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高木健太郎君
石橋文部大臣には自民党の文教
部会の
部会長をしておられるときにいわゆる献体法というものについていろいろお骨折りを願って、それが
法律になりました。この献体法は御存じのように自分の遺体を
教育、
研究の用に立てるというようなことでありまして、死体に傷をつけるということを非常に忌避する
日本人が、
教育、
研究のためには人のお役に立つなら自分の体をささげようと、こういう心のこもった行為を
法律的に保障しよう、こういう
法律であったわけでございます。
最近、京都の梅原猛君が、こういうことはいわゆる一種の菩薩行である、自分が死んだならば臓器を移植しても人のお役に立ちたいということは菩薩行であるということを言っておりました。彼は菩薩行協会というものをつくったらどうだというようなことを言っているわけですが、こういうことになってきた最初のいわゆる献体法というものについて
石橋文部大臣がいろいろお骨折りになったということで、私は
大臣のいわゆる心の
教育というものに非常に期待を持っているわけでございますし、今後の
大臣のいろいろの計画に対して非常に注目をし期待をしているものであります。
今まで午前中から聞いておりまして、いわゆる登校拒否であるとか
高校の中途退学であるとか、その数の多さに驚いたわけでございます。これはどうかしなければならないというふうに思いますが、
文部省のいろいろの御返事を聞きますと、何かちょっと抜けているのじゃないかなという気がするわけです。それは、高齢化
対策についてもそうでございますが、ここにおいでの
文部省や厚生省のお役人の
方々はいわばエリートの方ばかりで、頭のいい方ばかりであります。こういう方が、今の若い人
たちの、いわゆるはぐれ者になった人の心の内が少しわからないところがあるのじゃないか。
何か枠をはめればいい、お金を出してそういう施設をつくりさえすれば問題が片づいていく。話を聞いていますと、何万人だとか何千人だとか、あるいは何%であるというような話ばかりが耳に入ってくるわけです。これは昔の田中総理が大変数字に明るくて、本
会議の答弁でも数字を並べて議員連中を煙に巻いたという話を聞いておるわけでございますが、こういう
考え方、思考の方法は、西洋人といいますか、欧米の人
たちのいわゆるディジタルな
考え方で、最近の精密科学といいますか科学的な物の
考え方のときにはいわゆるディジタルでなくてはいけないということが優先している、こう思うんですね。
しかし、御存じのように我々の大脳というものはディジタルな思考をやると同時にアナログ的な
考え方を、あるいは思考過程をやり得るものでありまして、現在の西洋医学であるとか科学、あるいはその政策等におきまして余りにディジタル過ぎるということに現在かなり多くの人が、学者の
方々も反省の傾向にあります。少し人間本来の自然な思考方法であるアナログ的な
考え方を同時に入れるべきじゃないかということを言っているわけです。いわゆる普通の言葉で言えばアバウトな
考え方を持てということなんです。
しかし、入学試験であるとか、その入学試験のための
学校教育というものが余りにディジタルにすぎまして、一を間違えばもうそれはだめ、普通の世の中では一円や二円間違えても何とかなるところを、入学試験では一を間違えてももういけない、こういうディジタルなものが世の中を支配している。しかし、いわゆる東洋医学、東洋思想から来たものには非常にアバウトな、アナログ的な物の
考え方があるわけですね。こういうディジタルとアナログとの思考が一緒になってこそ初めて人間らしい物の
考え方になるのだということを、現在非常に識者がそれを主張しているというふうに私は思うわけです。
現在、東洋医学というものをかなりの
方々が信仰しているということのバックグラウンドには、西洋医学ではどうもぐあいが悪い、やはり何か東洋医学的なものがこれに加わらなくては本当の医学ではないのだと、そういうことを
国民がじわじわと、いわゆるアナログ的にそれを感じ取っているのじゃないか、こういうふうに思うわけです。
そこで、それが高等
学校の
教育あるいは中
学校の
教育において、大学の入学試験というのはディジタルですから、それに向かってもう小
学校のときからそういうことをやっている。そうするとアバウトに物を
考えるような人々はそこから外れていく。しかし、アバウトに物を
考えるという人がおってこそディジタルは生きるので、ディジタルとアナログが両方並行して進んでいくことが、将来の
日本、あるいは
世界の幸福とか平和とか、そういうものに私はつながっていくものであろうと
考えているわけです。
そういう意味では、単に学級数を幾らふやすとか、あるいは
生徒の数を幾らにするとか、そういうディジタルな数の勘定ばかりしていないで、もう少し高等
学校あるいは中
学校の
教育においてそういうアナログ的なものも取り入れる。試験の中にもそういうアナログ的なものをもう少し入れて、そういうものもやれると。例えば音楽を聞いて、ああ、これはいい音楽だというのに十点だ九点だとつけられないわけですね。そういうことがあるわけなんです。
そういうものがどこか今の入学試験に欠けている。そのためにその以下の
教育に全部それが響いてきている。初中
教育の改革といいますか、そういうことについて今まで午前中にたくさんお話がありましたが、こういうことも将来ひとつお
考えになっていただきたい、また入試にもそういうものを反映していただきたい、そういうふうに午前中から今までのお話を聞いておって感じましたので、
質問要項にはございませんが私の感想を申し上げておきます。
もう
一つは、私はもう八十になりますけれ
ども、我々のときには高等
学校というとエリートでありまして、入ると先が保証されておりました。だからその高等
学校の三年間というのはいわゆるデカンショ、デカンショで酒を飲んで歌って暮らした、しかも勉強もしたというようなことですが、現在の
日本ではもうその人
たちは我々も含めてだめなんですけれ
