○
参考人(
秋野豊君)
筑波大学助教授の秋野です。よろしくお願いします。
きょうは、
ソ連・
東ヨーロッパで起こりましたこと、また起こっておりますことが
アジアにどのような影響があるのかということに焦点を置きましてお話しさせていただきたいと思います。
一つの用語をつくらせていただきましたが、それは、
東ヨーロッパ化もしくは
東欧化という言葉であります。この言葉で私が
意味いたしたいことは
二つであります。①としては、
ナショナリズムというものが高まってきたということであり、②は、
共産党の
システムというものが弱くなってしまった、もしくは
共産党が分裂してしまったというこの
二つであります。
東欧化ということはこの
二つを
意味しております。
しかし、この
二つの
要素が出てきたからといって直ちに
東ヨーロッパのような事件が起こるわけではないわけであります。何が必要かと申しますと、この
二つが
相互作用を起こすということであります。
ナショナリズムが強くなるがゆえに党が弱くなり、党が弱くなるがゆえに抑えられていた
ナショナリズムが強くなる。
共産主義のイデオロギーといいますものは極めて普遍的なものであります。普遍的なものであるがゆえに、極めて特殊である
ナショナリズムというものを抑えることのできる力を持っておりました。その
意味では、
二つの
要素が絡み合うということはある
意味で当然であるかと思われます。一九八九年の東欧におきましては、見事にこの
二つの
要素が絡み合ったということが言えます。であるからこそ、あれほどのスピードで、あれほどの規模で起こったということが言えるわけであります。例えば
ポーランドやハンガリーだけで起こっていれば、このような
東ヨーロッパ化現象という言葉は使うことができません。これが普遍的に、驚くべき速度で起こったというところに問題があります。さらには、我々
専門家の予想を一番裏切りましたのは、それが非常にスムーズに進んだということであります。現
チェコスロバキア大統領のハベルは、これを
ベルベット革命と呼んでおります。それもそのことを指しております。
この
東ヨーロッパ化現象でありますが、これは現在
ソ連にまで押し寄せているということが言えます。特に
バルト諸国、それから
グルジア、
モルダビア、アゼルバイジャン、アルメニア、そして
ウクライナ、特に
西ウクライナでありますが、そういうところにおきましては、先ほど申しました
二つの
要素、つまり
ナショナリズムの問題と党の分裂、弱体ということが相互的に起こっております。ただ、他の地域におきましては、この①と②の
二つの
要素が絡み合ってはおりません。
ここで問題となりますのは、どういう条件で、党が弱くなるということと
ナショナリズムが強くなるということにはどういう一種の触媒が必要かということであります。これは、条件は
二つあるだろうというふうに考えております。1)は
経済の
行き詰まりであります。もう
一つ、2)めは
歴史の力であると言ってもよいかと思います。
歴史の力と申しますのは、過去にあった事件、それが
民族の――
ナショナリズムというものは
民族の人々の心の中に存在するものでありますが、そこに非常に強く焼きついていて、そのある過去の
一つもしくは複数の事件が
ナショナリズムをかき立てる、そういう効果があるという場合であります。もう
一つこの
歴史の力に関して申しますと、もとにあったものに戻る、つまり過去に戻るというそういう力も持っております。もう少し言いますと、
東ヨーロッパの場合、特に
ポーランドや
チェコ、そういった場合には
シビルソサエティー、つまり
市民社会というものが存在しておりました。それがある
意味でスターリン的な支配が上からかぶされたときに
シビルソサエティーというものが壊されたわけであります。つまり、
スターリン化というもの自体はそういう
市民社会というものを壊す作用があったわけであり、それが目的であったと言うことができるわけでありますが、そういう過去の
シビルソサエティーに戻ろうとする力が働いているわけであります。この力が働くときにはこの1)と2)の
要素というものが非常に強く結びつくことになり、革命は、ある種のまあ逆革命と言ってもよろしいかと思いますが、
党システムの解体というものは非常にスムーズに動くことになります。しかしもし、
東ヨーロッパで起こったこと、ここには今申しましたように
歴史の力と
経済の
行き詰まりというこの
二つがあるわけでありますが、
歴史の力が動いた場合にはかなりスムーズに動きます。
歴史の力が動いたときにはもとのあるものに、
一つの
モデルに、
一つのかつてあった秩序に戻ろうとすることでありますから、そこには一定の枠というものが出てくるわけであります。
これに対しまして、
経済の
