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井上哲夫君 私は、
連合参議院を代表いたしまして、ただいま
提案のありました
国際平和協力等に関する
特別委員会の
委員長である
下条進一郎君を問責する動議に
賛成の
討論をなすものであります。
下条委員長、あなたのとられた六月五日未明の突如の
質疑打ち切りとこのとき
採決をしたとの措置は、その外形的事実を欠くもので、その
存在は認められません。このように打ち切りと
採決の事実がないにもかかわらずこれがあったと主張するあなたの態度は、
特別委員会委員長として公正と公平な
運営を旨とするとこれまで再三再四私どもに言明してこられたことと明らかに違うもので、
委員長の職を大きく汚すものであります。
加えて、野党より
質疑打ち切りを撤回し
採決のやり直し、すなわち正常な手続をとる機会をつくるべしとの声を無視して今日に至っていることは、まさに言語道断と言わねばなりません。直ちに
委員長は可決されたという
PKO法案を
委員会に差し戻し、
責任をとって辞任すべきではないですか。
委員長、あなたは六月五日未明の
PKO特別委員会で
角田義一
委員の残した十五分間の
質問時間につき
質問を最後にさせることを繰り返し
約束されました。そして、参院クラブ喜屋武
委員の
質問が終わろうとした瞬間、突如
自民党委員席より出た
質疑打ち切りの動議
提出の声に対し、間髪を入れず「
質問者
角田義一君の
質問を受けます」と声高に叫ばねばなりませんでした。
突如の動議も出るかもしれない状況は
委員会のだれしもが予測し得たことから、この中にあって
委員長として当然の措置を慌てふためくことなくとっていれば、
委員長として公正にして民主的
運営、すなわち一党一派に偏ることのない中立的立場に基づく
運営ができたのです。にもかかわらず、この措置をとらないまま、数瞬を過ぎて飛び出した
反対を叫ぶ
委員の怒号と混乱に囲まれて、あなたは
委員長席でしばし立ち往生の事態に至ったのです。
なぜ私がこのことを申し上げるかといえば、だれもがこの光景、この事態の推移を現場で見ているからであります。深夜ではありましたが、まさに衆人環視の中であったからであります。
筋書きどおりの展開であったかもしれません。あなたはその後、
質疑終結の動議を諮り、
賛成委員の
起立を確かめ、
討論がないことを確かめ
採決の手続に入った、
採決手続では、
自公民の
修正案、PKO
政府提出法案、そして国際援助隊
派遣法案と続けて諮り、
質疑打ち切り動議の
起立委員がそのまま座らずに
起立多数で可決されたとして
委員長は
採決されたと申されるようであります。
あなたの論法でいくと、私たち
連合参議院提出のPKO
修正案と国際援助隊
派遣の
修正案を含めた二本の
法案の
採決はどう処理されたとおっしゃるのでしょうか。一つの動議と三つの
法案の
採決中、
賛成委員の
起立多数を確認したというあなたのこじつけによれば、では三つ目の
法案は何だったのでしょうか。一番初めに私たちの
修正案が諮られ、否決後に
自公民修正案、そして
政府PKO法案と続くと、その次に来るのは私たち
連合参議院提出の国際援助隊
派遣の修正
法案となることは決まっております。これが否決された後に
政府提出の国際援助隊
派遣法案の
採決手続なんですよ。三案引き続き
賛成委員の
起立多数にて可決ならば、私たちの国際援助隊
修正案が、つまり連合
提出修正案が可決されたのではないですか、どうですか。
あらかじめ示し合わせての強行の
審議打ち切りと
採決手続も、私がただいま指摘しましたごとく、大変大きなミスを犯したわけであります。どじを踏むとはこのことです。どこから見ても
採決は不
存在なのです。ないものをあるごとく装い、
国民にこれがあったものと信じ込ませ、その錯誤に陥った
国民に、もって民主政治が
日本の
国会で健やかに生きていると思わせることは、手品師の演技ならいざ知らず、ごまかし以外の何物でもあ
りません。それとも
連合参議院の国際援助隊
派遣法の
修正案が可決したことを認めますか。
私は、今回の
特別委員会の不正常な
強行採決事態に心から
怒りを禁じ得ません。
廃案のために
審議の引き延ばしにのみ腐心する勢力に対抗するにはこれしかないとおっしゃりたいのでしょう。これまで幾度も、世に言う対決
法案ではずっとこの方法で少数党の抵抗を排除して解決してきたのだとおっしゃりたいのでしょう。しかし、私たちはそうは思いません。
鈴木内閣での八一年度予算案、比例代表制を導入した公職選挙法の改正案、竹下内閣での消費税導入の
法案など、これまでの不正常
採決ケース、
強行採決事態と今回のそれは明らかに違うのです。シロをクロと言い繕い、
採決を有効なものと言うところは同様でしょうが、
