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参考人(
光石忠敬君) 学校を出てからもう二十何年になりますが、先ほど久し振りに君と呼んでいただきまして非常に懐かしく感じました。
きょうは私
ども日本弁護士連合会が
昭和六十三年七月に発表いたしました
日本医師会生命倫理懇談会の「「
脳死および
臓器移植についての
最終報告」に対する
意見書」、これはお
手元に配付されてございますが、これに基づいて
一言意見を申し述べたいと思います。
私
たち日本人にとって長い間、息が絶えるとか息を引き取るとか脈が触れないとかということがすなわち人が死ぬことを意味してきました。
呼吸が
停止して、心拍が
停止して、瞳孔が散大して対
光反射が
消失する。肺、
心臓そして脳についてのこの死の三徴候、これを
確認して人の死とするということが私
たちの伝統であり習慣でもあります。
ところが、一九六七年、今から二十数年前ですが、
バーナードによって
世界初の
心臓移植が行われたころから、脳が不可逆的に
機能を喪失した
状態について、これに
不可逆性昏睡とか
脳死状態とかいう名前をつけまして、その
状態で
心臓、
肝臓、
腎臓などを摘出して
移植をするということが諸
外国では盛んに行われるようになってまいりました。
日本でも、
先ほど紹介がありましたように、
昭和六十年に
厚生省の
竹内研究班が全
脳死の
概念に基づいて
脳死状態の
判定基準を発表して、これを受けて
昭和六十三年に
日本医師会の
生命倫理懇談会が
最終報告の中で、従来の
心臓死のほかに脳の
不可逆的機能喪失をもって人の死としてよいということ、それから
判定基準としては
竹内基準を
必要最低限のものとすることなどの
考え方をまとめられまして、そして
日本医師会の
理事会が直ちにこれを承認しました。今新しい死の
概念が
日本医師会によって
提案されているわけです。諸
外国の
科学技術を積極的に取り入れて
世界に冠たる
ハイテク文明を形成しつつある
日本人ですけれ
ども、幸か不幸か、この新しい死の
概念の
提案に対しては同じようにすぐには飛びつきませんでした。
賛否両論が鋭く対立して、
議論は御
承知のとおり
混迷状態にあります。
日本医師会の新しい死の
概念の
提案に対しては、先ほど申し上げた私
ども日弁連の
意見書がございます。この
意見書を御理解いただくために、いわゆる
脳死や
臓器移植について
社会的合意の形成を妨げているもの、それが何かという問題に焦点を合わせて私の考えを申し述べたいと思います。
いわゆる
脳死や
臓器移植は
専門科学、
医学の問題が
出発点ですが、私はとりあえず次の
三つの
角度から考えていきたい。一番目は、それぞれの
専門の
科学、
医学がその内側で
専門の小さな殻に閉じこもって内部での
対話や
相互批判、これをおろそかにしてきたのではないのかということ、それから二番目は、それぞれの
専門の
科学、
医学がこれと関連し隣接する
科学、
医学との
対話や
相互批判、これをおろそかにしてきたのではないかということ、三番目は、全体としての
専門の
科学、
医学が
専門外の素人との
対話それから
相互批判、こういったものをおろそかにしてきたのではないかということです。
これらの
角度から、以下、第一に
山口青年と
宮崎青年の死について、第二に何についての
合意が求められているのかということについて、第三に
専門内外との
対話それから
相互批判について、それから第四に、
倫理委員会の役割について考える、そして結びに、私
たち一人一人が克服しなければならない課題についても触れて私の発表といたしたいと思います。
なお、問題の複雑さ、困難さから、どうしても私
個人の
意見というものも入り込んでしまいま
す。また私の誤解もあろうかと思いますが、それらは私
個人のものとして御勘弁願いたいと思います。
まず第一は、
山口青年そして
宮崎青年に対する
人権侵犯についてであります。
昭和四十三年、
バーナードによって
心臓移植が行われた翌年の八月、北海道の
小樽郊外の海で二十一歳の
青年がおぼれました。この
山口青年は
救急車で
小樽市の
病院に運ばれる途中蘇生したのですが、
病院で容体が急変したとして、
高圧酸素療法を受けるべく四十キロも離れた
札幌医大救急部に転科いたします。この後、
山口青年は
高圧酸素療法を受けることなく
手術室に運ばれ、
死亡の
確認も不明なまま
心臓を摘出されます。一方、十八歳の
宮崎青年が七月から同じ
札幌医大内科から
胸部外科に転科しておりました。この
宮崎青年の病名は
僧帽弁狭窄兼閉鎖不全でありまして、
僧帽弁の
人工弁置換手術の
適応でありました。
心臓移植適応ではありませんでした。この
宮崎青年に対し
山口青年から摘出した
心臓が
移植されたのです。
日弁連はこの二人の
青年の死に重大な
人権侵害があったのではないかというふうに考えまして調査した結果、
札幌医大教授及び学長に対して警告を発しました。それはお
手元の
意見書の末尾に添付されております。
この事件を既に過去のこととして片づけるわけにはまいりません。確かにこの二十数年の間にすぐれた
免疫抑制剤の開発など、
科学、
