運営者 Bitlet 姉妹サービス
使い方 FAQ このサイトについて | login

1989-11-16 第116回国会 衆議院 内閣委員会 第2号 公式Web版

  1. 会議録情報

    平成元年十一月十六日(木曜日)     午前十時十七分開議  出席委員    委員長 吹田  愰君    理事 井上 喜一君 理事 榎本 和平君    理事 笹川  堯君 理事 宮里 松正君    理事 田口 健二君 理事 竹内 勝彦君    理事 塚田 延充君       天野 公義君    大村 襄治君       加藤 卓二君    竹中 修一君       玉生 孝久君    野呂 昭彦君       古屋  亨君    堀之内久男君       三原 朝彦君    武藤 嘉文君       森下 元晴君    角屋堅次郎君       多賀谷真稔君    広瀬 秀吉君       井上 和久君    鈴切 康雄君       吉田 之久君    浦井  洋君       柴田 睦夫君  出席国務大臣         厚 生 大 臣 戸井田三郎君         国 務 大 臣        (内閣官房長官) 森山 眞弓君  出席政府委員         厚生政務次官  近岡理一郎君         厚生省健康政策         局長      仲村 英一君  委員外出席者         議     員 竹内 黎一君         法務大臣官房審         議官      濱崎 恭生君         法務大臣官房審         議官      東條伸一郎君         参  考  人        (筑波大学教授) 斉藤 誠二君         参  考  人         (全国肝臓病患         者連合会事務         局長)     西河内靖泰君         参  考  人         (国立小児病院         医療研究セン         ター実験外科         部長         神戸大学医学         部教授)    鎌田 直司君         参  考  人         (日本弁護士連         合会理事         生命倫理研究         会常任幹事)  西岡 芳樹君         内閣委員会調査         室長      林  昌茂君     ───────────── 委員の異動 十一月十六日  辞任         補欠選任   有馬 元治君     三原 朝彦君   河本 敏夫君     野呂 昭彦君 同日  辞任         補欠選任   野呂 昭彦君     河本 敏夫君   三原 朝彦君     有馬 元治君     ───────────── 本日の会議に付した案件  臨時脳死及び臓器移植調査会設置法案竹内黎一君外四名提出、第百十三回国会衆法第八号)      ────◇─────
  2. 吹田愰

    吹田委員長 これより会議を開きます。  第百十三回国会竹内黎一君外四名提出臨時脳死及び臓器移植調査会設置法案を議題といたします。  本日は、本案審査のため、参考人皆様から意見を聴取することにいたしております。  本日、御出席をお願いいたしました参考人は、筑波大学教授斉藤誠二君、全国肝臓病患者連合会事務局長西河内靖泰君、国立小児病院医療研究センター実験外科部長神戸大学医学部教授鎌田直司君、日本弁護士連合会理事生命倫理研究会常任幹事西岡芳樹君であります。  この際、参考人皆様一言ごあいさつを申し上げます。  本日は、御多用中のところ本委員会に御出席くださいまして、まことにありがとうございます。参考人各位におかれましては、それぞれのお立場から忌憚のない御意見をお述べいただきたいと存じます。  議事の順序は、まず参考人方々から十五分程度意見をお述べいただき、その後各委員からの質疑にお答え願いたいと存じます。  なお、念のため参考人方々に申し上げますが、御意見の際には、その都度委員長の許可を得て御発言くださるようお願い申し上げます。  また、参考人委員に対し質疑をすることはできないことになっておりますので、御了承願います。  それでは、まず斉藤参考人にお願いいたします。
  3. 斉藤誠二

    斉藤参考人 筑波大学斉藤でございます。  結論から先に言わせていただきますと、私は、ただいま提出されております臨時脳死及び臓器移植調査会設置法案に全面的に賛成させていただきたいと存ずる次第でございます。その理由は、一言で言わせていただきますと、まことに時宜を得た適切な立法であろう、このように思うからでございます。  以下におきまして、多少敷衍してその理由を言わせていただきたいと存じますが、その際、脳死並びに脳死前提といたしました臓器移植につきまして日ごろ私の考えていることを言わせていただきながら、あわせて本設置法案に賛成する理由を言わせていただきたいと存ずる次第でございます。  言うまでもないことでございますが、我が国の現行の法律を見ますと、死とは一体全体どういうことなのか、あるいはまた死とはいつ死んだことになるのかといったことについてどこにも規定はございません。ことごとく解釈にゆだねられているわけでございます。そのため法律学、特に私たちの専攻いたします刑法学では、従来いろいろな考え方が出されてまいりました。人が死んだというのは呼吸がとまったときである、あるいは脈拍がとまったときである、いやそうではない、呼吸脈拍が両方とまったときである、あるいは、そうではない、呼吸脈拍がとまった以外にさらに瞳孔が開いてしまったときである、そうではない、生活能力がなくなったときだ、あるいは全一体としての人間の生活現象がなくなったときだという考え方がいろいろ出されてきているわけでございます。  ところが、学説の上では決して多数な考え方とは言いにくいわけでございますが、脳が死んだとき、すなわち脳死をもって個体の死とする脳死説を私たちはかねて主張してきているわけでございます。特に私は、一九七七年以来、脳死をもって個体の死とする考え方が妥当であろうという考え方をとってまいりました。  その理由幾つかございますが、要点になりますところは極めて簡単でございます。一体全体何のために法律で人が死んだことを議論するのかといいますと、実際上は相続がいつ始まるのかとか、あるいは殺人罪死体損壊罪かどちらの規定を適用するのかといったことで議論されるわけでございますが、これらの問題を突き詰めてまいりますと、要するに一言で言えば、人の生命法律で一体全体どこまで保護するのかということを論ずるために死ということを論ずるわけでございます。そうだとしますと、人の生命というものが終局的になくなったときを死とするのが当然なことであって、人の生命中枢である機能が終局的に失われたときを死と呼ぶのが法律学では当然なことであろうと思われるわけでございます。  ところが、現代の医学では、人の生命中枢は脳であるということが示されております。そうであるとしますと、法律学で死というものをどう考えるかと申しますと、それは当然に人の生命中枢である脳の機能が不可逆的に失われたとき死と呼ぶのが妥当だということになろうと思われるわけでございます。これが私たち脳死をもって個体の死とする脳死説を支持する中心的な理由でございますが、そればかりではございません。古典的なと申しますか、これまで主張されておりますいわゆる三徴候説呼吸がとまった、脈拍がとまった、あるいは瞳孔が開いた、この三つ徴候をもって死とする古典的な死の判断基準というものにも、直接または間接に脳死というものを判断する基準というものが含まれていたと思われるからでございます。この点につきましては、一九七〇年に西ドイツマインツ大学刑法学者ハナクがそのような主張をいたしましたし、私も一九七七年からそのような考え方をとってきております。  我が国では、比較的最近になりまして、恐らく一九八二年と思いますが、北海道大学の錫谷先生生命の環という考え方主張されました。すなわち、心臓と脳と肺臓というものは一つの環をなしているので、そのどこかが切れたとき人が死ぬことになるのだという主張をされましたが、これはかつてハナク主張し、私が言っていたことと同じことであろうかと思うのでございます。  以上の理由で私たち脳死をもって個体の死とする脳死説主張しているわけでございますが、目を転じまして臓器移植の問題について考えてみますと、臓器移植につきましては、法律問題としましては、当然なことながらこれを受け取るレシピエントサイドとこれを提供するドナーサイドと二つのサイドから考えていかなければならないと思います。  レシピエント、受け取るサイドにつきましては、既に一九八〇年代に移植技術は長足に発達し、保存法あるいはその技術も発達し、またシクロスポリンAといった拒否するところの抑制剤というものもできておりますので、もはや移植というものは、レシピエントサイドから申しますとこれは確立された治療法であるというように考えているわけでございます。  そしてまたドナーサイド提供者側から考えてみますと、非常に残念でございますが、私たちの専門といたします刑法学ではこれまで死体損壊ということの分析を十分にしてまいりませんでしたが、私は私なりに死体損壊罪分析というものをかねて多少ともやってまいりました。時間の関係でその詳細は割愛させていただきますが、要するに、私たちが死んだ途端に物となるというのはいかにもおかしなことであろう、私たちの生前持っていた人格は、例えば名誉とかそのほかの一定の範囲で依然として続いていくものであろうというふうに思っているわけでございます。死体というのは、まさに私たちが生前持っていた人格というものが続いていくものだ、このように考えておりますので、今既に脳死状態となった、すなわち私たち理解によりますと死体になったドナーから臓器を摘出することは、その本人の生前の承諾、もしそれがなければ遺族がそれをかわって行うという承諾があれば、法律上格別な問題はない、このように思っているわけでございます。  要するに、脳死といい、レシピエントサイドにおける移植といい、ドナーサイドにおける臓器の摘出といい、法律上、脳死状態患者から臓器を摘出することは格別問題にならないと私たちは考えているわけでございますが、言うまでもなくこれには社会的に幾つかの反対論もございます。  脳死につきましては、脳死を確実に判断する方法はないのではないかとか、医学において合意がないのではないかとか、あるいはより根本的には社会的な合意がないのではないかといった批判があることは言うまでもないところでございます。  ところで、脳死を確実に判断する基準がないのではないかという批判につきましては、既に、敬愛する、私たちよく存じ上げております我が国を代表する脳外科医とか救急医療医といった方々が、臨床的には脳死を確実に判断することができると主張されております。しかも、これは一九六九年にスイスバーゼル大学のシュトラーテンベルトが言った言葉でございますが、法律学医学の領域にまで干渉すべきではない、このように言いましたが、まことに適切な言葉であろうと私は思っております。そのようにも考えますので、これ以上脳死を確実に判断することができるかどうかを言うことは差し控えさせていただきますが、医学においてまだ十分な合意がないということにつきまして、本日はこの一点だけ言わせていただきたいと思います。  それは、やや古い統計でございますが、一九八五年七月から八月にかけまして、いわゆるオピニオンリーダーと言われる方々日本医師会アンケート調査をいたしました。それによりますと、条件つきの肯定まで含めますと八一・九%という方が賛成しているということでございます。これをもって直ちにすべての医師ないしは医学において脳死について合意があるとまで私は言わせていただきませんが、医学における合意という問題については、ある種の示唆を示しているものだろうと思うわけでございます。  ところで、社会的合意という点が最も重要な点でございますが、この点につきましては、もう相当程度社会的合意というものができている、このように昨年一月に発表されました日本医師会生命倫理懇談会最終報告では主張しております。他方におきましては、いやそうではない、社会的合意というのは、要するに一言で言ってしまえば国民に訴え国民に説明しその真実の承諾をとることだけれども、その方法が必ずしも明確ではないという主張もございます。この点につきましては、私は間接的にはアメリカの、直接的にはスウェーデンの例に倣いまして、本日提出されておりますような政府脳死臨調という形のものをつくっていただくことをかねてお願いしそのように主張してきているわけでございます。  スウェーデンの例と申しますのは、御案内のとおりスウェーデンでは一九八二年に我が国厚生省に当たります社会福祉省に公的な脳死委員会ができました。そして、一九八四年の十二月にその委員会が最終的な報告書を出しました。それを世間に発表し、世間批判を仰ぎつつ、越えて一九八六年の夏には大規模なシンポジウムを行ったと聞いております。いってみますと、全国にわたる公聴会を開いていったというやり方であろうかと思うわけでございます。そして一昨年、一九八七年五月六日にスウェーデン国会では三条から成る脳死法を通しまして、昨年一月一日から実際に施行されているわけでございます。  かつて、五年ほど前でございますが、世界の国々で脳死を認めていないのはスウェーデンデンマークイスラエル、そして我が日本であるというようなことが言われました。ところが、スウェーデンにおきましては、先ほど言わせていただきましたように既に昨年の一月一日から脳死立法というものができております。デンマークにおきましても、既に一九八五年に内務省の委員会から脳死をもって個体の死とする答申が出されている、そしてデンマーク医学では脳死がかなり認められていると聞いているわけでございます。イスラエル医学におきましても、やはり脳死というものを個体死とする考え方が支配的であるとも聞いております。そういたしますと、残るのはたった一つ我が国だけであろうと思うわけでございます。  外国がこうだから我が国もこうしろと言うわけではございませんけれども、どうも突き詰めて考えてまいりますと、私たち法律学サイドでも、また一般にも必ずしも脳死について十分な理解が行き届いていないように思うわけでございます。そのため、私はこうした公的な脳死並びに臓器移植委員会をつくっていただくことをかねて主張してきたわけでございます。そのため、本日冒頭にも、こうした形で国会に提案されたということはまことに時宜を得た適切な立法である、このように言わせていただいたわけでございます。  ここで本来なら終わらせていただく次第でございますが、いま一言だけ蛇足をつけ加えさせていただきたいと思うのでございます。  この四年ほどの間に、我が国では脳死前提といたします臓器移植について三つほど告発事件がございました。  外国の例と申しますと、今我が国肝臓移植が話題になりましたのでちょうど思い出されますのは、西ドイツで初めて肝臓移植が行われましたのは、一九六九年六月十八日から六月十九日にかけてボン大学ギュートゲマン教授の手によってであります。ところが、その際ドナー側提供者側承諾を得なかったものでございますので、これが犯罪になるのではないだろうかと言われ、また、民事訴訟も起こされました。ところが西ドイツでは、その事件の後四カ月ほどたちましたときに、これは起訴すべきものではない、緊急避難として認められるという判断ボンの検察官はいたしました。また、翌年の二月になりまして民事賠償も認められないということが出てまいりました。  同じように、スイスで初めて心臓移植が行われました一九六九年四月にも、やはりドナー側承諾を得なかったということのために民事損害賠償請求が起こされました。諸外国の例を見てまいりますと、いわば臓器移植をめぐる訴訟は主としてドナー医者サイドというものでございます。ところが、我が国ではなぜかドナー医者サイドではなくてむしろ外側にいる第三者の人々が告発するという事態がございます。私自身は、脳死とか臓器移植とかは本来検察とか司法の場で議論さるべき問題ではなくて、私たちがこうしたフロアでお互いに対等の立場で議論し合うべきものであろうと思っておりますので、我が国臓器移植という問題ないしは脳死という問題を考える場合に、告発という事件が起きたことは非常に悲しむべきことであろうと思っているわけでございます。  それはともかくとしまして、このような事件がございましたので、言うまでもないことでございますが、我が国心臓移植あるいは肝臓移植ができないということで、海外に行ってそれを受けようとする人たちがいることも事実でございます。時に新聞などでは、手術費用がない、渡航費用も足りないということで一般に募金を募ったところたちどころにそれが集まったということがいわば美談として報道されているわけでございます。確かにそれは美談であろうかと思います。しかし、これが美談として伝えられるところに奇異な感じを私は持ちます。我が国心臓手術あるいは肝臓手術技術は世界的な水準にあると聞いております。そうであるとしますと、我が国でできるものならば心臓移植肝臓移植我が国で行ってもらいたいものだ、このように思うわけでございます。いたいけな子供まで海外に行ってそのような移植を受けるというのはやはり奇異なことであろう、このように思うわけでございます。  衷心より今回の臨時脳死及び臓器移植調査会設置法案に賛成させていただきたいということをいま一度言わせていただいて、終わらせていただきたいと思います。  ありがとうございました。
  4. 吹田愰

