○
戸沼参考人 今御紹介いただきました
戸沼でございます。
ただいま
委員長先生から申しつけられました点でございますが、きょうはこういう機会を与えられまして大変光栄に思っておりますので、今のお話のように
忌憚のない私の
考えを述べさせていただきたいと思います。
きょうは、三十分ほど私の
意見の陳述というようなことをさせていただきたいと思うのですが、お手元に私のところでつくりました簡単なメモがございますので、それに沿ってお話ししたいと思います。
それで、「
遷都についての
考え方」という
目次のようなものがございますけれ
ども、それをちょっと見ていただきたいと思います。
その
目次でありますけれ
ども、
一つは「
早稲田大学「21
世紀の
日本」
研究会の
提案」というのがございますが、これを第一点に述べてみたいと思います。これは
昭和四十六年に
発表したものであります。
さらに、第二番目として「
首都改造計画・
首都機能移転再
配置構想概査」というのを
昭和六十年七月に
国土庁で
発表されましたが、それについて私も若干手伝わせていただきましたので、その点についてのコメントを述べ、それを私はどう
解釈しているかという点について述べてみたいと思います。
そのことに関して、
資料の1と2というのを持ってきておりますけれ
ども、それは第一の
早稲田大学「21
世紀の
日本」
研究会の
発表の
新聞その他の記事でございますので、それからまず述べさせていただきたいと思います。
その
早稲田大学「21
世紀の
日本」
研究会というものの性格でございますけれ
ども、これは実は、
昭和四十二年だったと思いますけれ
ども、当時の
佐藤内閣が主催をされまして、ちょうど
明治百年
記念事業の一環として、
政府として
国民に広く、二十一
世紀を展望して
国民生活と
国土がどうあるべきかという
コンペティションを
全国的に募集いたしました。そのときに各
大学、東大や京大や
土木学会その他十数
チームが参加いたしまして、その中で、私
どもの
早稲田大学でもいろいろな学部が
大学の中にはあるわけですけれ
ども、それを横断的に若手それから年配の長老の
先生を含めまして五十人ほどの
研究会を組織しました。さらに、
作業部会としては、若い
学生諸君に、何しろ当時、
昭和四十二年と申しますと二十一
世紀はまだ三十年ほど先のことでございますので何のデータもない。わけでして、そうすると
老若男女、特に若い
人たちの
直観力のようなものが非常に要求されるということで、
大学院の
都市計画、建築の
学生、
文科系の
学生を含めまして、やはり五十人ほどのそういう
作業部隊、両
チーム百人ほどの大
部隊で私
どもが組織した会でございます。
結果は、幸いなことに各
チームの中で非常にいいできだと、
早稲田チームで出したのは「
アニマルから
人間へ」という表題とそれから「
ピラミッドから網の日へ」というような
標語で
二つの
報告書を提出しました。最近の
言葉で申しますと、いわばソフトとハードの両面で
国土を展望するというのが御要求でございましたので、そういうことを
提案しました。幸いに私
どもは
政府総合賞というのをいただきまして、
昭和四十六年四月の
発表、これは十六日だったと思いますが、次の日に
新聞発表がかなり大きくございまして、当時の
佐藤総理から、よくできました、よくまとめましたということでお免状と賞金をいただいたという、私自身にとっても思い出深い
研究でございました。代表は
松井達夫先生でございましたが、今もう九十近いのですが、御健在でおられます。
ただ、そのときの背景だけ一言申しますと、
昭和四十年代というのは
高度成長で、しかもいろいろ
時代が動いている。
大学におります者にとっては、
大学紛争というのが非常にございまして、あれは何だったかという総括を時々するわけですが、やはりある
時代の
変曲点を非常に鮮明に若い
人たちは先取りをしている、そういう
時代の中での私
どもの
作業だったな、
日本列島も随分変わっていくなという予兆であったというふうなことを私は今感じておるわけであります。
それで、次の
