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磯村参考人 磯村でございます。このような席を与えていただきましたことにまず厚くお礼を申し上げたいと思います。
国会が昨年この問題につきまして、と申しますか、いわゆる
通称遷都と申しまする問題につきまして
国会の
決議をされましたことは、この問題の
解決につきまして、若干
専門の
立場からいたしましても、大きな一石どころか大きな
課題を提供されたことといたしまして、心から
敬意を表したい、こう思うわけでございます。それなしに、今まで多くの方々から
遷都について
意見がございましたけれども、恐らくあのままでは一歩も進まないというのが私の
考えでございます。それは、今回の
国会の
決議によりまして、それがどのように発展するかはこれからの
課題でございますけれども、その見識に対しましては心から
敬意を表したいと思うわけでございます。
最初に、大変個人的なことを申すのでございますけれども、私は今から二十三年前に、同じような問題につきまして
アメリカの下院の証言を求められまして、ワシントンのこういう席でもって、
日本の戦後の
都市化の問題につきまして約一時間
向こうで報告をいたしたことがございます。そのときの記念の
一つのものを持っておりますけれども、実は
金丸委員長はお忘れだと思うのでございますが、その前後に私は、
金丸委員長が
国土庁に御
関係のあったときにお呼びになりまして、その当時、
遷都というものが一体どうなるかということを個人的にお尋ねがございまして、若干の
調査をした
経験も持っているわけでございます。それが改めて今回、
国会という
国民の重要な
会議の席の前で
委員長としてこの問題の進行の席にお立ちになることについては、これは改めて思い出の深いものを思うわけでございまするが、私は短い時間に要点だけを申すわけでございます。
それは、今
世界と言っては大変言い過ぎますけれども、私は昨年の六月に
ローマに呼ばれまして、
国際政治学会の
地域部会というものが臨時の
会議を
ローマで開きまして、
ヨーロッパ共同体の将来の
中心がどこになるかということの
検討の
会議に
日本から私が
代表として
向こうに参りまして、
意見を聞かれたわけでございます。
ヨーロッパがある程度
国境というものの厳しさを緩和して連合的な
組織になるという
前提もありまして、それでは
ECの、
ヨーロッパ共同体の
中心をどこにするかというのがこの
会議の
中心的な
課題でございます。そのときには、実は
ソ連からも
専門家が来て、
ヨーロッパが
共同体になったときにどこにこの
中心を置くかという
議論がいろいろなされました。その結論的な問題を簡単に申し上げますると、
中心的な
課題になったのは、連合体になる以上は余り
国境というものにとらわれないという最近
日本でもはやりの
言葉、ボーダーレスという
言葉でございます。
ボーダーレスというのは、具体的に申しましたならば、
フランスの
学者はもう
フランスと言えば
パリだ、イギリスの
学者は
ロンドンであるとか、あるいは、その当時はまだ
西ドイツといったようなものが
中心でございますけれども、
西ドイツは
ボンであるとか、こういったような主張というものにとらわれないで、過去のそういう
中心にはとらわれないでボーダーレスで
議論をしよう、これはその当時の全体の
学者のだれも異論がなかったわけでございます。
〔
委員長退席、
綿貫委員長代理着席〕
ヨーロッパのどこかの
首都を改めて
ECの
センターにすることには問題があるというので、過去のいわゆる
ロンドン、
パリあるいはベルリンといったようなものは結果的には具体的には避けて、せいぜい
人口が、どんなに多くても五十万あるいは百万を目標にした、その間でこれが選ばれるのが
中心ではないか、こういうのがそのときの合意でございます。
ただし、これはいろいろ
政治的なものも伴うので、学問的に言ったらばそういったような傾向が
考えられるということで若干の
ぺーパーも出ているわけでございますけれども、ボーダーレスという、既存の
国境あるいは州の境あるいは市の
境等にはとらわれないでこれを実施するというのが、その当時のいわゆる
ECの
会議の
中心的な説明でございました。私もそこで発表をしたわけでございますけれども、それは
国会の御
決議がある前のときでございましたので、
日本国内でもいわゆる
遷都という
言葉でそういったような問題があるということは説明してまいりましたのでございまするが、そのとき
アメリカの
学者の
発言が非常におもしろかったのでがございます。
それは何であるかというと、
アメリカは相当な負担と
努力をもって第二次
世界大戦の後、
国連を
ニューヨークに持ってまいりました、こういうことが
議論になったわけでございます。
アメリカの