    吹田委員長 斉藤参考人、ありがとうございました。  次に、西河内参考人にお願いいたします。
  5. 西河内靖泰

    西河内参考人 全国肝臓病患者連合会の前事務局長西河内と申します。今は相談役をやっております。  患者会関係者が出てくると、多分積極的な推進論をここで述べるものだと通常は思われますが、実はそうではございません。私どもの考えといたしましては、この問題に関しては非常に慎重にやってもらいたい、そういうふうに常日ごろから主張してまいってきております。脳死臓器移植論議は科学的にかつ慎重に進められてほしい。多くの患者は決して感情的あるいは性急な論議を望んでいるわけではないわけです。  それはなぜかといいますと、多くの国民が納得できるような正しく、科学的で冷静な論議を経た過程でなければ、臓器移植とか何とかをやられても、それは移植を受けた患者が一生負い目を背負って生きていかなければならない、そういう社会的環境なり風土などというものがこの日本にはあるわけですから、その辺をきっちり踏まえて問題がないような時点にまで持っていかないで、性急にお涙ちょうだいで事を進められてしまっては、後々迷惑をこうむるのは患者とその家族だという点をしっかり押さえておいてもらいたいと思うのです。  今の脳死臓器移植論議は、一面に患者だしにして、移植医やマスコミがあおり立てているとしか患者には見えない面があります。ちょっと言い過ぎかもしれないのですが、そういうふうな面が時々見えるような気がします。ですから、患者を決してだしにしないで、冷静かつ科学的な慎重な論議を進めていっていただきたい。だから、この脳死臨調に関しても賛成とか反対とか私は言う立場にないと思いますから、どのような形で決められても、そこの中では非常に冷静で慎重に正しい形で審議をしていっていただきたい、やっていただきたい。それが、多くの患者なり国民なり関心を持っている部分にわかるような形でやっていっていただきたい。最初にそれをお願いしておきたいと思います。  それで、私たち患者立場として、この脳死臓器移植に対して感じていることをここでは幾つか述べさせていただきたいと思います。  肝移植は、現実的にさまざまな問題を抱えている技術なわけです。決して完成された技術ではなくて未完成な技術であって、それをお医者さんとかそういう方々が、例えばもう移植しかないと説明されたその患者さんなり家族に対して必ずしも完全に説明していないという事実があるわけです。したがいまして、患者会なんかの方に、こういうふうに医者から勧められて話されたけれども、実際にそれについてどういう問題があるのだろうか教えてほしいということで、御質問がしょっちゅう来るわけです。それに関して私たちはさまざまな問題点をみずからの手で勉強しまして、たくさんの問題が実はこの技術の中にあるということで、その細かい問題点はちょっと時間がございませんのでここでは言えないのですが、そういう点をきっちり患者さんなり家族に御説明するという次第になっている。本来的には、これはお医者さんの方がきっちり説明してくれて、これこれこういう問題がある、でも、そういう問題はあるけれども移植しないとだめなんだよということで、きっちりそこの中身を最後まで説明してくれていればいいのですけれども、実は、今の現実はそうではないということなのです。  それから、これは我々常に思っているのですが、脳死臓器移植一辺倒風潮がちょっと強くなってきたような気がします。  例えば、島根で生体部分移植のことが行われましたけれども、私ども生体部分移植とかあるいは肝細胞移植なんかの技術研究とそれの促進、それと実用化を進めてほしいということで従来からさまざまな形のところで言ってきたのですが、研究が進むよりも先に実際に実用化されてしまったということでいささか戸惑っている点もございます。本当は移植なんかを必要としない治療方法で病気や障害が治ってくれるのが一番望ましいわけです。したがって、移植を必要としない治療方法を何としてでも確立するために、そういうところに研究費や何かを大量に投入してほしいという気持ちはあるわけです。それから、脳死前提としない先ほど言った生体部分移植あるいは肝細胞移植みたいな移植方法もありますから、その研究を推進して、それからそれを実用化に向けてやってもらいたいということが希望としてはあるわけです。  要するに、拙速に脳死臓器移植一辺倒で進められてしまうと、これらのさまざまな技術の発展が阻害される可能性があるのではないか。現実に肝細胞移植部分移植研究をされている先生方とお話ししたときも、もっと研究費があればなどというお話を聞かされることが往々にしてあるので、とにかくいろいろな手段をとっておいてほしい。脳死臓器移植が仮に認められるにしても、それ一辺倒だけの風潮ではなくて、あらゆる多様性を持った、要するに移植をしないで済むような治療法も、それから移植をしなければならないような事態であっても脳死前提としない方法、あるいは脳死臓器移植でなければだめな方法、要するにいろいろな方法手段実用化できるような段階まできっちり持っていってもらいたい、そういう希望が我々としてはあります。  それから、胆道閉鎖症とか自己免疫性肝炎あるいはアルコール性肝炎、そういうものは別にして、日本肝臓病患者の大部分ウイルスによるウイルス性肝炎患者なわけです。欧米に比べてウイルス性肝炎患者が非常に多い。これはなぜかといいますと、ほとんどが医療被害者なわけです。要するに輸血のために起きた血清肝炎だとか、あるいは昔、予防接種をするときに針をかえてやるということはほとんどしなくて同じ針で何人にもやるとか、そういうことで肝炎が蔓延していったという事実があるわけですね。要するに、安易な形の技術の寄りかかり、そこの中で非常に慎重に医療現場で行われていなかったということによってさまざまな医療被害が生じて、その結果としてたくさんのウイルス性肝炎患者が生じてしまった。この構造をどうにかしてきっちりなくしていかないと医療被害というのがさまざまな形で続いていくのではないか。  これまでの移植技術の進歩の過程の中で多くの患者がその技術のために犠牲になってきた。輸血でも、最初は羊の血を人間に注射するということがやられていて、それで次々に人間が亡くなっていった。それからその後、血液型も何もわかっていなかったから人の血を注射するようになって、それも型もへったくれもなくやってたくさん死んでいく中で、型があるというのがわかって、それから輸血というものが型に応じてやるようになられてきた。その過程では、さまざまな患者が犠牲になってきた中で技術が進歩してきたという過程があるわけですね。要するに、技術の進歩の中で患者が犠牲になってくるようなことはもうこれ以上やってほしくないというのが我々の立場なんです。これからも、新たな医療被害が出るような形の技術はいかなる形でも推進してほしくない、技術を進めるのであれば、本当に慎重に進めていっていただきたいと思います。  そして、今現実医者患者の間に信頼関係があるかないかということで言えば、今日本の中では信頼関係が非常に乏しい面があります。現実に我々患者がお医者さんに詳しい中身を聞けない、治療内容でもあるいは薬を使っていることに対しても説明がきっちりされていないということがあるわけです。移植に関してだけお医者さんと患者の間に詳しく説明がされて、それでそのことがクリアできるという状況に実はないわけです。医者患者の間にちゃんとした信頼関係ができているような社会、欧米の場合ですと、きっちり中身を説明しなければ、そして徹底的に説明しておかなければ、後で訴訟問題になったりして大変なことになってしまう。そういうこともあるので、日本の現状に比べて、医者患者の間に信頼関係日本よりはある。そこの過程で移植というものが進められてきている。日本の風土の中で、日本医者の宗教的信仰心や倫理的なものはやはりキリスト教を背景にしている欧米諸国とは違いますから、そういう点では倫理的な面で非常に疑問がある点もあるし、それからきっちり物事を説明するという習慣にない中ですから、このまま進んでいくと非常に危険な気がします。だから、実際に移植を進めていく中でも、その点の信頼関係がきっちり確立されていくような道を探らなければならない。  移植は確立された技術だといっても、これは事実に反するわけで、本当の正しい情報を伝えないまま患者移植を進められていくとすると、患者にとってはみずからの人権を侵害されたことになりはしないだろうか。患者の権利のことで、ドナー提供者側のことだけがよく言われますけれども、そうじゃなくて、レシピエントの方も、要するにはっきり情報がわからない中で、あるいはいろいろな問題が明らかでない中で移植だけ進められていって、移植を受けたのはいいが免疫抑制剤の副作用に一生苦しまなければならない、その苦しみのために移植をしなければよかったということを我々に言われた方もあるし、免疫抑制剤によって体力は低下し、さまざまな病気を併発しやすくなるという状態、人工的にエイズと同じような状態を実はつくり出すわけですから、要するに死にやすくなるわけですね、そういう状態で生きていてもいいのだろうかという形でいろいろな問題提起をされることがあります。  決して移植そのものを全面的に否定しているわけでも、あるいは推進しているわけでもない。とにかく科学的に正しく慎重に物事は進めていっていただきたい。それも、情報はすべて公開された上で、皆さんうそ偽りなくやっていただきたい。そういうふうなことだけを述べまして私の話を終えたいと思います。  どうもありがとうございました。
  6. 吹田愰