資料1にちょっとめくっていただきたいと思います。
資料1は、当時、
昭和四十六年四月十七日の
新聞発表、これは各社が取り上げてくれましたけれ
ども、その中で、たまたま読売
新聞のが、古いのでありますがありましたので、そのままコピーをして持ってまいりました。これが古いか新しいか、いわば二十年ぐらい前の、今のように
情報化といっても、ほとんど
資料のない
時代でございますので、かなり独断的な部分があるかと思いますが、そのときに
遷都の話をその一節で述べているわけであります。それをちょっと読ませていただきたいと思います。
一つは、「21
世紀の
日本人の
生活と
文化」ということで、六つぐらいのことを申し上げました。
一番目は、「「
日本の
未来を設計する」とはどういうことか」。これは、
意味、意義のようなことを述べたわけであります。
二番目は、「
未来展望の
二つの途(みち)」。
一つは、今ある
状態をずっと延ばして予測をして、そこで
一つの解答を見つける、今ある
筋書きをずっと追った結果出てくる
未来というのが
一つあるだろう。しかし、それにはいろいろな
未来からのショックがあるのでそうはいかない。そうしますと、
未来は非常に不確定なので、こうありたいという姿を率直に描くべきだという
二つの道があるということで、私
どもは後者を選びました。
三、「その中で
日本をどうとらえるか」。それは非常に細かい、
生活をどうするとか家族がどうなるとか、
文科系の
研究員たちがさまざま
議論した結果をここで申し述べております。
四番目、「21
世紀の
政治と
国際環境」ということは、
政経の
人たちを
中心に
議論をいたしましたが、その中で割合頭に残っておりますのは、国連の
機能がこの時期非常に重要になるのではないかという
くだりのことを割合に力説して書いております。
五番目は、「
余暇と
人間形成」ということで、
余暇のことがそろそろ本暇になるのではないか、もう少し余裕のある
生活が必要だという
あたりのことを申し上げた
くだりでございます。
六番目、
体力づくりというようなことで、結局は
体力が重要な問題ではないか。
老若男女、
高齢化社会を迎えて、やはり
体力、健康というのが重要だというようなことを「
アニマルから
人間へ」と
標語でくくってあります。
もう
一つの
テーマ、「21
世紀の
国土像」をどうするかということでありますが、ここでは
四つほどのことを述べてあります。
一つは、
二つの基礎的な元、
人口の
扱いと
国土の
面積の
扱いをどう
考えるかという基本的な態度でありますが、読ましていただきます。
一億三千五百万人が住むであろう21
世紀は、
国土面積の
拡大を
工夫する必要がある。たとえば
大陸ダナ二十六万平方キロの利用や、
交通施設を
陸地部からはずす
工夫、
海上居住の
工夫等である。また
交通・
手段のスピードアップは
国土を縮め、逆にいうと
人間が大きくなってしまうという観点から
考えると、
全国歩行者新道の
ネットワークが重要な
意味を持ってくる。
二、
日本をとりまく
外的条件への姿勢――平和の希求=21
世紀の
世界史的課題の
一つは、
地球連邦、
地球市民への道の中にある。それは東西問題、南北問題、あるいは
大国小国間の問題に対して何らかの答えを出し、いかにしたら平和の
条件を
設定できるかの問題と言いかえてもよい。
アジアを
一つとみた場合、
太平洋アジア地域(
東南アジア全部と
オーストラリア、ハワイ)と
大陸アジアの
二つの系統がある。21
世紀初頭には、
二つの
文化圏がさらに大きく融合しあって、いわば新しい第三
世界の
文化創造の
時代にはいると
考えられる。
日本は
二つの系の接点として平和につながる
文化統合体の実現に重要な
役割を持つ。両アジ アへの
交通、
情報網の
設定と
太平洋、
日本海へのいろいろな
設定が必要となる。
日本海環状ループ(
日本海大陸ダナ-韓国-北朝鮮-ジベリア-サハリン-日本)
太平洋環状ベルト(
台湾-東南アジア-オーストラリア-南米-北米-アラスカ-千島
-日本)はそれぞれ人、物の
循環ルート、
一体的ベルトとして形成されよう。
三、
