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参考人(
野林健君)
一橋大学の
野林でございます。
ただいま
井上先生から主として
経済学の
立場からお話を伺ったわけでございますけれども、私はあえてレッテルをつけるとすれば
国際政治学者でございますので、主として政治学的な関心からお話しさせていただきたいというふうに思います。
私の
テーマは、
日米構造障壁問題協議及び最近欧米で盛んになりつつあると言われている
日本異質論、
日本は非常に変わった国だという
議論、この
二つを絡ませながらお話しさせていただきたいというふうに思います。
御
承知のように、一九五〇年代後半の
繊維摩擦以来今日まで数々の
日米の
貿易摩擦がございました。これからもいろいろ出てくると覚悟しなければならないと思いますし、ある
意味で、いい
意味でそれになれる、それと共存するという粘り強さとたくましさ、同時に
行動力も必要かというふうに思います。しかし、今回の
構造問題協議は、既に
皆様もよく
御存じのとおりでございますけれども、幾つかの点でこれまでの
摩擦とはかなり違うところがあるように思います。
まず、第一点でございますけれども、自動車であるとか鉄鋼であるとか、そういう
個別品目の問題から
経済構造あるいは
経済の
運営全般にかかわる問題へと非常に争点が
拡大していったということ。言いかえれば
日米両国の
経済システムの枠組みといったものが問題になっているということ。そして
協議の性格上、少なくとも
原理としては双方向、
日本も
アメリカに物を言うし
アメリカも
日本に物を言う。
原理としてはそういうことになっているわけでございます。
第二点目に、
アメリカ議会の中でいわゆる対
日強硬派と言われる
人たち、これがかなりこれまでになく勢いを持ち始めているというふうに思います。既にその
動きは例のスーパー三〇一条の制定あるいは発動の折に見られたことでございますけれども、その背景には、もちろんなかなか滅らない対
日貿易の
赤字、そういうものへのいら立ちに加えまして、ハイテク問題を中心とした
アメリカの
経済安全保障に対する
日本の
脅威というパーセプションが生まれつつあるというふうに思います。
それから第三点、そのような
経済安全保障に絡む
日本の
脅威というものの背後には、いわゆる
日本異質論といった
考え方が広まり始めていて、
一言で申せば
日本は我々と似て非なる国なのではないかという
イメージが生まれつつあるように思います。
しかも問題なのは、このような対
日イメージ、これは
議会のみならず
行政府の内部、特に
日本と
関係の深い
貿易問題を担当する
人たちの中にも、強弱はございますけれども広まりつつあるのではないかというふうな印象を持っております。したがいまして、これまでの
日米貿易摩擦の
解決パターン、つまり
アメリカ行政府が
日本から一定の譲歩を引き出す、そのことによって
アメリカ議会の対
日強硬路線に歯どめをかけるといった一種の
抑制メカニズム、こういったものがこれまでどおりうまく機能するのかどうか、この点もいささか心配なところでございます。
それから、もうこれは
皆様もよく
御存じのことかと思いますけれども、目を広く
アメリカの
世論一般に広げますと、いろいろな
調査があるわけでございますけれども、
東西冷戦という
イメージが昨今のソ連・
東欧情勢の変化に呼応いたしまして後退する一方で、ソビエトにかわる新たな
脅威としての
日本、
経済的な
脅威としての
日本という
イメージがこれまた広がりつつあることはやはり念頭に置かなければならないように思います。
以上指摘をいたしました問題に加えまして、今回の
構造協議というものはそもそも大変大きなジレンマを抱えていると思います。
構造障壁問題、それは
日本の側であれ
アメリカのサイドであれ、その名前からして
即効性を期待することはできない。仮に
構造障壁と言われるものが取り除かれたといたしましても、すぐに
貿易赤字の解消、そう
いう