    吹田委員長 西河内参考人ありがとうございました。  次に、鎌田参考人にお願いいたします。
  7. 鎌田直司

    鎌田参考人 鎌田と申します。私は、三年ほど前日本に帰ってまいりましたが、その前は十年間ケンブリッジ大学のカーン教授のもとで肝臓移植とその臨床とその研究をやってきました。それで、日本に帰ってきましたら、その余りの価値観の違いに逆カルチャーショックに陥りまして、どうしていいかわからなかったというのが本音なんですけれども、実はそれは海外移植医または海外人たち日本を見る目と同じだと思います。  そういう意味でも、日本が非常に臓器移植でおくれているということを踏まえましても、今週は日本移植医療にとっては記念すべき週間であると僕は感じています。まさに春風春水一時に来る。春風は何であるかというと、あの島根医大が行った部分移植、最も難しいところの、世界で四例目でしかないところの部分生体肝臓移植を真っ先に行う、これは日本が抱えている問題の縮図であるとともに、日本肝臓移植を推進すると、いろいろな医療においては世界のトップにある、そういうことを表現するものであると思います。  それで、春風春水の春水は何かというと、まさにきょうの委員会であると思います。それは、患者医者も我々も待ち望んでいたところのこういう国会での論議、こういう調査会を設置するということは非常にすばらしいことだろうと思います。遅過ぎたかもしれません。しかし、一刻も早く始めなければいけないということを確認したことは非常に大きな点であると思います。  そういう意味で、私は、この調査会の設置に全面的に賛成する立場で述べたいと思います。その賛成する立場としては、次の五点について触れたいと思います。  一つは、海外臓器移植によるところの海外医療摩擦は防止しなければならない。  二つ目は、脳死に関する社会的合意社会的合意とは一体何物なのか。これに対するところの最終決定をきっちりと国会の場ないし委員会の場、調査会の場で設定しなければいけない。  それから三つ目は、現在各施設で行われているところの倫理委員会。この倫理委員会の決定はほとんど出ていないわけですけれども、どういうわけか各倫理委員会がばらばらに決定を出そうとしている。しかし、一校が脳死を否定し他の施設が脳死に賛成する、そういうことがあっては、医療の公平という面から許されないわけです。したがって、この調査会の名においてきっちりとした価値観を各倫理委員会に与えていく、こういう面が必要だと思います。  四つ目としましては、脳死判定基準。これも竹内基準が出て以来、まさに各校、各施設がばらばらにそれに基準をつけ加えようとしている。これは国民の非常な不安を誘うものである。そういうことで調査会の名をもってこの脳死判定のきっちりした基準をつくり、これをオーソライズする、すなわち権威を与えていく、そして国民の不安というものを取り去る。  五つ目としては、この臓器移植というのはまさに国家プロジェクトとしてやらなければいけない。したがって、その費用と健康保険における社会的整合性を整えていく、そういうことをこの調査会が調査し決定することを希望します。  以上五つの点について、時間がある限りさらに詳しく説明したいと思います。  まず、心臓肝臓移植は、一九六〇年代、一九六五年に始まりました。それで、現在ではアメリカでは年間二千例、それは肝臓移植です。その半数が心臓移植心臓移植は千例以上。それから、ヨーロッパでも既に四千五百例をやっている。こういうことが報告されています。例えばUCLAでは昨年三百例近く行いましたけれども、しかし五年生存率が何と七七%に達している。極めて日常の医療として確立しているわけです。しかるに、日本ではまだ再開ないし開始のめどすらない。これは非常に残念なことであるわけです。それで多くの患者が自分の命の代償として海外に求めていく。特に小さな子供が海外に行く。これはしようがないことなんです。これをだれが責めることができましょう。  それで、ここにCBA友の会、胆道閉塞症の子供を守る会、荒波さんが代表なんですが、この患者の代表がつくった一覧表があります。これは子供なんです。ここには現在受けたのは三十八例と書いてあります。その三十八例のうち半数以上が自費で行っています。そのうちオーストラリアのブリスベーンに二十五人が行っています。オーストラリアは大体一千万、イギリスは二千万、アメリカは四千万から五千万かかっています。  こういう状況の中で、日本で行われないがゆえに海外に肝臓を求めていく、このことは決して患者を非難することではない。しかも、それは全く個人的に行われている。しかし、現在把握されている三十八名を上回るところの数十名の子供がいるだろう。それから、大人もこれを上回るところの数が記録されていると思います。したがって、百名近くの人が海外に求めて行っています。中には自費だけではなくて公募という形でも行っていますけれども、なれない外国外国語を学びながら、ないしは日本人の医師の助けを借りながら、非常に苦しい思いをしているわけです。したがって、こういう人たちに一刻も早く救いの手を差し伸べるということは我々国民の急務であると思います。  同時に、外国がどう日本を見ているか。これは全く日本人のエゴである、みずからの国民がみずからの脳死を認めないのに、外国へ行って受けるのを認める、これは一体何事だ、こう言っています。この点に関する説明というのは今僕たちには全くできることではありません。  この海外との医療摩擦について、産経新聞なんですが、「なぜ日本臓器移植しない」、このように第一面に出ています。それは全くそうなんです。高い医療技術を誇りながら、あすにでもできながら、なお、しない。それで海外にどんどん行くことを肯定している。この責任は一体だれがとるのか。費用としては個人的にとるかもしれないけれども、今や全く国がとらなければいけない、そういう時期に来ていると思います。それで、現在この医療摩擦という事態を避ける、これは急務であると思います。この件に関し、国内のみでなく海外に対してもまさに国としての責任と哲学と今後の方針を明確に示すことが非常に重要であると思います。  次に、脳死に関する社会的合意に触れたいと思います。  よく言われます脳死に関する社会的合意がない、至るところで聞きます。医者も言います。しかし、何をもって社会的合意と言うのでしょうか。これは全く不明です。社会的合意というのは、何%に達したら社会的合意と言うのでしょうか。  ここに読売新聞の調査結果があります。臓器移植心臓移植を進めた方がいい七〇・六%、肝臓移植を進めた方がいい七一・九%。これはまさに、少数派ではなくて多数派なんです。各世代を見ましても、脳死をもって個体死とする、これはほぼ五〇%を占めています。もはや脳死を肯定ないしは臓器移植を推進する、これが社会の少数派でなくて多数派と言ってよいはずです。しかしながら、今でも至るところで社会的合意がないからできない、これを言います。とりわけ犯罪的なのは、医療を行う側がこれを口にするわけです。これも海外医者からは理解されないところです。社会的合意というのはどうして形成されるのか。それはやる側と患者がきっちりしたかたい決意で、医療を行っていく中で国民合意を形成していく、こういうことでなくしてただ待っているだけでは決して合意されない。これは、海外でアメリカにおけるスターズル、イギリスにおけるカーン、こういう教授たちが行ってきた道そのものなわけです。社会的合意、これを最終的に決定するのは何%をもってするのかじゃなくして、社会的合意が成立したということを最終的に決定するのはまさに国の義務であります。  それで、若干の私見を述べますと、僕は、社会的合意ということで次の五つの提案をしたいと思っております。  一、医学的に脳死という定義が世界で確立していることを知る。二、脳死に賛成、反対の両論があることを認識する。賛成者、反対者はお互いに干渉しない。移植が必要な患者脳死からの臓器提供に同意した本人、家族、それに臓器売買を厳しく禁じている日本移植学会の倫理宣言に従い移植を行おうとする医師の三者が納得、合意するならば、無関係な第三者はそれを妨害しない。脳死移植反対する人は臓器を提供しない自由を有する。  それで、これは脳死反対者を切り捨てることでは決してないのです。決して切り捨てるのではなくして、脳死をもって個体死と認めている多数派に対して医療を開始しなければいけない、この部分を大切にしなければいけないということなわけです。第三者は決してこれを妨害してはいけない。すなわち患者の生きるための手段、この場合は移植ですけれども患者の生きるための手段を無関係の第三者が取りつぶそうとするのは全く許せないことなわけです。したがって調査会、国会の名をもって社会的合意をきっちりと明確にしていく、それで社会的合意ができないから移植ができない、そういう認識を完全に一掃していくことが重要であると思います。  三番目に、倫理委員会について、倫理の問題について述べたいと思います。  脳死臓器移植、このようにすぐれて高度な倫理問題を各大学、各施設でばらばらに決定してよいわけがないと思います。事実一九八八年一月、日本医師会生命倫理懇談会の加藤一郎座長の最終報告で、脳死をもって個体死とし、臓器移植への展望を示したにもかかわらず、各施設の倫理委員会は二年近くもそれをほっぽり出しておいている、そしてみずからの決定をちっともしない。したがって、国の方針として各施設におけるところの倫理委員会に対し価値観の統一性を与える必要があると思います。  これは新聞に出ています。一九八八年一月十日、「脳死臓器移植を容認」。このように二年近く前に既に日本医師会の決定として出されているわけです。この膨大なエネルギーをかけたところの日本医師会の決定が各大学におけるところの委員会よりも下にあるということは決して言えないと思います。もっと極端に言いますと、倫理委員会の決定が出ないというのは、医学者、医療を行う側の全くの怠慢であると思います。  これは私の完全なる個人的意見ですけれども、なぜそういうことが出てきたのか。それはやる側、外科医の側が、もし自分がやったならばあるいは告訴されるかもしれない、たたかれるかもしれない、したがって責任を逃れるために倫理委員会にぽんと投げたわけです。倫理委員会はそれを受けとめてどうしたか。自分のところに責任が来るじゃないか、したがって決定しない、放置する、そういう感じで二年間だらだらと来たわけです。したがって、責任の投げ合いなわけです。これは全く醜い医学部内の一端を表明していると思います。  しかし最近ようやく倫理委員会も結論を出しつつある、あるいは大阪大学、東北大学、そういう大学で結論を出しつつあるのですけれども、しかし非常に不思議なことがあるのです。それは、ついこの前まで倫理委員会がみずからの隠れみのにしていた、すなわち社会的合意がない、これを最近はちっとも言ってこなくなった。何を言い出してくるかというと、システムが足りない。システムが何の倫理か。システムというのは行政の問題である。倫理に触れなくなってきた。それはなぜか。あるいは倫理委員会が結論を出そうとしているときに、前にあれほど言ったところの社会的合意、これが成立したのか成立しないのかに触れることができない。なぜならば、二年前も社会的合意がないと言っていたけれども、あるのかないのか突きとめることなくして倫理委員会それから医師団が突っ走ってきている。これに対してきっちりとした社会的合意を与えるとともに、倫理委員会に対してもきっちりと倫理問題を討議するようにこの国会の名をもって要請していかなければならないと思います。  次に、脳死の判定基準について触れたいと思います。  一九八五年、厚生省によるところの脳死に関する研究班の竹内一夫座長により脳死の定義が確立されたが、その後各大学でばらばらに幾つかの基準をつけ加えようとし、ないしつけ加えている。脳死の定義が各施設においてばらばらであるということは、人々に非常な不安感を与えると思います。したがって、国会の調査会の名をもって脳死の定義、判定基準の統一を行うよう医学界に問いかけなければならないと思います。  もちろん、脳死の内容が賛成多数で決定されるというようなことでは決してない。脳死というのは科学的に決定しなければいけない。しかし、脳死を発表するという医師の側が極めて不親切である。脳死というのは機能死なのか、それとも器質、細胞の一つ一つが死んでいくのか、それとも竹内基準が出したような全脳死なのか、それとも世界が今主流としている脳幹死なのか、これを全く説明しない。それで、高名な評論家たちが言っているところの脳死基準が不安定、確認されないというのは、ほぼ器質的な死である。しかし、脳死というのはファンクショナルな死である。そのファンクションをとめたところから脳死の概念が生まれてきたわけです。したがって、もっともっと医師の側としては脳死の定義をわかりやすく国民に知らせなければいけない。しかし、その努力を怠っているならば、調査会の名をもってやはりきっちりと知らしめていかなければならない。  それで、ちょっと時間が長くなりますが、脳死のことについて一つ例を紹介したいと思います。  それは、脳死というのは確かに西洋から生まれました。西洋の人たち、すなわち狩猟民族から生まれてきた言葉です。もし馬が骨折、足の一本を折ったらどうします。あとの三本で馬はみずからの体重を支えられない。したがって、間もなくあとの三本の足は腐るでしょう、死ぬでしょう。そのときこっちからこっちへ移るときその馬をどうしたか、見殺しにしてオオカミのえじきにしたか、それとも殺していったか。それは明らかに殺していったわけです。というのは、足を一本折った瞬間にその馬の死が始まった。ネバー・リターン・ポイントがそこにあるわけです。  脳死も同じなわけです。脳幹死の死をもって脳死とするわけです。全脳死ではないわけです。したがって、イギリスはきっちりと脳幹死と言っておりますけれども、イギリスの医学生はそういう意味では実習に脳死判定基準を習っているわけです。それで、脳波測定は必ずしも必要ないと言っているわけです。というのは、脳幹死というのは、呼吸中枢が完全に壊れたとき再び呼吸ができない、それは呼吸器を入れて管理しているときにのみ心臓が動いているけれども、それを外せば心臓もとまる、そういう極めて管理された死、これを脳死というわけです。したがって、脳の一部が動いているか動いていないか、これは問題にならない、こういう定義をきっちりしているわけです。  それに比べて、竹内基準というのははるかに厳しい基準をしているわけです。僕としては、竹内基準プラスアルファ、例えば大阪大学の基準がつけ加えたように、脳死と判定されてもホルモンが出ておるからそれは死でない、こういうことは言ってはならないことなんです。それは定義の違いなわけです。こういうことを国民にきっちりと知らせなければいけないわけです。ですから、ファンクショナルな死なのかそれとも器質の死なのか、こういうことをきっちりと説明する必要がある。これを調査会でやはりきっちりと国民に再度説明してほしいと思います。  まだ脳死に関してはたくさん言いたいことがあるのですけれども、今後国が行わなければならない処置について調査会がぜひ推し進めてくれるようお願いして、次のことを述べます。  臓器移植は、もし本格化すれば莫大な経費……
  8. 吹田愰

    吹田委員長 参考人、できるだけ時間をお守りいただきたいと思います。
  9. 鎌田直司

    鎌田参考人 莫大な経費を要すると思います。したがって、国家プロジェクトとしてぜひ取り組んでほしい。すなわち、短期的には費用の問題がありますので、臓器移植推進財団をつくる、それから国立の臓器移植機関をつくって本格化する、こういうことにぜひ調査会として方向を出してほしい、こう要望いたしたいと思います。  どうもありがとうございました。
  10. 吹田愰

    吹田委員長 鎌田参考人、ありがとうございました。  次に、西岡参考人にお願いいたします。
  11. 西岡芳樹

    西岡参考人 私は日弁連の推薦でございますので、私見というよりも日弁連のこの問題に対する立場という形で御報告したいと思います。  日弁連では、御存じだと思いますけれども我が国初の心臓移植である和田心臓移植に関して調査特別委員会を設置しまして、昭和四十七年にその調査の結果、和田教授に対して、心臓移植におけるレシピエントの適応は当該心臓移植関係のない内科医を含む複数の医師の対診のもとに決定すること、提供者の死の判定は当該心臓移植手術に関係のない麻酔医を含む複数の医師の対診のもとにこれを行うこと、それから、関係資料の散逸を防ぎ、事後の検索に支障なからしめ、いやしくも隠匿または隠滅を疑わしめるような行動をしないこと、こういう警告を発しました。この警告を発する調査の過程では、ドナーに対しあるいはレシピエントに対し殺人ないしは業務上過失の疑いが極めて濃いという調査の心証を示しておるわけでございます。  その後、昭和六十一年の人権擁護大会で「生命倫理をめぐる諸問題―脳死臓器移植倫理委員会を中心として―」というテーマでシンポジウムを行いました。六十二年、六十三年には、日本医師会生命倫理懇談会が出されました中間報告並びに最終報告書に対して日弁連の意見書を提出してきました。  これらの基調といいますのは、ドナー側あるいはレシピエント側のいずれについても人権侵害があっては決してならないということであります。和田心臓移植と同じようなことが起こってはいけないというのが基調でございます。そういうことでございますけれども、世上伝えられているように、脳死が人の死と認められることについて絶対反対であるとか、あるいは脳死状態での臓器移植に絶対反対である、こういうふうな硬直的な立場をとっているわけでは決してございません。しかし、現状でこれを認めることについてはさまざまな人権上の問題を払拭し切れない、無条件では賛成できないというのが現在の日弁連の立場でございます。  何をもって死とするかということは、単に医学的な問題ではなくて、社会的、法的、宗教的、いろんな観点から決定されなければいけない、医師が勝手に決められるという事項ではないというのが基本的な立場です。したがって、社会的合意あるいは立法的解決が必要だと思います。しかし、現状ではもちろん立法はありませんし、社会的合意もいまだない。現状では三徴候死が人の死であるということを言わざるを得ないというのが基本的立場であります。  脳死の定義につきましても、先ほど前の先生がお話しになりましたように、機能死でよいとするもの、器質死まで要するというもの、あるいは全脳梗塞だというもの、さまざまにあります。脳死が人の死かどうかということが国民に問いかけられているわけですけれども、その脳死の定義すらきちっと決まっていない状況で国民にどう問いかけていくのか、この辺についてはやはり医学界できっちりとした討論をされて統一していく必要があるのではないでしょうか。  それから、脳死の判定基準についても同じことが言えると思います。さまざまな施設でさまざまな判定基準がつくられています。主流は竹内研究班の基準のようですけれども竹内研究班の基準については、先ほど述べられましたようにホルモンあるいは自発呼吸の問題として疑問が提起されています。これらについては竹内研究班の一人の方が、いやこれは脊髄反射だとか、そういう形で否定されておりますけれども、公的にきちっと討議され公開の場で討論されたわけではないということでございます。私たちは、この判定基準は当然統一化すべきだし、そういう疑問が出ればどこかできちっとそれをクリアする、そういう機構が必要なのではないかと考えています。基準は当然医学の進歩に応じて変わり得るもので固定的なものではありませんが、どこかに常にそういう疑問を受けとめて解明する機関が必要だと思います。  判定基準については、鹿児島大学等では脳血流の停止を判定基準一つに入れております。あるいは阪大基準では脳幹聴性反応を判定基準に入れております。この辺は竹内基準と違う部分です。どの基準が本当にいいのかというのは国民立場ではよくわかりません。こういう問題について、当然医学界でもっとディスカッションが行われて統一化すべきではないかと考えます。統一化できないということ自体が国民の不安につながっていくわけでございます。  それから死亡時刻の問題があります。当初の判定時を基準にすれば問題ありませんけれども、判定基準が違うということになりますと、経過観察時間が六時間とか十二時間とか二十四時間とかさまざまに基準によって異なりますと、死亡時刻が異なってきます。東京のある病院では六時間後に死が判定されるけれども、大阪のある施設では十二時間後に死が判定されるということになれば、国民それぞれが施設によって死を判定される時間が変わってくる。死の判定というのは相続だけではなくてさまざまな法律上の権利の特性に関係があるわけですから、この辺は当然統一すべきではないかと考えます。少なくとも判定項目としてどういう項目を判定するのか、あるいは判定時間の統一化というのは最低限必要だと思います。  それから脳死の判定をする人は、先ほどの和田心臓移植に対する警告でも述べていますように、二人では一人が一人に任せきりになるということが起こりがちであります。主治医、麻酔医、脳神経外科医あるいは神経内科医が最もふさわしい。医師ならだれでも三人以上そろえばいいということにはならないと思います。  また、複数のお医者さんがいても必ずしも安全ではないというのが和田心臓移植の貴重な教訓であると思います。お医者さんに言わせれば、現在でも臨床で見ていれば脳死などだれでも判定できるのだ、医師を信頼してくれればいいのだというふうなことをおっしゃるわけですけれども、我々が学んできた教訓では、医師も人間であって間違うこともある、名誉心に駆られることもある、また和田心臓移植のように教授が言えばみんなが口を閉ざしてしまう、あるいは同じ論調でしか物を言わないということがあり得るのだということが教訓であります。そのため、やはり一定の資料の保存を義務づけるということも必要かと思います。それらがなければ、逆に医師側が患者が死亡していたということの立証責任を負うようなシステムということを考える必要があるのではないでしょうか。また、家族家族の依頼する医師の立ち会いを認める、こういう制度もあわせて必要だと思っております。  それから臓器移植につきましては、現在臓器を取りかえなければ死を待つ以外に方法のない患者がいる、これは事実でございます。一方、信頼性が高くて故障することがほとんどなく、持ち運びの簡便な人工臓器の開発が一部のものを除いてできていない、当面望めないという状況では、臓器移植という治療法は必要だと思います。しかしながら、臓器移植あるいは移植医療が通常の医療と同じようになるというのは問題があると思っています。ドナー臓器を薬とか医療機器と同様に医療資源というふうに考えると、問題がややこしくなってきます。私は、ドナー臓器がそういうふうに医療資源と考えられることについては反対であります。現在、輸血、これも臓器移植の一種ですけれども、血液がややもすればその方向にあると考えられます。今後日本で仮に臓器移植が再開されても、ドナー不足が予想される我が国においては、臓器の供給源をさまざまな場所に求めてエスカレートしていく、医療資源という視点に立つ限りは、植物人間あるいは無脳児にエスカレートしていくという危険性が容易に予測されるからであります。  ドナーの善意というのが唯一の根拠であるということが必要だと思います。その意味で、ドナーの善意の確認は非常に重要であります。  第一に、ドナーの生前の意思が最優先すべきであるというのは言うまでもありません。現在の角膜及び腎臓の移植に関する法律は、その意味で再検討の余地があるというふうに考えています。  次に、ドナーの意思が生前に表示されていない場合に限り家族の意思によることが妥当であるというふうに思います。この場合、現在の法律では序列はありませんけれども家族の中に一定の序列を付するということも考えられるわけでございます。  また、善意に依拠するというこのシステムを崩さないために、主治医が家族を説得するということは患者家族にとって任意の意思を表示しにくい、非常に困難であるということがあります。その意味で、主治医が主として関与するのではなくて、むしろドナーコーディネーターというシステムを考えて、その方が説得して、患者家族が本当はしたくないということであればきっちりそれが言えるというシステムをつくっていく必要があるのではないかと思っています。主治医は、せいぜい意思が表示された場合にそういう方に取り次ぐという程度にとどめるのが適当であるというふうに思います。  それから、レシピエントの適応の判断及び同意についても慎重な検討を要します。現在、日本の医療の現場でインフォームド・コンセント、要するに十分説明されて、理解された上で承諾するという患者の権利が全く定着していないというふうに言われています。その我が国で、移植の場合に限ってこれがどの程度実践できるのか、かなり問題があるのではないかというふうに思います。患者の権利を中心に、日常診療の改善まで含めて検討すべきであろうというふうに思っています。  ドナーの善意を生かすのが、先ほども言いましたように、移植医療の本質であるということならば、移植医療は条件が整えばだれでも公平に受けられる医療でなければなりません。そのために、先ほど前の方がおっしゃいましたけれども、国家的プロジェクトとして基金制度や周辺整備というのが必要になってくると思います。貧者がドナーになり、富者がレシピエントになるという構造は決して許されてはいけない、このように思います。日本ではドナー不足が当然予想されるわけですけれども、その場合どうしていくかということについても現在から十分考えていく必要があるだろうというふうに思います。  それから次に、脳死臨調、今回の調査会の設置について述べたいと思います。  アメリカやスウェーデンでの立法経過については既に十分調査されているというふうに思われますので述べませんけれども、性急な立法ではなくて、国民の納得の上での立法を考えていただきたいというふうに思います。そのために必要なことは、調査会の委員はそれぞれの団体から推薦される人を選んでいただきたいというふうに思います。日本医師会生命倫理懇談会が去年の一月ですか、最終報告を出した。しかし、それは全然国民に定着しなかった。なぜか。それは初めに結論ありきと言われていたということだと思います。あの生命倫理懇談会のメンバーを見たとき、初めからああいう結論が予測されていたと言われています。やはり一本釣りの人選では決して国民を納得させることはできないというふうに考えています。  また、調査や検討、審理は可能な限り公開でやっていただきたい。日本医師会の生倫懇あるいは阪大の倫理委員会等は公開されていない。どこでどのような議論がなされて、どういう材料を使って、Aさんは最初どういう意見を言っていたけれども最後にはこういうふうに変わったのだ、そういう経過が全くわからない。密室での討議で、結論だけがぽんと出てきた。こういう感じでやられているわけですけれども、それでは国民を納得させることは決してできないというふうに思います。できるだけ公開をする、議事録をつくって、それも刊行していく、こういう形でこそ初めて国民の納得が得られるであろうというふうに思います。  最後に、十分な時間をかけてやっていただきたい。この問題は人の生死というものが対象でありますから、十分時間をかけてもかけ過ぎることはない。十分というのはもちろん程度がありますけれども、性急にはやってほしくないというふうに思います。  このような形でやられずに、従来どおり密室で、かつ一本釣りの委員によって調査会が構成されるならば、調査会の設置そのものに私は反対であります。調査会を設置するならば、そのような形でぜひ運用していただきたい。そのような形でやられない調査会は有害無益であるというふうに私は考えます。  以上です。どうもありがとうございました。
  12. 吹田愰