学者の一部と申し上げてよろしいのでございますけれども、
アメリカが
国連のあの
センターを
ニューヨークの
真ん中に置いたことは、これは必ずしも学問的にも将来の
見通しがなかったのではないかということを
学者自体が反省をしたことは強く印象的でございました。
そのときに
一つの例を挙げましたのでございますけれども、
アメリカと
ソ連とがその当時いわゆる
冷戦時代でもって、しかし、
国連の
代表としてその当時
フルシチョフがやってきますけれども、
ニューヨーク市は
自治体でございます。強く
ソ連に反発をしまして、
フルシチョフが上陸をして自動車で
国連に入ることに反対したのでございます。結局、やむを得ず
ニューヨークの郊外に軍艦をつけまして、そこから船で
イーストリバーを渡って
国連の建物のそばから上がったという、これはかなりおもしろい
一つの新聞的な
課題でございますけれども、それが
中心で、
国連といったような
世界の
政治をするところが
一つの国の、しかも大きな
都市の
中心にあるということは、
政治そのものの
あり方についても問題だと言われましたことは、あるいは
先生方の御
参考にもなるのではないか、こういうふうに思うのです。その
国連が次第に
機能を拡大いたしまして、どうしてもあそこだけでは不十分だと
地域を拡大する、これは治外法権でございます。
ニューヨークのいわゆる
自治体としての
行政権が及ばないところとなりますると、結果的には、今
国連は自分の
機能を果たすために
ニューヨークの中にいることが非常に難しいという
事情もこれはあるわけでございます。
そういう点を
考えてまいりまして、それでは仮に
日本の
都市の
あり方はということになりますると、
日本のこの
遷都問題とほかのいわゆる
首都問題との大きな違いは何であるかということになりますると、
日本は大体
単一民族ということが言われるわけでございます。しかも島国でございます。したがって、その
中心が今
東京にこれだけ
集中しているというのは、
ヨーロッパとか
アメリカとは若干
事情を異にするのでございますけれども、この情勢というものが今後も一体どれだけ開かれて
考えるかという問題は、
首都問題を
考えまする上からいって非常に重要な
課題ではないかということでございまして、その間に、その
ローマ会議でもかなり問題になりましたのは、
西ドイツの
首都は
ボンでございます。
人口わずか十数万のところが半
世紀にわたって
西ドイツのキャピタルとしての
役割を果たしてきたのは何であるかということも、
都市問題あるいは
遷都問題をお
考えになりまする上からいって、かなり重要な
課題ではないかということでございます。
それでは、
日本といったような問題に、私は、ここでどこの
都市がどうこうなんということを大それて申す
考えは全くございませんでございます。
前提となる条件をきょう申し上げるわけでございますけれども、
日本の場合においては、今挙げましたような
アメリカとか
ヨーロッパの
経験というものをそのまま挙げることは無理ではないか、私はこういうふうに思うわけでございます。
しかし、
日本におきましても、この二十
世紀の中において
遷都問題があったことは事実でございます。しかし、それを学問的に分類いたしますると、
日本において
遷都問題があったのは、
戦争か
災害のときだけでございます。今回の
国会までも、こういったような御
決議をなさるような問題は別といたしまして、その前までの問題は何であるかというと、大正十二年の関東の震災の後、これは今ではこういったような措置はなされないと思うのでございますけれども、
天皇の
詔勅によりまして、
東京は
首都としての地位をかわらないという
詔勅によって、
東京移転といったような問題は直ちに消えてしまったわけでございます。
もう
一つございます。それは、太平洋
戦争の終末に当たりまして、この
東京が焦土になったときに、
日本自体がその国土をどうするか、
首都をどうするかなんということを
考える余地はなかったのでございます。ただし、私は、そのときに
東京都の
渉外部長といたしまして、
マッカーサー司令部とはかなり自由なコミュニケーションがあったのでございますけれども、その中に、
東京の
首都をあるいはほかに移したらよろしいんじゃないかという
意見があの
マッカーサー司令部の中にあったことを私ははっきり知っているわけでございます。
結果的には、それがそうならなくなったというものは何であるかということになりますると、その当時の
言葉は奠都といったのでございますけれども、
遷都の中ということになると、
日本の常識といたしましては、はっきり申しますると、
皇居の
移転といったような問題がこの
マッカーサー司令部の中では言われたわけでございます。
皇居移転というよりか、
天皇に移っていただくという話があったわけでございますけれども、
