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小澤(克)
委員 そこで、当時の日本国内における
朝鮮人労働者の状態はどんなものであったかということについて
お尋ねをしようかと思ったのですが、これについて十分答えられる官庁が今政府内には存在しないということだそうでございます。それ自体、いかに私
ども日本政府が戦時中あるいは戦前も含めて、朝鮮の方々に対してどんな仕打ちをしたのかということについての認識が全く欠ける、あるいは知ろうとしないことの
一つのあらわれではなかろうかと思うわけでございます。歴史に対してきちんと直面をし、歴史を知ることのない者は現状判断することもできませんし、ましてや将来についての展望を持つこともできないのは明らかでございます。今の日本の出発の原点となった戦前戦時中の我々日本人の行った
行動については、やはりきちんとした歴史認識を持たなければならないのではないかと思うわけでございます。
そこで、どこからも答えられないということでございますので、やむを得ず、私の方で若干知り得たところを、これは御報告の形になろうかと思いますけれ
どもさせていただきたいと思います。
もとより、私とて歴史的な認識は大変浅いわけでございますが、戦前において、特に朝鮮を日本の植民地とした日韓併合以後、大変な
朝鮮人の
労働者が日本国内に流入しているわけでございます。その原因については、二つぐらいの要因があろうかと思います。
一つは、一九一〇年から一九一八年にかけて行われました土地
調査事業。これは近代的所有権の確立を名目として行われたわけでございますけれ
ども、この際に耕地の多くが国有地とされてしまった。前近代的な土地の利用
関係を無理やり近代的所有権、使用収益処分のすべてを備えた全き
権利としての近代的所有権に当てはめていくということはいろいろな無理が伴うわけでございまして、そういうことは日本国内でも恐らく明治初期にあったのだろうと思いますけれ
ども、まさにこのようなことが朝鮮半島において行われた。そのために、多くの土地が国有地にされる。そしてまたその一方で、露骨な植民政策によって、例えば東洋拓殖株式会社の土地所有が短期間に極めて大きく増大している。また、大小の日本人の地主の所有に帰する土地も増大した。そういった結果、結局朝鮮半島における自作農が土地を失い小作農になり、あるいは雇農になり転落し、そしてしかも、小作料が実に七〇%というようなまさに過酷な
状況であったために多数の
朝鮮人農民が離農せざるを得なかったというのが歴史的な
一つの要因でございます。
それからもう
一つは、第一次大戦後、日本国内の諸産業が大変勃興いたしまして、そのために多くの労働需要を生じた。さらに、後に至っては強制連行というような、これは戦争によって国内の労働力が払底したことに起因するわけでございますけれ
ども、そういった要因が重なって日本国内に多数の
朝鮮人労働者が流入したというのが歴史的な事実でございます。
どのくらいの方が流入したのかということについては余り
調査も進んでないようでございますけれ
ども、例えば坪江豊吉さんという方が、この方は公安
調査庁などにおられた方のようですけれ
ども、各種官庁資料によってまとめられた表がございます。これは「在日
朝鮮人運動の概況」という出版物でございますが、一八八三年末には日本国内における
朝鮮人労働者の人口はわずか十六名だったのが、一九〇九年末に七百九十名、二〇年末には四万七百五十五人、三〇年末には四十一万九千九人、三八年末には七十九万九千八百七十八人、四〇年末には百二十四万一千三百十五人、四四年末には百九十三万六千八百四十三人、四五年、終戦の年には二百三十六万五千二百六十三人。このように多数の
朝鮮人が日本国内に流入しているという事実があるようでございます。この点について、日経連の専務
理事をされました前田一さんの「特殊労務者の労務管理」という一九四三年に刊行された出版物によりますと、「欧州大戦勃発以降内地の産業は勃興し、事業界は未曽有の殷盛を告げ、労力の需要は頓に増かを来し、その結果内地
労働者の吸収のみを以ては充分ならず、寧ろ内地人に比して賃金の低廉なる鮮人労務者を積極的に誘引するに如かずとする機運を醸成し」たといぅような記載があるのもその裏づけではなかろうかと思うわけであります。
さらに、強制連行でございます。これは、今まさに日韓間でホットな問題となっているわけでございますけれ
ども、これについても十分な
調査がなされていないわけです。
例えば、強制連行と俗に言っておりますが、これは法的根拠は国民徴用令でございまして、一九三八年の国家総動員法に基づいて翌年七月に発布されたのでございます。したがいまして、一九三八年、三九年ごろから行われました強制連行に関しては、敗戦までの七年間に百五十万を超える、この中にはサハリンに連行された四万三千人の方を含むようですけれ