国土システムの革新=長い年月の間にできあがった
人間と自然の安定した
関係に、
機械の登場で新たな問題が提起された。自然に近づこうとして発明された
機械が、逆に
人間が自然に近づくのを妨げる
手段となっている矛盾は
機械という
中間項の
拡大解釈によるものだ。
人間-
機械-自然の三つの
依存関係、
循環構造が明らかな構図として描かれる必要がある。この
循環構造の下で、より高次なものに変換し、新しい
生活内容、
生活表現へ向かうのだと
考えたい。
また、
人口分布からみると、今後十五年から二十年で
東京、北
九州を結ぶ線上に、さらに大きな
人口地帯が形成されよう。これが第一
段階(メガロポリティック・ステージ)である。第二
段階は、
特定地域での
人口集積が必ずしも
意味を持たなくなってくる
段階である。スピードアップされた
交通手段、
情報網の
普及発達は、
国土の時間
距離を短縮し、
空間に
同時性を増大させる。
この
多元的ネットワークの中にあって
定住地もしくは
単位都市はこの
ネットワークと在来的な
意味では区別しかたくなり、その複合的全体が
一つの
都市と呼ばれる
段階と
考えられる。つまり「あみの
目都市(
ネットワークシチー)」である。同時に過密問題の
深刻化から
北海道、
東北、
日本海沿岸にかけての現在の
過疎地帯が
国土の
未来像に重要な
役割を果たすことになる。
人口集積地は
全国に拡散分布するが、現在的
意味での
人口分散でなく、いわば同一
都市内での
立地選択である。これは
国土構造の進化とみなせる。
人間にとって
空間選択の自由が
条件として一
段階増したこと化なるし、
ピラミッド的中央集権的構造から
分権的自治機構への転換がみられるからである。
四、新
首都「
北上京」の建設=
日本列島の
座軸は21
世紀に向けて大きく転換しつつある。
首都が
東京であることの
役割は、すでに終わった。
東京に
政治の
中心があること自体が諸悪の根元である。新
首都の
立地は
過密地域や
東海道メガロポリスをはずれたところで、現在
過疎地球とみなされているところがのぞましい。
日本の
首都は、歴史的に
九州、
近畿、
関東へと北上してきた。今度は
東北の番である。下半身が肥大した
日本列島にバランスを与える必要がある。端的に
一つの新
首都をあげると、
東北-北上の地。ここは
国土における
虚点であり、21
世紀の重心的な
位置ともなる。21
世紀は
北上京に
遷都するという儀式をもって幕をあけるのがよいだろう。これが、「21
世紀の
国土像」です。
もう
一つ、
東京をどうするかということに答えなさいという
テーマがございました。それを「
東京再建計画」ということで、
四つほどのことを述べてあります。
東京再建というのはちょっと
意味深長でございまして、当時から、
東京は
地震が起こるのではないかというのが非常に緊急の話題でございました。それで、
関東大
地震から七十年ほどで第二回目の
地震が起こるのではないかということは当時から盛んに言われておりましたが、この
再建という
意味は、
一つは、
東京で
地震が起こった後、
東京をどうするかという
考えに半分
イメージを求める。それからもう一点は、
東京は当時も相当過密だ。これはやはり破綻している
状態であり、これに対してどう
再建策を講ずるかという
意味で、
東京計画というよりも「
東京再建計画」という、ちょっといろいろ
心配事をしながら書いた
計画でございます。これは簡単でございますので、また読ませていただきたいと思います。
一、
拡大していく
人間-機械システムに
十分安全性を確保する。このため何よりも
過密市街 地に緑と水を投入し、自然の再生をはかる。
二、巨大な
人間-機械システム機構の中で
人間的スケールを回復する。たとえば大きくなりすぎた市街地にはわかりやすい切れ目を入れる。
機械(
交通、設備)はできるだけ地下に埋め、地上を
歩行者天国とする。
三、
東京市街の
再建は、
関東圏(半径百-百五十キロ)の
ワク組みの中で
考える。
四、これらを可能にするため
土地制度を根本的に改革する。
これが当時の
