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簗瀬委員 質問の機会を得まして大変ありがたく思っております。時間も限られておりますので、これは与野党の
対立を超えた全
地球的問題でございますから、早速
質問に入らせていただぎたいと思います。
最初は、まさに総論的な問題でございまして、いわゆる大上段に振りかぶってみました。
環境庁長官に
地球環境問題の今日的意義を問うというふうなことで、日ごろ私どもが
考えている
環境問題を何点かに分けまして、私なりに整理をさせていただき、その中で
指摘された問題について
環境庁長官がどのようにお
考えになっているのかということを聞かせていただきたいと思います。
第一番目、なぜ今日になりましてこの
地球環境問題がこんなにクロ一ズアップされてきたのかという哲学的な
意味をまず第一番目に
考えてみたいと思います。
かつて
キリスト教神学においては
予定調和という
言葉がございました。神がつくりたまうたこの
地球、そして我々が
生活をしているこの
世界は、初めからすばらしい
調和がとれた
世界であった、これが
キリスト教の
予定調和の
考え方であったわけであります。しかし、これは哲学的な面で西側の国だけかといってみますと、例えば中国のいわゆる
東洋的な古代の
思想でも、例えば老子の教えの中にはまさに桃源郷という
言葉がございまして、足ることを知るということで非常に過不足なくこの世の中はうまい
ぐあいに最初からできているんだ、こんな哲学的なものがあったわけであります。
ところが、なぜこれが破れてまいったかといいますと、私はある
意味ではニュートン以来の
科学合理主義というようなものが、いわゆる宇宙は無限である、無限であるからこそどこまでも
人知によって進出し、
発展をすることができるんだという、そんな前提に今までの
キリスト教的な
予定調和の
思想から変えてしまった。そういう中で、ある
意味では
科学技術の無限の
発展というものを信頼し、
人類の大変な
成長もあったわけでありますけれども、しかし、よく
考えてみると、やはり
人知の及ばざるところがたくさんあったということを最近非常に我々は痛感し始めたのではないか。そういう
意味で、再びこの新しい
時代の
予定調和思想というようなものが哲学的にも求められてくるのではないか、そういうことが第一点で
指摘できるのではないかなと思うわけであります。
それから第二点で、
米ソ冷戦構造というものが終了いたしました。そしていわゆる
自由主義あるいは
社会主義、
共産主義といった昔ながらの
イデオロギーの
対立はある
意味ではなくなったかもしれません。しかし、そのかわりにもっと大きな新しい
時代の
思想の違いという、そこで出てくるのが私は
環境という大きな
テーマではないかなと思います。
まさに
人類が生存していく上においては、
経済的な営みを続けていかざるを得ない。しかし、今まで我々がつくってしまった
経済的な
仕組みというようなものが、もしかしたらこれをこのまま突き進んでいくとやがては
自分の首を絞めるかもしれないということに気がついた。そういう中で
開発そして
調和、これが大変な大きなぶつかり合う二大
テーマになってきつつあるのではないか。そういう
意味では、まさにこれからの
イデオロギーの
時代が終わった後に来る次の問題としてこの
環境問題というのがとらえられるのではないかと私は思っております。
そのような
意味において、大変哲学的にも深い
意味を持ったのがこの
環境問題でありますし、また、私は弁護士でありますけれども、かっていわゆる法律的な
意味において
環境問題というものを
考えたことがございます。今まで
私権の自由というものがこの
近代日本国憲法にはあるわけでありますけれども、その
私権の自由を抑制する
概念として
公共の
福祉という
概念があったわけであります。
公共の
福祉によって
所有権はある程度内在的な
制約を受けているというふうな
考え方が法律の
世界では常識になってきたわけでありますけれども、その
公共の
福祉観念が大変新しい
意味合いを帯びて、
私権をさらに内在的に
制約をするものとしてこの
環境という
概念が出てきているのではないかということを我々は意識すべきではないかなと思うわけであります。
例えば、本来から言えば、
土地を持っているとするとその
土地の
所有権はずっと
地下の
地球の中心まで及んでくるわけでありますけれども、そんなことを言っていたら、例えば
地下水の問題を勝手に処理をするなんというわけにはまいらないことであります。また、同じように
地上で言えば
地上権という
言葉があるように、空中まで
人間の
所有権が及んでくるというふうな
考え方があったわけでありますけれども、実は
大気はそういう
意味では本当に
私権ではなくてみんなが
公共的に持っている
公共財なんだというふうな
観念が出てきた。それによって当然
私権は
制約されなければならない。そういう
意味では、ある
意味では
環境というものは
公共財になった形で、そして
公共財というところで
人間の
所有権という私的なものを
制約をする
観念として新しく正当な立場をこれからもっとクローズアップして与えなければならないのではないかな、こんな
考えも持っているわけであります。
そして目を今度は
我が国の内部に変えていきますと、私は今、
日米貿易摩擦等先進国から
日本に対するいろいろな
攻撃が加えられておることを大変悲しんでおる一人でありますけれども、この
日本のつくってきた
経済の
仕組みというものは、
江戸時代まで一の
日本の
文化的にあるいは歴史的に非常に
一つの
調和を重んじてきた。それが明治の御一新以来、
宮国強兵、
殖産興業という大変な発想の転換をした結果、とにかくどんどんもうけようという
方向性に傾斜してしまった。そういう中で大変自己肥大化していきまして、ほかのことなどは
考えずに
自分のことだけ
考えればいいんだ、そういうふうな一般的な
風潮までもたらしてしまったのではないか。でありますから、そういう我々の
姿勢についても、この
環境問題が大いに
反省を迫っているということに結びついてくるのではないかなと私は思っております。
そして最後に、
政治的意味で今大変我々が注意しなければならないのは、いわゆる
リビジョニズムという
言葉であります。
日本は
異質の国なんだ、そういう中で我々と同じような
土俵で物を
考えられない。そういう
意味では、仲間外れにされる場合の
一つの
論拠として
日本異質論というものが出てくるわけでありますけれども、まさに
環境問題を我々が真剣に取り組むことによって、
日本人も
自分の
経済の中に抱えてしまったその内在的ないろいろな問題にある
意味での大きな
反省をし、みんなの幸せとかみんなの生存とかというものを一致して
考えていくような
世界の
共通土俵に乗れる。そういう
意味では
日本に対する
リビジョニズム、そういう
攻撃に対して切り返しをしていく
論拠としても、
日本が
環境に取り組むという
姿勢を示すことによって大変な
世界の共感を得ることができるのではないか、以上、こんなふうなことを私は
環境問題について最近
考えさせていただいているわけであります。
そこで
質問になるわけでありますけれども、
環境問題はそういう
意味ではすぐれて文明史的な問題でもありますし、これを小手先で
環境問題に取り組んでいるから、
政治的な
手柄になるとか、
環境問題に取り組んでいるからそれを飯の種にできるんだとか、そんな
次元の低いところで絶対に
環境問題を
考えてはならないと思っております。そういう
意味で、場合によっては
日本の
経済構造自体を大きく変革をすることによってしか
環境問題の最終的な結論は得られないのだ、このような大変厳しい側面も
環境問題が抱えているわけでありますから、以上の御
認識の中で、
環境庁長官、今までのこの
思想をどのような形で打破していくのかという
認識と御決断のほどを、御決意のほどを聞かせていただければと思う次第であります。
〔
委員長退席、
久間委員長代理着席〕