マッカーサーの上部におきまして、
日本でこの際に、
日本が終戦に当たって、そのような、
日本のある程度まで尊敬の
中心になっている方を移すことは
占領政策を
——これは
占領政策でございます、
占領政策を円滑に遂行する上においてはというので、そのままでさたやみになっている。これも
戦争という結果の中で
東京の
首都の
移転ということが言われたことでございまするが、その背後に、もし
日本が
戦争を続けましたならば、この
日本のいわゆる仮の
首都がどうなったということなんかは、もうあえてここは申しませんでございます。
二回だけでございます。
それ以外にということになりますると、今回のように、
東京に
機能が、あらゆるものが
集中をしてきたこの結果というものが、これはいわゆる長期的な問題でございますけれども、長期的な
視点でもって
遷都あるいは展都を
考えましたのは、これは今回が初めてでございます。
それでは、
外国ではと申し上げますると、
外国の場合におきましても、長期的な
遷都という問題には非常に難しい問題があるわけでございます。それは何であるかというと、
遷都問題の
一つのサンプルといえば、
ブラジルの
ブラジリアとかあるいは
オーストラリアの
キャンベラというのはどなたでも
参考にするのでございまするが、あれが
実現したというのは、相当の時間と
政治的な背景があってこれが
実現をしているわけでございます。
ブラジルの場合におきましては、その当時の
大統領が何とかして
政治的なバランスをとるというかなりの問題が
中心になってあそこが選ばれ、それがその後十数年かかって、辛うじてあの
ガバメントセンターとしての
首都をつくったのでございまして、あれが初めから果たして
都市と言えるかどうかといったような問題は、今日でも
学者の間ではこれは疑問になっているのでございます。極端なことを申しましたならば、あれは
博覧会の
会場ではないかという批判さえもあるということを
考えますと、ああいったような形を、単なる
デザインとかあるいは
プランだけでもって、
国民のこの
国会に対する関心というものを
考えないであれをやって、私は何回か参りましたけれども、今日におきましてもあそこが、いわゆる
ブラジリアというのが
首都であるということは必ずしも言えない、あるいは首府であるということは言えると思うわけでございます。そういったようなものを
考えてまいりますると、あれは
クビチェックと申します
大統領の決定と、その後の中で、辛うじてこれは建築的な
デザインということで
実現をしたのでございまするが、それが初めて、今日、
ブラジルという国の
一つの
政治、
行政の上でどういったような
役割を果たしているかということは、これはやはり
検討をしなければならない。
オーストラリアの
キャンベラでございましても、二つの州の
真ん中へ持っていかなければならない、そういう
政治的なものでもってこれができているということになると、何か
遷都問題というとそういうことになりますけれども、もし
参考になさるとすれば、私は、最近のこの
ECのこういったような
検討なんかは二十一
世紀に向かってのいわゆる長期的な展都
——戦争か
災害でもって移すというならば、短期的な展都ならば何も申しませんでございます。
国会の御
決議一つでよろしいんでございますけれども、現在
日本は、
世界で最も平和で、経済の
繁栄の頂点にあるといたしましたならば、その場合の
遷都の選択というものは、
一つは何であるかということになりますると、
東京といったような
都市の発展というものと、
政治あるいは特に
国会というものが一体どういう
関係に今後あるかという
見通しがやはり必要なんではないかと私は思うわけでございます。
それは、現在
世界の三つの極、
東京、
ニューヨーク一
ロンドンと一応言われるのでございますけれども、
ニューヨークには
国連の
センターがあるわけでございます。これは
国際的な
センターでございます。これが将来どうなるかといったような問題もあるのですが、同じような
役割を
アジアでもってこの
日本の
東京が一体これから果たすのであるか、
国会が別に行って、
国際的なそういう
役割は
東京にあるのかどうか、そういうものも
一緒に移っていかれるのかどうかといったような問題は、決して
日本の
首都という問題ばかりではございません。
アジアの
中心として、
世界の半分の
センターとしての
役割を
一緒に果たすのかどうかということまでの御
配慮があってしかるべきではないか、私はそういうふうに思うわけでございます。
こういうことを
考えまして、時間の
関係上、簡単に申しますけれども、それでは、それを可能にするのは何があるかということでございます。
皆さん方の具体的な
プランが、
国会の
移転というものはどういうイメージかということは、今まだ