新聞発表そのままでございます。
その上の図でございますが、
ポンチ絵ですけれ
ども、今のことと
関係しますので、ちょっとこの図柄を見ていただきたいと思います。わかりやすく表現するというのがこういう
コンペのときの
一つの心構えであると先輩の
先生たちに言われましたので、
学生たちと一緒にかい、た図でありますが、大体地図を、いつでも北を上にして
東京を下に見るので、これがいけないんじゃないか。ですから、実際にいろいろな血が
東京に
東京にと集まる、
充血が続くのじゃないか。そういうわけで、
日本列島をひっくり返してみたら、実際こういう見方もあるわけでありますけれ
ども、
東京から
メガロポリスにずっとつながった
充血現象が、
北海道から
東北、
日本海の方にちょっと来るのではないか。そうしますと、ちょうど二〇〇〇年になりますといろいろな
地方に新しい
都市が再生するんじゃないか。しかも、これは、新しい
交通、
情報及び自然の
ネットワークに支えられて生き生きするんじゃないかというふうなことを
ポンチ絵風にかいてあります。今、最近の
言葉で言えば、
一極構造の是正、多
極分散国土ということになるんだろうと思うのですが、そういうことをかきました。
もう
一つ、左側の図でありますが、これは
環日本海ループというのを非常に重視しまして、やはり
日本というのは、基本的には
国土が狭い、これは
日本だけでいろいろな問題を解決するのには非常にぐあいが悪い。
日本には技術や
人口はあるけれ
ども、あるいはひょっとすると経済があるけれ
ども、資源や
土地がないではないか、そうすると、共同でいろいろなことをする
状況が身の回りにいっぱいあるではないかというようなことを
提案している。当時はソ連との
関係が非常に厳しかったのでこういうことはなかなか実現化できませんけれ
ども、そういう
状況がちょっと来たかなという感じがいたすわけであります。
続いて、
資料2をごらんいただきたいと思います。
これも、
学生たちとやった非常に簡単な図でございまして、ちょっと独断的な
解釈が多いと思いますが、それについて述べさせていただきたいと思います。
これは一九七一年の案でございます。
日本列島を、その当時私
どもの
先生が、逆さに見なさい、物事の発想というのは逆転しなさいとさんざん言われましたので、これに従って書いたわけですが、これで見ますと、
九州に昔々の
首都がどうもあったろうという想定を前提に置きまして、西暦六〇〇年から七〇〇年にかけては
近畿地域だ。有名なのは
平城京とか
平安京でございます。さらに鎌倉へ移った。これで大体
平城京、
平安京から比べれば四百年ぐらいかかっているというわけであります。さらに
江戸に移った。これがちょうどやはり四百年ぐらいかかっている。さらに
東京になっているわけですが、この次、
江戸、
東京になって、これから一二〇〇〇年にもし移るとすれば、ちょうど四百年たった今、二十一
世紀が、二〇〇〇年がちょうどその時期ではないかということと、さらにどの辺に
方向をねらったらいいかということで、
北海道から
東北、
日本海にかけて有効な
地域というのを
二つ議論しました。
一つは、
国土の
中心ということを大いに
議論いたしまして、これは
諏訪地方、
長野県の
諏訪湖あたりがいいんじゃないか、松本、
諏訪、あれは
国土の地理的な大体
中心ではないかということで、
一つ対案として出てきたのが
諏訪湖であります。
もう
一つは、
東北に向かったらどうだ、
東北はずっと矢印の方へ行くと
福島とか仙台とかあるわけですが、一番北まで飛ばせたらどこまでいくだろうかということで見つけましたのが、盛岡のそばの岩洞湖というきれいな湖があって、山もいいところなんですけれ
ども、
遷都の
条件というのは風光明媚なところ、
世界に美しい
首都をつくろうというのは当時の私
どもの
一つの
考え方だったものですから、そういう
土地を見つけるということで仮説したのが
岩手県であります。これは
北上京と、
コンペですので少し世の中にアピールする
意味で名前をつけて
提案したのでありますけれ
ども、これは存外いい命名だったのではないかとちょっと思うわけであります。
