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参考人(
大熊一夫君) 本日は貴重な
発言の
機会を与えていただきまして、本当にありがとうございます。
私は、これまでの
取材体験に基づいたものを土台にいたしまして、
皆様のもしかしたら
参考にしていただけるのではないかという
お話をさせていただこうかと思っております。
医療法というのは、
日本社会が
国民に対してどんな
レベルの
医療を用意するのかという大枠を示す
法律であります。それは、私
たちが病に倒れたときに、この
日本社会が私
たちにどんな救いの手を差し伸べてくれるかということを教えてくれる
法律と言いかえてもよろしいかと思います。
私のことをちょっと申し上げますけれ
ども、私は一九七〇年に、当時は
朝日新聞の
記者をやっていたわけですが、都内のある
精神病院に
患者として潜入いたしまして、「
ルポ精神病棟」という
連載記事を
朝日新聞紙上に発表したことがございます。それ以来、主に
日本の
精神科医療と
老人科医療に強い関心を持ち続けております。
精神科と
老人科というのは、いわば慢性化した
患者さん一を大勢抱えておるわけでございまして、今回の
法改正の目玉の
一つと言われております
療養型病床群というのはまさにこんな
入院者の集まるところではなかろうかと想像できますので、私の
取材体験は大いに
参考にしていただけるのではないかと思っております。
一九七〇年以来今日までの二十二年間の
取材で出会った
問題点を思いつくままに述べさせていただきます。
日本の
慢性患者を
対象といたします
医療の
現実を
一言で表現すれば、安かろう悪かろうとでも申しましょうか、とにかく看護や
介護の
人手を十分にかけていないことに
特色があるように私には思えます。その結果、
現実は惨たんたるものであります。
例えば、まず
精神病院のことを申し上げますが、
日本の多くの
精神病院で
作業療法め名のもとに、本来は
病院職員がするべき仕事を
入院者たちに極端に安い報酬で肩がわりさせてきたという事実がございます。これを否定する人はもはや少ないだろうと思います。
作業療法というのであれば、
患者さんが働く、働かないに
関係なく
病院機能は維持できるように本物の
職員が配置されていなければおかしいのですが、
現実には
患者が働かなければ
病院機能が滞ってしまうような
事態は
幾らでも見られるわけであります。こうした
現実は
減少傾向にあるとはいえ、恐らく今日でもまだ残っていることだと思っております。
ここで
問題点ははっきりしております。
厚生省が決めました
職員配置の
基準が余りに低過ぎるわけであります。低過ぎて、
病院がその
基準をもし守ったとしても、十分な
精神科医療はできないというわけです。一部の良心的な
精神病院なんですが、その低い水準の
職員さんで歯を食いしばって頑張っているという
現実は確かにございます。しかし、そうした頑張りは労多くして報われるものが少ないわけでありますから、決して
普遍化はいたしません。
日本の
精神病院が国際的に見て
開放率が大変低いとか、まだまだ
収容所臭さを大いに残しているとかいうのも、もとはといえばここに最大の原因があると私は思っております。また志の低い
経営者が安心して
怠慢経営に励めるというのも、こうした
医療環境全体の
レベルの低さが何となく容認されているからではないか、そういうふうにも私は思っております。
日本の
精神病院というのは、過去二、三十年の間にしばしば
暴力事件を起こしております。ここでいう
暴力というのは、何年か前に国際的にも問題になりました
宇都宮病院事件に象徴されるような、つまり
病院職員が
入院者を殴るとか殺すとかいった
暴力のことでございます。これも
職員の少なさと無
関係ではないと私は思います。不十分な
人手で
入院者を管理しようというのであれば、どうしても
かぎや鉄格子が必要になるわけでありまして、幽閉される
立場からいたしますと、
不安感とか
不快感は行動であらわすということになりまして、それを抑えるには
職員の側も強い姿勢をとらざるを得ない、つまりどうしても
暴力が必要になるという、そういう
必然性がそこにあるわけであります。