国民にわかっておりませんでございます。もし仮に、どういう形で、どういったような
デザインでこれがある
地域に行くということになりましたら、その
デザインが問題でございます。
組織が問題です。
それからもう
一つは、あるところにと申したのでございますけれども、仮に
日本のあるところが受けようとしたって、そこがそれを受け入れられるような
プランがあるのかどうか。そうして
東京というものの中で、この二十
世紀の
繁栄を
一緒に支えてきた
東京というものを、後の
繁栄といったものを
考えないでこの
首都移転と
国会移転というものがあるのかどうか、こういうことになるわけでございます。
もうこれ以上申し上げることはございませんです。
東京都と申しましても、これは
自治体でございます。
自治体の中に、
国会という大きな、
日本の現実においては最高の権力の
機関でございます。それが外にお出になると、一体それに対して後はということに全く
配慮なしなんということでは、私は、それは
国会の権威にかかわると思うのでございます。そうなってまいりますと、大変言いにくいことでございますけれども、
国会の
機能というものが、一体今までのような非常に大きいもので、大きいといいますか広大なものであるのかどうかという問題が
一つあると思うのでございます。何も
行政改革で
地方に移すとか移さないなんという、そんな小さい問題ではございませんでございます。
日本が
国際的な
立場でということになりますると、その
役割を果たすためには、二十一
世紀の
国会の果たす
役割は一体どういうものがあるかということを、
外国の例などは別問題として、
日本的な
あり方として御
検討があったならば、これは
世界の注目を集める、こういうふうに思うわけでございます。したがいまして、私は、このいわゆる
首都等の
移転といったような問題は、決して
日本だけの問題ではない、グローバルな問題としてお
考えを願いたいのです。と同時に、
国会、その
機能というものは一体何であるかということもお
考えいただく必要があるのではないか、こういうふうに思うのでございます。
私の親しい
学者の一人に、これは
アメリカの
学者でございますけれども、
アメリカの
国会は
ハワイにあってもいいのじゃないか。
ハワイに
イースト・ウエスト・
センターというのがございますことは
先生方御存じだろうと思うのでございます。これは、
アメリカと中国が
両方金を出し合いまして、ちょうど現在の
日本の
国会に匹敵するぐらいの
会場とそれからいろいろな
会議場を持った、
イースト・ウェスト・
センターと言えば、これはいわゆる太平洋の
真ん中の
一つの大きなインターナショナルの
中心でございます。もし
東京以外にそういう
国会をおつくりになるならば、
国会とそれから
国際に貢献するような
機能も
一緒に踏まえるぐらいのお
考えをぜひお持ちをいただきたいのです。
国会の
機能をただここに持っていくといったようなことならば、これだけ
お忙しい政治家がお集まりになってするよりか、建築の
デザインでもお任せになれば結構でございますけれども、そうではないのです。
日本が二十一
世紀に果たす
役割を、あるいは
世界の問題がその
国会で、
日本の
ガバメントセンターで
議論される、極端なことを言えば、
ニューヨークの
国連の果たす一部の
役割が
日本の
国会の
ガバメントセンターで行われるぐらいのお
考えがあって、初めて
日本の
国民が
国会の移動というものを納得すると私は思うのでございます。小さな
視点でもって
東京から出します、
東京の都民がどう
考えるか。それを受けるところも、それではこの
日本のどこの
都市だって、
国会がと言ったらみんな手をお挙げになる、その手を一体どのようにおさめるかということも、これは
皆さん方、おわかりになると思うのでございます。
これだけ大きなものとなれば、大きな
役割を持つのが二十一
世紀の
国会であり、それが
世界的な
中心だ、こういったようなものになれば、恐らく発想というものもおのずと違ってまいるであろうということでございます。あえて私はこれを
ガバメントセンター、そのガバメントというのは、これは
パーラメントセンターが
中心で、その
パーラメントセンターに
ガバメントセンターがどれだけつくなんという問題は、あえてここでは私は申し上げませんでございます。それよりも大事なのは、
パーラメントセンター、
国会センターに
国際的な
機能というものを
考えていただくので、初めて
国民のすべてが手を挙げてこの
移転というものに賛成をするのではないか、私はそういうふうに思うわけでございます。
ちょうど時間でございます。私のような者があえてこんな大それましたことを申し上げましたのも、私の二十
世紀に対する遺言だとひとつお聞き取りをいただきましたならば、こんな幸せなことはございません。ありがとうございました。