意味における効果が出るとは考えられないわけでございます。
商慣習、
経営風土あるいは長年とられてきた政策の遺産といったものはすぐ改めることなど到底無理でありますし、
アメリカの
国際競争力、こういったものは一朝一夕に改善されるといったこともあり得ない。この
意味からも中期的な展望に立った
改革努力でなければならないわけでございますけれども、実際には五百億ドル近くの
日米貿易不均衡問題とどうしても
現実政治の中では切り離すことができない。冷静に考えればこれは切り離せるわけでございますけれども、それをなかなか許さない差し迫った
状況に
日米関係があるというふうに私は認識をしております。
日米の
政府当局者、
学者あるいは少なくとも
日本の国会の
先生方、こういう
方々は冷静に見ることはできても、
日本はけしからぬ、
日本はこれまで口約束だけだった、そういういわゆる
ジャパンバッシング、
日本たたきの風潮が非常に強い
アメリカ議会、まあ一種の流行になっている感もあるかと思いますけれども、そういう
グループからすれば
構造協議の結果だけを重視するだろうというふうに思います。率直に申しまして、このような
ジャパンバッシング的な
動きに対する盾、防御としては、
構造協議はかなり弱いものではないかというふうに思います。私は、一、二年後、
構造協議は不均衡の是正に何の役にも立たなかったと
アメリカ議会が結論を出す事態を憂慮しているわけでございます。
それでは、今回の
構造協議、これが全く
日米関係の改善といった面、そういう面において不毛かというと私はそうではないというふうに思います。第一に、最近のとげとげしい
日米関係の改善に一定の効果が期待されるということ。
構造協議のフォローアップ、実行には少なくとも一、二年の期間が必要であります。その間に
日本がいろいろ努力をし、
アメリカ政府も努力をし、かつこれを評価し、
議会に対して冷静に対処するよう説得するというシナリオに期待をしているわけでございます。この間に個別の
貿易摩擦案件を精力的に処理していく必要があることは言うまでもありません。実際には円とドルのレートの問題、その他不確定な要素はいろいろあるわけではございますけれども、先ほど
井上先生も御指摘になりましたように
アメリカ経済は順調に推移していくように思います。
日本の製品
輸入も増加をしております。また、
アメリカ企業の対日進出や投資といったことも、そういう環境づくりに
日本側が努力をする、そういうことが望ましと思いますし、また、できていくのではないかと期待をしております。以上もろもろの
日本側の対応あるいは
アメリカの努力といったものが、政治的な発想からすればそれが
構造協議の成果であるかどうかといったことはある
意味ではさほど重要ではない。要するに、具体的な成果を目に見える形で示すことが大事であろうというふうに思います。
アメリカではこの秋に中間選挙がございますけれども、
構造協議が着々と進行していくということならば、
貿易問題で共和党が民主党から責められるというような事態は回避できるのではないかと思います。二年半後の大統領選挙までうまく乗り切れるかどうかはわからない。しかし、今からそんな先のことまで心配しても仕方がないというようにあえて申し上げたいと思います。
日本としては、何はともあれ何とか
貿易不均衡のレベルを
アメリカ政治の許容水準にまで下げる努力が必要でありますし、これにはいろいろな外在的な環境
要因もございますので難しい面もあろうかと思いますけれども、先ほど
井上先生の御指摘では、かなり可能性もあるということのようでございます。
日本としては、今回非常にシンボリックな形で話題になりました大店法であるとかあるいは独占禁止法といったいわゆる政治的な
意味でのシンボリックな問題を
アメリカ側にわかりやすい形で、ある
意味で単純でなければわからないわけでありますので、
アメリカ側にわかりやすい形で処理していくことも必要であるというふうに思います。
以上、今回の
構造協議問題につきまして、いわゆる短期的な政治的効果という観点から