    吹田委員長 西岡参考人、ありがとうございました。  これにて各参考人の御意見の開陳は終わります。     ─────────────
  13. 吹田愰

    吹田委員長 これより参考人に対する質疑に入ります。  質疑の申し出がありますので、順次これを許します。田口健二君。
  14. 田口健二

    ○田口委員 参考人皆様方には大変御多忙の中を御出席いただきまして、本委員会の審議に御協力いただきますことを厚くお礼を申し上げます。  ただいまから幾つか質問をさせていただきますが、内容によって順不同といいますか、ずっとお一人の方に順次ということにはならないかもわかりませんので、その辺はひとつ御了解をいただきたいと思います。  最初にお尋ねをいたしたいのは、今の御意見の中にも幾つかございましたが、この法案が成立をいたしますと調査会が設置をされ、総理大臣からの諮問があって答申が出てくる、こういう手順になっていくだろうと思います。そこで、各参考人の方にお一人ずつちょっとお聞きをしたいのですが、皆様方がこの調査会の中で何を一体決定をしていただきたいのか、簡略で結構でございますから、端的に、お考えになっておられることがありましたら順次お答えをいただきたいと思います。斉藤参考人の方からまずお願いをいたしたいと思います。
  15. 斉藤誠二

    斉藤参考人 ただいまの御質問につきましては、既にほかの参考人から幾つかお話があったと存じます。何よりも脳死というものの定義が実は明確ではございません。我が国では、厚生省のいわゆる脳死に関する研究班、竹内基準ということによりますと、全脳死説である。そして医学界でも大方は全脳死説をとっていると聞いております。しかし、医学の中でも脳幹死説という方もおりますし、それから再三器質死という考え方も出されておりますが、医学の専門家によりますと、そもそも器質死とは何なのだろう、人の死という場合に器質死というようなことがあり得るのかという基本的な疑問もあろうかと思います。そのようなものが非常に混線いたしておりますので、まず何よりも脳死とは何か、私自身は、基本的には全脳死というふうに理解しておりますけれども、まずその点をすっきりするのが最も重要であろうかと思います。それに従いましてその判定基準、そしてまたさらにはその死亡時期等々、既にほかの参考人から具体的に御指摘があったかと思いますが、そのような点については私も全く同感でございます。  そして先ほどは時間の関係で言わせていただけませんで、むしろこの委員会をつくっていただきたいということだけ言わせていただきましたが、具体的に申しますと、臓器移植の点におきましても、既に鎌田参考人あるいは西岡参考人から御指摘の点、基本的に全く同感でございます。
  16. 西河内靖泰

    西河内参考人 私の意見としては、これができたときに非常にきっちり科学的にみんなが納得できるような形で物事を論議していってもらいたい。今移植医だとか脳外科医の方、そういう方々がこの論議に参加されていますが、脳の基礎的研究にかかわる生理学者とか生化学者、そういう方々がこれに関して論議されていないので、そういう方をきちっと入れてほしいということや、あるいは人間の認識や記憶なんかを解明している、研究されている学者なんかいらっしゃるのですが、そういう点をきっちり出していただかないと、脳そのものの――脳というのは一体何なのかというのは要するに一般の人にはよくわからないわけですから、そういうわからない方にわかるようにやっていただきたい。だれにもわかる死でなく専門家にしかわからない死では死ではない、そういうふうに思います。だから、脳死が死だというふうに規定をするのでしたら、それがだれにもわかる形できっちり出していただくように論議ができるようにしていただきたい、それは公開という面も含めてでございます。
  17. 鎌田直司

    鎌田参考人 先ほど斉藤参考人から脳死判定基準を明確にしてほしい、これは僕も賛成します。  それから二つ目としては、社会的合意、これに対して極めてあいまいな言葉があるから、この調査会の名をもって決着をつけてほしい。これを隠れみのにしないでほしい。  それから三つ目としては、海外との医療摩擦、これに対して国の意見をはっきりと述べる時期に来ているのではないか。したがって、海外から批判されているものに対してはっきりと国としての、国会としての意見海外に示してほしい。例えば、僕がケンブリッジに行ったときに、トルコ、ギリシャ、サウジアラビア、これは別に後進国で言うわけではないですけれども、イタリアも含まれていますが、まだ臓器が行われていなかった時代にはこういう国からは国費ないし公費をもって来る、こういうことはよく行われていました。したがって、今国費をもってイギリス、オーストラリア、アメリカに送るということはできないかもしれませんけれども、しかし国会としては、調査会としては、きっちりと個人のレベルでなくて国としての見解を示してほしい。  それから最後に、本格化すれば数百億と予想されるところのこの費用をどうするか。それと、さっき言いましたように、貧者がドナーになって富める者がレシピエントになる、これはまさに残酷な結果であるわけです。したがって、短期的には臓器移植推進財団をつくりまして健康保険でカバーされないところをカバーしていく。長期的には数百億と言われるところのその予算をどうつくっていくのか、それと健康保険との整合性、これをぜひ調査会の名で調べてほしい。そして、できれば学術審議会で推進されたように、国の国立機関をもって、がんセンターのように国立臓器移植センター、そういうものをつくって推進してほしい、それだけ述べたいと思います。
  18. 西岡芳樹

    西岡参考人 調査会に対しては、脳死臓器移植についての国民的な議論を起こす場となってほしいというのが一番大きな期待でありまして、それなりに熟せば臓器移植立法という形になっていくか、現在の角膜及び腎移植に関する法律は先ほど申し上げましたようにいろいろな点で不備がございますし、患者の人権という観点から見ても必ずしも整備されていない。患者の人権をきちっととらまえた形での臓器移植立法ということが必要かと思います。  判定基準その他の問題につきましては、私は、これは医学界の問題であって国会が口を出すべき問題ではない、こういうふうに考えております。
  19. 田口健二

    ○田口委員 斉藤先生にちょっとお尋ねをしたいのですが、先ほどお話を伺っておりますと、先生の方は脳死を死とすべきだといいますか、現在一般的に受け入れられておるのがいわゆる三徴候死をもって死だ、一昨日の本委員会の審議の中でも法務省当局はそういうことで明確に言っておるのですが、先生の御意見は、現在の三徴候説ではなくて、今後は脳死をもって死だというふうに決めるべきだ、このような御主張のようにちょっと聞こえたのですが、間違いございませんか。
  20. 斉藤誠二

    斉藤参考人 ただいまの御質問でございますが、私は、死の概念、死の定義としては脳死以外にはない、このように考えております。三徴候説というのも実は脳死を知る手がかりであった、このように理解いたしております。格別新しい概念を主張しようというわけではございませんが、ともかくその死というものは生命中枢が失われたとき、すなわち脳死である、このように考えているわけでございます。
  21. 田口健二

    ○田口委員 そうしますと、脳死自体の定義ももちろん私はよくわかりませんが、ちょっと素人的に疑問が出てくるのは、例えば先ほどから全脳死であるとか脳幹死であるとかいろいろなことが言われておるわけですが、今言われておる脳死ということになりますと、その判定はやはりどうしても限定されてくるのじゃないでしょうか。そうなった場合に、一般的に脳死を死だというふうに言われますと、それは世間一般でどこでも判定ができるのだろうかという点はどうでございましょうか。
  22. 斉藤誠二

    斉藤参考人 ただいま世間で言われておりますのは、いわゆる脳死というのは死亡の大体一%程度だ、こんなふうに聞いております。先ほど私が言わせていただきました点もそうでございますが、死というのはともかく全一体としての人間の脳が消滅的になくなったものだ。それで、三徴候説というのも、通常の場合、普通の場合、九九%の場合に脳死を知る手がかりだということでございまして、従来のやり方が一向に変わるわけではない。その一%だけについて、例えば交通事故で脳の半分が飛んでしまった、そして心臓だけが動いている、かつて、今からもう既に二十年ほど前になりましょうか、昭和四十三年であったかと思います、ちょうど和田移植がありました当時でございますが、あるシンポジウムがございまして、そこで東京監察医務院の当時の所長さんが、そのような患者が毎日運ばれてくるのだ、脳が半分飛んでしまったけれども現代の医学ではどうしようもない、ただ、心臓は動いている、こういう患者が運ばれてきて、これが生なのか死なのかというような御発言をされたことを今思い出されます。具体的に申しますと、そういうごく一部の点についてだけいわゆる脳死の判定基準というもので死を判定していく、これが現在現実に諸外国で行われているやり方でもございますし、私も、我が国でそうあってよい、このように考えている次第でございます。
  23. 田口健二

    ○田口委員 次に、鎌田参考人西河内参考人のお二人にお尋ねしたいのですが、先ほどの御意見の中にもちょっとありましたが、十一月十三日に島根医大で生体部分移植の手術が行われた。マスコミに大変大きく取り上げられましたし、私どももある意味では大変ショックといいますか、初めて聞いたわけです。経過は非常に良好だということで喜んでおるわけですが、この生体肝移植ということについてどうお考えになるか。評価をされておるのか、こういう形というのは今後やはりどんどん推進をしていくべきであるのかどうか、この辺のお考えがありましたら、ちょっとお聞かせいただきたいと思います。
  24. 鎌田直司

