○
参考人(
梶原康史君)
梶原でございます。
私は、今回の
教員免許法の改正がスムーズに行われますことについて
賛成する
立場から
意見を申させていただく次第でございます。
私は
高等学校の
教員生活を十四年間やりまして、その後、
教育委員会の
指導主事をやりましたり事務局の中の課長とか次長をやってまいりました。現在、
大学におきまして
教育系の学科を教えているわけでございますが、
昭和二十四年から三十八年にかけて私が
高等学校で
社会科を直接教えておりましたときの
経験から申させていただきたいと思います。
社会科というのは、先ほどからもお話のありました
ように、民主
社会における正しい人間
関係というものを理解させていく、そして有能な
社会人として必要な態度とか
能力、技能等を身につけさせるのでございまして、従来の
公民とか
地理、
歴史等の
教科をただ
寄せ集めてやっていくというだ
けではなくて、それをうまく融合して、そして
生徒がその中から
社会的な良識といいますか
社会認識を身につけていく、そういう
総合的な性格を持った
教科と承知しているわけでございます。
そういう
教科としての
社会科の中で、
一般社会とか
世界史とか
日本史というものを卒業したての私が教えていったわけでございますが、その場合、例えば
世界史をやっておって、本当に
子供たちの理解を深めさせていく、
子供たちが本当に興味づいてくれるというところに持っていきますためには、どうしてもその
教科の中に、
歴史の
系統、あるいは
地理なら
地理の、例えば気候なら気候区分のそういう広い視野からのものを基盤に据えてやらないというと、
子供たちの納得がうまくいかなかったわけでございます。
このことは、単に
歴史の分野だけではなくて
一般社会におきましても、
一般社会は比較的この目標に迫りやすいので私も案外その点はやりやすいなと思ったのでございますが、中を考えていけばいくほど、
経済学とか
法律学とかあるいは
歴史学とかといったものなどのそういう基盤を十分に私の方が持っておって、そしてそのことを
子供たちの方にぶつけていくのでなかったら、
高等学校の
子供たちというのは本当にそういう
教科に対して親しんでくれないなという気持ちをつとに持ったのでございます。
その後、私は、先ほど申しました
ように
昭和三十八年から
指導主事として県下の
高等学校の
先生方とも接する機会がございまして、私のこういう考えというのはどうなのだろうということでいろいろと話し合いをいたしますときに、ほかの
先生方もそういうことにおいて疑問を持っておる方もいろいろとございましたりするものですから、それでは、私も所属しておりました当時の
高等学校社会科研究会でこういう問題についていろいろともんでいったらどうだろう。
もう
一つ、この
社会科研究会のほかに
高等学校歴史教育研究会とか
地理教育学会といったものなんかがあるのでございますが、そういうことで学会が分かれておるからうまくいかないのじゃないのか、学会というもの、学会といいますか
教育の
研究会というものは
一つになっていって、そして大同団結の中で
社会科の中身をいろいろと見ていくべきじゃないかということを提唱いたしまして、
指導主事としての
立場上いろいろと先輩
たちに申し上げ、当時の会長さん方にもお願いしたりしたわけでございますが、ところがやはりそれはお家の事情というのがございましたのでしょう、うまくいきませんでして、結果どうにもならなかったわけでございます。
しかし考えてみますというと、
高等学校というところはそういう
教科というくくりと同時にもう
一つ、むしろ
科目の性格というものが強くある
ように思うのでございます。この辺のところかどうも私には、
社会科というものを担当しておきながら腑に落ちないというか、うまくまとめていけない課題でございました。
ところが、
指導主事でございますから
中学校の方も見るのでございますが、
中学校は、
地理的分野、
歴史的分野、
公民的分野と分かれてはおるのですが、その分かれておる中に、
社会認識とか正しい人間
関係というものを貫いていくいわゆる
社会科としての精神をうまくまとめておるのでございます。
それでは
中学校の
ように
高等学校が分野的な扱いでいけるかとなりましたときに、先ほど私が申しました
ように、
高等学校の
生徒というのはかなりそこのところが、何も程度を高くするというのではありませんが、グラウンドの広いしっかりした基盤の上に立って物を見ていくということをしてやらなかったら
子供たちは納得しないということを私は痛感した次第でございまして、
中学校の
社会科の成立の
あり方というものについては、これは十分に考えなきゃならないというより、むしろこれはよくできておると私は考えるわけでございます。
それから私は五十一年から義務
教育課長として
小学校のカリキュラムを見ることになったわけでございます。この五十一年という時期は現行の
学習指導要領ができ上がってくるときでございます。したがって、その当時の
小学校のカリキュラムを見ますと
社会科というのは、低学年において身の回りの
生活からそして身の回りの
人たちの暮らしというものを見ていって、それからだんだんと市町村あるいは都道府県のそういう
政治とか
経済的な仕組みというものに触れていって、そして郷土の産業とか
歴史にかかわりながら国の産業とかあるいは国の成り立ちというものなんかを見ていくという
ように、実にその構成が発達
段階に即してうまくできておる。
社会科が言っている
総合的に物を見ていくという見方も、
歴史とか
地理とか
公民とかいった
ような
一つに偏るのではなくて、本当に融合して、子供がその中に座り込んで、
自分を中心に据えて物を見ていくという見方が本当によくできておるなという感じを持ちました。これこそ私は本当の
社会科だ、私が愛すべき
社会科だという感じを持ったものでございます。
ところがその当時も、実はそうとはいいながら問題があるわけでございまして、だんだんとそういう
社会科も机上の
社会科になりつつございました。
社会科というのは本当のところ、人間というものがどういう暮らしをしておるか、どういう