首都は、御
承知のように北上しているとか、あるいは
北上川の源流のところなのですけれ
ども、
北上川という雄大な川を活用しながらつくったらどうだということで、いわば北限に。当時の
状況に対して一番反対の
提案というと、
飛距離の大きい、非常に変わったという
イメージを出す必要があるということで、
方面を
中部方面か
東北方面がといって
二つの点を仮説して仮に書いたわけであります。今、この
北上京の
位置というのは大体北緯の四十度で、北京とかワシントン。とか、
地球レベルではたくさんの
首都がある
レベルでございます。さらに、ちょっと
陸地部に入れて少し小高いところに入れたのは、
地球の
温暖化もあるではないかということとかでありますが、このときの
人口規模は大体二十万から二十五万ということで、非常にスリムな
首都をつくったということであります。
そのほかに、
首都というのは一カ所でいいのか、もうちょっと船に乗せて回った方がいいのか、国体みたいなふうにした方がいいのかというような
議論をいたしたこともございますが、
一つに新
都市を確定するとすればそういうことではないかということであります。
スリムな
都市、美しい
首都をつくるという
設定は、裏返して言えば、
日本全体に
分権ということが大いに行き渡らなければいけないという
議論がございました。
分権ということで
提案した図が、その下の図のⅢの七道州
ブロックと四十七
都道府県の
関係ということでございます。ここでは、
府県制度というのは四十七
都道府県制度があるわけですけれ
ども、これはちょっといろいろ窮屈になっているのではないか、ちょうどこの
作業の時期は
明治百年ということの
記念でありましたので、
首都機能移転、新
首都の設計というのも
人心一新という
言葉でやろう、
人心一新というのは
明治の
言葉でありますけれ
ども、
人心一新、
諸制刷新という
言葉が後ろにつくわけですが、そういう一連の改革を、
大学人ですから自由に描いてみたということの
一つが七
都道府県ブロックでございます。
九州と
北海道はそれぞれ独立したところだ、これは地理的にはっきりしております。もう
一つの
切り方の
仕掛けは、これは見ていただけばお気づきだと思うのですが、
日本列島全部輪切りにしているわけであります。
東北州、これは青森、
岩手、宮城、秋田、山形、
福島と続くわけですが、
関東州はいわゆる
首都圏に新潟を入れてあるわけであります。これが
一つの
仕掛けたと思うのです。
中部州は富山、石川、
長野、岐阜、静岡、愛知、三重といくわけです。それから
近畿州は福井、滋賀、京都、大阪、兵庫、奈良、和歌山であります。中国、四国を
一つの州にしたのは、もう橋がかかるというふうなこともありましたので、これも
一つの州にまとめました。以上
七つの
ブロックで
考えるということがどうかという
提案が
一つでございます。
もう
一つついでに申し上げますと、今ある市の
レベルの
議論でありますが、今三千ほどの市町村がございますが、これを今で言う
定住圏レベルで、川筋に沿って二百から三百の
ブロックに分けて、そういう市制をもう少し何かまとめてやったらどうだ。三百ぐらいの市を
全国につくって、その上に
七つの道州制で、それで国という
仕掛けで、基礎的な自治体にずんずん
分権が行くようなことを空想したわけであります。この左の表は現在の
人口その他でございますが、大体一千万人以上、多いところでは四千万ということで、ヨーロッパ一国の大きさ、
サイズに大体相当するぐらいの
サイズです。
分権ということをもうちょっと踏み込んで申し上げますと、ひょっとすると外交とか経済的なこととか、そういうものも相当持った州という
考え方もあるんじゃないかという
議論をさんざん、そっちの
専門家たち、私
どものグループの
政経の
専門家たちが
議論をいたしました。
資料3をちょっと見ていただきたいと思います。ちょっと時間がございませんので、五分ぐらいであとのことを説明させていただきたいと思います。
資料の1、2は、当時、ちょうど今から二十年前の
議論でございますので、非常に空想的だったり、まだ