ども、そういう人
たちが
日本の再生に努めてきた、こういうことなんですね。
しかし、それが戦後も残っておりまして、それでやはりこういう政策をつくるというところでは何か出世主義というようなものがしんにあるのじゃないか。だから、人間というものは
学校へ行って、もっと上の
学校へ行って、大学へ行って、大学院に行って博士号を取って、そういうふうにするのが一番人間としての立派な道筋であって、こういうふうにいかなきゃだめだぞということを親が一生懸命
考えているのじゃないか。
ところが子供はもうそういう
考え方は少しなくなってきて、出世主義じゃないんだ、人生をエンジョイすればよろしい、あるいは人のお役に立てばよい、あるいは自分の思うことをやりたい、こういうことがあるところに、
学校へ入ってみるというといきなり大学に入らなきゃいかぬ、これの準備をしなきゃいかぬ、何か
学校本来の目的がいわゆる受験のためにある、偏差値のためにあるということに一本化されているために子供がそれに対して反発をしている。こういう気持ちも、登校拒否であるとかあるいは中途退学であるとか、そういうところにあるのじゃないか。
学校の中に何にもない、いわゆる偏差値と入学以外には何にもない
学校である、こういうところに
学校が嫌われているのじゃないか。
だから、いや何人の足切りをしたとか、枠をどうしたとかということの問題では私はないように思いますので、今後お
考えのときにこういうことも頭に十分入れて、このごろの子供の
考え方は少し変わっているんだぞというようなことをひとつお
考えに入れておいていただきたい。
それからもう
一つは、中曽根政治というのは私は余り好きじゃありません。ありませんが、あの人の言われた言葉の中に、本
会議での
所信表明のときだと思いますけれ
ども、これまでは経済優先主義であった、しかしこれからは心の
時代になるんだ、心を大事にしなきゃいかぬ。これは竹下総理も言われたのじゃないかと思いますが、どうも心が足りないのじゃないかと。
これは厚生省のお役人も今来ておられるんですけれ
ども、何か中間病院をつくるとか老人ホームをつくるとか、それはこれから老人がどれぐらいふえて、その中の何人かは痴呆老人になる、あるいは寝たきりになるからどれくらいの病院がなきゃいかぬ、それに対する看護婦は幾ら、医者は幾ら、こういう計算をされる。これはコンピューターがはじいてくれるわけですね。しかし実際に老人あるいは身障者をお世話する人というのは人間なんですね。
きのうもロボットをつくっている技師だとかあるいはそういうものをやっている工
学部の先生にお会いしましたけれ
ども、ハードウエアとソフトウエアという言葉が最近言われるわけですが、そのハードとかソフトという言葉のほかにもう
一つハートウエアというもの、いわゆる心のこもったウエアをつくるんだ、こういうことを言っておられましたが、私はその人に、いかにハートウエアをつくっても、やはり人間そのもののいわゆるスキンシップであるとか言葉をかけるとか、こういうことには及ばないところがあるのじゃないですか、そこまで機械がいけますか、こういうことを申し上げたわけです。
私は、
学校教育におきましても、またこれから先の老人
対策におきましても、やはりマンパワーというもの、しかも心を持ったマンパワー、こういうものが必要になる、それは
学校教育の中でこれを養っていかなければ、大人になってしまってはもう間に合わない。だから家庭
教育の中でも
学校教育の中でも、アバウトな心、余り入学試験はできないけれ
どもアバウトでしかも心の豊かな優しい人間を育てていかないと、老人
対策も、勘定は合っても何とかは足らぬというのがありますが、ああいうことになるのじゃないかなと私は思っておりますので、献体法について御尽力をいただいた心ある
文部大臣、
石橋大臣に対してこのことを最初に申し上げたい、こう思ったわけでございます。
そこで、本
質問に入りたいと思いますが、こういうことから私は生命倫理のことについて最初にちょっとお話をし、御
質問も申し上げたい。
厚生省の方、お見えになっておられますか。――去る十二月一日、脳死臨調というものが設置されることが本決まりになりまして、二年後には恐らく何らかの結論が出てくると思います。あるいは脳死は死と認めない、移植はだめだとは出てこないと思っておりますけれ
ども、まだまだ二年間はこの状態は続いていくと思うのです。
しかし、実際の
社会の動きは、そうじっとしているようには思えないことがあります。例えば岡山大学が、脳死を死と認める、脳死は人の死で、脳死状態での臓器移植を倫理
委員会の全員が容認した、こういう記事が載っております。これは四月に大阪大学でもこういう結論を出し、七月には
日本大学においてもこういう結論を出しておりまして、三校目でございます。そのほかにもどこか出たということを聞いておりますので、四校か五校かがもう倫理
委員会でこういう結論を出しているわけでございます。
それからまた神戸大学は、今、非常に心臓の悪い患者がおるから、脳死状態で心臓を摘出して移植してもいいかどうか緊急に二カ月以内に返事をしてくれ、こういうことを倫理
委員会に出しているわけです。こういうせっぱ詰まった状態が今、目の前にある。そして一方の臨調というのは二年先でなければ決まってこない。こういう状況にあるということをまず御承知願いたいと思います。
こういう大学の倫理
委員会、このことはまた後で
文部省の方にもお聞きしますが、これが今ほとんど各大学に設置されておると思いますけれ
ども、その結論というものは、どれくらいの法的の根拠といいますか、あるいは権限があるか。もしも倫理
委員会がイエスと出して、そういう患者が出て、そして御家族も本人もオーケーということであって、そして臓器を取り出して移植をしたとします。その場合にはこれはどうなりますかということですね。それと、各大学の倫理
委員会の脳死判定の基準というのは必ずしも一致はしていないわけですが、そういう状態の中で今のような状況が起こった場合に、これはいわゆる有罪性が阻却されますか、そういうことをひとつお聞きしておきたいと思います。