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近藤(徹)
政府委員 長良川の治水計画、治水の安全度の問題につきましては、ただいま
先生がおっしゃったとおりと存じます。長良川は人間がいじめてきたということも、ある
意味では真実なところもあるのではないかと存じます。
この
地域は、有史以来、木曽三川が運んできました土砂が堆積した島々に住民が住みつき、その周りに堤防を建設して、いわば輪中堤を建設することによって水害と戦ってきた
地域でございます。したがって、どの堤防が切れても大水害に遭うということでございます。私もあの岐阜県の治水の歴史を勉強してみたわけでございますが、往時は、輪中の皆様は堤防が破堤しないように戦ってきたわけでありまして、どこが切れても全村水没ということから、団結の強い輪中の集落をつくってまいったわけでございます。一方で、輪中と輪中との
関係になりますと、一つの輪中が破堤すれば、そこが遊水地になることによって他の輪中が助かるというような競争
関係にあるわけでございまして、江戸
時代には笠松代官所に幕府直轄の治水に関する管理者がいて、この輪中の補強の順位とか内容を規制することによって輪中間の血なまぐさい抗争を何とか防いできたという歴史だそうでございます。
このような治水の歴史を何とか打開すべく、
先生も御
承知のとおり、宝暦治水において三川分流の計画を立て、かつ、明治におきましては、オランダの技師デレーケによって三川分流
工事を企画し、現在に至っておるわけでございます。
そのような
意味では、長良川においては、従来の輪中堤にかわって三川分流のこの堤防を何とか補強することが重大な使命として河川管理者は事業を進めてきたわけでございますが、御
承知のとおり、昭和三十四年、五年、六年、特に三十四年は伊勢湾台風でございましたし「三十五年は、観測では、上流で出水、はんらん、破堤によるものがなかったとするならば、恐らく長良川には八千トンの洪水が流下していたであろうということが、私
どもの計算では成り立っております。そこで、三十八年の計画におきましては、長良川の治水計画を八千トンとし、上流で五百トンの洪水調節を行い、残り七千五百トンをこの長良川の河道に流すこととしたわけでございます。
そこで、今いろいろいじめてきたという
意味では、それぞれの輪中の従来の居住権を何とか確保しつつ、最小限の
用地の中でこれだけの、木曽川、長良川、揖斐川の三大河川の河川敷地を確保したわけでございますし、また、住民の生活の場も確保しようとしたことでございますから、ある
意味では治水上かなり無理をしてきた、川からいえば、人間が川を狭めてきたということも言えないことはないわけでございますが、私
どもは、そういう限られた中で河川の洪水を流そうとするならば、やはりそれぞれの
地域の皆さんの
用地をできるだけ確保しつつ、現在与えられたこの河川の空間の中で洪水の疎通能力を確保しようとすることにしたわけでございます。
そういう長良川の洪水を処理する
意味では、大規模しゅんせつと堤防の補強が我々の大きな課題でございまして、今おっしゃって図示されましたものは、私
ども担当者からお示ししたものと思いますが、一般堤防の延長、高潮堤とかいろいろございます。上流からの洪水を処理する目的で建設されておる堤防は八十キロでございますが、
完成断面となっているものは六十キロ、堤防
整備率は八〇%でございます。
そこで、
全国との比率でいいますと、
全国直轄河川全体の
整備率は四六%ということで、相対的にいえば
整備率は大変上がっている方でございますが、何しろこういう輪中で成り立ってきた歴史のあるところで、治水的にはなお万全を期するためにも、私
どもは先行して堤防
整備を進めつつ、また大規模しゅんせつをしていかなければならないということでございます。
大規模しゅんせつに当たっては、長良川河口ぜきの
必要性については、その都度御説明しているとおりでございますが、何しろ大規模しゅんせつをすることによって洪水時の水位を一メートル下げることは、結果的には堤防の厚さを四メートル厚くしたのと同様の効果がございますので、私
どもは、堤防
整備と並行して、洪水時の水位を極力下げるための大規模しゅんせつを先行させたい。その
意味では、長良川河口ぜきは早期に
完成して皆様の期待にこたえるような治水対策を展開したいと存じておるところでございます。