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西公述人 御紹介いただきました西でございます。
私は、三点から
意見を申し上げたいと思います。
第一点は、
憲法解釈の方法の
基本についてでございます。第二には、
憲法で禁じられていることは一体何なのかということでございます。そして第三に、
国会の承認の是非の問題でございます。
まず第一に、
憲法解釈の方法の
基本でございますけれども、
憲法解釈の混迷が深まっている。私思うに、方法においてやはり発想の転換というものが必要ではないかというふうに思うわけでございます。
よく英米法的解釈と大陸法的解釈ということが言われます。英米法的解釈というのは、
憲法で明白に禁じられていないことはできる、認められるというものでございます。大陸法的な解釈というのは、
憲法で認められていることしかできない、これがいわゆる大陸法的解釈かと思います。
日本国憲法は、その生い立ちからいたしまして、私は英米法的に解釈すべきではないかと思うわけでございますけれども、今日まで、明治
憲法下の
影響からでしょうか、大陸法的に解釈してきた、ここに
基本的な問題があるのではないかと思うわけでございます。したがいまして、大陸法的に解釈する限り、どうしても細かい仕分け作業が必要となる。また、
政府は架空の問題にも丁寧に答えて、そしてそれが現実になるとどうしても矛盾が露呈されてくる、そしてまた、その結果、
統一見解を出して、いわば針の穴ほどの出口を見つけてつじつまを合わせる、こういう連続であったのではないかと思うわけでございます。
例えば廃案になった
国連平和
協力法案が
国会に提出される前、
政府は
自衛隊の
海外派遣は考えていないというふうに言っていたわけでありますけれども、その
国連平和
協力法案が
国会に提出されて
自衛隊が
海外に
派遣されるようになりますと、軍司令官の
コマンド下に入る
参加といわば後方支援などを行う
協力とに分け、
参加に至らない
協力は合憲である、こういう
判断を提示いたしました。そして、今回のいわゆる
PKO法案におきまして
自衛隊が
参加するということになりますと、今度は、
参加でも一定の前提条件をつけて
参加することは
憲法に違反しない、こういうふうになってきているわけでございます。その他、先ほどから御指摘がありましたように、私ども外から見ておりますと、何か
日本でしか通用しない解釈がまかり通っているように思うわけでございます。
また、英米法的に解釈しますと、
憲法で禁止されていることだけをはっきりさせる。あとは、私は
政治問題として
国会で決めていくべきことではないかと思うわけでございます。
憲法は「
国会は、国権の最高機関であって、国の唯一の立法機関である。」そしてまた、
国会議員は
国民の代表者であるということは御存じのとおりでございます。したがって、私は、
国会は
憲法で明確に禁止されていない領域についてはみずからのイニシアチブでもって立法作業を行っていくべきであるというふうに思うわけでございます。
政府に余りにも依存しているから、かえって
国会自身がみずからの
活動の場を狭め、みずからの首を絞めている、そういうふうに私は感ずるわけでございます。私は、要するに英米法的な解釈をすることによって、
国会が主体となって
政治判断をもっと広くしていくべきではないかというふうに思うわけでございます。
第二に、それでは
憲法で禁止されていることは一体何なのか、これを明確にしておく必要があるかと思います。
まず、結論から申し上げますと、
憲法で明白に禁止されているのは、
国際紛争を解決する
手段としての国権の発動たる戦争と
武力による威嚇または
武力の
行使、すなわち侵略戦争とか、あるいは領土問題などで例えば相手国と
意見を異にするとき、みずからの意思を通すために
武力によって威嚇したり実際に
武力を
行使することでありまして、自衛戦争あるいは自衛のための戦力保持は禁止されていない、こういうふうに言わざるを得ないと思うわけでございます。
その
理由は、これは時間の
関係で制定過程のみから言及をしてみたいと思います。
第一には、マッカーサー・ノートには
紛争解決の
手段としての戦争のみならず、「自国の安全を保持するための
手段としてもの戦争(イーブン フォー プリザービング イッツ オウン セキュリティー)」という言葉がございました。この「自国の安全を保持するための
手段としてもの戦争」、これは言うまでもなく自衛戦争でございます。しかしながら、当時の民政局次長ケーディスは、これでは非現実的であるということで、この「自国の安全を保持するための
手段としてもの戦争」の部分を削除したわけでございます。これは比較的よく知られている事実でございますけれども、実は私自身もマサチューセッツ郊外の自宅にこのケーディスを訪ねて説明を求めたところ、はっきり述べておりました。
第二には、いわゆる芦田修正であります。これはよく知られておりますので詳しく述べる必要はないかと思いますけれども、第二項の冒頭に「前項の目的を達するため、」ということを挿入したのは、芦田氏の言葉をかりるならば、一つの含蓄を持って入れた、すなわち、戦争放棄は限定的になったことは明白である、こういうふうに述べているわけでございます。
そして第三に、文民条項の導入でございます。この文民条項の導入は芦田修正と極めて深い
関係にあるにもかかわらず、
我が国の
憲法の本はほとんど触れておりません。文民条項というのは、御存じのように六十六条の「内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない。」こういう規定でございます。この文民条項の導入と芦田修正とは非常に深い
関係があるということは、実は私ちょっと著書で書いたことがございますけれども、今回、私ちょっと留学しておりまして、イギリスの国立公文書館で入手してきた極東
委員会の資料によってその
関係がますますはっきりいたしました。というのは、芦田修正によりまして
日本に自衛軍の保持が可能になった、そうするとまたかつての軍部大臣現役武官制が復活するおそれがある、それを阻止するには絶対に文民条項の導入が必要である、こういうふうに極東
委員会が
判断をいたしまして、極東