    鎌田参考人 島根医大の河野講師はケンブリッジにおりまして、私の友達です。それで、去年、もう二年近く前になるのですけれども、豚の肝臓を取り出しまして、新しい保存液を使いまして島根から東京に運んできました。それで、別にヘリコプターを使ったりそういう緊急手段を使わなくても正常の手段で運べるということを確認しました。島根医大というのはケンブリッジのグループの一つであって、非常に高い移植技術を持っています。それと同時に、一般外科の肝臓切除についても高い技術を持っています。  それで、ドナーである父親が安全かどうかという点に関しましては、肝臓外科の人たち、例えば旭川医大の水戸先生、それから肝センターの幕内先生などと討論したのです。それで将来的には父親からとってくるときの危険率はどうかというと、ほぼ出血なくしてとれる。結局、父親からとってきたときに出血が多いと輸血しなければならない、そうするど肝炎が出てくる、父親の生命にもかかわるじゃないか。そうではなくて、日本技術をもってすれば輸血を一切なくして完全にドナーからとってこれる、こういう見通しが今あるわけです。したがって、その中で行われたところの手術であります。  それで、永末先生は、日本よりもむしろ国際的に肝臓切除においては非常に高く評価されております。河野先生はケンブリッジにおいてはみずからドナーの手術もやっております。したがって僕としては、この手術は非常に突然のように見えても、日本の土壌の中では十分訓練されたものであると思います。ただ、不幸なことは、島根医大は二年間、脳死の倫理委員会において脳死の結論が出ないわけです。そして放置された中においてやむを得なかった処置であったことが非常に不幸だと思います。  結論としましては、次にこういう形で進んでほしくないけれども、この手術は緊急手術で、親に対する圧迫感とかそういうたくさんのデメリットが新聞に出されてきますが、それを乗り越えてなおかつ緊急手術としては必要であった。  将来的に生き延びるかどうかというならば、将来的に生き延びられます。ドナーが慢性的に不足するという事態においては、この技術は特に日本では生き延びてくると思います。  倫理面でいうならば、既に日本で年間六百例行われる腎臓移植の五百例以上、八割以上を生体からとっているわけです。この腎臓を生体からとるのと肝臓を生体からとるのとどう違うのか。一方では肯定されて一方では否定されているというのは、その技術の難易度によって決められているけれども、現在へ難易度は何もない。むしろ、肝臓はとってももとへ戻ってしまう、しかし腎臓はとってしまうと片方は永遠にない。そういう意味で言うならば、肝臓移植の方がより安全な手術であるかもしれません。  最後に、これは極端かもしれませんけれども、父親が子供に肝臓を与えるというのは、親が子供ら子供が親に事故のとき血液を与えるようなものです。血液も臓器なわけです。大きな愛情の中での血液と同じような感じでとらえてもあるいはいいのじゃないかという側面もあります。
  25. 西河内靖泰

    西河内参考人 生体部分移植についてはそれの研究実用化を進めていってほしい、私は従来からそういう主張をしてきた立場でありますから、実験とか開発の研究が進む前に一気に実際に行われたというので、先ほども言いましたけれどもいささかびっくりしているのですが、経過も良好なようで、今のところは成功に終わってほしいという願いでいっぱいでございます。  前の参考人の方も言われたように、部分移植については、肝臓は復元能力があるというその肝臓の特異性によってこういうことが可能なわけです。ですから、そういうことを生かしてやっていけば、倫理面では脳死臓器移植よりも、ベストとは言いませんがベターではないか、そのように考えております。それに、脳死が認められたとしても、現実的にドナーが不足するのは事実です。必要としている人の大部分に回ることはないわけですから、それから考えますと、現実的な問題で部分移植をきっちりした技術として確立した上で進めてもらいたい、これは希望でございます。
  26. 田口健二

    ○田口委員 それでは次に、これは西岡参考人鎌田参考人のお二人にお尋ねをしたいのですが、先ほどの御意見の中にもあったのですが、各大学、施設の中に倫理委員会というのが設置をされている。今回の島根医大の場合もそうでありましたが、どういう役割を果たしておるのかということが私ども率直に言ってよくわからないわけです。先ほどちょっと御意見ございましたが、この倫理委員会というものについてどのようにお考えになっておるのか。現実にそういう役割を果たしておるのか、あるいはもう現状としてこういうものは必要でないというふうにお考えなのか、この点について両参考人の方から御意見をいただきたいと思います。
  27. 西岡芳樹

    西岡参考人 先ほどちょっと述べましたけれども、昭和六十一年に日弁連でシンポジウムを行いまして、そのときの生命倫理をめぐる諸問題の一つが倫理委員会でございました。倫理委員会全国の実態調査もさせていただいたわけですけれども、倫理委員会は各大学、各施設ごとにあって、その役割というのは、個別の症例についての実験的な医療であるとか、あるいはその患者からの承諾書のとり方であるとか、そういう問題をディスカッションする場としては非常にいい機構であって、今回島根医大でですか、これは倫理委員会に申請もしていないということは、非常に手続的には問題ではなかったか。少なくとも生体の一部肝移植ということである以上、あの日思いついてやったわけではなくて、必ず倫理委員会に申請して承諾あるいは討議してもらう時間はあったのではないかというふうに私は考えております。そういう意味で、医学者自身が自分たちがこういう倫理委員会をつくってここできちっと審査をしてもらった上でやりますよというふうなものが倫理委員会のはずなんですけれども、その倫理委員会を今回通さなかったというのは、医師の内部からそういうものに申請しなかったというのは、やはり非常に大きな問題だと考えております。  それから、倫理委員会が各施設ごとに基準を出すというよりも、倫理委員会の中央的なものをつくって、その中で例えば脳死とかこういう問題についてはこういう手続をしなさい、こういうことをしなさい、ガイドラインはこうですよ、これを中央でやるべきだと考えております。  そういう意味で、各施設の倫理委員会というのは必要ですし、そこできちっと審査を受けてやっていくということが実験的医療その他の医療について十分国民の信頼を得る道だと思うのです。そのお医者さん一人の功名心あるいはその人だけのそういう考えじゃなくて、全体としてこれは医学的にも適応だし、十分可能だし、危険性も少ない、安全性がある、しかもこういう手続でやる、こういうふうな基準を決めていくことが必要だ。そういう意味で、倫理委員会については、今は学内だけで構成されているとか、例えば女性が少ないとか、いろいろな問題点はありますけれども医師としてはそれを尊重して、そこを通していくというシステムを確立していただきたい、こういうふうに思います。
  28. 鎌田直司

    鎌田参考人 まず、島根の場合の経過について僕の意見を述べたいと思います。  それは、島根の諸君、僕はゆうべも河野先生とお話ししましたけれども、しかし、父親ないし母親の生体から腎臓をとる場合は一切倫理委員会に諮る必要がない。毎年五百例以上行われている、こういう状況にかんがみて、いかに肝臓といえども、それとどう違うのかということを考えたならば肝臓もやる必要は全くない。  しかも、現在の倫理委員会が設置された根拠そのものが脳死に関してどう判断するのかということで設置されて、ブームのように設置されたわけです。しかし、倫理委員会の本来の機能というのは、例えば遺伝子操作をする、これは人類が変わることです。それから妊娠に対する操作をする、これは危険が出てくるかもしれない。こういう人類の根本的なものに関する倫理委員会なり倫理であって、しかし、臓器移植する、こちらからこちらに移植するという場合は、倫理委員会というのは必要ない、僕は全く必要ない。とりわけ最近つくられた倫理委員会というのは、脳死をどうするかという余りにも重い課題を背負わされている。これは個々の倫理委員会、各施設の倫理委員会で受けとめて結論を出すようなそういう軽いものでは決してない。したがって、ぜひ全国的なレベルで倫理委員会のある大枠を決めて、小さいところを、例えばその大学ではまだ力量がないからやってはいけない、こういう否定的な面で各施設の倫理委員会が力量を発揮すればそれでいい。しかし、大きな面で脳死を乗り越えてうんと言うような力量はまだ僕はないと思います。そういう意味で、現在各施設が倫理委員会を抱えて、しかも圧倒的な新聞のムードでは倫理委員会を通さなければ何もできないというのが逆にこの二年間、三年間移植医療をおくらせてきた原因であると思います。
  29. 田口健二

    ○田口委員 そこで、臓器移植という問題が論議をされるときに必ずといっていいくらい出てくるのが、先ほどの参考人の御意見の中にもありましたが、医師との信頼の問題ですね。この点について、西河内参考人は、患者という立場からいろいろ運動されてきておられると思いますが、それをどのように認識をされておられるでしょうか、お尋ねをいたしたいと思います。
  30. 西河内靖泰

    西河内参考人 患者という立場から医者と接していますと、医者というのは一種の権威者でして、一種近寄りがたい雰囲気も常にあるわけで、日本医者というのは、特に自分の治療内容だとか、あるいは具体的な薬だとか、これからの方針だとか、あるいは病気そのものについてもなかなか聞いても答えてくれない。答えてくれないのでどうしようかというところで病気のことを勉強して、自分たちで何とかしなければというので実は患者会運動というのができてきたという過程があるわけですね。要するにお医者さんがちゃんと話を説明してくれて、それできっちりその人に合ったような医療行為をしてきてくれれば、患者運動など必要じゃなかったわけです。だから、患者会があるということは、必ずしもそれが全面の理由じゃないですけれども、一部にどうしても医者に聞けないことを患者会の方に電話をかけてきて、あるいは手紙とかそういうことで、こういうことがあるのだけれどもどうなのだろうというのでいろいろ聞いてくる。それから、講演会をやると、講演会でお話しくださったお医者さんにさまざまな質問が出て、自分はこういう治療を受けているけれどもこれが果たして妥当なものだろうかどうなのだろうか、薬はこんな薬をもらっているけれどもどうなのだろうか、数値はこんなだけれどもどうなのだろうかと聞いてくる。日常の診療の中で、三分診療という中で、忙しい中で対応しなければならないからというのはわかるのですが、欧米などと余りに落差が日本の国は大き過ぎる。要するに、海外から帰ってこられた患者さんなどと話したりすると、余りに欧米と日本医者と差が大き過ぎる点にすごく疑問というか、怒りもあるわけですね。  それで、例えばがんなどの問題についても日本ではがんを告知するか告知しないか、そういうところで論議されていますけれども患者の側からしたら、はっきり言ったら、告知してくれた方があとの人生設計ができますから、してもらった方がいいわけです。それを、一方的なお医者さんの思い込みで、告知しない方がいいなどというような勝手に患者の気持ちをでっち上げるようなまねはしていただきたくないと思うのです。お医者さんは、患者のためと言われますけれども、往々にして思い込みが激し過ぎまして、患者はこういうふうに思っているだろう、こういうふうに考えているだろうと勝手に言ってしまいますね。  一番典型なのは、お医者さんが患者になると一番よくわかると思うのです。実は、私どもの会というのは、お医者さんが患者になって、その結果医者は頼りにならぬから患者会をつくろうというふうに言って、何とお医者さんが集まって患者会をつくったという発足の経緯がありますので、医者とそれから患者との問題では常に関心があるというか、深いというか、いろいろ問題を実感した上でやってきております。私も医療関係のところにいましたし、それから医療行政関係にも携わりましたからわかるのですが、やはりお医者さんもさまざまなレベルがあって、それはすばらしいお医者さんもいることは事実ですから、医者総体を批判するというふうな気にはなりませんが、でも、患者と信頼関係を結べないようなお医者さんが余りに多過ぎる現状に、例えば医師会なんかの方で何とかしてもらうような形になっていかないものか、そういうふうに思います。  お医者さんはそういうふうに指摘を受けるとむかっとするでしょうけれども、本当に誠実に患者のためにやっていただくために、患者側と一緒に考えてそして手をとり合っていくような形に持っていかないと、永久に脳死問題も臓器移植問題も解決の方向は見出せない、そういうふうに思います。幾らお医者さんだけでこういう方向がいいと決められて、それが絶対正しいんだと言われても、信用できない人に幾ら立派なことを言われたってちょっとそれは待ってよという話になりますから、信頼に足りるような状況で信頼に足りる人がきっちり科学的な内容も含めてやっていただきたいと思います。
  31. 田口健二

    ○田口委員 今の問題ではお医者さんの方にもお聞きをしなければならないかもわかりませんが、別にここで議論をしてもしようがない問題だと思いますので、そういう意味で西岡参考人の方で、信頼関係、裏を返していくと不信感というのがそこに存在をするということになればこれをどうやって解消していけばいいのか、その辺について何かお考えがありましたらお聞かせをいただきたいと思います。
  32. 西岡芳樹

    西岡参考人 即効薬的なものはないと思うのですけれども、結局信頼関係とは何か、今まで日本患者あるいは国民医師に持っている信頼というのは、知らしむべからずよらしむべし、いわゆる盲目的な信頼だったと思うのです。だけれども、現在では信頼というのは、やはりコミュニケーションの上に成り立つと思うのですね。仮に夫婦であっても、コミュニケーションがきっちりないと信頼関係ができない。それと同じように、患者医師関係でもコミュニケーションがきっちりあるということが医師患者の間の信頼関係をつくることにつながっていく。そういう意味で、患者の権利、例えば薬がどういうものであるかを知る、あるいはどういう治療方法が施されているかを知る、あるいはそれについてはどういうリスクがあるということを知る、あるいはその患者を人間としてとらえて、患者を取り巻くさまざまな状況を知る、そういう中でコミュニケートしていくことによって初めて医師患者の信頼関係はできていくと思います。  この脳死の問題も、確かに医師への不信。私はさっきいろいろな安全策がなければこの脳死問題は難しいのだということを申し上げましたけれども、やはりそこのところをクリアしていく、日常的な診療の場できちっと医師患者がコミュニケーションできる、その上に立って信頼ができていく、そこがなければ、いつまでたっても堂々めぐりではないか。従前のように、お医者さんが仮に立派だとしても、立派だから信頼しなさいではなくて、やはり自分とのかかわり合いの中で信頼していく、そういう方策がとられなければこの問題は解決しないのではないか、こういうふうに考えます。
  33. 田口健二

    ○田口委員 それで、次に脳死。先ほどからいろいろ御意見がありますように、今日の段階ではまだなかなか明確な定義というのも決まっていないというのが現状であろうと思うのでありますが、仮にそれが決まりまして、脳死がいわゆる人の死である、これを認めるためには、どういう手続が必要になってくるでしょうか。これはひとつ法律家的な立場から西岡参考人斉藤参考人にできればお尋ねをしたいと思うのです。
  34. 西岡芳樹

