○板谷公述人 板谷でございます。
名古屋商科大学の国際経済学の中で、東南アジアの
地域研究をやっております。したがって、本日は、きょうまで
日本がとってきた国際協力の実態が一体よかったのかどうか、あるいは現地でそれが歓迎されているのかどうかなんということを
中心にしながら、今貝塚先生がちょっとおっしゃったODAなんかも含めまして、単年度の国家
予算ではなしに、十年、二十年すなわち二十一世紀あたりまで考えた
予算を作成する場合に、我々
日本国民が何をしておかなければいけないかというようなことに焦点を当てながら考えていきたいと思っております。
本年度だけの単年度、見てみますと、二国間無償援助、
一般会計の方の経済開発等援助費目の文化無償というのが、
平成三年度が二十四億円で、本年度も何とわずか二十四億円で、プラス・マイナス・ゼロであるということになっております。この二十四億円を数字で表現をしますと、二国間無償援助のわずか一%であるということと、ODA全体の中では〇・二五%であるということ、それから本年度の
一般会計に置きかえますと何と〇・〇〇三%という、数字にならないような小さな数字が本年度の二国間無償援助の実態なんです。
一体全体
国際貢献というのはどういうものなのかということを考えていかなければいけないと思うのですけれ
ども、確かに金額を増加するということが歓迎される要因にはなると思うのですけれ
ども、問題はその
内容だと思います。これから限られた時間しかありませんけれ
ども、成果が上がった、すなわちちゃんと成果が上がったんだというのは、政府にせよ、あるいは関係機関がいろいろと書いてもいますし発表もしておりますので、その後ろ側で埋もれてしまっている成果の上がらなかったケースと、それから
日本側が要請されたにもかかわらず協力もしなかった、むしろ無視をしてしまったというケースを二つだけ絞りまして、先生方にお考えいただけたらと思うわけです。
まず最初に、成果の上がらなかったケースなんですけれ
ども、これは一九八三年に総理大臣が東南アジアを一回りしまして、タイの、タイに国立大学が十あります、その中の二番目の国立大学と言われるタマサト大学に、
日本研究センター、インスティチュート・オブ・ジャパニーズ・スタディーズというのを無償で出してやろうじゃないかということになったんです。十二億円です。建物は、清水建設が名古屋の黒川紀章先生の指導のもとに四千五百平方メーターの建物をつくりました。こんな立派なものなんです。これが
日本研究センターですね。すごく立派なものです。
ですけれ
ども、問題は、こんなにすばらしい、中に
日本庭園あり、茶室あり、図書館あり、読書室あり、セミナーの宿泊設備まであるのですよ。ですけれ
ども、その援助の中にたった一冊の本もないのです。大使館から私呼ばれまして、飛んでいきました。小野寺参事官がいらっしゃいまして、板谷君、何とかならないんだろうかということです。本人も
日本政府のお役人さんですからそれ以上は言えないと思うのですけれ
ども、十二億円の建物は建てて、そして図書室もつくったんだ、その図書室の中に、これ見ていただくとわかりますけれ
ども、立派な図書室があるのですよ、そこに本が一冊も来ていないわけです。何とかしてもらえないだろうかというのが小野寺参事官の私への相談です。
わかりました、帰りまして、私は
民間人ですけれ
ども何とかさせていただきましょうと名古屋へ帰ってきて、早速新聞社、特に毎日新聞が一生懸命やってくれたのですけれ
ども、毎日新聞に呼びかけて、全国に、図書を集めて送ってやろうじゃないか。三カ月の間に何と十万冊集まりました。十万冊の図書というのはどのくらいの量がといいますと、この部屋二つ分ぐらいにびっしり天井まで積み上げて、それが十万冊です。すごい量です。トヨタに頼みまして、トヨタというのは車を輸出していますから船があるわけですね。サニーパインという船が十一月の二十八日に名古屋港を出て、バンコクへ着いたわけです。
その十万冊はとてもこの建物の中には入り切りませんので、二万冊だけ寄附しまして、残りの八万冊はタイの国立大学の残りの九つの大学で分けてくださいということで、大学庁長官がカセム・スワナクンという、チュラロンコン大学というこれまたすばらしい大学があるんですけれ
