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小森委員 私の
質問が余りよくなかったようで十分に伝わっていないようであります。私が申し上げておりますのは、人種、信条、
社会的身分または門地により、そのことをもって差別をしてはならないという憲法の規定がありまして、
裁判の方では、もしそこに予断と偏見があれば、
一つの事実が、よいものが悪く見える。捜査の段階でも、もし偏見があればよいものが悪く見える。ちょうどプリズムを通して見れば、真っすぐなものがねじれて見えたり、細長いものが分厚く見えたりするのと同じであります。
そういう
意味で、例えば我が国の
社会的身分、この中の最も大きな課題は、これは法務大臣も十分に御
承知をいただいておると思いますけれ
ども、やはり行政用語で言えば同和問題、運動論的に言うと部落問題ということになりますが、その
社会的身分というものが江戸時代どうであって、今日の歴史とどうつながっておるかということがはっきりわからなければ、例えば部落の中の子供
たちが高校の中途退学率が高いということになると、ああこれは怠け者集団か。これは、偏見で見たらもう怠け者集団と見えるのであります。しかし、そこに至るいかなる
社会的障壁があるのかということを考えたら、むしろその子
たちの
人権というものをどう守り、教育権をどう保障しなければならぬか、これは全く逆の判断になるのであります。そういう
意味で、要するにそれは人種であれ、
社会的身分であれ、門地を問題とするのであれ、とにかくマイノリティーという立場に置かれておる者に対して一体
人権の角度からどんな考えを持っておられるか。
これはまだ私の
質問がなかなかおわかりにくいかと思いますので、ここに
一つ引用すべきものがありますから申し上げますが、これは、以前
人権擁護
局長とこの本をめぐって
議論したことがあるのです。しかしそのときは、私の
感じでは
人権擁護
局長は逃げの手を打った、これは議事録を見れば。また私いつか続いてそれはやろうと思っていますけれ
ども、大体ここに展開される物の考え方
が人々の前に推奨できないようなものを、
法務省人権擁護局内
人権実務研究会がそれを編さんして出すということ自体がおかしいのですからね。
法務省が、この思想は正しい、ところが中に正しくないのもあるという
意味のことを言われたんですけれ
ども、こういうことを私は問題にしたいのです。
この中の京都大学教授の阿部先生という方が書かれておる文章、「
人権意識について」ということで書かれておりますけれ
ども、どういうことを書かれておるかというと、私はまことにごもっともだと思って、むしろこの文章を読んで勇気づけられたのでありますが、「
人権というのは人間の権利でして、」当然ですね。「決して人間の中の一部の人の権利ではありません。」これも当然ですね。「しかし多数者、あるいは
社会的・経済的な強者の
人権とは、多数者であることによって、また
社会的・経済的な強者であることによって守られています。」普通の常識で守られているのです、それは。「これに反して、
社会的・経済的な弱者、あるいは少数者、そういった人々の人間としての権利は、とかく十分に認められにくいといった傾向を、残念ながら認めざるをえません。」そして、十行か十五行ずっと書いて、一番最後に結論的にこう書いてある。「あるいは
人権のための闘争をいうときに」、これは
裁判と置きかえてもいいのですが、あるいは
人権のための取り組みと言ってもいいですが、「一般的に権利者を考えるのでは不十分であるということに気づきます。」権利というものを一般的に考えては不十分だと思います。その人
たちが置かれている
社会的な被圧迫の
状況というものをちゃんと計算の中に入れて、そしてこれを解析をして、その上で事実を見なければならない。私は、京都大学の阿部先生の書かれた文章というのは、そういうことだと思うのですね。
そうすると、少しばかり離れるようですけれ
ども、物の
理解を進めていくために私は
質問を申し上げるのでありますが、これはちょっと離れるからこの一問で終わりますけれ
ども、総務庁の室長に
お尋ねをします。
昨日でしたか一昨日でしたか、
社会党の武藤山治先生が
予算委員会で、総務庁長官に尋ねました。それは、未指定地域の一千ヵ所の問題であります。どういう答えであったかというと、ごくごく極端に言うと、今まで何もしてくれるなという意思表示だから、それを今からするということはそこに新たな差別を生む、こう言っているのです。なぜしてくれるなという、事実そういう声があることは知っていますよ。私は、広島県の四百三十部落のほとんどを掘り起こすためにかなり
期間をかけて、一年も一年半もかけてほとんど掘り起こして、そういうことを行政に向けて要求できるような意識水準にまで高める
努力をしてきたのです。だから、手の届かないところでたくさんあることは知っていますよ。しかし、その人
たちがなぜほっておいてくれと言うか。これは要するに、その人
たち、マイノリティーの立場で痛めつけられてきた者の心境じゃないですかな。私ら子供のときに現にそう思ったですよ。きょう部落問題が話題になったらどうしようか思うていらいらしましたよ。それは、自分がそれを解決する力がないし
社会的にまだバックアップする力がないとき、あるいはそういうバックアップする勢力と隔絶された状態にあった場合には、触れないでくれと言いますよ。原爆被爆者でもそうです。原爆被爆者でも、原爆被爆を受けておるということで、あの親は原爆被爆を受けておるから被爆二世、万一病気が出てはいけないから言うて、結婚などのときに大きな問題になる。だから原爆のことは語らないのであります。語らないからそのままほっとけというのは
人権上極めて大きな矛盾を持った論理である、こう思いますので、大臣の言われたことをあなたに変更までしてくれとは言いませんけれ
ども、ここで私が読んだ、強者の
人権というものは守られやすいけれ
ども、少数者、弱者の
人権というものは守られにくい。そこで人間はさまざまな曲折した考え方を持って、あたかも差別を受けている者の側の意向としてそうなんだから、それを
政府は尊重してほっとくんだという理屈は、私は絶対成り立たないと思う。これは
裁判官の常識の中にもなくならなければならぬことです。捜査官の常識の中にもなくならなければならぬことですね。これはひとつ総務庁の方からちょっと、コメント的でもいいですから答えていただきたい。