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佐々木分科員 今のお答えですけれ
ども、別に
棄権を勧めるということにはならないと思うのです。つまり、
棄権者の
意思を確保するために、保障するための便宜を図るというだけのことなんですから、これは聞かれた場合には、例えばことしの
選挙のときに、私の母親は八十になりますけれ
ども、秀典、
国民審査というのはどうしたらいいのと言うから、おふくろさん、わかるんだったら
投票すべきだし、わからないんだったら
棄権はできるんだよということを言った。では、私はわからないから無責任なことはできないよと言って、どうやったらいいのと言うから、
立会人の方に返すことができるんだ。そこで、それじゃ返すと言って返したのですが、そういうことも
一般はわからない。そういうことを聞かれたときには、やはりお返しできますよということを言わざるを得ないだろうと思うのですね。
そういうことを言うということは、別にそれは
棄権を慫慂している、勧奨していることになっているわけじゃないわけで、そういう点では、
棄権箱という箱を置いても
棄権を勧めることにはならないのじゃないかと私は思うので、前にそういう
申し出をしたときには、予算の関係やなんかがあるというお話だったのですが、これは何もそんなお金のかかる立派な箱を用意しろというわけじゃないのですから、予算なんてたかだか知れている、全国で一万数千カ所の
投票所に置くわけですから。この辺のところはまだ法律の上での規制がないはずだと思いますので、検討の余地があると思います。今後ひとつ御検討いただきたい、私はこんなふうに思うわけです。
時間が余りないものですから残念なんですが、もう少し進めていきたいと思います。
確かに今お話しのように、この
国民審査制度の
意義というもの、これは
憲法によりますと、
裁判官の任命についての
審査というようになっておりますね。確かに
情報が足りないというのは、
一つには、例えば今度の八名の
裁判官の中には、
裁判官に就任されてからもうかなりの時間を経過している方と、それから任命されたばかりの方もあるわけですね。八名の中には、この
審査までに十日、つまり任命されたのがこの
審査の日の前十日ぐらいしかない、こういう方もいらっしゃるわけですね。確かに
最高裁判所において関与した
裁判なんというのは、もう全くこういう方はないわけですから、判断材料はないわけです。しかし一方、任命自体も
審査の
対象になっているのだとすれば、実はこの
裁判官の任命の経過だとか理由というものは、本当はこれもまた
審査の
対象にならなければならない、
考えられなければならないだろうと思うのですね。
これも御
案内のように、アメリカなどにおいては日本と違いまして、アメリカの連邦
最高裁判所判事の任命権者は大統領ですけれ
ども、その任命に当たっては上院の承認が必要だということになっております。それで、大統領が任命した
裁判官について上院では聴聞会が開かれるのですね、ヒアリング。これは一九八七年レーガン大統領のもとでは、レーガン大統領が指名をした
最高裁判事が二名立て続けに挫折をした。つまり、上院の公聴会で激しい
質疑があった後に、とうとう上院はこれらの人について承認をしなかったということがある。そして、こういうことが連日のようにニューヨーク・タイムズだとかワシントン・ポストだとかいうような有力紙に報道されて、それについて
国民が非常に大きな関心を持つということがあったわけですが、日本では残念ながらそういうような
制度になっていない。
最高裁判所の
裁判官の任命は内閣において行う。
最高裁判所の
裁判官の中でも長官については内閣の指名で天皇が任命する、こういうような仕組みになっていて
国民が全く関与できない。
そこで、今この
審査というものが任命についての
審査も含んでいるのだとすれば、それぞれの
裁判官の個人的な識見、能力あるいは業績だけではなしに、なぜこの
裁判官が
裁判官としてふさわしいということで内閣は任命したのかという任命の経過だとか理由についても、この
公報など、あるいは別の機会にでも
国民に知らされてしかるべきだと私は思うのですが、こういうことが今全く行われておりません。今度の
審査の
対象になった八名の
裁判官のうち五名は、海部内閣が任命した
裁判官でありますから、内閣の長である海部総理大臣がこの
国民審査に当たって、御
自分が任命をされたこれらの
裁判官について、こういう経過でこういう理由でこういう観点からこういう方を
裁判官として任命したのだということをあらわしていく必要があるのではなかろうか、こんなふうに思っております。今度は行われませんでしたけれ
ども、こういう点についても御
工夫の余地はないかどうか。これは
自治大臣にひとつお聞きしたいのですが。