ども、そこの学長さんなんです。それで、カセムさん、ひとつ引き受けてくださいな、わかりました、それじゃ二万冊だけ国際研究センターの方に回して、残りの八万冊は我々が引き取りましょう、そして
日本コーナーというのをつくりましょうということを言ってくれまして、現にチュラロンコン大学の図書館の一番上のところに
ジャパン・コーナーというのができ上がっています。
これはこれでいいのですけれ
ども、
日本の援助というのは、金額はそれは確かにすばらしいですよ、十二億円でこれだけの建物ですからね。二階建てです。ですけれ
ども、図書をなぜ持っていかないのか。
日本研究センターなんですよ。向こうは一生懸命
日本のことを勉強したいわけですね。それも、輸出がすごく、
日本の経済がどんどんどんどん伸びている、
企業も一生懸命やっている、そういうものも含めて勉強したいわけですよ。だから
日本研究センターというのをつくってほしいということになったわけですね。にもかかわらず、一冊も本を贈らないというその、何というのでしょうか、無神経さというか、これは政府も責任があるでしょうし、我々国民だってもっと考えなきゃいけない問題じゃないかなと思うのです。
したがって、タイでは
日本研究センターという名前を最近変えさせられまして、東アジア研究センターになりました。
日本の心のどこかにそういうものがあると思うのですよ。しかも、この所長さんになったのがバニヤット・スラカンビットという助
教授です。当時三十七歳の、ある意味では若造ですね。にもかかわらず
日本研究センターの所長に抜てき中の抜てきをされたわけですね。それほど
日本に対する熱意にあふれているにもかかわらず、残念ながら我々がやってきたことというのは不十分だったと思うのです。
そのスラカンビット氏がよく言うのに、
日本というのはどうして自分たちの売りたいものだけを売っているんだろうかということをよく本人は言います。というのはどういうことかといいますと、一九六〇年代に
日本は
自動車を持っていったんです。タイの産業の中できっとこれはもうかりますよ、これをやれば何らかの効果が上がりますよということで
自動車会社が一斉に一社も例外なしに進出していったわけです。タイはそうじゃなしに、特にバニヤット・スラカンビット氏あたりは、トラクターですとか耕運機ですとかコンバインだとか、あるいは農機具だとかそういうものをつくる機械あるいは産業、それを持ってきてほしいということを言っているわけですよ。
だって、タイは今から十七、八年前は八二・六%、農民は。タイの国民の全体で農民が八二%くらいだったのですよ。きょう現在でも七〇%ですから、したがってそれは減らしていきたいんです。近代的な国家にしていくためにはもっと先端技術なりあるいはハイテクなりそういうものをどんどん入れていきたい。だけれ
ども、国民はまだ相変わらず七〇%農民なんですよ。その農民に、さあ
自動車買えよ、ちゃんとノークラッチですばらしいんだぞなんと言ったって、それは
お金持ちには通用するけれ
ども農民たちには全然関係ないわけですよ。それよりはトラクターだとかあるいはコンバインですとか、そういうものをなぜ
日本は持ってきてくれないんだろうか、そういう農機具を最有力にどうしてしてくれないんだろうかということがこの研究センターの所長のスラカンビット氏の我々に対する
最大の怒りです、極端に言えば。
なぜ農機具とかあるいは農業関連のインダストリーを持ってきてくれないかといいますと、タイには、一番新しい資料なんですけれ
ども九万九百二十七工場があります。ほぼそのうちの半分が精米工場なんですよ。残りがコンピューターの下請をやっているだとかあるいは電機工場だとかあるいは
自動車だとか、そういう工場ですね。この精米工場というのは、皆様方もすぐおわかりいただけると思うのですけれ
ども、十二カ月のうち三カ月ほど動けばもつあとの八カ月、九カ月は遊んでしまうわけですよ。脱穀すればもうそれで終わりですからね。そして、その玄米を白米に直せばそれで精米工場というのは終わるわけですよ。
ですけれ
ども、タイの国にとってはこの精米工場なんというのはすごく大きな
ウエートを持っているわけですよ。工場が九万九百二十そのうち半分以上が精米工場なんですから、これを利用したいわけですよね、スラカンビット先生たちば。これが遊んでいるわけです。八カ月ほど遊びますから、その八カ月を何とか利用して、そして農村工業、アグリカルチュアルなインダストリーを、ちょうど