審議を打ち切るべきでは断じてなかったのです。
今回は、なるほど百時間に及ぶ
審議時間がありました。しかし、
政府提出の原案に対し、
自公民三党による重大な修正部分を含む
修正案は、余りに遅い時期、まさに終盤に
提出されました。この
修正案に対し、その
審議時間は実にたったの十四時間にすぎないのです。その上、私たち
連合参議院も
自公民修正案提出後に独自の
修正案を
提出したのです。私たちの
修正案は、実を申しますと、一昨年十一月、
自公民三党の合意がなされた中での重要な事項である
自衛隊とは別の組織で
日本はPKO参加を図るという基本を忠実に守り、これを取り込んだ
修正案であったことは皆さん御承知のことでしょう。
このように、多数派みずからが出された
修正案と、かつての基本とされた別組織論を実現した私たちの
修正案に対し、わずか十四時間、三日間の
審議でどうして
審議は尽くされ
質疑終局の機は熟していたと言えるのですか。いつものとおりの筋書きの
強行採決とは今回は中身は全く違うのです。私は新聞報道の記者の方々にこのことを強く申し上げました。なぜもっと早く
自公民修正案を
提出なさらなかったのですか、一カ月も二カ月も前から。
さらに、
下条委員長、あなたは
委員長として、本当に意見の対立の厳しい中で
委員会運営に努力を重ねてきましたか。今回の
PKO特別委員会は、あなたも途中から前
委員長に交代して就任されました。
運営上も
審議の対象
法案も重くて大きく、与野党の激しい対決も予想される
委員会の
委員長にいわばリリーフエースとしてつかれたあなたは、これまで大変な毎日であったでしょう。
しかし、この
委員会はまた画期的な
法案審議の
委員会でもありました。
政府提出の
法案のほかに、社会党からの対案、そして終盤での
自公民三党の
修正案、さらに連合
修正案と、まさに議員立法の
法案と
政府案の花盛りの状況だったのです。最後の三日間の
委員会審議の
質問は、
質問する議員と答弁に立つ議員のちょうちょうはっしのやりとり、まさに
国会議員の政策をめぐる華々しい論争の場で、これ以上ない見せ場、迫力満点の
審議風景でありました。
その上、
日本が
国際社会で何をなすべきかに関して、
日本国憲法や本院
国会決議の内容をどのように受けとめその立法精神の実現を図るかがすべてにかかわる
審議法案でした。
国会開設百年を経過した
日本で、まさに後世に名を残す議会
審議となり得た
委員会でありました。
反対派の、あるいは少数派の抵抗があったとしても、多数派の方々も大きな度量でこの画期的
国会審議を守り立てるべく説得に説得を重ね努力に努力を積んで、一歩後退二歩前進の精神で
審議の円滑な
運営を図らねばならなかったのではないでしょうか。
反対のための
反対の野党に一々相手になっていても仕方がないといった決めつけは、今回はあってはならなかったのです。
もう与えられた時間が来ております。
私は、六日未明、五日より始まった議院
運営委員会委員長解任
決議案件での
採決で、生まれて初めて見よう見まねで牛歩の
投票行動をとりました。物理的抵抗はやめろ、
約束が違うぞ、ばかなことをだれに唆されたのだといった声が私の背後から聞こえてきました。しかし、
特別委員会でのあのような
委員長の措置に対し、私の腹の底からの
怒りは抑えようがなく、この
怒りをあらわすためにはあのとき牛歩以外ほかにないと考えての行動でした。私は、牛歩の実行に着手してから終えるまで、私のこの
怒り、嘆きは、私の体を、私の目を、私の態度を見ていただければ一人でも多くの人にわかってもらえる、このように思ったからであります。
下条委員長、あなたは過日私に、私が三重県出身者であることから、僕は終戦前海軍兵士として三重県鈴鹿市白子町にいた。そこで病を患い失意の時を過ごしたが、結果から見ると、死地に赴くことなくこうして九死に一生を得た。厚生大臣のとき、白子町で診察、治療をしてくれた医師が今では遠く北海道で生存しておられることを知り、念願の音信を果たすことができた。白子は忘れ得ぬ思い出の地ですと私に語られました。聡明にして温厚、物静かで人情に厚い
下条委員長に私は心から尊敬をしてまいりました。
しかし、今回の
委員長としての措置は、当然なすべき
委員会の
運営の公正さと
参議院特別委員会の
権威を、さらに
国民からの信頼をいたく傷つけ、それは回復不能とさえ言えます。
委員会の
権威を失墜させ、院の
権威、そして
委員会の公正さ、公平さを損なった
責任をどのようにとるのでありましょうか。潔く
PKO法案の
審議を
委員会にこれを差し戻し、直ちに辞任すべきことを重ねて申し上げて、私の
討論を終わります。(
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