○
新村分科員 脳死を認めないのは、司法当局が認めないということでありますけれ
ども、司法当局が認めないというのは、なぜ認めないのかということです。死という現象は、やはり医学の立場から、医学の専門家がこういう
状況は死なんだということを決めるのが筋だと思いますね。司法当局は法を守る立場ではありましょうが、医学の専門家ではありませんから。司法が認めないということは、司法というのは法の番人ですからね。
ところが、死は別に法定されていない。経験的なものから、心臓が停止すれば死だと、いうことが今まで一つの慣習みたいに守られてきたと思いますね。ところが、死というのは一点だけで、一つの時点だけで決められるものではない、かなり長い一つの経過があるということが言われていますね。心臓が停止をしても皮膚は生きている。心臓が停止をしてもひげなんか伸びるそうですね。そういうことで、最初に死の兆候があらわれてから、その個体が完全にすべて死ぬまでの間には相当の時間がある。十時間ないし二十時間の死の経過があるということは、一点で死を判定するのはいろいろな
議論が起こる余地がある、そういうことが言われております。したがって、心臓停止のときが死なのか、あるいは全身の細胞が死んだときが死なのかという問題もあるわけですよ。
ですから、脳死を死と認めて臓器移植ができるようにするということのためには、もう絶対にもとに戻らないという不可逆的な
状況になったかどうかということで判断をしてもよろしいんだというのが、今世界的に認められている死の定義だと思うのですね。人工呼吸等によって、生命維持装置によって呼吸をし、心臓は動いていても、一定の時間が来れば脳は融解して解けてしまうと言われております。心臓は動いていても、脳はすっかり解けているということになると、これは果たして生きているのかどうか。生命維持装置によって心臓は動き、肺臓は動いているけれ
ども、脳が既に融解してもうすっかり解けてしまっているという
状況になった場合には、これは明らかにその時点で不可逆的な
状況に立ち至った、だから死と見ていいんだというのが世界的な一つの認識になっているわけです。
ところが、残念ながら、日本ではそれがまだ国民的なコンセンサスになっていないということでありますけれ
ども、こういう状態を果たして国民世論に基づいて決めることがいいのかどうかということも、一つの問題ではないかと思います。国民の皆さんの多くは、専門的な生命の現象やなんかについては
知識が恐らくないのではないかと思います。ただ感情的に、感性的に、一応の
説明をされて、いや心臓が熱いているんだから、これは死と認めるのは無理だという反応が返ってくるのが普通ですよ。よほど医学の
知識のある音あるいは深い
知識のある者でない限りは、心臓が動いている限りはこれは命があるんだろう、心臓が動いている人からその段階で心臓を取り去ることはかわいそうだ、場合によったらこれは殺人ではないかとか、こういう反応が一般の国民からは返ってくると思います。
そういう
状況はなかなか説得というか、脳死が人の死だという認識が一般の常識として国民の間に行き渡るというのは難しいですね。恐らく何十年とかかるんじゃないかと思います。それでもだめかもしれない。感情的には、例えば自分の肉親が、心臓が動いているのに死んだと判定されることが納得できるかどうかということになりますと、これは大変なわけですよ。ですから、こういう問題については、世論の動向だけで決めるということは時期を逸するおそれがあると思います。
ですから、こういう高度な専門的な問題については、世論の動向を考慮するということももちろん必要でありますけれ
ども、それと同時に、
行政が、政府が専門的な専門家の意見を十分に聞いて、また
世界各国の
状況等も十分
調査をされて、間違いないという確信を持つに李ったならば、国民に対して、この
状況はこういう
状況だ、しかも臓器移植をすることによって多くの人が、国民が助かるんだということをよく
説明をされて、そういう手続を経た上で決断をする以外にはないと思いますわ。決断をして死ぬ以外にない運命にある
人たちを救っていく、五年でも十年でも延命をしていく、こういう
方向、道を選ぶべきではないかと思うのですが、もう一回お伺いしたいと思います。