日本がやってきた、明治、大正、昭和の初めにやってきたようなそういう形で持っていきたいんだということだったわけです。それに対しても、残念ながら我々は協力をしなかったわけですね。
これがインドネシアに行きますとまたさらにもっと、先ほど申し上げましたように考慮もしてやらなかったし、そんな提案があっても
日本は協力しないよという、一番悲惨なケースを申し上げて私の時間にしたいと思うのですけれ
ども、私自身も、このスラカンビット氏の問題にせよ、
日本研究センターにせよ、あるいは今から申し上げますものにせよ、間接的ながらそれぞれ関係してきたものですから、そういう意味で皆様方の御了解というか御理解をさらに深めていっていただきたいなと思うのです。
それはどういうことかといいますと、インドネシアが、もうかなり前からなんですけれ
ども、
飛行機産業をつくりたかったわけです。そして
日本に、それこそ何十回、何百回という形で
日本政府に依頼があったわけです。我々
民間に対してもそれはございました。私は、お亡くなりになったんですけれ
ども副大統領のアダム・マリクさんと対合と、口幅ったい言い方ですけれ
ども交友関係があったものですから、アダム・マリク副大統領を通じてこういう話を受けたわけです。
なぜそんな話をここへ持ち出すかといいますと、インドネシアというのは長さが、国の東西の長さがここからジャカルタぐらいあるんですよ。五千六百キロぐらいあるわけですよ。もう
一つ言いますと、ここから、国会のこの場からハワイのワイキキの海岸ぐらいまでがちょうどインドネシアの長さなんです。そこに一万三千六百七十その島が入っているわけです。その一万三千六百七十その島のわずか三千ぐらいしか使っていないわけですね。理由は何だと思います。飛ぶものがないからなんですよ。島を結べないわけですから。
日本は同じように
自動車を持っていったわけです。あらゆる
自動車会社はインドネシアに進出しております。それは
アメリカも入っています。ヨーロッパの連中も入っておりますですね。ですから
日本だけを責めるわけではないんですけれ
ども、向こうは
飛行機が欲しかったんです。どうなったかといいますと、プロフェッサー・ドクター・ハビビという科学技術担当国務大臣がいらっしゃいますけれ
ども、この方を西
ドイツへ派遣しまして、そして向こうでさらに
飛行機の勉強をさせて、最後はメッサーシュミットにハビビ先生はお入りになって、そして副社長までなさったんですよ。インドネシアの国民でありながら、メッサーシュミット、あの有名な戦闘機をつくっているメッサーシュミットの副社長になっているわけですよ。それで、航空機というのは何であるか、どうやってつくったらできるかということをちゃんと自分で勉強してインドネシアに帰ってきているわけです。
そして、多分
アメリカにもいろいろと折衝したと思うのですよ。イギリスもフランスも、もちろん
日本にも、一番近い距離にあるわけですから、
日本は何とか協力できないだろうかということを言われたと思うのです。
日本は、生意気なというようなものでしょうね。先端技術中の先端技術ですからね、
飛行機なんというのは。陸上ですと、あるいは海上ですと、とまればいいわけですね、車は。ですけれ
ども飛行機はとまるわけにいかないわけですね。それは次の瞬間、死を意味するわけですから。そんな科学の中で一番難しい問題をインドネシアの発展途上国がやるとは何事かというようなものだったと思うのです、当時。ですから
日本は全く協力しなかったわけですね。
あの有名なバンドンという、一九五五年にバンドン会議が行われたあそこにこの工場はあるのです。すばらしい敷地を持っています、大きな。二千メーターの滑走路まで持っている工場です。スタートは一九七六年だったんですけれ
ども、そのときは五百人で工場を運営しているわけですね。八三年に、ロールアウトといいまして第一機目の
飛行機が出ました。現在五万九千人の従業員がおります。下請工場が百十七社あります。そして、きょうたまたま持ってきたんですけれ
ども、こんな立派な
飛行機をもう既につくっているんですよ。これはインドネシアの製品ですよ。インドネシアがつくっている
飛行機です。年間三百機、四百機というこれをつくっているわけですね。