議論が詰めてないなということを、今思い出すと
考えみわけですが、しかし、何か
方向としてはそう間違ってはいなかったんじゃないかという気が実はちょっとしているわけであります。
その後、御案内のように
国土庁で
首都改造計画というのがございました。これは
昭和五十四年から始まって
昭和六十年の七月に
一つの
報告書にまとまっておりまして、これについては
先生方もお持ちだと思うのですが、
首都改造計画の
報告書というようなものがございますので、これの中の
議論に私
ども参加して、この中で
首都機能の
移転の問題についてはかなり実務的に
議論をしたわけであります。
成果としては、
多核型連合都市圏の構築に向けてという
議論でございまして、とにかく二十三区に全部集まっているのをちょっと
外側に力を入れて、
外側にいろいろな
核都市をつくって、そこに住宅も張りつけながら
職住の問題を解決しようじゃないかというのが基本的なスタンスで、そのとおりのことが今起こっているというふうに思います。
もう
一つの
筋書きは、
首都機能を少し細かく調べて、移せるもの、移せないものをどうしようかということで、展都、分都、そういうことを積極的に実務として打ち出したという
成果があるように思うのです。展都は御
承知のように、大宮とか横浜とか、そういうところに
東京の二十三区になくていい
機能を少し展開したらどうだという形におさまっていると思うのです。
東京圏からもう少し外して、分都というようなものをもう少し積極的にしたらいいんじゃないかという
議論があったと思うのですが、私は、そのとき分都に相当期待をかけたのでありますけれ
ども、分都については思うほどの
成果がちょっと上がらなかったなというふうなことを今にして思うわけであります。殊に竹下内閣の
時代でございましたか、
政府は、一省庁一機関は相当積極的に外へ移すんだというようなことを
新聞で報告されましたので、その
筋書きを期待しているわけです。今でも期待しているわけですが、この辺については、
国土の多極分散ということについてあわせて
考えますと、この分都の
筋書きをもう少し進めていただきたいなという感じがいたすわけであります。
それで、この表については抜き書きしてきたわけでありますが、表の6、7、9、10、11、12のポイントだけ一言ずつ申し上げていきたいと思います。
〔
委員長退席、綿貫
委員長代理着席〕
表の6は、大体何人ぐらいの人が移るんだという話でありますが、
政府の定員、
首都機能に関連する司法、立法、行政というわけでありますが、
首都機能という場合には、それプラス象徴である天皇も入ると思いますけれ
ども、とりあえずここで計算しておりますのがその三権、それが約五万人だというのが
一つの表6の結論であります。
表7は、それにプラスして準
首都機能、
政府が移ったとすれば、国会が移ったとすれば、それと一緒に何らかの
関係で
移転対象になるという
筋書きのものが幾つかございますが、これはここにありますように、公団それから大公使とか諸団体、そういうものだというわけであります。
表の9は
移転人口の想定でありますが、そういう関連の働く人々が約十万人いるというのが
一つの結論だと思います。
そうしますと、表の10で
移転総
人口の想定をしますと、大体三十万人から六十万人だ。
移転の仕方がまたいろいろございますけれ
ども、既存
都市の活力を利用して、ストックを利用してやれば三十万人ぐらい、新
都市に丸々ということだと六十万人ぐらいになるというわけであります。
それから、表の11でございますけれ
ども、費用の計算をいたしました。
面積としては、新
都市型で六千八百から八千七百ヘクタールぐらいだというわけであります。費用は、当時の計算で五兆から六兆ぐらい新
都市の場合には一括してかかるのではないか、用地の計算が非常にきいてくるわけであります。
さらに、ではどこに移すかという場合の
条件を幾つか書いてあります。
一つは、この表の12でございますけれ
ども、表の12で書いたのは、これは
国土庁の
作業でございますが、
国土利用
