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冬柴委員 コロンビア特別区、一九九一年と言われますと、ことしですね。それからニューヨーク州、これにはいろいろな沿革がありまして、これは前例にならないと思います。これは余り立ち入りますと時間が足らなくなりますから省略をいたしますが、これはフランスと相互主義をとっていまして、もしニューヨーク州がそのような
規定を置かないならば、フランスにおけるアメリカの
弁護士活動が数年以内には全部許されなくなる、そういう追い込まれた
状況のもとにニューヨーク州が慌ててこういう外弁を受け入れる
一つのルールをつくったというふうに私は理解をいたしておりまして、決してアメリカの一般的、普遍的な原理をそこに示した代表例であるということではない、こういうふうに理解するわけであります。
したがいまして、今駆け足でお尋ねをしたことを総合いたしますと、今アメリカから言ってきている、いわゆるアメリカの
弁護士が日本国内において日本の
弁護士を雇用したり、あるいは日本国内において日本の
弁護士と共同
事務所を持って活躍したいという、そのような強い申し入れは決して普遍的なものではない、むしろ非常に異例なものである、このようなことがわかると思うわけであります。
さて、今のアメリカの、日本の
弁護士を雇用させろ、あるいは日本の
弁護士と共同で
事務所をつくらせろ、そういうものを、もし日本が今アメリカの申し入れを入れて受け入れるとした場合にどんな問題が起こるんだろうかということを
考えてみました。
その
一つは、
我が国の
法曹養成制度を混乱に陥れる
可能性があるのではないかという心配であります。先ほども申しましたように、日本の
司法試験というのは国家試験の中でも非常に難しい試験だと言われている部類に属しておりまして、判事、検事そして
弁護士、この三者の共通の
法曹資格というものを取得する前提になっておりますが、毎年数百名しか
合格をさせておりません。これが、判事あるいは検事に任官する人が少ないということがいろいろな面で大きな問題も呼んでいるわけでありまして、今
国会、いわゆる
司法試験制度の
改革ということを
大臣も言われましたけれども、このような問題を解決するために第一歩を踏み出そうじゃないかというような年にも当たっているわけでありますけれども、これによって
改革されましても、せいぜい二百名とかいう
合格者をふやしていこうとかというようなことが当面非常な問題になって、ようやく到達しようとしているわけでございます。そういうようなことと、アメリカの年間四万数千人が毎年
合格していくという制度の大きな違いがありまして、後で論及いたしますけれども、もしアメリカの大ローファームが日本にいわゆる進出をし、日本の若い
弁護士を、優秀な
弁護士を高給で雇用するということになったときのことを
考えれば、この
法曹養成制度というのが根底から覆される結果が起こるのではないかということを私は心配するわけであります。
その二は、
我が国に対して異質な
外国の法文化あるいは法
意識というものが持ち込まれて、日本人の平均的な
考え方あるいは長い間かけて熟成されてきた日本の法文化というものに重大な影響を与える結果になるのではないかということを心配するわけであります。
かかる観点から、この外弁問題というのは、決してアメリカのUSTRが言うような通商問題あるいは貿易障壁の問題というような局面でとらえられるべきものでありませんし、いわんや日米双方の
法律家の、いわゆる
弁護士同士の利害に関する問題だというような矮小化したとらえ方をすべき問題ではないというふうに思うわけであります。私は
弁護士出身でありますので、何か
弁護士の業界問題をここで取り上げているように勘違いされたらいけませんので、私申し上げますけれども、決してそんな矮小化された問題ではない。これは、歴史的に長い時間をかけて成熟してきたそれぞれの国の法文化、
法制度というものをそれぞれの国がいかに尊重をし、そしてそれと調和をさしていくか、こういう問題を含んでいると思うわけであります。
我々日本
国民は、
弁護士に対して、基本的
人権の尊重とか、あるいは
社会正義の実現というようなものを期待しております。そしてまた、
弁護士もこれにこたえる活動をしてきた歴史があると思うわけであります。それは、先ほど冒頭取り上げました
法律扶助の問題、これ
一つを取り上げましても、日本の
弁護士会というものは、貧困者のそのような
訴訟救済のために、年間一億数千万円、すなわち
弁護士一人当たり年間一万円以上を拠出をいたしまして、この
法律扶助制度というのは、
昭和二十七年以降今日まで、それこそ石にかじりつくような努力のもとに
維持されてきた経過があります。ところがこれをビジネス重視のアメリカ型
弁護士観に変えていっていいのかという問題は、これは
法曹関係者だけではなく、広く
国民の間で論議を重ねて、そしてコンセンサスを得べき重大問題であって、ここで急カーブを切ってしまうということは非常に危険な面がある、こういうふうに思うわけであります。
そこで、抽象論を言っておってもわかりませんので、日本と米国との法文化、特に
弁護士制度の違いというのがどんなにあるのかということについて、若干質問を進めていきたいと
考えます。
まず、
法律的な紛争を解決する手段として、紛争に巻き込まれた人たちがどういう手段をとろうと
考えるのか、日本人と米国人とではその手段
選択に違いがあるのかどうか、感覚的で結構ですが、御答弁をいただきたいと思います。