日本も多分とこかの会社が買っているんじゃないかなと思うのですけれ
ども、ハワイあたりの
飛行機はほとんどこれです。それからタイの農林省あたりも専らこれ。農林省、それから軍隊、それから海岸警備隊なんかは、この235というのですけれ
ども、それを買っております。残念ながら協力したのはスペインなんですよ。
アメリカも多分断ったんでしょう。ヨーロッパの国々も、そんなインドネシアが
飛行機をつくるなんてというようなことだったと思うのですよ。
日本ももちろんだめというようなものでしょうね。そんな、まず基礎科学からやっていって、そして頂上にあるのが
飛行機産業だよというようなことだったと思うのです。
ですけれ
どもインドネシアは、国家統一をしていく場合にこの一万三千六百七十七と言わずに住民がいるところの三千だけでも結びたいわけですね。それが何と、ここからシンガポールとかここからジャカルタの距離なんです、国の長さが。そこにずっと島があるわけでしょう。ですから、スカルノ大統領もそうだったし、今のスハルトさんだって何とかしてその島を早く結んでいきたいと思うのですよ。
例えばジャカルタからスラウェシという、昔のセレベスですけれ
ども、そこへ船で行くにしても三週間ぐらいかかるわけですよ、最も速い船ですら。新聞がジャカルタで
発行されて三週間後にしかきょうの新聞は着かないわけでしょう。そういう
状況なんですよ。全部無線でやらなければいけないわけですね。有線はありません。ラジオも、ないわけじゃないですけれ
ども、ジャカルタの市内だけぐらいしかそれは通じないわけですから。ですから何とか
飛行機で、
お金がかかってもいいからスマトラを結びたい、それからバリを結びたい、それからカリマンタンを結びたいというのがインドネシアの気持ちだったと思うのですよ。
インドスという言葉は、インドの東という意味ですね。インドネシアというのをぶった切って、インドスというのとネソスというんですけれ
どもね、ギリシャ語です。ネソスが島々です。だから、インドの東にある、いっぱいある島々というのがインドネシアの語源ですよね。こんなことで
日本が一体ちゃんとやっていたのかどうか、その辺を一遍皆様方によく考えておいていただければと思います。
工場の中へ行きますと、
日本人は一人もいません、残念ながら。普通のどんな工場でも、それが
自動車の組み立て工場であろうがコンピューターの工場であろうがあるいは何であろうが、大概
日本の技術者が技術指導とかそういうことでいます。五人、十人といるものです。ですけれ
ども、このインダストリープサワットトルバンヌサンタラという工場にはたったの一人も
日本人はいないのです。入れないわけですね。向こうも入れたくないのでしょう、きょう現在では。ですけれ
ども、ハビビさんは先月も名古屋に来られているのですよ。そして何とかまだ道がないだろうか。というのは、次のことをまた考えていらっしゃると思うのですよね。
日本はいろいろとそういう技術とそれからテクノロジーを持っておるわけですから、ハビビさんはもうちょっと何とかならないだろうかということを今でもおっしゃっておられます。
最後に、アダム・マリクさんがいつも我々に言ってくれるのは、
日本の製品が立派だからそれが売れると思ったら大間違いだよ、製品がいいからあるいは技術が高いから売れると思ったら大間違いだと。我々もやがてそこへ追いついていく、それがヨーロッパであれ
アメリカであれ
日本であれ。
日本に我々が期待するのは、
日本人の持っている心、それを輸出してくれないだろうか。倫理観かもしれませんね。労働への取り組みでしょう。あるいは目上を尊敬するというそういう人間関係、上下関係というかそういうものをインドネシアに輸出してもらえないだろうか。すなわち、本人の言葉をもってすると、心の輸出をしてほしいということを盛んにおっしゃっていました。
そんなことをお伝えしながら、
予算案に、ちょっと踏み出しているというか関係のない話になっているかもしれませんけれ
ども、これも大きな意味で経済協力、これからの、単年度ではなしに五年、十年、二十年先の
日本の国家
予算というのはいかにあるべきかということをお考えいただけるチャンスじゃないかなと思いまして、きょうこんなものも用意しました。どうも失礼しました。(拍手)