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高木健太郎君
研究者の合意のもとにそういうガイドラインをつくるということに
賛成なんですけれ
ども、脳死が人間の死であるかどうかということにつきまして、もう五年ぐらいやっているわけですね。五年ぐらいやっておるけれ
ども、学者の間でも合意ができない、ガイドラインさえうまくできない、そういう
状況にあるのが現在の
日本だと思うんです。
ただ、今
局長の言われたことは確かにそのとおりでございまして、ガイドラインができればそれにこしたことはない。しかし、これは東工大だけでつくってもだめでありまして、全体に通ずるようなガイドラインじゃなきゃいけないし、規制でなければいけない。こういうふうになってきますと、単に理工
学部だけで生命倫理の
講座を、あるいは講義を一般教養か何かでおやりになるおつもりだと思いますけれ
ども、じゃだれがそれを教えるか、それに共通なものがあるのかというと、生命とか死について共通の認識がない
人たちがばらばらに各個に教えるということは、生死という一番重要な問題に対してばらばらの認識を人間が持つということになりまして、ガイドラインにはならぬわけですね。だから、どこかでこれを何とかしなきゃならない。
局長言われたように、ドイツであるとかあるいは英国であるとか、欧州国家では、いわゆるキリスト教とかイスラム教がありまして、そういう
一つのおきてというものがあって、これに背いてはいけないということがきちっとしているわけです。
日本の宗教というのはかなり自由でありまして、特に死だとか生命というようなものを直接は扱わないで、それはかなたの方へやっている。後生大事に自分は阿弥陀さんのもとに行くというふうに考える宗教でありまして、死に直接面と向かって、いわゆる直視して死の問題を解決しようというような気持ちは
日本人には少ない。どちらかといえば死はタブー視している。ところが、もうタブー視できないような
状況に現在の
日本はなってきているんじゃないか。特にこういう生命の理工
学部というのをつくろうとするならば、何かそういう共通の認識というものを国民の間に芽生えさせおかなければならないんじゃないかなと私は考えるわけであります。
そこで、今現在
日本で、例えば上智
大学とか、ある特殊の
大学の一、二でしょうけれ
ども、そういうところに生命あるいは死というものについての、
講座ではありませんでしょうけれ
ども、セミナーなんかがよく開かれているわけですね。しかし、
日本の医
学部はもちろん、他の
学部におきましても生命倫理の
講座というようなものはないわけなんです。アメリカではもう随分たくさんございますし、外国にもたくさんある。また、小中
学校の教科の中にも生と死というような問題を取り扱っているということでございます。
私、調べてみますというと、
日本にもあることはあります。私非常に立派だと思うんですけれ
ども、
高等学校の教科書の中に
教育出版というところの「最新倫理」というものがありまして、それに「生命と倫理」というのがありまして、いわゆる脳死も書いてあれば体外受精のことも書いてある。そして、その中にちゃんと「倫理的価値にうらうちされた正しい知識を追求し、その知識を個人と社会の福祉のために行使する方途を探求しなければならない。」とか、その中身を読みますと、私が何もしゃべらぬでいいぐらい立派に書いてあるわけです。ところが、これが必修ではないわけなんです。この
高等学校の教科書
一つだけでありまして、ほかにはないわけなんです。
小
学校、中
学校ではあることはあります。あることはあるけれ
ども、生命の尊重ということが書いてあるだけでして、私は病気した、苦しかった、お母さんがいろいろ介抱してくれた、それで自分は助かった、ああ命は大事にしなきゃいかぬ、だからこれからは健康に気をつけましょう、そういうふうなやり方なんですね。だから生命を直接見てはおりません。
ドイツでは「死の
教育書」というのがございまして、こういう写真が載っているわけです。これは、おじいさんが初めは失禁をするようになった、そこへお孫さんが
新聞紙を敷いてあげる。もう少ししたらば、だんだん年寄りが軽くなってきて、その軽くなってきたのをお孫さんが抱いてベッドへ移す。そのときに、おじいちゃんは死ぬんじゃないかな、こう思う。そうして最後は、娘さんやお孫さんに囲まれてそのおじいちゃんが亡くなっていくということを絵入りで書いてあるわけです。
ここで私、もうずっと前から何回も申し上げたことなんですけれ
ども、現在、医学が進歩したといいますか、とにかくICUに入っちゃって死に目には会えない。大体都会では病院で死ぬ人が七、八〇%いるんじゃないかと思います。だからして都会の子供さんは、ICUの中には入れませんからして、亡くなりましたと言われたときにちょっと見るというだけで、亡くなっていく過程をこのおじいちゃんを世話したひ孫や孫のようには見ないわけなんです。それは外国でもそういうことが少しずつありまして、いわゆる身近に死を見ないということのために人間性のどこかが欠落する、そういうことがあるのじゃないかということを上智
大学のデーケンさんなんかは言っているわけです。
ドイツでは、向こうは宗教学というのがあるんですね。宗教学の中に、必修の単元としてトート・ウント・レーベン、いわゆる死と生というのが必修科目になっております。
日本では宗教というものは教えることはできないようになっておりますけれ
ども、それならばこそ、何かこれにかわる生と死をどこかで教えておくことが大事じゃないか。
生命理工
学部に入った
学生ということだけではないんですね。実際私
たちは、先ほど田沢
委員も言われましたように、原爆をつくったり、放射能でいろいろ汚したり、あるいは水も汚す、あるいは空気も汚す。現在、科学が進歩したために、我我は非常にそれによって恩恵は受けておりますけれ
ども、一方において地球はこれで大丈夫かなという不安を持つような
状況にまで科学は進んでいるわけですし、また、人間が人間を操作するような時代にもうなっているわけなんです。
何とかしてここで人間自身が、宗教でないとすれば、そのほかに、これは道徳と言うとまた語弊がありますけれ
ども、我々が心得ていなきゃならない心棒になるもの、我々の心の支えになるもの、そういうものを若いときから教えておく必要があるんじゃないか。これはだれにでもあるんですね。生命を扱うからそうじゃなくて、理工
学部に行きまして原爆をつくる人というのはどうもぐあい悪いでしょう。そういうことがございますので、科学が進歩すればするほどなおさら、そういう生命倫理というのは
日本人全体が知っておるべき事柄になってきているんじゃないか。こういう意味で、小中
学校あるいは
高等学校に必修科目として、こういう生と死の問題をぜひ取り上げていただくように私はお願いをしたいわけでございます。
こういう話があるわけです。それで、それはとかく倫理より政治の問題になってしまうわけなんです。ある政治家が、これは名前は書いてございませんが、ある人とお会いになって、そしてたばこをすぱすぱ吸っておられる。その人は、相手がお医者さんだったものですから、何かやっぱり気がとがめたんでしょう、「なにしろ私の選挙地盤は葉煙草の生産地でして……、葉煙草に代わる収入を選挙民に与えるものが見つかるまでは、選挙民の生活のために、私は禁煙するわけには参りません」と、こういうふうに言ったと書いてあるんですね。これはちょっと笑い話ですけれ
ども、私も吸いますけれ
ども、何か選挙民のためにたばこを吸うというのもおかしな話じゃないかなというふうに思います。
こんなことがございまして、私が
文部大臣にお願いしたいのは、今言いましたように、義務
教育の時代から、あるいはもっと子供のときから、人間が死に直面しなくなりましたので、そういう意味では、どこか義務
教育の中に必須科目として生と死のことについて真剣に考えるような時期を与えるということが私は非常に重要でないかと思いますので、その点をひとつお訴えしたい、こう思うわけです。