○光武顕君 ただいま
議長から御
報告のありましたとおり、本
院議員速見魁君は、去る三月八日、
入院先の
東京国立がんセンターにおいて逝去されました。
私は、昨年十月、君が体調を崩し、
入院されたと聞き、一日も早い御回復を祈っておりましたが、昨年十二月の今
国会冒頭には元気なお姿を見せられて、安心していたのでありますしかるに、本年二月再び
入院、御
家族の手厚い看護のかいもなく、ついに御本復を見るに至らず、思いがけない急逝の悲報に接しましたことは、まことに痛恨きわまりないものがあります。
私は、ここに、諸君の御
同意を得て、
議員一同を代表し、謹んで
哀悼の
言葉を申し述べたいと存じます。(
拍手)
速見君は、
昭和三年八月、
長崎県
佐世保市
三川内、旧名、
折尾瀬村で
農業を営む
父榮太郎さん、
母ツキさんの八人兄弟の四男としてお生まれになりました。
御両親の慈愛あふれる薫陶を受けて育たれた君は、
昭和十八年三月、
三川内小学校を卒業、翌
昭和十九年七月には
佐世保市立中学校より
甲種飛行予科練防府通信校に入隊、その後一年余りで終戦となり、復員後同
中学校に復学し、
昭和二十一年三月、優秀な成績で卒業されました。
農家に生まれ、
農業のとうとさを知った君は、この多感な時期に
我が国農業の振興のため若い
情熱を注ぎ、
農村青年政治連盟を結成するなどして、早くも
政治家としての頭角をあらわしておられたのであります。
しかし、激動する
混乱期にあって、一家の生計を助けなければならなかった君は、
昭和二十三年十月、
佐世保港湾運輸株式会社に入社、日夜厳しい
労働に従事されたのであります。後年、この体験こそが、働く者の
立場を貫き通した君の
人間形成の基盤となったのでありましょう。
港湾労働者となり戦後
社会の混迷を目の当たりにし、働く者の苦しみを身をもって体験されてきた君は、
労働者の
生活を守るため、
組合活動に身を投じる決意をされたのであります。卓越した
識見と
指導力を遺憾なく発揮したこの若き
指導者は、次第に
組合員の信望を一身に集め、かくして、
昭和二十七年六月、
全日本港湾労働組合長崎支部書記長に、
昭和三十一年六月には同
支部委員長に推挙されたのであります。
支部委員長としていち早く復興の
時代から成長の
時代へと推移することを察知されていた君は、
組合員の
生活向上と
組合組織の強化に寝食を忘れて尽力されました。そして、
組合専従として
労働運動に一路邁進され、同
労組九州地方本部書記長、副
委員長の要職につかれ、県下はもとより
九州全域の
労働運動に多大なる貢献をされたのであります。
また、この間、
昭和四十年七月には
日本社会党長崎県
本部より
ヘルシンキ世界平和大会に
日本代表として出席するなど、数回にわたり
世界各国を研修歴訪され
世界の
労働運動を見聞し、今日の
労使関係の確立に寄与されたことは、高く評価されるところであります。こうした豊富な
経験をもとに、
昭和四十五年二月、
長崎県議会議員補欠選挙に推されて
日本社会党公認で立候補し、初陣にして
当選を果たされました。
君と私との出会いは、実にこのときに始まったのであります。その
補欠選挙で敗れ去った
対立候補こそ、ほかならぬこの私でありました。自来、君と
県議会選挙を戦うこと四たび、
県議会に席を同じくすること十五年に及んだのであります。君は七期二十年にわたる長い県政の活躍の中で、いわゆる基地問題や
農業あるいは公害などについて
追及し続け、壇上での質問は舌鋒鋭く、聞く人を強く引きつけて離しませんでした。
特に
政策の面で君と仏とが華々しく論争を展開したのは、あの
原子力船「
むつ」が
佐世保市に入港することになった
昭和五十三年十月から出港するまでの実に三年二カ月の間のことでありました。
反対派のリーダーであった君と
誘致派の先頭に立った私との間で、時には本
会議場で、時には
委員会で激しくやり合ったことは懐かしく記憶によみがえってまいります。
私は、特に今回、当時の論戦のすべての記録を取り寄せて、丹念に読み返してみたのでありますが、
原子力に全くの素人であった君が、短時間のうちに万端にわたって
問題点を把握し、驚嘆すべき
信念に燃えてあらゆる角度から
問題点を追及していることを改めて知ったのであります。その執念は鬼気迫るほどの迫力があり、読み返してしばらく深い感動に襲われました。(