条件として、大集積地から離れているところ、ある程度離れているところ、それから
人口等の
全国分布から見て割合にアクセスがあるところ。それから経済
条件としましては、近傍
都市の集積、電力。それから自燃
条件としましては、冬の
条件とか水とか環境の容量ですね、可住地があるか、平らな
土地がどのぐらいあるかというようなこととか、もう
一つ重要な問題としては、景観というのがあると思います。それから安全性
条件は、
地震、火山、地すべり、洪水等。それから公共施設
条件としては、飛行場があるかないか、新幹線への
距離あるいは高速度道路への
距離、公有地への
距離というような
交通公共機関とのアクセスというふうなことであります。それについて、私はこの
作業に加わりながら、この一連の数字は、
昭和五十八年の一月に公表された概査という形で
国土庁がおまとめになった
資料でありますが、それの後で私自身が勝手に、では今の図柄に想定する
条件を
国土に入れたらどうなるかということで、幾つかの新
都市のモデルを
学生たちとやってみました。これは私自身の独断でありますが、ここの図の1Vにございます。
一つは、
北上京モデルというのは、これは昔やったものそのままであります。もう
一つ、
飛距離がちょっと長いんじゃないか、
移転というような手続を
考えると、遠くに行くにしても
東北あたりでストップするのではないかというような図柄で、仙台という素材を活用したらどういう
イメージがかけるかということが
一つであります。
それからもう
一つは、これは昔から有名なモデルでありますが、
中部圏に浜名湖モデル、これは河野一郎元大臣がおやりになっていた周辺だろうと思われる
地域を仮設して、浜名湖につくったらどうだろう。
それからもう
一つ、北ばかりではなくて西の方にも適地がある、
国土庁の概査では、
条件にかなうような適地が北にも
中部にも西にもあるという
議論でありましたので、それでは西の方に仮設したらどうだというので、広島を使ってみたらどうだという
議論をやってみました。それぞれ一長一短があるなどいう感じをそのときは受けました。
それについては、コメントはちょっと避けますが、広島モデルの場合は平和という
条件で世の中を見る、あるいは浜名湖モデルの場合は技術革新をした
日本という観点で物事を
考える、北の場合は、
人心一新効果が非常に高いという観点とか、あるいは
国土のバランスある発展というのはダイナミックなバランスではないか、そういうことを暗示するのは北ではないかというような一長一短をそこで述べてあります。
それから最後の図、これは一分ぐらいで終わりたいと思いますけれ
ども、
資料の4は、これは
先生方の方が御専門と思いますので割愛させていただきますが、
国土のフィジカルな面をリードしております一全総、二全総、三全総、四全総のそういう図柄でありますが、ここで二全総の図だけちょっと見ていただきたいと思います。一九六九年につくった当時の新全総と言われる図が、実は私
どもが早稲田グループでつくったときに結果的に下図になっているなというのがこの図でございまして、これは
国土の第一軸、それから
東京から札幌へ行くのは第二軸という
議論もこの辺から出ております。
それから、先ほどの
分権化構想でありますが、圏域の分け方がちょうどこれで
七つになっているわけであります。ここでは北陸を
中部圏、新潟とか北陸をどっちへ入れるかという
議論がありますが、大体にして
七つぐらいで大きな地理的あるいは経済的、歴史的な活動があるんじゃないか。
それから、最後のもう
一つの図は、これは非常に明快な図解だと思うのでありますが、
国土計画といっても、結局
作業としては図で見るということが多いわけですが、これもなかなかすぐれた図解をしているな。北東地帯と中央地帯と西南地帯と三つに分けているということでありますが、私が思う
遷都の候補地というのは北東地帯という
考え方の中に存在するのではないかというような
議論をしたわけであります。
どうも三十分という時間が少し延びて申しわけありませんが、これで私の
考え方を述べるのを終わらせていただきたいと思います。どうもありがとうございました。(拍手)