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堂本暁子君
日本でお
つくりになったと。そこの今プリンスホテルというところが元
李王家の御殿になっておりましたけれども、それは確かに
日本でつくった建物であるかもしれませんが、やはりこれは
李王家に属するものであって、例えば今私が読ませていただいたところにも
京都の
西陣織に頼んでというような
言葉もありますとおりに、世界じゅうどこへ頼もうがやはり頼んだ方にむしろ属するものではないか。何か
日本の姿勢が余りにも高圧的なのではないか、この期に及んでまだかという気が私はするのです。
特に
文化、決して
韓国だけの問題ではありませんが、ミクロネシアに参りましても、年をとった人が流暢な
日本語を話します。私
たちの中ではもう話されなくなったような古い
日本語と申しましょうか、美しい
日本語と申しましょうか、そういった
日本語を話します。でも、そういった
日本語しか話すことを許さなかった
韓国への
政策、そして名前も
日本名に変えなければならなかった、そういった多くのことがあり、
最後に
強制連行ということがあるのですけれども、こういったいろいろさまざまな私
たち日本の側から行ってきたことに対してどれだけ私
たちが贖罪と申しますか、
戦争後に反省し、そしてこれからのあり方を
考えているか。そのことは何か
高島屋に頼んだというような簡単なことではなく、ここにこういう
言葉を使うというのは、どうしても今や割に優位にある
日本から渡すのだ、渡してあげるのだということがこの二字に込められているような気がして私は大変残念に
思います。
大臣も今、
殿下御夫妻とお親しいとおっしゃっていらっしゃいましたが、私も私ごとで大変恐縮ですけれども、祖母がこの
方子さんの、今で言う宮内庁の職員ですけれども、
御用取扱をして
戦争が終わるまでお仕えしておりました。ですから、物心ついたときから
李王家というのは大変近うございましたし、
戦争後大田区にお住みになったときも、御近所だったこともあってしばしば伺ってお会いしてまいりました。ちょうど
戦争で
日本の
皇族にはいろいろ経済的な手当もありましたけれども、
韓国の皇室ということでそれも
日本政府はしませんでした。そして、
方子さんはずっと、
李垠さんがもう意識不明になってからですけれども、
ソウルにお帰りになるまで大変苦労して生活なさったと
思います。その間そういったものを
国立博物館にお預けになっておられたということも今度伺いました。それであればあるほど、もう世を去られた方ですけれども、
方子さんの御遺志としては
譲渡などという
言葉ではなく返還としていただきたかったのではないか。もうこういうことで決まってしまっているのですから仕方がないかもしれませんが、残念な気がいたします。
そして、
ドイツ人はアウフアルバイテンという
言葉、これは
日本語にも英語にも訳せない
言葉だと
ドイツ人は言いますけれども、やはり百年前までさかのぼって反省をし、現
事態を
考え、そして先の
政策なりなんなりを
考える、そういった思考が大変好きだということですけれども、この小さな
条約の中に私はそういった
日本人が隣の国に対して、
一つの
家族だけではなく国として行ってきた不幸、そのことに対しての何かもう少し温かみがあればこの二字はなかったのではないかなというような
思いも大変多うございます。
それだけに、これからの
日本と
韓国というときに、この
方子さんはそれ以後
大変福祉のお仕事で
韓国では有名におなりになって、知らない人は半分もいない、しかし
日本では忘れられようとしている方ですが、恐らく
日本国がそういった長い
歴史の中でやってきたこと、実は私の祖父はやはり総督府におりまして、恐らくそういったことに加担した人でもございましたでしょうけれども、そういった私
たちの
歴史を国としてどれだけ本気で
考えているのかということに
思いをいたします。やはりそういった
日本の隣の国である
韓国との間の
歴史の中で不幸な生涯を送った一人の
日本の
皇族、そして本当に
日本と
韓国のために生涯をささげたその方のことを
思いますと、
日本国としてもっと真剣にやっていただきたい。
今、
強制連行の問題にしても何にしても余りにも御答弁いただく
一言一言が事務的で、私自身は質問しておりませんけれども、いつも事務的に感じております。この小さな
協定書一枚を見てもそのように感じます。何かもっと血の通った
韓国とのつき合い方がアジアの
国日本としてはとても大事なのではないか、そのように思っております。
再度
大臣に伺って、終わらせていただきたいと
思います。