    西岡参考人 先ほども申し上げましたように、私は、現在、人の死は三徴候死である。これは、法務省の方でも確認されたそうですけれども、そうだと思います。脳死が人の死となるためには、したがって死の定義が変わっていくのだと思います。  死の定義が変わるということは、先ほどちょっと申し上げましたけれども社会的合意が変わっていくか、あるいは新しい立法ができるか、いずれかが必要であろう。この問題について、例えば国会で過半数で立法していくということは決して好ましい問題ではないし、そういうふうな問題ではない。やはりこれは国民理解あるいは社会的合意の上に立ってはっきりさせるという意味での立法をやっていく、こういう手続が一番必要だろう。  では、社会的合意をつくっていくためにはどういうことが必要なのか。やはり正しいデータをきちっと国民に提供していく、これが必要だろう。例えば、さっき言いましたように、脳死の定義にしましてもさまざまあるわけでございますけれども、そのどの脳死をとるかということをきっちりせずに、脳が死んだら人の死かというようなアンケートをとってみても余り意味がないのじゃないかと思います。  それから、先ほど鎌田参考人の方で、臓器移植推進が七十数%だというふうにおっしゃいました。一方で、脳死が是認できるかどうかが五〇%ぐらいだというふうにおっしゃっているわけですね。そうすると、そこの二〇%の差は、要するに脳死問題が解決しなくても心臓移植はできるんだというふうな誤解があるのだと思うのです。事ほどさように、要するに心臓移植を推進するということは脳死状態での人の死を認めることあるいは脳死状態での臓器摘出を認めることなんだというふうな結びつきができていないで、移植はいいことだから進めましょう、脳死はやはり困るとか、こういう形での結果が出てきていると思うのですね。これはやはり国民にきっちりとした正しいデータや知識や情報が提供されていない。やはりそれを提供していく中で国民理解を得ていくべきです。  それから、加藤一郎先生などは社会的合意は蜃気楼だというふうにおっしゃったわけですけれども、私は決してそうは思わない。我々法律の世界では、社会通念とか慣習とかいろいろな言葉がございますけれども、例えば社会通念にしろ慣習にしろ、どういう形でいつできるのか、こういうのはわからない。しかし、慣習は現にあるし、社会通念というのも現にある。社会的合意というのはそういうたぐいの意味の言葉だと思うのですけれども、そういうことで、国民に対して情報を提供する、そしてそこを理解を深めていく。一方、医学界、いわゆるプロフェッションの内部できちっと討議をして統一していく。それが相まって社会的合意ができていく。その上に立って、さっき僕が言いましたように、機が熟せば、国民の間で理解が得られれば、臓器移植立法という形でこの脳死問題を認めていくというのが一番ベストの道だろう。その臓器移植立法をする場合には、先ほども言いましたけれどもドナー側レシピエント側の人権が十分配慮されるような条文もつけ加える必要があるのではないか、こういうふうに考えております。
  35. 斉藤誠二

    斉藤参考人 社会的合意というか、脳死の定義というようなものが国民の間にどういう手続で、どの程度浸透していくかという御質問であったわけでございますが、この点につきましては、ただいまの西岡参考人意見にほぼ尽きていると存じます。要するに、一言で言えば国民に十分にわかっていただく、そして、医者の間にも十分におわかりいただいて、機が熟したところで脳死立法をするということであるわけでございます。その点について全く異議はございません。  しかし、せっかくここで立たせていただいたものでございますので、一言だけ蛇足をつけ加えさせていただきますと、西岡参考人は、ただいま、私は死は三徴候である、それで法務省でも死というのは三徴候である、こういうふうにおっしゃられましたが、それはいずれも死とは何かということの定義ではございません、これは死をどう判断するのかという問題についての御説明であるわけでございます。ところで、現実に今脳死が死であると確信いたしておる医家、医者の方も多いわけです。それで、現実脳死が死だということを前提として、例えば臓器を摘出する、たまたま告発などはございますけれども、そのとき法律上どう評価さるべきものかということについて、一言だけ蛇足ながら言わしていただきたいと思います。  私は、脳死を死である、このように確信して行動したならば、現在の法律のもとでも、これは今その行為者は脳死は死だと思っているものですから、死人から臓器を摘出したということでございますので、殺人罪告発が行われておりますけれども、殺人の故意がないということでこれは殺人罪を構成しない、このように考えております。私はそのような考え方が妥当だと思っておりますが、仮に今一歩譲ってそのような考え方が誤りであると何らかの証明がつきましても、現時点において告発などがありましたとき、これが脳死の段階であるということを今行為者、医者側が証明することができれば、要するにプロセスさえしっかりしていれば、一般予防、特別予防という観点からいってこのような行為は起訴すべきでないし、このようなものはいわゆる刑事司法になじまないものだと私は思っております。  以上の点を一言だけ追加させていただきました。
  36. 田口健二

    ○田口委員 今の斉藤参考人のこれはもう御意見ですから、そのように承っておくわけでありますが、本委員会の審議の中で、法務当局は、例の和田移植事件については嫌疑不十分で立件するだけの証拠がなかったから不起訴にしたんだ、こう説明をしておるわけですね。先生のお考えは全くそれとは違うということでございますね。――はい、わかりました。  そこで、西岡参考人にお尋ねをいたしますが、きょうは日弁連という立場を代表してお見えになっておられると思いますが、この脳死臓器移植の問題について日弁連の中でも意見が分かれておるのではなかろうか。きちっとこの問題については全体で整理をされておるのでしょうか、その辺はいかがでしょうか。
  37. 西岡芳樹

    西岡参考人 御承知のとおり日弁連というのは一万三千の構成会員がおりまして、国民のコンセンサスと同じで、会員が全部一致しておるということではございません。一応日本医師会生命倫理懇談会の中間報告書最終報告書には日弁連の公式的な見解として見解を示させていただきましたけれども、現在、むしろ他の意見書に対する批判というような形ではなくて、日弁連としてこの問題をどう考えるかということを日弁連の中で討議をしております。これは遠からず意見は出ると思いますけれども、だから、現在のところ、日弁連としてこの問題に真っ正面から取り組んでどう考えるかという点が統一できておるかと言われれば、できていないという現状でございます。  先ほど私が申し述べた、脳死に絶対反対ではない、いろいろな問題がクリアできれば、場合によって国民理解が得られれば脳死を認めるべきであるという私の意見は、日弁連の多数の意見ではございますけれども脳死は絶対認めるべきではない、心臓が動いている以上それは人の死ではないという立場をきちっと持っておられる先生方もたくさんいらっしゃいます。多数は私が先ほど述べたような意見であって、その方向で日弁連の意見書が遠からずまとまるであろうというふうなことは言えると思います。  以上です。
  38. 田口健二

    ○田口委員 続いて西岡参考人にお尋ねをいたしたいと思います。  今後こういう臓器移植とがう医療がずっと定着をしていくということになった場合に、いろいろな問題が当然発生をしてくるだろうと思いますが、参考人の方でお考えになって、こういうことが一番大きな問題になるというふうなお考えがあられるかどうか、ありましたらひとつお聞かせをいただきたいと思います。
  39. 西岡芳樹

    西岡参考人 仮に脳死国民の認知を得て移植医療が始まったとした場合に、考えられる問題点幾つもあると思うのです。  一つは、先ほども言いましたように、貧者がドナーとなって富者がレシピエントになるというようなことは決してあってはならない。要するに経済的な側面です。これはそれなりの基金あるいは国家財政というものがきっちりとバックアップしなければいけないだろうというふうに考えております。  それからもう一つは、やはりネットワークでございます。これはアメリカなんかでも、UNOSという形でネットワークができておりますけれども、やはり日本でもそういうネットワークをつくっていかなければ、特定の医療機関から特定の医療機関にしか臓器が行かないということが起こるでしょう。そういうことが起こった場合に、その特定の系列の医療機関同士の先生方が非常に親しくなれば、場合によったら我々が考えている脳死判定基準が甘くなったりはしないかというふうな危惧も抱いています。  それから、ドナーの同意、善意の問題、これをどうするかという問題が起こります。あるいはレシピエントについての説明をどうするかという問題が起こります。  こういういろいろな問題が起こるわけですけれども、一番大きな問題はドナー不足だろうと思うのです。ドナー不足をどう解決していくかというのは、やはり国民に対してこの問題をきっちり理解していただく形でこの問題が発車しなければ、先ほどから参考人の方で今でも遅過ぎる、もっと早くというふうな意見も出ていますけれども、そういうふうに性急にこの問題が発車すれば、国民理解は得られない、逆に反発が来るだろう。その反発が来た中で、現在でもドナー不足が予想されているのになお一層ドナーが出てこないだろうという事態が起こるだろうと考えています。  そういう意味でここでじっくりやっていただきたいというのは、やはり国民理解を得て、十分納得した上でのドナーが出るというふうな形でやっていかなければいけないし、もしそのような形で見切り発車してしまいますと、また別の形でドナーを探すといいますか、先ほども言いましたけれども、善意だけではなくて、主治医が無理やり説得してやるとか、あるいは植物人間とか無脳児とかいわゆる社会的に生きる価値がないんだからこうだああだというようところへエスカレートしかねないのではないか。そこのところをやはりきっちり解決していく。そのためには今多少時間がかかってもきっちり国民の間で議論してやっていかないと移植医療は定着していかないというふうに僕は考えます。
  40. 田口健二

    ○田口委員 もう一つ西岡参考人にお尋ねをしたいのですが、現行法では角膜、腎移植については法律があるわけです。この現行法の運用の中で、特にドナーに関してだと思いますが、何らか問題点というのはございますか。何かお気づきの点がございましたらお知らせいただきたいと思います。
  41. 西岡芳樹

    西岡参考人 これも先ほど意見の中で若干述べましたけれども、現在の角膜及び腎移植につきましては、亡くなられた方が提供したいというお気持ちがあっても遺族が反対すればできない。それから、亡くなられた方が絶対提供するのは嫌だとおっしゃっても遺族が提供してもいいと言われれば提供されるというシステムになっているのですね。現実の運用の中ではそれが多少考慮されていると思いますけれども、そういうシステムそのものがおかしいのではないか。やはりドナーといいますか亡くなられた方の意思が最優先であって、その方が提供したいと思えば家族反対しても提供される、その方が嫌だと思えば家族が提供したいと思っても提供できない、こういうシステムにしていく必要があるだろう。亡くなられた方が意思を表示していない場合に初めて家族の意思というのが出てくるというシステムにならないとおかしい。あるいは家族につきましても、現在の法律では全く範囲、順序が決まっていないということで、奥さんが同意されても遠くから来たおじさんが何てことをするんだということで撤回されるとか、そういう問題がさまざま生まれているわけですね。あるいはその家族全部集めなければいかぬのか、一人がアメリカに留学しておられるということであればもうできないというふうな問題もありますし、その辺についてそれなりの整理立った順序を法律の中でつけていく必要があるのではないかというのが一つでございます。  もう一つは、患者の人権保障の手続が全く法律の中にはございませんので、その辺についても、今回臓器移植立法という形で、角膜及び腎臓だけではなくて心臓、肝臓等も含めた法律がきっちりできるならば、その辺についてはやはり患者の権利の一項がどうしても入るべきだ、こういうふうに思っております。
  42. 田口健二

    ○田口委員 それでは、最後に鎌田参考人にお尋ねをしたいのですが、先ほどいろいろと御意見もお伺いをいたしました。時間の制約もあって、脳死関係についてはまだまだ言いたいことがたくさんある、こういうふうにおっしゃっておられるわけですが、今までの御意見のほかにぜひこの点は話しておきたいという点があれば、少しお伺いをしておきたいと思います。
  43. 鎌田直司

    鎌田参考人 私は、イギリスにいたとき、イギリスの脳死の先駆者であるところのプロフェッサー・パリスという方がいらっしゃいますが、その方とよく議論しました。その方が言うには、例えば鶏の頭をぽんとはねた場合は、鶏は歩くのです。一体それを死と認めるのか否か。それは瞬間的な、数分であるかもしれません。しかし、その数分に死とは何かという根源が隠されているというわけです。したがって、この一つを見ましても死というのは極めて定義しがたいものではあるけれども、どこかで線を引いて定義しなければいけない、そう思うわけです。  それで、今考えられる最もソフィスケーテッドな、つまり洗練された死、管理された死というのは、僕は脳死だと思います。心臓死に比べていかに脳死がきっちりと評価されるかというと、例えば心臓死は聴診器で聞く。これは、耳の遠い人とか聴診器が悪ければ聞こえない。音の問題。それから、大体心臓がピーというか真っすぐになる。しかし、これは脳波のように鋭敏な電圧を使えば、それはバイブレーション、ビーと響くわけです。したがって、心臓死であるからといって心電図に頼っている、ないし聴診器に頼っている、これがいかにあいまいな死であるか。僕は、むしろ心臓死は非常にあいまいな死であると思います。  それからもう一つ、それならば餓死はどうするのか、溺死はどうするのか。高名ないろいろな反対者の方が死について言うのですけれども、それは大体器質死なわけです。ファンクショナルな死でないわけです。それで、三徴候の死、クラシックな、古典的な死をもって死にましたよと言っても、次の日にまたひげが生えてくる、ひげは死んでないんじゃないか。それから髪はどうするのか、ミイラは髪は黒いじゃないか。こういうさまざまな死。  さらに言うならば、宗教家にとっては死とは魂の問題である、死を迎える瞬間というのは魂が肉体から出ていくことである。極端に言うとそうですけれども、こういうさまざまな死、国民の各層が抱いているさまざまな死に対して、脳死だけではなくて、臓器移植だけではなくて、基本的に歴史的にきっちりとした見解を与えて各界の合意を得る、これが調査会の非常に大きな役割ではないかと僕は思っています。
  44. 田口健二

    ○田口委員 以上で終わります。
  45. 吹田愰

    吹田委員長 この際、暫時休憩いたします。     午後零時二十四分休憩      ────◇─────     午後一時十七分開議
  46. 吹田愰

    吹田委員長 休憩前に引き続き会議を開きます。  質疑を続行いたします。竹内勝彦君。
  47. 竹内勝彦

    竹内(勝)委員 参考人皆様方には、午前中より引き続きこの脳死及び臓器移植調査会設置法案にかかわりまして貴重な御意見を賜りまして、ありがとうございます。若干の時間をいただきまして、私の方からもさらに皆様方の御意見をお伺いしたいと思う次第でございます。限られた時間でございますので、できるだけ焦点を絞ってお伺いしていきたいと思いますので、その点もよろしくお願いしたいと思います。  まず、鎌田先生にさらに引き続きお伺いさしていただきますが、先ほど陳述の中におきましても、五項目を挙げて先生のお考え等も披瀝されまして、非常に参考にさしていただいたわけでございますが、時間の関係でもうちょっと言い足りなかった点もあったと思いますので、その点をつけ加えていただくのと同時に、特に日本人が、肝臓やあるいは心臓や腎移植を求め、海外に出かけていっておる。そして日本国内では、脳死臓器移植法律の問題、そのほかの問題等々において今検討段階でございますけれども、いろいろ論議ある中でありながら、国内的には確かにそうでございますが、いわゆる外国へどんどんこういうようにして出かけていっておる、この現実ですね。  いわゆる海外との医療摩擦、そういった面でお述べにもなりましたが、その問題と同時に、臓器移植に関しては、費用の面におきましても、例えば心臓移植費、一つの例でございますが、スウェーデンでは日本円にして約七百五十万円ぐらいかかっておるというような状況でございます。アメリカで七百四十万円から一千四百万円。それから肝臓移植でも、スウェーデンでは一千三百万円、アメリカでは一千四百万から一千八百万円、そういうような状況である、こういうように伺っておりますけれども、こういう費用の問題がある。国が負担しているところもありますけれども、そういった面をどういうように考えていったらいいのか、そういう面も含めまして、最初に鎌田先生から御説明いただければありがたいと思います。
  48. 鎌田直司