このような
事件が起きましたとき、いつも一部のふらちな
病院が例外的な問題を起こしたんだといって片づけられる
傾向にございますけれ
ども、本当は
日本の
医療体制が
構造的に病んでいるのだ、そういうふうに考えないと解決の光明は見出せないのではないか、私はそういうふうに思うわけでございます。
この
日本社会では、
精神病の
患者さんが不幸な
事件を起こしたときに、
患者さんを危険視する声のみが突出しからでありますけれ
ども、実は
事件の背後にもこうした極端に貧弱な
精神科医療体制があって、
精神科医療を信用できない気の毒な病人が世の中にたくさん出てしまう、
医療の網からこぼれ落ちてしまうような人が大勢出てしまう、そういう事実を私
たちはもっと知るべきではないか、そういうふうに思うわけでございます。
このような不幸な
事件を減らす道は二つあると私は思います。
一つは、
患者を片っ端から捕らえて
閉鎖空間に徹底的に閉じ込めることであります。この野蛮な
方法は何
世紀も昔から今日までずっと続いてきたわけでありまして、それが
精神病院の
歴史そのものと言っても間違いではないと思います。しかし、この
方法をとり続けたのでは
暴力的な
雰囲気とは縁が切れないということでもありますし、それから
患者さんも
医療を信用しませんし、そうなりますと
病院や
医師に
患者さんが近づかないということにもなります。そうなりますとさらに今度は
状態の悪くなった人が孤独のふちに沈んでしまって最悪の
事態を招く、そういうことが十分に想像できるわけであります。それから、
拘禁状態が
精神病の
治療にとって大変なマイナスであるということは、もう今や世界じゅうの
専門家の認めるところであります。それから
拘禁が絶大なる
人権侵害であるということはもう言うに及ばないことであります。しかし、
患者の
人権が叫ばれますと、決まって不幸な
事件の
被害者の
人権はどうしてくれるのかという御
意見がよく出てきます。しかし、
被害者の
人権を大切にするというのは
加害者を懲らしめるということではありませんで、それは不幸な
事件を未然に防ぐことによって
被害者を減らすということにならなければ、
文明国家としてはちょっと恥ずかしいのではないかと思うわけであります。
不幸な
事件を減らす、なおかつ
患者の
人権も守るとなれば、それはもう
一つの道、第二の道、つまり
患者に対してやさしい
医療体制、
患者から頼られるような
医療体制をつくり上げることであります。それこそが
事件の起きにくい
医療環境というわけでありまして、それはイギリスやカナダやイタリアやスウェーデンなどの地方自治体でその手本を見つけることは
幾らでもできると思います。
患者から信用される
医療体制には今よりはるかに多くの
人手が必要であります。現在の
精神医療の
人手は
患者を
拘禁するのにも十分とは申せませんけれ
ども、とにかく
開放的な
雰囲気の中で本格的な
治療を目指すとなれば、
お話にならない少なさと言うべきであります。これはこの
日本で
患者によかれと努力している
開放型のまじめな
精神病院がたくさん、たくさんとは言わないまでもございますけれ
ども、そういう
病院を一度でもごらんいただけますと、だれでも納得いくことではないかと思います。
今回の
医療法の
改正で
精神科の根本的な改善に関する話が余り聞かれないというのは、正直言って私は大変がっかりしているところであります。
次に、今度は
日本の
高齢者医療の
現実に触れることにいたします。
日本の
高齢者医療の
特色というのは、これは
一言で言えば
社会的入院が異常に多いということであります。
高齢者のことですから、一人で三つや四つの
病気は持っております。それは主に
慢性病でありますから、つまり高血圧だの
糖尿病だの痴呆だのという、
病院にいたからといって根治することはまずない
病気であります。本人は家に帰りたいと申すでしょう。良心的な
医師なら、この人は家にいた方が幸福だから帰したいと当然考えるはずです。にもかかわらず、家には帰れない、
つまり家では
家族が面倒を見切れない、それで帰る先がないという
理由で結局
病院に長くとどめ置かれる、それが
社会的入院と呼ばれるわけであります。
