○和田(一)
委員 官尾さんのおっしゃることもわかります。要するに、
陛下個人としてのお心の中をどんな
法律であろうが何人であろうが左右することはできない、しかし公人としての
天皇は信仰の自由は与えられていない、私はこう思うのです。これは当然だと思うのです。
この象徴というものはそういう意味では、今御
説明を聞いていると無色透明のものだな、私はこういう感じがするのです。日本は
宗教を信じてない唯物国家ではないのです。そういう体制の国ではありません。そしてまた
一つの教義を持った、国教を持った国家でもないのです。広く
宗教の自由を認めているからこそ政教分離というものが出てきているのでしょう。
天皇は、そういう中で一人の個人として信仰を自分で持って、そしてそのための
宗教行事をやっているのじゃないのですよ。だとすれば、全く無色透明なんです。僕は、神道神道と言うから神社神道のような――さっき長官も
宮尾さんもおっしゃっていたように、広く言えばキリスト教、仏教、神道という形式を踏まえているから、
宗教上の
儀式を否定するわけにはいかないというような妙な言い回しの格好になるわけですけれ
ども、神社神道と
皇室神道という
言葉があるかどうかわかりませんが、それは私は一緒にはできないと思う。それを、俗に言う
宗教上の
儀式である、こう認定してしまったら、これにはお金なんて出せませんよ。ここが一番あいまいもことしていてはいけないところだと私は思うのです。日本の
憲法で世襲制の
天皇制を認めているのですから、その世襲行為としての
即位というものが大事だという認識を
政府は持っているのですから、それを堂々とやれるような格好にしないで、何やら言いわけをしながらやらなければならないというような見解はおかしいと思う。これは本当に
宗教上の
行事だったらやったらいけませんよ、そういうことになってしまうのですよ。いや、そうじゃなくて、私はもっとおおらかな、さっきも言っていたけれ
ども、祈るというのでしょう。象徴というのは一体何ですか。象徴ということは何をやったら象徴になるのですか。何もしないことですか、
国民の象徴というのは。
国民の統合の象徴、国家の象徴、これは国の、
国民のために平和や安全や豊かになることを願ったり祈ったりするということだ。その行為があっていけないということになったら象徴というのは一体何をやるのですか。そこが非常に大事だと私は思うのですが、
宮内庁、いかがですか。