意見を述べさせていただいたわけでございます。要するに先送り効果と申しますか、あるいは当面の危機回避の効果、こういったものはあると思いますし、結局そういうものの積み重ねの中でしか
現実の改革、
現実の改善というものはないのではないか。私自身は、ある
意味で冷めているかもしれませんけれども、そのような印象を持っております。
しかし、もう
一つ大事なことを私どもは忘れてはならないというふうに思います。
構造協議のもう
一つの重要なメッセージ、それは
アメリカからのメッセージでございますけれども、
日本は本当に自由
経済体制、
自由貿易体制の一員なのかと
アメリカが問いかけているという点ではないでしょうか。
日本は異質な国だと、この後もう少し詳しくお話しさせていただきますけれども、そういう見方が
アメリカに広がりつつある、そういう
状況は認識しなければならないと思います。いわく、
日本は自由
経済体制の国だと言うが、本当は我々と違った
経済原理、社会
原理、これで動いているのではないか、そのことが結果として
経済、
貿易の分野における
日本のひとり勝ちをつくり出した根本原因ではないかというふうな印象、
イメージを持っている
人たちが
アメリカのビジネスリーダー、政治のリーダー、あるいは官僚機構、こういったところにふえつつあるように思います。このような極端な
議論の芽というものは当然早目に摘み取っておく必要があるわけで、
アメリカの
良識派の努力、奮闘に期待するところも多いわけでございますけれども、
日本側がみずから明確なメッセージを発信する必要が特にあるということを私は強調したいと思います。
そこで、先ほど指摘をいたしましたいわゆる
日本異質論、これについて少し説明をさせていただきたいと思います。
日本異質論は英語ではリビジョニズムというふうに申します。リビジョニズムと申しますのは修正主義、ある
考え方を修正する、リバイズするという、そういう
立場なわけでございます。つまり、どういう従来の
立場をリバイズ、修正するのかと申しますと、
日本は非西洋の中で始めて民主的な政治システムをつくり上げ、かつその中で
経済的にも奇跡的な発展を遂げてきたすばらしい国だ、すばらしい
経済大国である。そういう非常に積極的な
日本に対してポジティブな評価をする、そういう従来の見方、恐らくライシャワーさん、その他従来の親日派の
グループはそういう方が多かったように思いますけれども、そういう従来の見方を修正すべきであるというのが、私がきょうお話をさせていただきます
日本異質論、あるいはそういう
人たちを修正主義者、リビジョニストというわけでございます。先ほども申しましたように彼らからいいますと、
日本という国は欧米の感覚から言えばユニークとしか言いようがない。政治権力の中心があるようでないように見える。しかし、外には一致団結、欧米のルールとは全く違ったルールでプレーする国だということになろうかと思います。私ども
日本人が、現在の
世界は相互依存の時代に入り、今後ますます
世界は狭くなっていく、
経済的な力をつけた
日本はより一層国際社会に貢献するよう努力していかなければならないというふうに思い始めたやさきに、おまえは我々のクラブに入る資格はないよと言われているようなものでありまして、極めて憂慮すべき事態になる危険はあると思います。このような
状況、あるいはこのような背景と申しますのは、
皆様もよく
御存じの小泉八雲、ラフカディオ・ハーンですね、こういう人に代表されるようなエキゾチックな
日本、あるいは東洋の神秘の国といったたぐいの
日本論とは全く別のものでありまして、ルース・ベネディクトの「菊と刀」、西洋の罪の文化に対する
日本の恥の文化、こういう対比論、これにある
意味で近いところがある。べネディクトが「菊と刀」を書いたのは随分昔でありまして、
日本の
経済的
脅威などというものはだれの念頭にもなかった。そういう
意味では全然別の背景があるわけでございますけれども、西洋との比較を極端な形で行う、そしてその中で
日本の特殊性を指摘す
るといった
意味では、ルース・ベネディクトなどは今の