    鎌田参考人 日本人が海外に行く、これは僕の意見ですけれども、これを決してとめることはしない。一番最初に日本から肝臓を求めて行ったのは高橋美加ちゃん、これは三年前です。ちょうど私が日本に帰ってきましたとき、東京医大の木村幸三郎教授から、どうしても助けたい、親は医者であるし、開業医院の土地を売って助けたい、そういう意見を聞きました。それで早速アメリカに紹介状を書きました。それが口火になって次々と出かけていったのですけれども、それは外国に対して済まないという気持ちもあります。しかし、一人の命というのは日本の全部のメンツよりも重いと思います。今でなければ救えない、これは親の気持ちであって、これを救うためには外国へ行くのもやむを得ない、僕はそう思います。  一方、費用の面ですけれども肝臓移植に例えるならば、大体オーストラリアが一千万、イギリスが二千万、ドイツもそのぐらい、アメリカは天井知らずです。  それで、こういう例がありました。それは去年の八月、突然アメリカの某大学の知っている教授から僕のところに電話が入ったのです。日本人の患者で、手術したけれども、もう感染症を起こして今ICUに入っている。患者が言うには、一日二百万かかるからもう帰りたい。それでどうしたらいいか。僕は、帰してくださいと言いました。一日二百万では幾ら土地を売ったからといってもつものではない。それで急遽飛行機をチャーターして帰ってきたわけです。日本に来て一カ月以内に亡くなられましたけれども、こういう例は、やはりすさんだ一つの状況を示すものと思います。僕に術後を管理してくれるならば帰すという条件で来たわけです。  それで、イギリスの医療摩擦の例を申し上げますと、イギリスではサッチャー首相がプロフェッサー・カーンのケンブリッジ・グループに対して、日本人をイギリス人に対して優先させたに違いないと調査命令が出ました。その後プロフェッサー・カーンに会ったところ、プロフェッサー・カーンはこう言いました。それは私が医学的信念で決めたことであって、政府が関与する問題でない、こういう感じでプロフェッサー・カーンは受けとめてくれました。  それからアメリカ、これはアメリカ人以外の外国人を受け入れるのは五%、こういう規定を設けています。ピッツバーグのスターズルのグループというのは、脳死を認めない日本人の臓器移植は拒否すると明確に言っています。  オーストラリアはオーストラリア人が優先である、余った場合は日本人、こういうことを言っています。オーストラリアで最初に生体部分移植を行ったのは、日本人の前に十人ぐらいたくさん待っていたのですが、とにかくあと数日の命ということで決定したわけです。これもオーストラリアではやむを得ない決定であったと思います。そういうことで、海外では非常に大きな摩擦というのが、起きていることは起きているし、ブリスベーンでも、日本人をたくさんやっていることはなるべく伏せておきたい、こう僕に言っています。  それで、今後日本で起きるところの費用の面についてですけれども、僕は、今直ちに健康保険ですべてをカバーする、例えば腎臓移植のようにすべてをカバーするということは、非常に健康保険そのものに負担をかけると思います。今腎臓はたくさんの制度でもってカバーされていますから、特に心臓それから肝臓、その部分においては、早急に厚生省の努力によって臓器移植推進財団をぜひつくってほしい。将来的に数百億、五百億になるならば、これは国家の保険制度の中での他の支出分野との整合性の問題であるから、そうなったらそうで健康保険を考えるとしまして、初期には、あすにでも必要なんですから、ならば、ぜひ財団をつくってほしい。三%の負担でもかなり大きいのです。したがって、臓器移植を受けるか受けないかを個人のお金があるかないかの問題に決して帰さないように、そうしなければ国民の支持というのは受けられないと思います。  以上です。
  49. 竹内勝彦

    竹内(勝)委員 それと西岡先生にお伺いしておきたいのですが、先ほどからの御意見、いろいろお伺いしている中で、脳死の定義、死の判定基準というかそういうものに関しましては非常に難しいものがございますし、こんなものを多数決の原理や国会で政治面において何か決めていくというのは非常に問題点があるという意見、私もそのとおりだと思います。あくまでも死の判定なり脳死の定義というものに関しましては、科学的にそして医学立場においてそれが妥当であるというものが事実そのものでなければならないわけでございます。そこに感情だとか国民の大多数の意見がどうだとか、そういうものではないと私も理解はできます。  したがいまして、今回の調査会設置法、これに関しては皆さんの御意見をお伺いいたしました。そこでさらに、調査会のメンバーがどういう人選になるのか。先ほどもちょっと話がございましたが、この人選によって、人によって大体結論が決まってくるというような意見もございましたが、確かにそれもメンバーにどういう人たちが選ばれていくかということでは非常に重要な問題だと思います。それともう一点は、その次の段階、調査会におきまして論議を行い、そして二年なら二年、あるいはどれぐらいなのかわかりません、その十分な意見を交換した上におきましてもしもこれが立法化という場合に、先ほど西岡先生は臓器移植立法という表現を使われました、そういう意味から考えてみますと、脳死というものは非常に難しいものがあるために立法化は非常に難しいのではないかということが理解できるわけでございますので、そういう意味からも、今後の立法化に関してはどういうようなお考えを持っておるのか、その点に関して西岡先生からお伺いしておきたいと思います。
  50. 西岡芳樹

    西岡参考人 まず、調査会のメンバーの件につきましては、先ほどここでも申し上げたとおり、しかるべきいろいろな各界から人選されてくると思うのですけれども、そういうしかるべき団体に推薦をお願いして、その方を委員として選考するという方法をとっていただきたい。こちらからAという人を指名して人選するというのは、先ほども申しましたように、指名段階で既に何らかの結論が決まっておるというふうに国民に受け取られかねないという要素があると思います。日弁連でいいましても、この政府委員会になぜこの人がというようなケースも今までなきにしもあらずでした。やはり日弁連の代表、あるいは日弁連から推薦されるのであれば日弁連の意をきちっと体してやっていただける委員を選考したいというのが弁護士会の気持ちでございますし、他の団体についても同じようなことだと思います。そういう意味でできるだけそのような人選をお願いしたいということでございます。  それからもう一つ臓器移植立法がどうしてというふうな御質問ですけれども、私は、法律脳死を決めるよりは、臓器移植立法の中で脳死状態になれば臓器を一定の要件のもとに摘出できるんだという形での臓器移植立法の方が望ましいというふうに思います。一つは、それによって臓器移植ができるかどうかという今のお医者さんのいろいろな迷いとかそういうものをきちっとできるということ、もう一つは、やはり脳死の問題をある日突然、例えば十一月一日から法律施行だったらその日からはもう脳死が唯一の死の基準だということになりますと、多分レスピレーターでつながれていてドナーにならない人もレスピレーターを切られる、いわゆる健康保険が適用にならないということになっていくと思うのです。そうではなくて、やはり人間の気持ちというのはある日突然法律ができたから切りかわるというものではないし、遺族、家族の気持ちということを考えれば、少しずつならし運転といいますか、そういうような形でやっていかないとスムーズにはいかないだろう。現在アメリカでも、脳死立法ができておる州でも、脳死になっても家族からレスピレーターを外さないでほしいと言われると必ずしも外さないというのが実情のようでございます。日本の場合は健康保険の問題がありますので、その場合に、脳死の判定があるとそれ以後は治療ではないから健康保険が出ないという形になりますと、やはりそこにぎくしゃくした問題が出てくるのではないか。脳死というものが国民合意に支えられていくという建前をとる以上、臓器移植についてはやはりそれなりの手当てをきちっとしておく必要がありますけれども、必ずしもドナーにならない患者について脳死立法的なものは不必要であろう。臓器移植において脳死状態で摘出できるということで、脳死が人の死だという意は十分通ずるのではないか、こういうふうに考えております。  以上のような次第で臓器移植立法ということを申し上げた次第であります。
  51. 竹内勝彦

    竹内(勝)委員 さらに専門的なことでございますので、斉藤先生、それから鎌田先生にお伺いしておきたいのです。  脳死ということに関して先ほども意見を述べられましたが、全脳死とするのか脳幹死とするのか、どの辺がポイントなのかその辺ちょっとわかりませんが、脳死に関してもうちょっと突っ込んだ、専門的なことになると思いますけれども、もう一度御説明いただければありがたいと思います。
  52. 斉藤誠二

    斉藤参考人 ただいまの御質問は、脳死という場合に全脳死か脳幹死か、こういう御質問でございますが、私は医学の専門家でございませんので、むしろ鎌田先生からお話しいただいた方がよろしいかと存じます。  ただ、私たちは、さしあたって全脳死という考え方をとっているわけでございます。今、脳幹死と全脳死との違いというのはこういう場合に生ずると聞いております。それは、脳幹の部分は死んだ、しかし大脳半球の部分は生きている。それはわずか数時間の違いだ。それを脳死とするか、あるいはそうでないとするかの違いだと聞いているわけでございます。私たち法律専門でございますので、さしあたって脳幹死ではなくて全脳死脳死と考えておりますけれども医学の大勢がイギリスのように脳幹死が妥当であるということになりましたら、脳幹死ということも十分採用してよいだろう、こんなふうに思っております。
  53. 鎌田直司

    鎌田参考人 脳幹死か全脳死かというのは、イギリスが一番先鋭的に脳死というのは脳幹死をもって脳死とすべきであるという結論を明確に出しています。というのは、ファンクショナルな死であるということをイギリスはきっちりととらえているからです。脳幹死というのは、すなわち呼吸の停止なわけです。それで、脳死というのはいずれにしても非常にソフィスティケーテッドな、すなわち非常に管理された死であるわけです。したがって、ネバー・リターン・ポイント、そこが脳幹死なんだということをイギリスは膨大な症例を示しているわけです。ただし、世界の大勢としてはやはり全脳死をとっていると思います。  全脳死と脳幹死の最も大きな違いというのは、もちろん全脳死も脳幹死プラス脳の死なわけです。それで、脳幹が生きていて脳の機能が麻痺しているのが植物人間であるわけです。したがって、植物人間と全脳死、脳幹死は全く違うということは覚えておいいてください。一番大きな違いというのは、全脳死ならば必ず脳波をとらなければいけないけれども、脳幹死の場合は必ずしもとる必要がないということが脳死の判定の中ではあらわれています。したがって、イギリスがたくさんの例の中から脳幹死をもって臨床の判定だけで確実に判断できる、しかも膨大な症例を積み重ねた上でどんな素人でも間違わないできっちりと判断できるという自信を持ったからこういうことを出してきているのだと思います。現に僕がイギリスにいたときも、イギリスの学生は脳死の判定をどうするかということを、ケンブリッジの病院で脳死が出た場合は必ずその実習に参加してきています。  日本がどれをとるかということは今後の論に任されるにしても、竹内基準が全脳死である限り――厚生省が膨大なるエネルギーを払って出したところの結論、竹内基準というのは世界的にも高く評価されています。海外で僕が竹内基準を示したとき、これでイナフ、十分である、むしろ世界の傾向としては竹内基準よりももっと下げても正確だから、そういう方向にあるんだということは言っています。したがって、大阪大学とか個々の大学が、竹内基準脳死の判定の後にホルモンが出てくるとか血瘤の云々があるとか言うことは、むしろファンクショナルな、機能死ではなくて器質死に至るものであって、それは全く無意味であると断定してよろしいと僕は思います。
  54. 竹内勝彦

    竹内(勝)委員 西河内先生にお伺いしておきたいのですが、先ほど来からも論議があるわけですけれども脳死論議するときにはどうしても国民合意というものが必要になってくるのではないかという意見が多かったわけでございます。本日、全国肝臓病患者連合会事務局長として西河内先生に参考人としておいでいただいたわけでございますけれども国民的な合意というものをつくり上げていく、とにかくこれは今切実な問題であることは確かでございますね。これをどう盛り上げていったらいいのが、そしてどのような考え方で今後進めていかなければならないのかということがございますので、その代表というお立場から御意見をいただければありがたいと思います。
  55. 西河内靖泰

    西河内参考人 余り患者の側からこうやってほしいという形で押しつけがましいことを言うのが国民合意の形成に果たしてプラスになるかどうかという問題もありますが、こちらとして非常に希望することは、要するに物事は常に科学的に冷静にやってもらいたいということなんです。例えば肝臓病の患者で、肝硬変で、肝がんでもうあすがない、あるいは胆道閉塞症でもう移植しか道がないという危機的状況になったときに、意識としては待ったなしでとにかく何とでもやってもらいたい、もっとはっきり言うと、早くだれか死んでくれないかというふうに腹の底では思ってしまうという、人間として実にあさましいけれども本音としてそれが出てしまう部分というのは人間としてはあるのですね。その気持ちがないということはうそになりますからそういうことも言いますけれども、しかしながら、積極的に推進してやってほしいということは患者会の側からはできるだけ言わないようにしたい。慎重に論議していってもらいたい。  感情的な問題で物事を論議されていきますと、例えば脳死を死と認めて移植という形になったときに、西岡先生も言われましたようにドナーが不足してしまうとか、臓器の提供を受けて移植して生き長らえたとしても、その生き長らえたことに対して国民の反感を買ってしまう。反感を買ったまま後の生を生きていくということは、実際のところ患者家族にとっては非常につらいことです。とにかく当面助かりたいという気持ちがあるからそれは受けるかもしれないけれども、それをやった後かえって苦しい思いをするのならば何のためのものであったのかということがある。さまざまな層の方がその論議に参加できるような形、お医者さんとか専門家とか学者先生だけで論議されるような形ではなくて、幅広い、といったって程度がありますから、その辺は専門ではございませんのでよくお考えいただければと思うのです。  患者の側からの意見も、必ずしも推進というだけではなくて、じっくり慎重に構えてもらいたいと思っているのが非常に多いのです。慎重にやっていただかないとその影響が後に残るというのはさっきも言いましたけれども、そういう思いがありますから、例えば患者会なんかでアンケートをやったときでも、半数以上が仮に認められるとしてもしっかりと国民的な合意を得られるような形でやってもらいたいという結果が来ている。だから、今の段階で性急に事を運んではいただきたくないというわけなんです。私は、具体的にこうやったらいいああやったらいいと今すぐ答えられないところがちょっとつらいですけれども、とにかく慎重にかつ科学的に、私どもにもわかるように、患者側に悪影響が出ないような形でやっていただければ幸いだと思います。
  56. 竹内勝彦