関係にあるかということを事実に基づいて観察し調べて、そこから物事を見きわめていく目を育てなければならないわけでございますが、だんだんとこれが机上化していっている、
教科書だけで学んでいっている。
ということになりますというとこれはゆゆしい問題だと。だから、覚える
社会科じゃなくてもっと足を運んで調べる
社会科、観察する
社会科にしなきゃならない。となりますというと、それこそ低学年においてしっかりと
自分たちの
生活にかかわっていく、
自分たちの
経験を生かしていく、そういう
社会科を本当に考えなきゃならない。
そうなりまして、これは後のことになりますけれどもコミュニティー
生活科が誕生いたしました。そして身の回りのそういう物事の見方、あるいは
人々の暮らしというものなんかを率直に見ていくという中で、自己を中心に据えて、
自分とのかかわりにおいて物を考えていく
考え方、そういう自立性の基礎がここにつくられていくということは、本当にこれは時宜を得たといいますか、要を得たねらい方である。だから、
生活科ができて、これによって
社会科というものがこれから存立していく基盤あるいは土壌ができ上がったということで、私はその
意義を感ずるものでございます。
さて、その後、
教育次長ということなんかをさせられたものでございますから、
小学校、
中学校、
高等学校の
学習指導要領全体に触れながら、
先生方の御授業なんかも見せてもらう、また
勉強しなきゃならないということが起こったわけでございます。
その際に、
中学校の
公民の分野というものと
高等学校の
現代社会というのが、
公民は三年生で、
現代社会は
高等学校一年生と非常に接近した中で行われるのでございます。だからやっていきますときによく
高等学校の方から、これは親
たちからも言われましたり
先生方からも聞いたり、いろいろと
意見があったわけでございますが、
高等学校の
現代社会というのは
中学校の
公民の焼き写しなのか、復習なのかとか、あるいは
中学校の方がおもしろく展開できたけれども
高等学校というのは何でこんな羅列的なことばかりやるのだとか、あるいはもう少しその中に本当に
高等学校にふさわしい
系統的なものなんかを入れられないのかとか、いろんな
意見が出てきたりした次第でございました。
しかし、この
現代社会というのは
高等学校で各
科目を学んでいきます一番の基礎として、その総括的な
立場を踏まえそれをもとにしてそれから
高等学校の各
科目がずっと展開されていくのでございますから、そういう
意味から申しましたらこの
現代社会の持っておる
意味は大きく取り上げなきゃならない。ところがその
現代社会というのが
中学校の三年生の
公民科と非常に接近した中身に
なってくるというと、そこのところのいわゆる発達
段階に即した物の見方というのが果たしてどうなっておるのかなということが、私にとってみましたら
一つのやはり疑問として残るのでございます。
そういうことなんかを踏まえて考えてみますときに、カリキュラムというものは、
学問の論理ではなくして
教育の論理として、子供の
総合的に物を見ていくという
段階から、だんだんと大きくなっていくにつれてそれが分化していって、そしてその中に徐々に
専門的な内容が入っていくのが、私はこれが
教育の論理に踏まえられたところのカリキュラムではないのかということを思うのでございます。子供の発達
段階ということを基盤に据えて物事を考えていく、これが私は
教育の上で一番大事だと考えるものでございます。
そうして考えますと、
中学校のあの分野別の上に立って、今、
科目別になっておる
高等学校のその
科目をもう少し、どう言いますか、
系統化といいますかあるいは
専門性といいますか、そういういわゆる裏づけというものをしっかり持たせて、
子供たちが学んでいく上で興味づいていく、あるいは中身を本当に十分に理解していける、そういう体制をこそとるべきではないかという
ように考える次第でございます。
とするならば、今までずっと
社会科という帽子をかぶってまいりました。その帽子は子供のときには好きだ、大事だ、きれいだ、いい帽子だと思ってかぶっておりますけれども、
高等学校段階ではもう頭が大きくなってきておりますからちょっと上に乗っかっただけである。とするのだったら帽子を取って、そのかわりに、
社会科の中で築かれてきました
公民的資質に先ほど申しました
系統的な、あるいは
専門性を生かす
ようなそういう中身をしっかり盛り込んでいく。
先ほどいろいろ出ておりましたけれども、今の
子供たちにとって
社会認識の非常に大事なときでございますから、したがって
公民的資質はより一層充実していかなきゃならない。一方、
世界的に国際化が進んでいっておる中でございますから、そういういわゆる人文
科学の中に関する
知識についてといいますか学び方についても、あるいはそれをもとにした態度形成というものなどについても、今しっかりと
子供たちがやっていってくれなきゃ困る。
高校生が身につけてくれなきゃ困る。
ですから、
社会科学的な内容あるいは人文
科学的な内容というものは、この際、分けておいて、そしてそのかわりに、何も私は
専門性によって程度の高いものをせよと言うのじゃなく、本当にそういうものの裏づけを持った
教科の中身、
科目の中身というものを構成していく必要があるということを考える次第でございます。そのことは国際化が進んでいきます
時代的な要請でもございますし、一方また、今日の
社会というものが非常に
社会認識を大事にしておる時期でございますから、その面からの要請でもございます。
そしてこのことは
教員の養成という点から考えましても、
社会科はいろいろな
学問のそういう裏づけというものを背景にしておりますから、
社会科の
先生方というのは非常に御苦労です。
法律の
知識も
経済の
知識も、あるいは
歴史学の内容も
地理学の内容も、そういういろいろなものを含め、特に先ほど申しました
社会科学と人文
科学の両方を踏まえてやっていらっしゃるのですから本当に御苦労です。ですから何とかこの際二つに分けてあげて、そして本当に
専門性を生かして授業に臨んでもらえる先生をつくってこそ私は
教育行政上の
意義を持つだろうと思うのでございまして、そういう
立場から今回の
法律案の改正について
賛成するものでございます。