拍手)「
政治家たるもの)かくあらねばならぬ」、
速見君、死してなお君はかつての
ライバル私にそう教えてくれたのであります。
君は、その間一度
参議院選挙に苦杯をなめ、私もまた、
衆議院選挙に一敗地にまみれました。そして、
平成二年二月、第三十九回
衆議院議員総
選挙において、前
社会党委員長石橋政嗣先生の
後継者として指名されるや、
日本社会党公認候補として勇躍立候補し、
選挙民の力強い支持を集めて、
見事トップ当選の栄冠を獲得されたのであります。(
拍手)同じとき、私もまた君の後塵を拝したものの、
当選を果たすことができました。明くる朝早く、テレビに新人として招かれた君と私は、問われるまま、これからの抱負などを語ったことも昨日のごとく覚えています。長い
ライバルとはいえ、君と私の間には陰湿な戦いが一度もなかっただけに、放送後、握手した二人に通ういたわりの感情もまた忘れ得ぬものでありました。
本院に議席を得られてからの君は、
県議当選七期の豊富な
経験と知識に基づき、常に働く者の
立場に立ち、
運輸、予算、
災害対策等の
委員として、一貫した
信念を持って真摯かつ熱心に
審議に当たられ、一方、党においては、
港湾対策特別委員会事務局長として党の発展に尽くされたのであります。
君は、本
院議員としてわずか一年余でありましたが、行政、
政策に通じた詳細な
質疑を行い、国政に精励し、よくその重責を果たされた
功績は、まことに大なるものがあります。(
拍手)
一方、君は、多忙な中にありながら、たまに落ちつく家庭にあっては、こよなく
家族を愛し、その中でも
お孫さんへの
溺愛ぶりには、
労働運動の
鬼速見魁の姿はみじんも見られなかったと知る人は言います。
去る四月二十日、私がお参りに訪れた際にも、君の遺影を前にしてお
線香を上げながらちょこんと座って手を合わせている、六人の
お孫さんの中でただ一人の
女の子つばさちゃんの姿を見ました。「毎日何回も思い出してはそのことを繰り返しているんですよ」、そう君の
奥様はおっしゃいました。絶えることのない
線香の静かな煙の中に、深い愛情で結ばれた君と御
家族の強いきずなを感じたものでありました。
君は、日ごろから剣道で鍛えた頑健な体を誇りとして
政治活動を続けてこられましたが、昨年十月末に連日の激務で突然病床に供されました。しかし、幸いにして一時良好な
経過を保たれるや、君は、周囲の気遣いもよそに、再び多忙な政務に大いなる
情熱を燃やし続けておられたのであります。私は、同じ
政治に携わる者として、その厳しさを改めて痛感せずにはおられません。
よわい六十二歳、君は幾多の試練を経て、いよいよ
政治家として今後の大成を期待されながら志半ばにして忽然と去っていかれたことは、まことに痛恨やる方ないものを覚えるのであります。
私は、ここに改めて、御結婚以来、長年にわたり厳しい
労働運動、
政治活動をいつも内にあって支えてこられた
奥様を初め御遺族の方々の御胸中を察するとき、まことに
痛恨哀惜の念ひとしお深いものを感じるのであります。
今や
我が国は、内外にわたり大きな転換期を迎え、今まさに激動する
状況の中にありますときに、君のようなすぐれた
識見と
実行力のある有為の
政治家を失いましたことは、ひとり
日本社会党のみならず、本院にとりましても、また国家にとりましても、まことに大きな損失と申さなければなりません。(
拍手)
はるか五島の島々に沈む夕日を見おろす高後崎、そこは
佐世保港の入り口です。そこを行き交う
出船入り船、その船の中には
原子力潜水艦シードラゴン、
原子力空母エンタープライズ、カール・ビンソン、そして
原子力船「
むつ」の姿もありました。その一隻一隻に君の思い出は尽きなかったに違いありません。
速見魁君、その思い出深い
佐世保港に抱かれて、今はただ心安らかにお眠りください。君の御遺志は、君を敬愛する多くの人々の心に深く刻まれ、力強く受け継がれていくことでありましょう。
ここに、謹んで
速見魁君の生前の御
功績をたたえ、その人となりをしのび、心から御冥福をお祈りいたしまして、
追悼の
言葉といたします。(
拍手)
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中央社会保険医療協議会委員任命につき
同意
を求めるの件