日本異質論のある
意味で元祖の一人ではないかというふうに思います。
今、
日本異質論者、リビジョニストを十把一からげにしましたけれども、もちろんこれは大変極論でございまして、実際にはいろいろな
考え方がございます。時間もございませんので、何人か代表的な人の
議論をかいつまんでお話をしたいと思います。
まず、私どもにある種のカルチャーショックを与えたその人物は、セオドア・ホワイトという
アメリカのジャーナリストでございまして、彼は一九八五年の七月、ニューヨークタイムズ・マガジンというニューヨークタイムズが出している新聞のサンデー・エディションに入って、大変プレステージの高い読み物ですけれども、そこに「ザ・デンジャー・フロム・ジャパン」、
日本からの危険という論文を発表しました。その中で彼は、我々
アメリカ人は
日本と戦争して勝ったはずだけれども、実際には
経済戦争で
日本が勝利者になりつつあるのではないか。
日本は、政府の号令一下、一致団結して
アメリカ産業に攻撃をしかけているんだというふうに論じました。この論文は、
アメリカを代表する、また特に知的レベルの高い政治、
経済界を含めまして、非常にレベルの高い層に多く読まれているいわゆるクオリティーペーパーであるニューヨークタイムズに、しかも非常なセンセーショナルな、派手なレイアウトでこの論文が掲載されましたので、
日本人にはいささかショッキングなところがございました。この論文は「諸君」という雑誌に翻訳がされておりますので御記憶の方もあろうかと思います。
二人目は、クライド・プレストウイッツという
アメリカ人でございます。きょう彼の本の翻訳を持ってまいりましたので、後ほど御関心のある向きはごらんいただければと思いますけれども、彼は
日米半導体
摩擦のとき、
アメリカ商務省の担当官の一人でございました。現在は
民間の
経済研究機関に入っておりますけれども、彼の「
日米逆転」という本のサブタイトルは、「
アメリカはいかにして
日本に遅れをとってしまったのか」というサブタイトルであり、まさに彼の問題意識がそこにあるわけでございます。彼の主張はさほど過激ではありませんで、
日本はもっと国際化しなければならない、
世界の中にいるだけではなくて
世界に属さなければならない、
市場開放こそ
日本の責任である。それがまた唯一
日本が生き残る道であるにもかかわらず、
自分が長らく経験をしてきたあるいは見てきた
日本側の対応というのはまさに小手先の対応でしかない。一体どういう感覚かというところから
議論が始まるわけでございます。彼が最近まで
商務省の中堅官僚であったということ、そしてこれからも直接間接に
日米経済問題に登場する、そういう人物であるだけに、彼の見方というのは
行政府の官僚レベルの
人たちにかなり広まっていく可能性はある、あるいは既に広まっているかもしれないというふうに思います。
三人目は、ジェームズ・ファローズという、これも
アメリカ人でございまして、彼はジャーナリストでございますけれども、二流、三流のジャーナリストではなくて「アトランチック・マンスリー」という大変プレステージのある雑誌の記者、編集者をしている人物でありまして、いわゆるむちゃくちゃ
日本をこきおろすといった、そういう人間ではございません。波の主張と申しますのはかなり文化論に近くなってくるわけでございまして、彼いわく、
アメリカのよき伝統、強みというのは個人の尊重である。他方、
日本の強みは集団であり、それは明らかに対立する。だから、
日本から学ぶといったような幻想は抱くべきでない。それはむしろ
アメリカの強みを損なうものだ。
日本と
アメリカは根本的に相入れない。
日本が強大になり過ぎることを警戒すべし。極論すれば
日本は封じ込めなければならない。ちょっと単純化し過ぎておりますけれども、そういう趣旨でございます。実際に時々
日本の本は翻訳などコマーシャルベースでたくさん売ろうということで派手なタイトルをつけますけれども、この中でファローズ自身「コンテイニング・ジャパン」、
