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政府委員(
都甲岳洋君) できるだけ簡単に御報告申し上げたいと思います。
御
承知のように、日ソ
関係におきます北方領土問題の
交渉というのは、国交回復のとき、一九五五年から五六年が初めでございますが、このときに共同宣言で、国交回復をまず先にして、平和
条約交渉は後に継続しようという合意をいたしました。その際に、歯舞、色丹は
日本側に引き渡す、しかし、具体的な引き渡しは平和
条約締結後にするということの合意が明確にございました。ただ、その後、一九六〇年に
ソ連側が一方的に声明でこれを取り消そうとした経緯は御
承知のとおりでございます。
その後の平和
条約交渉はその合意にもかかわらず行われておりませんでしたが、日中国交回復直前にグロムイコ外相がやってまいりまして、日中との絡み合いで日ソをむしろ先行させたいという希望を表明したわけですけれども、具体的には日中国交回復後の一九七二年十月に初めて大平
外務大臣が訪ソいたしまして第一回目の平和
条約交渉が行われました。その後、その翌年の七三年に田中総理が訪ソされて、これが第二の山場になると思いますけれども、戦後の未解決の問題を解決して平和
条約を
締結することが必要であるという
認識を示し、この未解決の問題の中に四島問題が含まれているということを口頭で確認した経緯がございました。
その後、残念ながら
ソ連側は非常に態度を硬化することになります。オイルショック、それから一般的な
ソ連の態度硬化ということがございまして、七五年、七六年と平和
条約交渉が行われましたけれども、七三年のこの合意を共同コミュニケに盛り込むか盛り込まないかというような不毛な議論に終始し、実態的な面ではむしろ
ソ連側の態度は硬化したという
状況がございました。
一九七八年には園田
外務大臣が訪ソいたしましたけれども、このときには領土問題があるので平和
条約は
締結できない、かわりに善隣友好
協力条約を
締結しようということでお互いに案を示し
合ったけれども、
日本側は検討できないということで拒否したという経緯がございました。このときに
ソ連の態度が非常にかたくなっているということは非常に如実に示されたわけでございます。
そういうことで、七〇年代から八〇年代の初めにかけましては、
ソ連は領土問題については解決済み、聞く耳は持たぬということで、当時のグロムイコ
外務大臣は、領土問題を話し合うのであれば
日本に来ることはできないということを言いまして、一九七六年から十年間、
日本を訪問しなかったという時代がございます。
そこで、ゴルバチョフ政権になりましてから、一九八六年一月にシェワルナゼ
外務大臣が訪日いたしまして、領土問題を含めるというか、平和
条約交渉の再開が行われたわけでございます。そこで、その年の五月に安倍
大臣が訪ソいたしましてさらにこれを継続いたしました。
その次の山場といたしましては、やはり一昨年の十二月、一九八八年の十二月にシェワルナゼ
外務大臣が訪日をいたしまして、その際に領土問題について具体的に
話し合い、そして平和
条約締結が日ソ
関係の正常化に必要だということで平和
条約作業グループができ、現在まで四回の
交渉を行っているという
状況があることは御
承知のとおりでございます。
昨年の五月に宇野
外務大臣が訪ソいたしまして平和
条約交渉をさらに継続いたしました。その際に、拡大
均衡ということで平和
条約問題も含めて日ソ
関係を今後発展させていこうということで合意を見たという経緯があるのは御
承知のとおりでございます。
以上が、簡単でございますが、日ソ
関係の平和
条約問題の
交渉の経緯でございまして、いずれも山場のときにおきましては
国際情勢の緩和という
状況がございまして、フルシチョフの平和共存
外交あるいは第一次デタントの七〇年代の初め、それから今回の冷戦の解消が始まったという時期、これがそれぞれの山場になっている。そういう
意味で、今回の
交渉は非常に大きな国際
関係の山場を迎えた中での
交渉であると我々は
認識しております。