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花形参考人 都市開発協会の
花形でございます。
実は、
都市開発協会と申しますのは、大手の電鉄十五社とその関連の不動産会社が集まっておりますところで、いわばディベロッパーの団体でございますけれ
ども、そこにも私、籍を置きますけれ
ども、きょうは多少御勘弁をいただきまして、その
立場を離れまして、そういう情報が比較的入りやすい
立場にいる一国民というような
立場から
意見を述べさせていただきたいと思います。お許しをいただきたいと思います。
まず最初に、個別の
議論の前に、少し根本的な問題にさかのぼりまして、一体
都市計画というのはどう
考えるべきかというところから、ちょっと釈迦に説法ではございますけれ
どもお話し申し上げてみたいと思います。そういう基本的な問題の中で、じゃ
改正が現段階ではどうあるべきかというようなこととあわせてお
考えいただければと
考えております。今、
真鶴町長さんのお話ございましたけれ
ども、私が申し上げるのはむしろ大
都市、
地方中核
都市等を
考えた場合を
中心に申し上げてみたいと思います。
都市計画というのは、結論から申し上げますと、基本的に修身の教科書みたいなものでは実効が上がらないんじゃないか。要するに、耐え忍ぶものでは実効が上がらないんじゃないかと思います。先ほど
伊藤先生もおっしゃいましたけれ
ども、非常に楽しい町づくりというようなお言葉でおっしゃっておりましたけれ
ども、言葉をかえて言いますと、要するに町全体のことを
考えることが
自分の生活にとってもよりプラスになるんだと、そういうことを頭だけじゃなくて生活感覚としてわかっていただくということが、まず基本的に大事じゃないかという思いがございます。
これはなぜこんなことを申し上げますかというと、私も全然前は気がつきませんでしたけれ
ども、たまたまイギリスの
都市計画の歴史を見ておりますと、御承知のとおりイギリスの
都市計画というのは、実は公衆衛生を基本に発達してきております。
ヨーロッパはペスト、コレラでずっと昔から苦しめられておりまして、特に一八三〇年代は、近世ではイギリス、フランス、スペインを
中心にコレラがはやって、これは十八世紀の終わりから、御承知のとおり産業革命で
都市集中が始まったわけでございます。ロンドンの例で言うと、非常に非衛生的な
都市ができ上がった。そこで公衆衛生という
考え方が生まれまして、要するに全体の衛生を
考えないと個人の生命も保てないんだという
考え方が出てきたわけでございます。それで、一八四八年に公衆衛生法ができております。この中で、既に下水とかあるいは厨房とか手洗いとかの衛生のチェックとか、そういういわば
建築基準法的な
考え方が入ってきております。これがもとになりまして、いろいろ変遷を経て一九〇九年の
都市住宅法というものに発展してくるわけでございます。
したがって、例えばその間にセットバックとかそういうものが行われておりますけれ
ども、我が国でセットバックといいますと天空とかあるいはプライバシーの保護とか、そういう極めて抽象的な説明でされておるわけです、もちろん日照ということは抽象的じゃない場合もありますけれ
ども。私
どもも、まあこれは推測でございますけれ
ども、セットバックなんというのは向こうにとってはもっと切実な問題であって、実は御承知のとおり当時、ロンドンとかパリではトイレがございませんで、あっても五階
建てが主ですから、土管が詰まっちゃって使えない。そうすると、夕方になると、みんなおまるでやっておいて、大変びろうな話で恐れ入りますけれ
ども、それで五階といいますか上から全部投げた。それが乾燥して非常な非衛生な状態になる。あるいはそれを頭からかぶった場合は、かぶった方が間抜けであるというような慣習ができた、こういうことでございます。したがって、セットバックというのはもっと切実な問題であって、上からふんが降ってこないというようなところから実は
都市計画が始まっているんじゃないかという感じを持つわけでございます。
実は収用という、公共の
福祉のために私権を
制限する収用という思想がございます。これも実は、イギリスにおいてもなかなか収用権が発動できませんで、結局コレラが盛んになって初めて収用権が発動できた、そういうことでございます。これを言いかえますと何かといいますと、要するにいわゆる理念とか哲学ではございませんで、やはり全体の衛生のことを
考えないと
自分も死んでしまうよ、
都市計画でいうならば全体の町づくり、いい町づくりを
考えることがやはり
自分のいい生活につながるんだ、こういう生活感覚から向こうは出てきているんじゃないか。したがって、そういうものが基本にあるものですから、比較的厳しい
都市計画等が行われますし、あるいは再
開発等でも比較的
住民の方々が協力するというような土壌がある。あるいは、
都市設備や