行き詰まりというものがどん底まで行ってこの1)と2)の結合が起こった場合には、これはかなり爆発的な力を持つことになります。これが
ルーマニアでなぜあのような流血の事態が起こったのか、
ベルベット革命が
ルーマニアではなぜ起こらなかったのかということを考える場合に非常に重要であります。つまり、ここではかなり、
生活水準が落ちるところまで落ちてしまったということであります。そして、
歴史の力が働いていないがゆえに戻るところがないというところであります。ここに極めて大きな混乱というものを発出する
一つの原因があるわけであります。このことは、
アジアにこういった動きが及んでくる場合に当然考慮されなければならない問題であります。この点につきましては後で戻りたいと思います。
次には
ソ連の
情勢でありますが、現在
ソ連でいろいろなことが起こっております。
一つには
大統領制度というものができ、党の力がこれからどんどんと弱まっていくことが予想されます。特にことしの夏に予定されております第二十八回の
党大会以降は、やはり
ソ連においてはかなり
東ヨーロッパに近いような形での
党システム、オールマイティーであった党の力というものがどんどんと中から、そして外部から崩れていく
可能性が強いと思われます。この際に重要なのは、何と申しましても
経済の問題であり、そして
民族の問題であります。
民族主義の問題であります。この
民族の問題は、現在、きょうもきのうも大事件として取り扱われております
リトアニアの問題、
バルトの問題、
グルジアの問題、そういったものであります。これは
ソ連邦が今の版図を維持できるのかできないのかという大きな問題となっております。しかし、現状におきましては、すんなりと独立をかち得る国は
リトアニアぐらいではないかと思われます。比喩的に申し上げて大変恐縮ですが、ゴルバチョフが今やっておりますことは、かぐや姫が
求婚者にいろいろな難題を出して結婚を断る、そういうような試練を与えているということが言えるだろうと思います。
リトアニアは何とかその試練に合格することができるだろうと思います。しかし、ほかのところではかなり厳しい
情勢があるだろうと思います。
リトアニアだけが独立できるとするならば、ほかの
独立運動にはかなり厳しい将来が待っていると言わざるを得ません。しかし、これは言い方を変えますと、独立を達成するために余りにも厳しい手続を経なければならないということが今だんだんと前面にあらわれているわけでありますが、これが余りにも強過ぎると、ほとんどもう独立できないと考える
民族たちはかなり絶望的な行動に出る
可能性がある。それが
一つの危険な点であります。
第二の危険な点は、一番重要な点であります
ロシア共和国の問題であります。
ロシア共和国は、
ソ連の領土の大半を占めております。カリーニングラードからハバロフスク、果ては北方領土まで、現在彼らはそこに権力を置いているわけであります。極めて大きな領土と極めて多くの人口を抱えております。それでいながら、形式的には十五の
共和国のうちの
一つの
共和国であります。しかし、そこの差というものはまさに大きな差があるわけであります。到底対等の関係になることはできないほどの大きな規模と
重要性を
ロシア共和国は持っているわけであります。ところが、今
ソ連におきましては、明らかに
遠心傾向、
遠心力が働いております。そこからいろいろな新しい動きが出ております。
ロシア共和国を普通の
共和国と同じ対等なものにすべきではないのかという動きが出てきております。
ロシア共和国には極めて不思議なことに、これはそれなりに
意味のあることでありますが、ほかの十四の
共和国にはすべて
共和国の
共産党というものがありますが、
ロシア共和国には
共産党がないわけであります。そういたしますと、
ロシア共和国というものは目前の
共産党を持っていないということで、ある種の当然持つべき権利を剥奪されているようにお考えになるかと思われますが、これは実は逆でありまして、自分の
共和国の
共産党を持たないことを通じて
ソ連の
共産党そのものになってきたという経緯があるわけであります。こういう状況が長い間続いてきたわけであります。ところが、今
ロシア共和国に党を持たせようという動きが出ております。これが本当にできるかどうかはわかりませんが、
ロシア共和国のビューローというものができましたし、今度は
ロシア共和国の党の
協議会、
創設協議会ともいうべきものが開かれる予定になっております。六月の十八日に開かれるわけであります。これはかつてない動きであります。つまり、
ロシア共和国が自分の
共産党を持つということは、
ソ連の
共産党と
ロシア共和国の
共産党がイコールではないという
出発点になるわけであります。そのほかコムソモールにいたしましても労組の問題にいたしましても、