日本を封じ込めるという論文を書いておりまして、コンテインという言葉は冷戦のときに言われました封じ込め政策、コンテインメントポリシーを
イメージすることになろうかと思います。そういう
意味では、やはり封じ込めという言葉は彼の本意ではないかもしれませんけれども、そういう趣旨は確かにあると思います。
次は、チャルマーズ・ジョンソンという
学者でございます。彼は有名な
アメリカの
日本研究者でありまして、
皆様の中にもおつき合いのある方がいらっしゃるかと思います。彼の書いた「通産省と
日本の奇跡」、これは八二年に出た本でございますけれども、これも翻訳をされておりまして、彼は、戦後
日本の目覚ましい
経済発展は通産省による見事な政策運営の結果であるというふうに分析をしたわけでございます。通産省の役人が聞けば泣いて喜びそうな内容でありますけれども、実際に私の知り合いの役人に何人か聞きますと、ここまで褒められると気持ちが悪くなるというふうに言っておりました。確かに戦後のある時期、官僚主導の政策運営といったものが大きな力を持っていたことは事実だと思いますけれども、それが今日まで、そしてこれから先も続くというふうな見方は単純な見方だと思います。このチャルマーズ・ジョンソンの
立場というのは、ある種の善意の陰謀説というふうに言えるのではないかと思います。
彼自身は
学者でありまして、単純な文化論、
日本の文化の特殊性という説明はしておりません。この
意味で他のリビジョニストと必ずしも同じではないかもしれませんけれども、結果として
日本の資本主義、
経済システムが非常に異質であり、
アメリカの自由放任、自由競争的な
原理とは根本的に異なる。したがって、
日本人がみずからの歴史体験の中から発明した資本主義なるものは、アダム・スミスもカール・マルクスもできないようなものだというふうな言い方をしております。例えば市場、マーケットという概念ですけれども、
アメリカ人がそれを聞けば自由競争がもたらす効率ということを思い浮かべるはずだけれども、
日本人が聞けば官民が一致団結して追求する
経済成長の結果あるいは効果といったものを
イメージする。同様に労働組合、株式会社等々の言葉も
日本と
アメリカではその
意味するところは非常に違う。だから
日本と
アメリカと、
学者レベルであれあるいは政府レベルであれ、
日本と
アメリカが
経済を論ずるとき結局はすれ違いの
議論に終わってしまうのだ。それは極端に言えば不可避であるという言い方をしているわけでございます。
いろいろ申し上げましたけれども、また、かなり単純化して要約をした点はお許しを願いたいと思います。とまれ、こういう論調が
アメリカを中心に、今まさに
日本人が国際社会の中での新たな役割と責任ということについて考える、国際社会に貢献していこうと決意し始めたときに、相手側が、君
たちとはとてもやっていけないよといった対日世論をリードしていく危険はあると思います。こういう
イメージが
アメリカ議会の対
日強硬派の姿勢に弾みをつけてしまう可能性、あるいは
経済界さらには
行政府、ホワイトハウス、こういった大事な政治的な中心に広まっていく、そういう危険を私は危惧しております。今それが広がっていると言うつもりはございませんけれども、それが広がる危険は十分にあるのではないかというふうに思います。
その事態の進行というものを食いとめる、その流れをいい方向に変えていくという努力は
一つには
日本側の努力にかかっているわけでございまして、その打つ手の
一つが、いささか弱い面がなきにしもあらずではあるけれども、しかし
構造協議についての
日本側の真剣な対応であるというふうに思います。もちろん
アメリカの言うことをすべてごもっともと頭を下げる必要は毛頭ありませんし、イエス・ノーのめり張りはつけなければならない。つけないと、
日本人が考えているめり張りよりも五倍ぐらい強くはっきりさせないと
アメリカ人には伝わらない。そういうやはり感覚の違い
はあると思います。これだけ
経済の国際化が進み、また