都市施設が整備されていないところでは家を
建ててはいかぬ、
都市的な
土地利用をしてはいかぬというようなものが生活感覚としてあるんじゃないか、こういうぐあいに
考えるわけでございます。
振り返って我が国、特に大
都市を見てみますと、特に
東京なんかの場合には
地方から大勢の方がお見えになりまして、特に三大
都市圏でいうと、
昭和三十年代には一番多いときには年間六十万人の人が三大
都市圏に集まっている、その三分の二近くが
東京であるというような状態でございます。地縁性、血縁性のない方々が集まって、それで言葉は悪いですけれ
ども、立身出世なりあるいはお金もうけというものが相当の目的の中にあって、それでだめならば帰ってしまうというような、ある意味では無
責任な態勢があるわけでございます。要するに、
自分が本当に参加して公共物である
都市というものをよくすることが
自分の生活もよくするという、そういう生活感覚がなかなか醸成されないという
状況があるわけです。
これは
一つの例でございますけれ
ども、例えば農地の宅地並み課税、最近は生産緑地の問題が起こっておりますけれ
ども、生産緑地なり農地の宅地並み課税で農民の方が
土地を出したとしても、これは実は宅地じゃないわけでして、それに伴って
都市施設整備がちゃんと伴っていなければ、本来の
都市的な
土地利用ができないはずでございますけれ
ども、我が国の場合は、単に物理的な
土地があるだけで宅地が供給された、こういう言い方になるわけでございます。御興味がございましたら、
日本の国語辞典を全部ひっくり返してごらんになりますと、宅地とは何かというと、
建物が
建てられる
土地としか書いてございません。その周辺に対する配慮と、
都市計画があるよ、あるいは
都市施設整備が整っているという配慮がないわけでございます。そういう実態がございます。
それから、もう少し事例として申し上げますと、例えば住宅・
都市整備公団が宅地
開発をいたしまして、団地をつくり、
道路、
公園、上下水道、それから
商業施設と医療施設と全部整える。そこで、例えば平米三十万で売り出される。そういたしますと、その
開発地から外れた一歩外側のキャベツ畑も同じように三十万だ、こういう値がつきます。むしろ駅に近い方でしたら三十万を超えて、下水も
公園も何もないところが三十五万とか四十万になる、こういう実態があるわけでございます。したがって、現段階ではそういう実態をある程度踏まえながら、やはり順次
都市計画というものを
考えていかざるを得ないんではないか。そういたしませんと、やはり砂上の楼閣のような形になるんではなかろうかということがございます。
基本的には、むしろこれは行政の話というよりか、今申し上げたようなことはまさに政治の話ではないかというぐあいに思います。時間はかかりますけれ
ども、例えばイギリスのように、社会的な生活とは何かというようなことをよく教育の中で教え込む、子供のときから教え込むというようなこと。それから、
東京の一極集中を排除する。要するにヒューマンスケール、人間的な生活ができる
都市の規模というのはどの程度の規模なんだというようなことを十分検討して、人間らしい生活ができる
都市、あるいは経済的な機能も必要でございますから、全部が全部そういう
都市にするのは難しいと思いますけれ
ども、そういう機能を発揮できるような場所を持った
都市というのは何かというようなことも十分検討する必要がある。それから、
都市基盤をちゃんと整備する。生活関連の施設を整備することによって、やはりそういうことをするといい生活ができるのだ、公共のことを
考えると
自分の生活もよくなるのだ、そういうような基盤づくりを片方でやる必要があるのではないかと思います。
我が国は、振り返って
考えてみますと、国民が本当の意味で町づくりというものに口出しかできるようになったのは、一九四五年の第二次大戦の敗戦以後でございます。そういう意味では、そんなことをおまえ言っていたら長く時間がかかるじゃないか、こういう御批判もあるかもしれませんけれ
ども、まだ国民が口出しできるようになってからせいぜい五十年前後しかたっていないわけでございますので、百年の計画だと思えば、まだまだ五十年、六十年かかってもいいのじゃないか。いいのじゃないかというか、
一つわきでそういうことも
考えながら、やはり
都市計画の法
制度を
考えていかざるを得ないのじゃないか。そういたしませんと、同じようなことをいつまでたっても繰り返しているということになりかねないと存じております。
そういう意味で、今回の
都市計画法の
改正、
基準法の
改正につきましては、いろいろと検討すべき余地は残っているとは存じます。ただ、現段階のそういう我が国の情勢、特に大
都市の情勢というものを
考えた中では一歩前進であるというぐあいに評価をいたしますので、まずこの段階でぜひとも早くこういう
手だてを打つべきだというぐあいに
考えております。
とりあえず、以上でございます。(
拍手)