ロシア共和国が独自のものを持ち始める。独自のものを持ち始めれば、
ロシア共和国は
ワン・オブ・ゼムになってしまう。しかし、
ワン・オブ・ゼムになってしまえば明らかに
一つの矛盾が起こります。
それは、先ほど申しましたように、
ロシア共和国が余りにも大きいということであります。ほかの十四の
共和国と対等の関係を持つことができないということであります。こういった非常に大きな格差をどう埋めるのか、これは行政を行う上におきましては極めて重要な問題であります。
一つの
可能性としては、
ロシア共和国を分割するということが考えられるかもわかりません。
アジアとそれから
ヨーロッパ部に分けるということも
一つの方法かもわかりません。三つぐらいに分けるということもあり得るかもわかりません。極東に
共和国をつくるということもあり得るかもわかりません。しかし問題は、先ほど申しましたように、
ロシア共和国こそが
ソ連邦という国の中核であり、それ自身である。
パワーベースに関してはそれ自身であるということが言えるわけであります。したがって、
ロシア共和国を分割するということは、
ソ連の国力の統一、
凝集力ということを考えますとかなりリスキーであります。この問題をどう乗り切るのかというところが
一つの問題であります。一番望ましい方法は恐らく、十四の
民族共和国というものを全部廃止して、現在
ロシア共和国にあります州・
地方制度というものを導入することでありましょうが、それはもう時期的に遅いだろうと思います。つまり我々は、
ロシア共和国を
ソ連が、
モスクワがこれをどう処理するのかということを注目すべき時期に来ているわけであります。
このような形で、
ソ連におきましては、
東ヨーロッパに起こりました現象、つまり
東ヨーロッパ化というものが
周辺部、そして怨念の
歴史を抱えております
モルダビアや
グルジアや
バルトといったところで本格的に起こっているとともに、内部におきましても党の力が弱まる、そうして
ロシアナショナリズムが起こってくる、ほかの
民族主義も高まってくるという
意味で、先ほど述べました①と②の
結びつきは、まだ弱いわけでありますが、明らかに出ております。
その波がさらに大きく出ておけますのが
モンゴルであるということが言えます。
モンゴルにおきましては、
東ヨーロッパが
ソ連によって極めて厳しくコントロールされていたのと同様に、
ソ連によってコントロールされてきたわけであります。その
ソ連の力が、ユニバーサルな
社会主義の力が落ちたわけでありますから、
モンゴルにおいても
東ヨーロッパと同様の動きが出ることは当然であります。その当然のことが今起こっております。ただ、
モンゴルの
経済自体がさほど、東欧のように行き詰まっているわけでもないということがあるかと思います。もう
一つは、確かに
ナショナリズムが、ジンギスカンをたたえる、そういった傾向が出てきたり、
ナショナリズムが出ておりますが、①と②は、必ずしも
東ヨーロッパでのような有機的な
化学変化というものはまだ起こっておりません。状況といたしましては、現在の
東ヨーロッパの中では
ブルガリアの状況に
モンゴルはかなり近いということが言えるかと思われます。
党というものは、性格を変えさえすれば、そこで中立的な、マックス・ウェーバー的な
意味での官僚としての役割を果たしていくことができるかもしれない、ある
意味での理念としての
社会主義のみならず、体制としての
社会主義のある部分を残すことができるかもしれない、そういう
可能性がまだ残っているかと思われます。
これに対しまして、現在、世界に四つの
社会主義国が残っているということが言えます。これを私はP2H2というふうに名づけております。これは
ピョンヤン、北京であり、
ハノイ、ハバナであります。
アジアの複雑さというものは、この世界に四つ残っております
社会主義国の三つがあるということであります。この四つの国は、今一種の精神的な
意味での団結を高めているということが言えます。なぜ精神的な
意味での団結を高めているかといえば、彼らは非常に孤立し始めているからであります。今までは、西側から孤立していた、その分を東との団結によって補っていた面があるわけでありますが、現在は、東との関係も切れてしまうということが言えます。
北朝鮮それから
ベトナムに関して言いますと、ある
意味での
ヨーロッパ的なコネクションというものがほとんどなくなっております。以前におきましては、
社会主義諸国の会議また
連帯集会、そういったものが
ベトナムにおいて数多く開かれました。しかし、最近はもうそういうものはほとんど行われておりません。
貿易協定、
バーター協定というものはいまだに、例えば
ベトナムと
ブルガリア、