医学の客観的、物的な環境は大いに変わりました。しかし、人的な面はどうだったでしょうか。現にこの
胸部外科の
教授は最近でも、一緒に
手術に
関係した二十名の
医者グループ全員がよいことをしたと誇りに思っています、こういうふうにさえ述べているのであります。
山口青年と
宮崎青年の死に対して
日本の
医学界はどのように考え、総括しているのでしょうか。この暗い過去に対して目をつぶろうとしているのではないでしょうか。特に
日本の
移植医学界はこの
人権侵犯として警告された先輩
たちのしたこと、しなかったことに対してどう検証し、どう考え、教訓を酌み取っているのでしょうか。
社会システムの問題ですから、私
たちは善意の塊のような
医師のみを想定するわけにはまいりません。第二の
山口青年、
宮崎青年の悲劇を繰り返さないために、そして大きく失われた人々の医に対する信頼を回復するためにもこうした問いに答える必要もあるのではないでしょうか。
第二に、今、
社会的合意が求められている対象は何か、何について
合意が
社会に求められているのかという点です。この問題は、
社会的理解や
社会的合意のいわば前提でありまして、この点が明瞭でなければお話にならないわけです。
ところが、
日本医師会の新しい死の
提案では、例えば、いわゆる
脳死による死の
判定に
患者本人ないし
家族の同意が必要なのかどうか、同意の位置づけがはっきりしないのでございます。一方で
提案は、
患者本人または
家族の同意というものがいわゆる
脳死による死の
判定の要件ではない、
社会的な礼節上その
意思を尊重するのが
現状では適当だと述べております。私は、この
提案が、別の箇所ではいわゆる
脳死による死の
判定を是認しない人にはそれをとらないことを認めると言いながら、
患者本人または
家族の同意がなくてもいわゆる
脳死による死の
判定ができる余地を残している点はそれ自体矛盾だと思いますが、もっと根本的な矛盾があります。
それは、
提案では、「生物としての
個体死と
社会的・法的な人の死との
関係」の項で触れられているのですが、
人間の生物としての
個体死の
判定が、「
医師によって正確に誤りなくなされることが認められ、
患者またはその
家族がそれを人の死として了承するならば、それをもって
社会的・法的に人の死として扱ってよい」と述べ、ここでは
患者本人または
家族の
意思が了承という形で、要件となっているかのように扱っているのです。
個体死という言葉と人の死という言葉が使い分けられておって非常に紛らわしいのですが、要するに自己決定権の好きな人は
患者本人または
家族の同意が要件であるというふうにも読めますし、そうではなくて死の画一性という方が好きな人は要件ではないんだ、こういうふうに読めるわけです。
このあたりは
法律家の唄孝一さんなんかが
指摘されておりますが、このような論理的な混乱もまた単なるロジックの問題として見過ごすわけにはまいりません。
科学、
医学の
専門家や
法律の
専門家が
患者ないし
家族の
意思の尊重という重大な点において論理的に首尾一貫しない
提案をしておいて、さあ、これについて理解してください、これについて
合意してください、こういうふうに迫ってもそれはしょせん無理というものです。
専門家は素人に対してもっと謙虚でなければ
専門家と素人との間の
対話、実りのある
対話、
相互批判というものは成り立ちようがないと考えるのですが、皆様はいかがお考えでしょうか。
第三に、
専門内外からの問いかけに対し、それぞれの
専門の
科学、
医学がどう答え、どう根拠を説明し
対話をするかという点です。
竹内基準に対しては、その作成の
方法論に関する立花隆さんの
批判があります。それから、
竹内基準が脳波学会の
基準における急性一次性粗大病変という
判定対象を、一次性なら急性でなくてもいいとか粗大病変がなくてもいいとか、二次性の病変でもいいというふうに拡大した根拠、これが十分かどうかも問われております。
もっと原理的な問いもあります。脳が蘇生不能になったことと、脳が死んでいるということとは厳密に区別するべきではないかという
批判です。私が先ほどからいわゆる
脳死というふうにいわゆるという言葉を
脳死という言葉の前に繰り返しくっつけていますのは、何やらこの
脳死という言葉は、それが指示する事柄を超えておって、素人をごまかそうとしているのではないかというようなうさん臭さをこの
脳死という言葉に感じるからであります。
竹内基準作成のもとになった症例における蘇生例の不存在というものは、
脳死者が必ず伝統的意味における死に至ったことを実証するものではあっても、
脳死判定時に既に死んでいたということを示す十分な根拠とはなり得ない。腎
移植や血液透析などの
治療方法のない時代においては尿毒症
患者は必ず死に至ったのであるが、そのような
患者を既に死んでいるものとなし得ないのと同じことである。よく言われるポイント・オブ・ノーリターン、蘇生不可能となった時点に至ったことをもって人の死とすることは論理的に正しくないんだという
法律家の丸山英二さんの
批判、それから蘇生例がないことをもって正しさの証明としている
竹内基準は、真の脳の死を
判定する
基準ではなくて、脳が蘇生不可能になったという脳疾患の最末期症状を
