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政府委員(
藤井治芳君) 先生御指摘のとおり、
日本海側に一カ所、太平洋側に一カ所、もっと厳密に言いますと、青森県の
日本海側にも欠落の箇所がございますし、高知県にも実はございます。
昭和四十一年のときに、我が国のそのときの
考え方が、せめて全国から二時間ぐらいで高速ネットワークを使えるような国土にしたい、こういうことで七千六百キロの計画を立てたことは先生御
承知のとおりでございます。
そのときに、
日本海側は北陸自動車道の四百四十キロを初めといたしまして、横断道として千三百三十キロ、言ってみれば一縦貫道八路線の
日本海側のネットワークでございます。これで一応二時間というイメージはつながったわけでございますが、昭和六十二年に、それではどうにもならないじゃないかという物の
考え方から、全国の都市、農村から一時間で到達できるようにする、しかも重要な港湾、空港の大
部分とはおおむね三十分で連絡しようということで、一万四千キロの計画を立てた際に、
日本海沿岸地域におきましてもへ北陸自動車道以外に
日本海沿岸道、東北自動車道、山陰自動車道、近畿道敦賀線の延伸という形で四つの縦貫道とそれから十三の横断道で結ぶことによって、延長にいたしますとおおむね千九百二十三キロの横断道、縦貫道は千三百キロという形で一時間の構想が立てられるなと、こういうふうに思ったわけでございます。
その際に、やはり一時間で高遠交通の
サービスが受けられるということと地域の活性化とが必ずしも一致してないということに私
ども着目いたしまして、その後地域が地域のネットワーク社会として活動するにはどうしたらいいか、ストロー
効果が起きないようにするにはどうしたらいいかという点を
考えまして、地域が一時間圏の集積生活、圏であるとかあるいは三十分とかいったような、地域におけるネットワーク圏を、交流圏をつくるために地域高規格幹線道路網というものをこれに一緒につけ加えることによってストロー
効果のない地域社会ができるのではなかろうか、このように
考えるに至ったわけでございます。そこで、今先生の御指摘の地域についても、そういう観点を加味しながら現在勉強をいたすべき必要があると思っております。
ちなみに、昭和四十年代は年間百キロしかつくれませんでした。五十年代から六十年代は年間二百キロでつくってまいりました。しかし、六十二年の計画以後は年間三百ないし三百五十キロずつつくらせていただけるように御理解をいただいておりますので、そういう中でおくれを取り戻しながら、特に雪国の多い
日本海沿岸は、今までは、三十年代は冬は半分しか車が通れませんでした。夏と冬の交通量でいいますと、夏の一に対して冬は〇・五でございました。現在はほとんど夏と冬変わりませんので、そういう車社会になった
日本海沿岸の今後の活性化のために、私
どももいろいろと地域発の情報をもとにいたしまして今後まとめていきたいと思っております。