チェコ、そういったもう
社会主義をやめた、またはやめつつある国との間でまだそういう協定は継続的に結ばれております。しかし、それだけが残っていると言っていいかと言える、そういう状態であります。
中国につきましては、やはり①と②の問題でありますが、
天安門事件におきましては
民主化という問題が起こりました。つまり、これは②の
要素であります党の
指導的役割の問題、これが問題でありまして、そこの部分をクリアできないがゆえに実は
天安門が起こってしまったということが言えるわけでありますが、現在、
中国につきましては①の
ナショナリズムの勃興というものも周辺では起こり始めている。その
意味では
東ヨーロッパ化が
中国においても
周辺部において
ソ連と同様に起き始めているということが言えます。しかし
中国の場合、
東ヨーロッパ化の
二つの
要素であります
ナショナリズムの高まりと、それから
党システムの
弱体化というこの
二つのものを結びつけるのは何と申しましても
経済の
行き詰まりだろうと思われます。先ほど申しましたように、
経済の
行き詰まりというものが触媒になってこの①と②の
要素が結びつけられたときに起こる現象は
ルーマニア現象であります。つまり、非常に爆発的なことが起こる
可能性があるということであります。
同様のことは
ピョンヤンについても言えるだろうと思われます。ここにおいても
東ヨーロッパ化の波が押し寄せるときには、どちらかといえば
経済の
行き詰まりというものが結びつく。それから、そもそも一
民族二国家という
ドイツと同様の状況がありますので、当然不安定にならざるを得ない。それに加えて後継者問題があります。そこに
経済的な
行き詰まりというものが結びつくわけでありますから、朝鮮半島でこれから起こるであろうことは極めて憂慮すべき事態であるということはまずまず間違いないということが言えるかと思われます。現在、
ピョンヤンにおきましても北京におきましても
ハノイにおきましても、共通の行事または政策というものが出ております。これは、彼らの持っている
社会主義のファウンディングファーザー、つまり
創始者というものをたたえる、そういう運動であります。ホー・チ・ミンに対する
個人崇拝、礼賛の傾向が非常に強まっておりますし、
金日成に対してもそれが強まっている、そういう傾向が出てきております。
次に、欧州におきましては
冷戦構造というものはほぼ九〇%以上解体してしまったということが言えるかと思われます。
ワルシャワ条約機構はいまだ残っております。しかし、実質的に
ワルシャワ条約機構はなくなったと言っていいかと思われます。その
意味で、ほとんどが
ヨーロッパにおいては
冷戦構造が飛んでしまったということが言えるかと思われます。ではそういったものが、そして
東ヨーロッパ化というものが、冷戦の終了ということと
東ヨーロッパ化が
アジアに押し寄せてくるということはある
意味でダブる
要素があるわけでありますが、これがどのように
アジアに来るのであろうか。その
アジアの
情勢、
ヨーロッパとの違いといったものを指摘してみたいと思います。
まず第一に指摘すべき点は、
アジアにはある
意味での
歴史の力が働いていないということであります。欧州においては、欧州が無理やりに
二つに引き裂かれてきた、これが
一つに戻るのは当然であるという心が欧州の人々の中にあった。東側にもあった。であるがゆえに、
東ヨーロッパにおいて昨年ああいう事件が起こったときには、心をあげて、腕を開いて東側の変容を受けとめようとする、そういう力があったということが言えるかと思われます。もう
一つは、
ヨーロッパの場合には戻るべきところがあった。
東ヨーロッパが変容しても、秩序が壊れても、
自分たちには戻るところがある、
自分たちには帰属するところがある。つまり
シビルソサエティーがあるんだ。
社会主義をやめれば西側に当然行くんだという、非常にストレートなそういう図式が見えていたということが言えるかと思います。それが
アジアにはないということが非常に重要なポイントであります。つまり、
歴史の力というものはその
意味で一時的に非常に強い力を果たしますが、この
歴史の力というものは過去のある時点に戻るという
意味で
モデルを提供するものであり、その
モデルがある限り秩序はある程度保たれるというところがあります。
アジアではこれがないというところが極めて重要であります。
第二番目の点は、
ソ連軍の駐留がない、
アジアにおいては駐留がほとんどないということであります。
カムラン湾においてもほとんどなくなりつつあります。また、
モンゴルからもほとんど撤退しつつあります。これはもう全く時間の問題であります。
東ヨーロッパの革命が極めてスムーズだったのは、実は
モスクワが
東ヨーロッパからその