日本がその中で繁栄していくということを考えるならば、ビジネスのルール、こういったものはできるだけ国際的な水準でなければならないと私は思います。したがいまして、変にナショナリスティックにならずに主体的な自己変革としてとらえ、行動すべきであるというふうに思います。もし、
日本的なるものを何が何でも維持したいと我々
日本人が思うならば、恐らく
外国からは、それでは
日本経済の国際的な活動、
貿易であれ投資であれ、
日本はもっと縮小すべきだ、そういう国際世論が強くなっていく、そういう危険はあると思います。いわゆる縮小均衡あるいは管理
貿易、こういったシナリオでございます。そんなことは
日本にとっても
世界経済の発展にとってもいいはずがないわけで、これを機会に
日本が主体的に
自分たちの
経済の
仕組みを問い直すいい機会だというふうに思います。それで
日本文化のよさ、あるいは本当の
意味での特徴といったものがなくなってしまうほど
日本文化というものの底が浅いはずはないわけで、文化文化と言っているものの多くは変わり得る慣習であり、社会的あるいは政治的しがらみではないかというふうに私は考えているところでございます。
確かに、
日本の中には内政干渉はけしからぬと反応する向きもある。しかし我々が忘れてはならないのは、実は今回の
アメリカの要求の多く、基本的な考えといったものは、何年か前に
日本政府が鳴り物入りで作成をし、しかも
アメリカ政府に提出した例の前川レポートで指摘されているところである、この事実は忘れてはならないというふうに思います。
二、三週間ほど前でしょうか、ちょうど
日米構造協議の中間報告がまとまった直後にNHKのテレビで特集番組がございました。その中で電話による世論
調査がございまして、番組を見ている七百五十四名を対象にした電話
調査がございました。その中の
最初の質問が、
構造協議で
アメリカ政府が指摘したことは全体的に見てそのとおりと思うかという質問でありまして、そう思うと答えた方が六一%、そうは思わないと答えた人は三六%、わからないと答えた人が三%でありました。これは質問の仕方にもよりますし、したがいまして、質問が大ざっぱ過ぎると言ってしまえばそのとおりかもしれませんけれども、私はこの
数字は決して無視できないものだろうというふうに思います。私自身、この
数字は健全な庶民感覚としてとらえるべきであるというふうに思っております。
私ども、あるいは
皆様方も今回の
日米構造協議問題で一番危惧をされたことの
一つは、交渉が、まあ政府は交渉ではないと言っておりますけれどもそれは言葉の問題でありまして、交渉がこじれて
日本の反米感情、
アメリカの対日感情が悪くなるということでありましたけれども、幸いこのような事態は回避された。消費者の利益という大義名分を上手に利用した
アメリカの作戦がうまくいったということでもありますけれども、また、
アメリカが本気で
日本の消費者のことを心配してくれたというようなことは、幾らお人よしの
日本人でも思っていないと思いますけれども、結果として消費者の利益といったものが
日米共通のルールとして前面に出てきたことは有意義だと思います。産業優先、
企業優先のこれまでの
日本の政治の
仕組み、官僚機構の
仕組みあるいは価値観、こういったものに対して
日本が反省期に入っていることとも一致していると思います。今回の
構造協議というものは、
日本が自由
経済体制の一員として
アメリカと同じ土俵の上に立っているのだと、土俵の上に立って初めて相撲が始まるわけでありまして、まず土俵の上に立っているのだと強くアピールする絶好の機会にできるのではないかというふうに思います。
アメリカに限らず、途上国を含めて諸
外国の誤解あるいは十分納得できないような点があれば、制度であれ慣習であれ、彼らの目から見て透明度の高いビジネスのルールをつくり上げていくことが必要だというふうに思います。そしてそれが
日米という二国間にとどまるのではなくて、多国間、マルチラテラルな枠組みで
日本も努力をしていく必要があるのではないかというふうに思います。
非常に駆け足でございましたけれども、私の陳述はこれで終わらせていただきます。御清聴ありがとうございました。