ども、このように普通に言われているようです。客観的な裏づけのある資料といたしまして、第八十六議会説明資料に基づきますと、一九三九年、五万三千百二十人、それから高等外事月報という公的資料によりますと、一九四一年に十二万六千九十二人、四二年には二十四万八千五百二十一人、四三年には三十万六百五十四人、さらに朝鮮経済統計要覧という公的出版物によりますと、一九四四年には三十七万九千七百四十七人のようでございます。合計百五十一万九千百四十二人がこの徴用令による強制連行の対象となったという資料もあるようでございます。
そして、その
朝鮮人労働者の当時の生活状態はどうであったか、これについてもきちんとした
調査が残念ながらなされていないわけですけれ
ども、一般的に言われていることは、いわば公知の事実であろうと思いますが、
労働条件は極めて劣悪で、賃金は日本人の約半分というのが常識であったというふうに言われております、そして、さきに挙げました前田一さんの同じ書物の中で、「彼等」というのは
朝鮮人労働者のことでございますが、「彼等は極めて僅かな収入を得るに過ぎなかったが、その生活費も亦想像以上に低廉なもので、おそらく人間としての最低限度の生活を維持して居るに過ぎない状態であった。住居は粗末で壁は落ち屋根は打ち辛うじて雨露を凌ぐ程度のもの、殊に食物の点に就いてはよくもあれで生存に必要な栄養が接種されるものかと疑われる程であり、食ふ分量は多いが、彼等は全く米と塩と野菜で生きて居る有様であった」こういう表現がある。これはある
意味で率直な表現ではなかろうかと思うわけでございますが、こういった
状況であったことは間違いのない史実のようでございます。たまたまけさの新聞を見ておりましたら、「松代大本営工事の
朝鮮人労働者「千人以上が死亡」」、実際に徴用された経験を持つ韓国の方がそのような証言をソウルでされているというような記載がございます。
いずれにしても、大変過酷な、およそ人間として最低限度の人格の尊重もなされないような労働あるいは生活があったのではないだろうかということは疑う余地のないところであろうかと思います。
本件土地における
朝鮮人労働者の生活についても他の例とほぼ同様であったと思うわけです。現に、このウトロ地区におられた、そして現在までおられるムンクァンジャさん、文光子と書くのですが九歳で日本に渡って、一九四一年、十九歳でウトロに来た方ですけれ
ども、その方の証言によりますと、「ウトロでは男はモッコかついで一日十二〜十四時間、ムチで働かされていた。女は飯炊きだから、朝五時の食事作るのに三時起き。」というような証言があるわけでございます。
そしてまた、私自身が先般の
調査で見たその飯場、ごく一部でございますが残っておりましたが、それはもう大変ひどいものでございまして、まさに掘っ立て小屋といいますか、屋根は片流れの屋根で、現在ではトタンぶき等になっておりましたが、当初はセメント袋のようなもので張ってあったそうでありまして、雨露をしのぐことすら不十分、飯場というよりもむしろテントに近いのではないかなという印象でございますが、そのようなところで起居していたということは間違いのないところのようでございます。現在では、私
どもが
調査した時点では、それぞれ皆さん自力で家を建て直しておられまして、中にはかなり立派なものもございますし、一応の水準にはなっているかなというふうに思いました。しかし、水道は実に一九八八年、一昨年になってやっと引かれたということのようでございます。まさに生存権が保障されていなかったということになろうかと思うわけでございます。
こういう実情であったということを、今のところは
質問というよりは報告になりましたけれ
ども、ぜひ法務大臣初め御認識をいただきたいと思うわけであります。
そして、このウトロ地区の
朝鮮人の方々がたくさん居住していた土地が最近に至って売却をされるという事態が生じました。私の方で
調査したところによりますと、二つ契約書がつくられておりまして、日産車体株式会社から許昌九という方に昭和六十二年三月九日付で四億円で売却されております。この方は日本名平山桝夫とおっしゃるそうです。そしてもう
一つの契約書は、この平山さんから有限会社西日本殖産というところに昭和六十二年五月九日、最初の売買から二カ月後でございますが、今度は四億四千五百万円で売買をされているようです。なお、登記
関係については、中間省略で日産車体から有限会社西日本殖産へと登記が移転しているようでございます。
そこで、国土庁の方においでいただいていると思いますが、これら売買についての国土法上の届け出はどのようになっていましたでしょうか。