、それは
公害対策基本法及び
自然環境保全法を除くと微々たるものです。
しかし、
環境保全のための行政
課題は、河川、森林、海、湖沼等の
自然環境の
保全が最重要
課題であることは先ほど申し上げました。そうすると、従来の
環境関連法はもとより、例えば都市計画法、河川法、海岸法、港湾法、公有水面埋立法、リゾート法、森林法、
廃棄物処理法、原子力
基本法など
関係する
法律は多岐にわたり、さらにはODA
基本法のような
法律の策定も必要になる可能性があり、自治体の権限や住民参加に関しては、地方自治法などの大幅な見直しが不可欠であ
ります。
環境基本法が
環境行政の質的な転換を図るものだとしたら、これら
関係法令の大幅な見直しがどうしてもなされなければなりません。ですから、
基本法においてその点に配慮した
規定が必要です。具体的には、他の
関係法令による
施策と
環境保全施策との優劣や調整に関する問題です。
法案にはその点に関するものが全く見当たりませんが、仮にこのような問題を全く考慮せずにこの
法案が作成されたのだとしたら、余りに容易と言わざるを得ませんし、真に
環境行政を転換するつもりがあるのか疑念を生じさせます。
最後に、
政府及び
社会党案における
環境基本計画について
意見を申し上げます。
これらの
法律案においては、
環境基本計画が
環境行政の基本的かつ総合的
施策を定める重要な計画として位置づけられていると考えられます。しかし、本
法律案の目玉とも言うべきこの
環境基本計画については、次のような問題があると考えます。
第一に、この基本計画の策定手続が旧態依然たる
方法であり、このような重要な位置を占める
環境基本計画の策定について
国民の意思を反映する手段は何も示されていないという点であります。民意を反映しない基本計画に基づく行政に
国民の協力を望むべくもないことを想起すべきでありましょう。そもそも
政府は、基本的な
環境施策の決定に
国民が参加する権利がないと考えておられるのでしょうか。大変疑問であります。
第二の問題は、
環境基本計画に盛り込まれる事項が余りに抽象的で、白地法規に等しいという点であります。このように真っ白で
内容不明のものを
環境行政の中核に置いているために、
法律案全体の
趣旨を不明確なものとし、そのインパクトを著しく弱めています。
第三に、他の法令等に基づく諸計画との
関係が何ら示されておりません。例えば国土総合
保全計画、都市計画、国土利用計画、河川工事基本計画、都市再
開発計画、水
資源開発基本計画など、他の無数の計画との体系的位置づけや調整の
規定がないのです。最低限、
環境基本計画の原則的優位を明らかにすべきと考えます。
第四に、計画行政が計画倒れにならないための担保がありません。私が危惧するのは、
環境保全のための計画は現在でも国や自治体で無数につくられていますが、計画どおりにならないことに関して、すべてが無関心に放置されている実態があることです。
環境基本計画を
環境行政の中核に据えるならば、計画の達成を常に監視し、その実現のための
施策を修正、強化する手続や権限が不可欠です。計画が計画倒れにならないことを保障する手続は、まさにこの
基本法で同時に具体化されるべき問題です。それを欠いているということは、従来の無
意味な計画行政と選ぶところがなくなってしまう危険があると考えます。
限られた時間で、ごく要点のみを申し上げました。舌足らずの点が多々ある点は御容赦願います。御清聴ありがとうございました。(拍手)