影響力を引き揚げたからであります。そのときに非常に大きな安定的な力を果たしましたのが
ソ連の
駐留軍であります。
東ヨーロッパに駐留していた
ソ連軍の存在というものが非常に大きな役割を果たしました。しかし、
アジアにおいては、
ベトナムにおいてもほとんどない、
中国には当然ない、
北朝鮮にもないということで、
ソ連のある
意味でのプラスの力というものは働かないということが言えます。
三番目の点といたしましては、米ソ以外に
アジアでは
中国というものがある。
ヨーロッパの冷戦の主役は何と申しましても
ドイツであります。
ドイツの壁が崩れた瞬間に欧州の
冷戦構造は崩れたということが言えます。
アジアにおいては何と申しましても
中国だろうと思います。
中国は、一九七〇年代にアメリカと接近し、
ソ連との対立が高まったわけでありますが、その
意味で
アジアの冷戦は一時的に、もしくは半分ぐらいもう既に崩れてしまったということが言えるかもわかりません。しかし、御承知のとおり、まだ
中国はその
意味で超大国として残っているわけであります。米ソそして
中国というこの三人の
プレーヤーによって行われる
ゲームは、
ヨーロッパにおきますような米ソ二人の
プレーヤーによって行われる
ゲームより当然ながら複雑であります。非常に読みにくいということがあります。
第四番目の点といたしましては、第二の点と関連いたしますが、
アジアにはほとんど
ブレジネフ・
ドクトリンが効いていないということがあります。アフガニスタンは
ブレジネフ・
ドクトリンの適用と言えないこともありませんが、よくよく調べてみれば、これはやはり純粋な
意味での
ブレジネフ・
ドクトリンではないということが言えるわけであります。ほかのところ、
北朝鮮に対しても
中国に対しても
ベトナムに対しても、
条約文その他を見ましても、
東ヨーロッパと
ソ連の関係とはやはり違っております。また、現実にもそういう動きを
ソ連は今まで見せておりません。したがって、
アジアには
ブレジネフ・
ドクトリンが効いていない。したがって
ブレジネフ・
ドクトリンが撤回されても
アジアには動きはストレートには来ないということが言えるわけであります。
第五番目の点といたしましては、米ソが
ヨーロッパの中にかっちりと入り込みましたのが一九四一年であります。そうして、アメリカが入り直したのが一九四七年でありますが、そのような形で米ソが
アジアに入り込んだということはないわけであります。その
意味でやはり米ソの力というものは及びにくい。現に
アジアで
二つの熱戦が起こっているということもこのことと無関係ではないわけであります。
第六番目の点としては、
アジアの
社会主義国は自前の
社会主義革命を行った。もっと丁寧に言いますと、
アジアの
社会主義革命というものは、
アジアにおきます植民地解放、
民族解放闘争と結びついております。つまり、彼らが非常に強いのは、また彼らが現在
ナショナリズムを使うことができるのは、チャウシェスクと同様に
ナショナリズムをある
意味では使うことができますのは、彼らがそこで勝利した、
民族解放闘争で勝利したその正当性があるからであります。したがって彼らの基盤は強いわけであります。そうして彼らは、先ほど申しましたファウンディングファーザーというものを持っております。自前の
社会主義というものを持っております。つまり、普遍的な
社会主義の力がなくなっても、自前の特殊な
ナショナリズムに基づく
社会主義というものを経営することができる、その点で彼らは非常に強いわけであります。これも
東ヨーロッパの場合とは違う点であります。
七番目の点といたしましては、
ヨーロッパにおきましては、これは月並みなことでありますが、ブロック対ブロックで動いておりましたが、
アジアの場合にはそういうものがないということがあります。
八番目の点としては、これが恐らく一番重要であり我々が考えるべき点であるというふうに信じておりますが、CFE、CSCEといったものやECといったようなもの、そういった問題を全体で話し合う場がないということであります。これがある
意味での
アジアには一体性がないということの問題であります。こういった、
ヨーロッパには欧州の問題全体を話し合うフォーラムがあったということ、それからECのように、東側が
ナショナリズムの高まりを見せる中で西側では
ナショナリズムの敷居を低める、そして
経済的にダイナミックに統合していこうという
一つの、ちょうど逆のダイナミックな動きがあったがゆえに、
東ヨーロッパの革命というものは先ほど申しましたようにスムーズにいったという点があります。
アジアにはこれがないというところが深刻な点であります。
ソ連の変化が日本に対してどういうふうに出ているのかということにお話を移したいと思います。