本当は、このような人々の実態は、きちんとした公的な
調査で明らかにされてしかるべきだと思います。その
調査結果が
施策や
法改正の
基礎資料として使われるということになるのが本来は話の筋ではないかと私は思っております。とにかくこの
社会的入院というのは無視できるような数字ではございません。例えば、
病院統計をひもときますと、六十五歳以上の人が半年以上入院し
っ放し、そういうケースを拾いますと大体三十万入前後になるはずであります。
高齢者が半年以上入院し
っ放しというのは、何となく
社会的入院を暗示させるものであります。
こうした
現実を前にして、今直ちに取り組むべき
政策としますと、
社会的入院をいかに減らすかということではなかろうかと思うわけであります。
社会的入院を生み出す
構造というのははっきりしております。
ハンディを負ったお
年寄りの多くはまずは
家族に面倒を見てもらっております。しかし、
家族の
介護力というのは明らかな限界があります。
日本でよく
家族がお
年寄りの世話をするという麗しい風習があるように言われております。外国からもこれは大変うらやましい目で見られております。
厚生大臣を初めとして
日本の政界の
有力者の
皆さんも
家族が
身内のお
年寄りの面倒を見ることを奨励するような
発言をなさっております。たしか山下さんもさきの
大臣就任の
記者会見でそのようなことをおっしゃったと私はテレビで拝見したような記憶がございます。
しかし、一
現実には
日本の
家族というのは、
身内のお
年寄りの面倒を見切れないわけであります。もちろん必死に頑張っている御
家族は大勢いらっしゃるわけですけれ
ども、しかし
ハンディの度合いが重くなれば
家族だけでは絶対に支え切れない、これはもう明らかであります。この
日本に
介護疲れによる
無理心中とか
肉親殺人が異様に多い、これは本当にほかの国に比べて圧倒的に多いわけですが、まさに
介護の大変さの
証明、そこでの悲劇が
証明をしているんだというふうに私は思えてなりません。しかも、現代は女性も
社会進出が当たり前でありまして、要
介護老人がふえる一方で、
日本家庭の
介護力は落ちる一方であります。その結果、普通は
無理心中といった極端な
方法はとることはありませんで、
家族はお
年寄りをどこかへ預ける、預けて
家庭崩壊のピンチをしのぐ、そういう道を選ぶわけであります。そのお
年寄りの
預け先が
一般病院であり、
特例許可老人病院であり、
老人保健施設であり、
精神病院であるというわけであります。
日本には困った
家族をお助けする
医療施設ばかりがたくさんある、そういうふうに私には思えるわけであります。そこがお
年寄りが進んで入りたくなるようなものというなら、これは話はわかるんですけれ
ども、どうも私にはそういうふうに思えないわけであります。とても
皆さんがそこで人生の最期を送りたいと思うような
環境ではないと思います。うそだとお思いでしたらば、
東京周辺にはお
年寄り専門の
施設が、
病院がたくさんございますから、無作為に抽出して、予告なしに訪問なさる、そういうことをすればもう一遍で
事態はわかっていただけるんじゃないか。特に夜の
病棟風景などをごらんいただいたら一番よろしいかと私は思うわけであります。きっとベッドに縛りつけられた人、
かぎのかかった部屋に閉じ込められている人、向精神薬で行動を抑制されている人、こういう方が大勢見つかるはずであります。人間としての尊厳をはぎ取られた
状態、そういう方が余りに大勢いるので、恐らく
皆さんびっくりなさると思うわけです。そこまでの仕打ちは受けないまでも、この
日本には寝巻き姿で寝床に放置されているというような、いわゆる寝たきり
老人と言われる人が大変な数で存在するわけであります。
これは、一九八八年の厚生科学研究特別事業として行われました「寝たきり
老人の現状分析並びに諸外国との比較に関する研究」、こういう特別研究によりますと、
施設やベッドに一日じゅういる
老人、これはスウェーデンが四%、アメリカが七%、
日本の特別養護
老人ホーム、実に四八%、
日本の
老人病院、さらに驚くことにこれは六四%、もう大変な数で寝たきり
老人が
日本にだけやたらにたくさんいるという事実がここでもはっきりしております。