委員会が非常に強く圧力をかけ、貴族院の段階でこの条項が入れられるようになったわけでございます。従来、
憲法では九条の解釈と文民条項の解釈は別々になされてきておりますけれども、この資料はそのような
憲法解釈の修正を迫るもので、ぜひこの点を注目していただきたいと思うわけでございます。
以上述べたことから、禁止されているのは侵略のための戦争であることは明らかでありまして、
PKOへの
参加は
憲法解釈というよりもいわば
政治マターとして
議論すべき問題ではないかと思うわけでございます。
PKOは、
停戦の合意が成立し、当事国の同意に基づき非強制・中立の立場で
参加するわけでありますから、戦争や
武力行使を目的とするものでないことは御承知のとおりでございます。
〔
委員長退席、
大島委員長代理着席〕
むしろ、
憲法というものを引き合いに出すとするならば、前文の「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてみる
国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。」「いづれの
国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」という文言、あるいは九十八条二項の「
日本国が締結した条約及び確立された
国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする。」といういわば富国のエゴを戒めた
憲法の規定、さらにまた
国際協調を強調した規定、こういうような規定にも留意すべきだと考えるわけでございます。
最後に、
国会承認の是非について
意見を述べさせていただきたいと思います。
私は、目に見える形での
国際貢献ということで
自衛隊が
PKOあるいは
PKFに
参加することは、
憲法上問題はないというふうに考えるわけでございます。問題は、手続上、特に
PKF参加に当たって
政府案に欠けている
国会承認が必要であるかどうかということでありますけれども、私は以下の
理由から必要であると考えるものでございます。
第一の
理由は、シビリアンコントロールの
観点からでございます。中曽根元首相は、防衛庁
長官として、かつて民社党の
和田耕作
委員の質問に対して次のように答えております。「シビリアンコントロールの一番の中枢は、
国民の意思が防衛力や防衛
関係を掌握するということでございますから、具体的には
国民代表である
国会議員、その場所としては
国会がその
機能を通じて防衛問題を完全に掌握するということであり、また
国会から信任された内閣が出先の機関として具体的にそれを監督するという形になる」、こういうふうに答えているわけでございます。また、毎年出されております防衛白書を見ましても、シビリアンコントロールの機関としてイの一番に
国会が挙げられているわけでございます。私は、
自衛隊の
PKO、
PKF参加は
我が国にとっては極めて重要でありますから、シビリアンコントロールのいわばかなめとしての
国会の承認が何よりも必要であるというふうに思うわけでございます。
政府は、いわゆる五原則を法制化したこと、
国会への報告を盛り込んだことによってシビリアンコントロールの原則を充足したと述べておりますけれども、従来の
政府の考え方にかんがみましても、これだけでは不十分であり、やはりかなめとしての
国会の承認、これを何といっても中枢に据えなければいけないというふうに思うわけでございます。
第二の
理由は、
国会をも含めた国の意思が明確になるということでございます。言うまでもなく、
国会は
国民の代表であり、その承認は国の意思として非常に重いものになるわけでございます。
自衛隊の
海外派遣の決定を内閣の
判断のみに任せて、
国会が審議の上、意思を表明しないということは、私は、
国会の責任放棄になるのではないか、こういうふうに考えるわけでございます。
政府のみの裁量にはまだ一抹の不安があるというのが多くの
国民の声であるのではないかと思いますし、またアジア諸国への説得という点からも
国会の承認がぜひとも必要であるというふうに考えるわけでございます。
第三に、
自衛隊の士気を高めるということでございます。
国民のいわば総意として
国会の承認があれば、任地に赴く
自衛隊の士気を高揚することになります。内閣の
判断だけで何か、表現は悪いかもしれませんけれども、こそこそと行かせられるというよりは、
国会の承認があれば
自衛隊員は堂々と胸を張って任務に当たることができると思うわけでございます。ノーベル平和賞をもらった
PKOに
参加して心置きなく十分な
活動ができるような条件を整えることこそが
政治の責任であり、また
国民の負託にこたえるべき
国会の責務ではなかろうか、このように思うわけでございます。
政府は、
国会の承認を求めることについて、迅速性が損なわれること、不承認のおそれがおることなどを
理由として消極的な態度をとっているかのごとくであります。
しかし、第一の迅速性が損なわれるということにつきましては、これまでの各国の実例として、要請から
派遣決定まである程度の日数を経ているということが事実でございます。また、
自衛隊法には
PKO派遣よりもはるかに迅速性を必要とする防衛出動に
国会の承認を求めており、迅速性は消極的な
理由になり得ないと思うわけでございます。なお、どうしても
国会の承認が間に合わない、こういう
事態であれば事後承認も可能であります。
第二に、不承認のおそれでございますけれども、私は、先ほども言いましたように、ノーベル平和賞をもらっている
PKOの趣旨というものが
国民に十分
理解されれば、
国民の
支持は得られると思うわけでございます。また、政党は
国民の声を反映するわけでありますから、多くの
国民の
支持を受けた
PKOについては、反対政党といえどもその声を無視することはできないと思うわけでございます。その不承認のおそれにつきまして、私は、どうか自信を持ってやっていただきたい、こういうふうに思うわけでございます。
以上、私は、
自衛隊の
PKO、
PKFの
参加は
憲法上問題はありませんけれども、
PKFの
参加にはぜひとも
国会の承認が必要であると考える次第でございます。
御清聴どうもありがとうございました。(
拍手)