御承知のとおり、ヤコブレフ氏が日本に参りまして第三の選択ということを言いました。これ自身に
意味はないと思います。単に互いの立場を主張し合うのではなく、解決する気があるならば妥協すべきではないかということでありますが、しかし重要なのは、一九九一年にゴルバチョフがやってくるということであり領土問題をとにかく処理しておきたいという姿勢を示しているということであります。
一つの変化といたしましては、
ソ連側から非常な勢いで、この問題はもう官僚レベルではなく政治レベルで解決すべきではないのかという呼びかけが行われていることであります。第二の問題は、国際法論議ではこれはもう解決できない、したがって
ソ連にとって北方四島を持ち続けることのプラスは何で、また、持ち続けることのマイナスは何なのかという、国際法論議ではなくコストとべネフィットでこの北方四島の問題を考えてみようという動きが出始めていることであります。これは一種のコペルニクス的な転回であると言ってもいいかと思われます。
さらには、
ソ連の日本に対する姿勢といたしまして、感情面に注意を払うようになってきております。例えば
ソ連のある研究者が、どうも
自分たちは日本人の感情をいろんな面で傷つけてきた、捕虜の問題でもその他の面でも傷つけてきた、これが問題ではないか、もう一度仕切り直しをした方がよいのではないかということを言い始めてきております。また、いろいろな面でこの感情の問題を
ソ連側は言い始めてきております。これは、日本人の浪花節的な性格にかなり受けそうな面でもあります。また、
ドイツの統一問題が、現在の東
ドイツと西
ドイツの領土、これをプラスした形で、領土がどうもそこからは動きそうもないという情景が出てきております。つまり、
ポーランドに対する
ドイツの領土要求はなされないであろう、旧プロシア領土に対する
ドイツの要求もなされないであろうという状況が出てきておりますので、むしろパンドラの箱は閉じつつあるということが言えるだろうと思われます。
最後に申し上げたいのは、
ソ連において現在中央と
共和国の間でいろんな多様な関係が出始めているということであります。
社会主義の普遍的な力が弱ったことにより、中央の
モスクワといたしましては
ソ連のいろいろな地域、
周辺部のその特殊な事情に合わせた政策を、そういう関係を条約の形でつくろうということが出てきております。エリツィンが現在
ロシア共和国の最高会議の議長になろうとしております。エリツィン氏は、日本に参りましたときに、北方四島の問題を解決するのは
ソ連ではなく
ロシア共和国であるということを言っております。そして、自分が
ロシア共和国の最高会議の議長になるんだと。つまり、自分が北方四島を返してやるんだということをある
意味でほのめかしたわけでありまして、それで日本における彼の待遇をよくしようという、そういう実利的な面があったのかどうかわかりませんが、彼自身はそういうことを言ってきておりました。そのエリツィン氏がもしかするとかなりの確率で
ロシア共和国の最高会議の議長になりそうであるということが言えるかと思われます。現在、そのように
共和国の地位が、先ほど申しましたように
ロシア共和国が分割するかされないのか、いろいろな問題がありますが、かなり多様な面を持ち始めております。とするならば、北方四島に対するレニングラードの一市民の意見と北方四島に対するサハリンの人間の意見とが同じ重さで考慮されるということはもうないであろうという気がいたします。その
意味では我々は、本当に北方四島を取り返そうとするならば、この極東部分に対して働きかけをする、ロビー活動をする、いろいろな形で積極的に出ていく、それを通じて呼び戻すということも現在ならば可能かもわからないという気がいたします。
最後に述べさせていただきたいことは、朝鮮半島でこれから起こることは極めて重大であります。必ず起こると言っていいだろうと思います。数年以内に朝鮮半島で
ルーマニア的なことが起こるであろうという気がいたします。
一つには、
ドイツ問題と同じように一
民族二国家の問題であるということであります。もう
一つは、つまり北におりますのはホーネッカー体制ではなくチャウシェスク体制であるということであります。
歴史の力は働かないだろうと思います。極めて深刻な問題であります。
そうして、日本が今何をすべきなのか。それは何らかの
ヨーロッパにあるようなフォーラムをつくり上げ、この朝鮮半島の問題を、何かが起こったときにどう処理するのかということを、多国間でそういうフォーラムをつくらなければ、当然我々は、日本外交というものが一体どこへ向かっているのか、
アジアで何をするのか、そういう疑問が内外から出てくるのは当然ではないかという気がいたします。
ちょっと長くなりましたが、以上です。