こうした不幸な社会的な入院を減らすには何をするべきかといえば、これは
家族がお
年寄りを
医療機関に捨てずに済むような、そういう仕組みを社会につくることだと思います。つまり、
ハンディを持ったお
年寄りも自宅で生活できるように、それから
家族が
介護疲れで
病気になったり、あるいは女性が
介護のために勤めをやめなきゃならないとか、そういったことがなくて済むような仕組みをつくり上げなければいけない、それこそが
高齢者福祉と言われるものではなかろうかと思います。それは、具体的に申し上げれば、その福祉の一端を担うのはホームヘルパーであり、訪問看護婦というわけであります。
では、
日本の
高齢者福祉というのはどのくらい貧弱なのか、その一端も申し上げておかないといけないと思います。例えば、在宅福祉の中心はホームヘルパーでございますが、その数が、これは単位人口で比較いたしまして、
日本のそれはデンマークの十五分の一以下であります。
日本には家事援助型といいまして軽い仕事のヘルパーが多いわけですから、仕事をこなす実力を考えましたら恐らくこれはデンマークの数十分の一ではなかろうか、こんな
現実では当然
日本に
社会的入院がふえて当たり前というわけであります。
じゃ、どうしたら
社会的入院が減らせるのか。
方法は
一つでありまして、
高齢者福祉を充実させなければだめなわけであります。福祉の充実といいますと、
日本の
国民は高福祉高負担を好まない、だから
日本に福祉はなじまないとか、
日本社会に高福祉は要らないとかおっしゃる方が大変多いんですけれ
ども、しかし仮にデンマークの三分の一程度にまでホームヘルパーをふやしたといたしましても、まだまだ私は高福祉国の名には値するものではないんじゃないか、そういうふうに思います。とにもかくにも、それでやっと文明国の仲間入りができるかどうか、その程度のものではないかと思っております。つまり、今の
高齢者福祉というのは余りにお粗末に過ぎて話にならない、そういうことを政治家の
皆さんに認識していただきたいと私は思うわけであります。
以上くどくどと申し上げましたけれ
ども、とどのつまり、
慢性病患者を大勢抱えることになるであろう療養型
病院、こういうものをつくろうというのであれば、それは
高齢者福祉とリンケージされていなければナンセンスであります。
高齢者福祉は
高齢者医療とワンセットで語るべきもの、そうでなければとにかく体の不自由なお
年寄りが救われることはないだろう、これはもう断言できるわけであります。
もう
一つ認識を深めていただきたいのは、
社会的入院をさせられている人々の身の上であります。先ほ
どもちょっと申し上げましたが、縛られたり、閉じ込められたり、薬でよれよれにされたり、寝かせきりで放置されたり、こうした仕打ちは
病院によってかなりでこぼこがあることは事実でありますけれ
ども、とにかくそれが
介護者や看護者の質の問題であると同時に量の問題でもある、ここを外してはいけないと思います。
老人病院も
精神病院同様、お世話の
人手は全く足りないというのが
現実であります。
人手の足りない分、縛られたり閉じ込められたり、
人手を惜しむほどにお
年寄りの尊厳が損なわれている、そういう
関係にあるということはもう明白であります。
どのくらいの
人手をかけたらどんな内容の
介護や看護ができるのか、これは世界の国々を見ればすぐわかることであります。例えば、私はデンマークにたびたび行きますけれ
ども、この国の
病院や
老人ホームのベッドでお
年寄りが縛りつけられているような風景に一度も出会ったことがありません。これだけ情報が国際化している時代でありますから、そのつもりになれば
幾らでも情報は手に入るはずです。よその国が何をやっているかを正しく認識しようとしないで一国の
医療・福祉
政策を遂行するというのは、私は政治家として、行政官として実に無責任なことではないかというふうに考えております。
最低限、イギリスとかフランスとかドイツ、デンマーク、スウェーデン、アメリカ、そのくらいの国々の実態は正確に把握して、それを
国民に開示して、
日本の国にふさわしい
政策というのはどういうものか、そういう順番で練り上げてこなければ、これはかなり不親切な
医療行政と非難されて仕方がないと思います。