判定する
基準でしかないという評論家の立花隆さんの
批判などがあります。
果たして
竹内基準発表後、
竹内基準を満たした
患者について瞳孔径の揺れ動きがあったとか、自発
呼吸の開始があったとか、脳からのホルモンの分泌などの症例があったとか、手や足をゆっくり曲げたり首を左右に動かしたりした症例があったとか、あるいは脳に血液が循環していることが
確認されたケースがあったということがいろいろな学会などで
報告されております。
これらの論点について
専門の脳神経外
科学、神経内
科学、麻酔・蘇生学、緊急
医学、脳生理学、こういった諸学界はもとより、ほかの
医学界、なかんずく
移植医学界はどう考え、どう答えるのでしょうか。その根拠は何なんでしょうか。
一つの
専門の医
科学が狭い殻の中に閉じこもってほかの分野のことには口出しせずという一種のセクショナリズムに固執する限り、
社会は漠然とした不安を感じるのではないかと思います。
例えば、いわゆる
脳死の
判定基準で重大な問題が起こっても、
移植医学界は、それは脳外科の問題だ、ないしは脳神経内科の問題であるといって言い逃れができるような気がするわけであります。
移植医学界が本当に人道上
移植が必要と考えるのなら、それを言い出せば何か
臓器を欲しがっていると思われるからなどという理由でちゅうちょすることなく、進んでこれらの論点について
も
発言したらどうかと思うのですが、いかがでしょうか。
脳生理学の伊藤正男さんは、
竹内基準だけで本当に誤診は起こり得ないものであろうかと問われて、
判定基準を確立するための新たな
研究班の実施を
提案されておりますが、傾聴に値する
意見ではないでしょうか。
第四に
倫理委員会が本当に
機能するかどうかという点です。
過日の島根医大での生体肝
移植、けさほどのニュースでは
アメリカでも第一回の生体肝
移植が行われたと言っておりましたが、私もまたこういう
手術を受けられた親子の無事と
手術の成功を祈っておる者の一人です。
ただ、あの
手術はことしの七月ごろ親御さんに説明されたと報道されておりますけれ
ども、もしそうだとしますと、
日本で
最初、
世界で四番目という実験
段階にある
手術について事前に
倫理委員会の
審査を求めなかったということは、私
たちを大変に不安にするものです。
この
倫理委員会の
委員に例えば学外者が存在しないという意味で、ヘルシンキ宣言に定める独立の
委員会と言えるかどうかという問題もあります。事後的に開かれた
倫理委員会は、今回の
手術が緊急を要するものでやむを得なかったとして了承したと報じられておりますが、これまたルール無視を適当な理由をつけて追認したのではないかと私
たちを不安にさせます。
それから、インフォームド・コンセントについては、
手術の危険性、不成功の場合の対応その他について、何がどのように説明され理解されたのか、承諾書に基づいて
審査されたのだろうかといった疑問も生じます。事柄をごく
個人的な美談で終わらせることなく、
社会に向かってフェアに、かつ十分に説明することも
専門家に課された義務ではないかと思います。
結びにかえまして、これは自戒の意味を込めて、
生命倫理を考える私
たち一人一人に求められる課題について述べたいと思います。
いわゆる
脳死や
臓器移植に限らず、
生命倫理を考える場合、それを他人ごとではなく、例えば
自分や
家族が交通事故に遭遇して
病院に担ぎ込まれた場合、例えば
自分や
家族が
移植によってしか助からない重い
心臓や
肝臓などの病気であった場合を考えなければなりません。身の回りの経験を総動員して、それでも幸いにして病人がいないなら想像力で補うほかありません。
そうはいっても、実際にそういう
患者を抱えてみなければ本当のことはわからないというのもある意味では当たっています。しかし、だからといって、あなたは
家族に先天性の胆道閉鎖症の
患者を抱えていますか、抱えている上での
脳死に対する
反対論なら聞きましょうというような態度は、やはりある種の経験ニヒリズムの落とし穴に陥っているのではないかというふうに思います。それを言うなら、私
たちは例えば交通事故に遭遇していつ何どきでも不幸にしてドナーの候補になったり、そういう
家族を抱えることになるかわからないのではないかと言えるからであります。
今日、
移植のため
海外に出かけていく
日本人も少なくありません。そういう姿を見るにつけ胸が痛みます。この問題を考えるとき、
日本人のドナーの人権しか眼中にないような
議論によくぶつかりますが、このような
議論に対しても私は素朴な疑問を感じます。
日本人が、例えば
外国AならAに出かけて、A国人のドナーから
心臓や
肝臓などをもらうことになる場合、Aという国のドナーの人権を考えなくてもいいのでしょうか。人権は、国際的に見た場合、保護の緩いところに保護の厳しいところからのしわ寄せがいくというのは残念ながら事実です。
日本人のドナーの人権を考える以上、同じ
人間なのですからA国人のドナーの人権にも思いをいたさなければなりません。人権の国際的調和、これをどう考えていけばいいのか、ここは問題提起だけさせていただいて、私の結びにかえさせていただきます。
どうもありがとうございました。