    竹内(勝)委員 重ねて鎌田先生にお伺いしておきます。  脳死の判定基準について、昭和六十年十二月に厚生省脳死に関する研究班が脳死判定基準というものを発表しております。そこにはいろいろなことがございまして、最後の方でございますが、「時間的経過」というものがございまして、「六時間経過をみて変化がないことを確認する。」こういうようにございます。それ以外のことは、例えば自発呼吸の消失とか深昏睡とか瞳孔の問題だとか脳幹反射の消失とかいろいろあるわけでございますけれども、「六時間経過をみて変化がないことを確認する。」こういうようになっております。その辺の考え方、専門家としての御意見をお伺いしておきたいと思います。
  57. 鎌田直司

    鎌田参考人 その六時間という時間の決定の仕方については、非常に難しいと思いますけれども一つは一たん決定したところの、確認したところの死というのは、脳死ならばぜひリピートされて確かめられなければいけない、この次に確かめる時間の長さが六時間であると思います。どうして六時間が出てきたのかというならば、それは世界の潮流が六時間、六時間経過した後の判定はほとんど変わらない、こういう長い経験から出てきたものであると私は考えています。ただ、州政府によってはそれを十二時間にするとか病院によっては何時間にする、そういうことがあるかもしれませんけれども、もし法律でそれを肯定するならば、六時間をもって最終的に死、そういうことが確認されてくると思います。六時間というのは、医学的な権威というよりも、六時間以上たった場合再確認してもミスがない、こういう経験に基づいたものであると僕は理解しています。
  58. 竹内勝彦

    竹内(勝)委員 関連してでございますが、臓器の代替手段、例えば人工肝臓、人工心臓等でございますね。先ほども西河内さんからもございましたが、臓器移植をやらなくても病気が治るようになっていけばそれにこしたことはないわけでございまして、先生はケンブリッジにも長くおられたようでございますし、そういう現状をひとつお聞かせいただければありがたいと思います。
  59. 鎌田直司

    鎌田参考人 まず肝臓から述べます。  肝臓は唯一ぜひ移植に頼らなければ生命を維持し得ない臓器であると思います。もし肝臓の機能をすべて機械で補おうとするならば霞が関ビル一つの装置をもってしても償えない。現在、近い未来において肝臓が人工臓器にかわるという可能性は全くない。あるいは一部を代用できるかもしれない、ほんの数時間激症肝炎をとめられれば生命を維持することができるかもしれない、しかし、一たん激症肝炎が始まったらほぼ絶望的である。あらゆる手段をもってしても、例えば豚の肝臓を回しても決してそれは代用臓器とはなり得ない、こういう厳しい状況にあります。それは世界的認識だと思います。  次に、心臓。これは大胆に人工臓器へという方向を進んでいます。したがって、心臓移植はぜひ臓器移植をしなければならないという症例を除いては中間的に人工心臓で補っていく、こういう研究が世界的にどんどん進められていくと思います。それは心臓が大きなファンクションとしてはポンプだからです。  それから、腎臓。これはよく御存じのように人工腎臓があります。したがって、たとえみずからの二つの腎臓が機能を停止したとしましても人工腎臓に頼って数十年間は生命を全うできる。ただ、ここに一つ疑問があるのです。それならば全部人工腎臓をやってもいいのか。違います。人工腎臓のフィルターですけれども、フィルターで吸着し切れないファクターがたくさんあるわけです。例えば骨がもろくなっていくとか色が黒くなってくる。したがって、たとえ拒絶されようと、植えられた腎臓というのは今の医学の力をもってしても吸着し切れないところのフィルターの欠点を補うことが短期間であっても可能である。したがって、アメリカでは、たとえ拒絶されようと一度でもいいから腎臓を植えてやることによって患者の命はずっと長らえられるのだ、こういう傾向にもあります。  それで、腎臓と心臓それから肝臓の移植の問題は、現在は成功率がかなり高まってきています。腎臓移植は五年生存率が九〇%近くなってきているし、肝臓も七七%から八〇%、施設によっては九〇%を超えています。したがって、ベタークォリティー、よりよい生活を求めて臓器移植をする、世界は既にその方向に流れています。日本はまだ生命を維持するためという感じで臓器移植をとらえていますけれども、その彼我のギャップというのはいかんともしがたいと思います。  一応そういう傾向にあることを述べておきたいと思います。
  60. 竹内勝彦

    竹内(勝)委員 続けて鎌田先生にお伺いしておきたいのは、海外の現状なども踏まえてお聞かせ願いたいのですが、例えば臓器提供者の登録制度というようなものが海外にあるやに伺っておりますが、そういう面をあわせて、どんなお考えを持っておるのかお聞かせいただきたいと思います。
  61. 鎌田直司

    鎌田参考人 欧米の主流というのは自己申告制なわけです。自分が死後、脳死と判定された後臓器を提供する、それを意思表明するかしないかの差で臓器移植をするかしないかを決めていく。ただし臓器を提供しますと自分で書いた人であっても、必ず両親ないし親族に尋ねます。それでもし親族がノーと言った場合は移植をしない、そういう雰囲気にあります。したがって、何が何でもとるということではありません。  それから、もっと強烈なのはフランスであって、自己の死以前に臓器提出に対してノーと言わなければ法律で強制的にとる、そういうことが義務づけられています。これはソ連もそうです。しかしながら、その場合であっても、フランス人に聞いたところ、両親に尋ねて両親が完全にノーと言うならばやはりとらない、こう言っています。これは人間の温かさであると思います。  イギリス、フランス、アメリカの例を見ましても、向こうの人がみんな脳死に賛成しているかというとそうではなくて、宗教上の理由あるいは何らかの理由によって一割から二割、二〇%近くの人が脳死であっても提供しません、そう言っています。それは、医療機関というのは大体それをアクセプトする、そこに強制力というのは何も働いていません。  最後に、いかに登録するかということでぜひ調査会の名をもってはっきり記入しておいてほしいのは、アメリカで行われているように、免許証の裏に、自分は脳死を許容するかどうかではなくて、死後臓器を提供しますか、イエス・ノーの欄を設けて必ず記入しておいてくれると非常にありがたいと思います。今、日本では臓器移植に提供するという意思表明をしたのはほぼ三十万人と言われています。その三十万人の中から腎臓でも何でもとれたというのはほんの一%ぐらいなわけです。このままでは絶望的な制度であると思います。したがって、免許証ないしは種々のそういう証明書の裏には臓器移植の提供のイエス・ノーを記入する欄を必ず設けてほしい、そう要望しておきます。
  62. 竹内勝彦

    竹内(勝)委員 それではさらに、時間も限られてほとんどございませんが、斉藤先生、西河内先生、西岡先生にお伺いしておきたい点は、脳死の判定あるいは脳死の定義。さらにまた、今後に予想される問題でございますけれども立法化の問題。例えば、先ほど西岡先生からは臓器移植立法というようなお言葉をいただきましたし、斉藤先生はたしか脳死立法というような表現をされておりました。脳死及び臓器移植立法だと思いますけれども、その辺も踏まえ、あるいは先ほどもございました費用の問題、非常に莫大な費用がかかっていくわけでございますし、これは国としての本当に重要な立場があるわけでございます。なおかつ、これは長い問題でございますけれども、非常に緊急的に重要な問題でもあり、これはどうしてもこの論議を続けていかなければなりません。そして何らかの措置をとっていかなければならない、そういうときでございますので、ぜひつけ加える点をお述べいただきまして、私の質問を終わりたいと思いますので、よろしくお願いしたいと思います。
  63. 斉藤誠二

    斉藤参考人 ただいまの第一点の御質問でございますが、西岡先生は臓器移植法、私は脳死法、このように立法を推進するかのように先ほどは言わせていただきました。しかし、これは世界の立法例というものを見てまいりますと、ごくごく簡単に見ますと、脳死立法とそれから臓器移植立法、これは二本立てでいっているもの、それから脳死立法の中に臓器移植についても触れているもの、それからさらに臓器移植だけでいきその中に脳死について触れているもの、それからさらに脳死についても臓器移植についても全然法律規定のないもの、このような四つの形に分けることができようかと思うのでございます。  私は、本当のところは脳死についても臓器移植についても格別法律がなくても、現状においても十分脳死を認め、また脳死前提とした臓器移植ができるという立場をとっておりますので、元来は脳死立法なり臓器移植立法なりなくてもよいという立場をとっております。しかし、現実には告発事件というものが起きております。そして、私は直接には存じませんが、私が間接的に見聞きするところでございますと、検察当局も非常に大変な努力を払われているかともお伺いいたしております。現実告発事件というようなものが三件続けてありました。そして、先ほども言わせていただきましたように、いたいけな子供まで海外に行って移植を受けてくるといったような状況でもございます。ですから、元来は、理論上は脳死立法なり臓器移植立法なり私はなくてもよいと思いますけれども現実問題として脳死立法なり臓器移植立法なりがあった方が恐らく移植医先生方にとって望ましかろうというように思いましたので、私は先ほど脳死立法という言葉で言わせていただきました。  ついでに何か発言しろということでございますので、一言だけ脳死臓器移植との関係について言わせていただきますと、脳死臓器移植というのは、ここで提案されました立法案では、脳死及び臓器移植調査会設置法案ということで、脳死臓器移植ということをワンセットに考えられているわけでございます。世間では一般にそう考えられておりますけれども、理論上は脳死ということと臓器移植とは分けて考えるべきものであるし、また分けて考えられるべきものだと思います。これは一九七二年のヨーロッパ会議の決議なども明らかにそう言っております。なぜならば、脳死かどうかということは、一体全体法律でどこまで人の生命を保護するのかという問題を正面から問題にしているわけでございます。ところが臓器移植の場合は、今ここに移植を必要とする患者さんがいる、それをどういう形で救済していくのかという問題で、実は理論上はこれは分けて考えられるべきものだと思われるわけでございます。しかし、現実には脳死というものを前提とした臓器移植というものが考えられておりまして、これはワンセットで考えられておりますので、理論の問題とは別に現実問題としてワンセットで考えてもよいだろうということ、そしてしかも、現実の姿を見ると、何がしかの立法があった方が事態を明快にするだろうと思いましたので、先ほどのような発言をさせていただいたわけでございます。  以上でございます。
  64. 西河内靖泰

    西河内参考人 法律ですべてを決めようという考え方に基本的には疑問があります。ですから、脳死立法にしてもあるいは臓器移植立法という形にしても、そういう形は基本的には好ましくないのじゃないかとは思います。  ただ、斉藤先生もおっしゃいましたように、何らかの基準とか規範がなければ野放しな形になってしまう可能性もあるし、それから刑事的な問題とかそういう問題も出て、法律がないと現実的には厳しい点もあるということで、法律家の先生からすれば現実問題として法的なものがあった方がよろしいのじゃないかというふうな意見はそれなりにわかりますが、患者の側からするとどっちがいいものかというのはなかなか言えない点があります。  ただ、例えば本当に今の段階で移植がきっちり成功し、そうして自信を持ってやれるのだったら、たとえ刑事告発を何回されようが、本来的には移植医の方はできるはずですね。しかしながら、例えば筑波大のあれも、カルテの改ざんというのが現実にあったとお聞きしますと、それは刑事告発の対象になるような中身を多少なりとも含んでいるのではないかということもありますから、本当に恣意的にはやられないような形で法律化せざるを得ないのじゃないかなとは考えます。ただ、はっきり言ってどっちがいいとも結論めいたことは言えないような気がいたします。  それから、つけ加えて何か言うとしますと、やはりもう一度前に言ったことを繰り返しますけれども、とにかく今のままですと、どういう形になっていくのか私たちにはとてもわかりません。だから、本当に目の前の現実だけに目をとられて患者の声を代弁するかのような形ではなくて、患者の側の方がもうちょっと皆さん冷静になって物事を進めてほしいと言っているのですから、移植医の方とかなんとかが患者を救わなければならないという、余りに感情的というか、そういう意欲に燃えられるのは、基本的にはわかりますけれども、いま一度科学者としての立場に立ち返って、冷静な形で物事を進めていっていただきたい、そのように思っております。
  65. 吹田愰

    吹田委員長 ただいま、斉藤参考人から追加発言の申し出がありましたから、これを許します。斉藤参考人
  66. 斉藤誠二

    斉藤参考人 一言だけ西河内参考人の御発言に関連して追加発言をさしていただきたいと存じます。  ただいま、西河内参考人からは、筑波大学のいわゆる膵腎同時移植事件についてカルテの改ざんがあったという御指摘がございました。実は、私は本日そこは発言するつもりはございませんでしたが、相当程度この事件については知らないわけではございません。あえて一言言わしていただきますと、ただいまの西河内参考人の御意見は誤りです。この点だけ一言追加発言させていただきます。カルテを改ざんしたようなことはございません。  それで、私はその立場にございませんが、あえて言わしていただきますと、カルテ並びにその他の資料はすべて検察当局に提出してございます。今、西河内参考人から、移植医方々告発を恐れず、自信があるのなら堂々とおやりなさいという御趣旨の発言がございました。私も四年前の移植学会にお邪魔いたしましたが、その際に、時代の先端を行く者は常に受難の道でありイバラの道である、されば、医家の良心と信念と使命感を持ってひとつこの道を前進してください、このように言わせていただきました。しかし、それは言うべくしてたやすく、非常に困難な道でございます。  先ほど私は、その程度でやめさせていただこうと思ったものですので、あえてそれだけしか言わせていただきませんでしたが、検察当局も非常に告発事件で御苦労なさっているということを、私は直接には存じませんがという形で言わしていただきました。私が知る限りでも大変な御苦労をなさっております。今その機会ではございませんが、それは大変な御努力であるし、またその関係者も非常に膨大なものです。  例えば、抽象的に言わしていただけば、まず脳死であるかどうかを判定する、そうして次に移植をするかどうかが妥当であるかどうかを判断し、いよいよドナー、そしてレシピエントにそれぞれ手術があります。しかし、それだけではありません。今、島根医科大学の状況もそうでございましたが、レシピエントの子供さんが直ちに移されたところが救急病棟、ICUでございます。そして、それがあるところまで進みますと通常病棟に移るわけです。そこにおびただしい三勤交代の看護婦さんなどがいるわけです。告発事件がありますと、その方々をことごとく検察当局ではお調べにならなければならないはずです。しかも、残念なことですが、現在の日本の医療については看護婦さんの移動というようなのが非常に激しいのです。ですから、現実の問題としては看護婦さんだけでも大変な数だ。そこにレジデントもいる。それらが移動している。大分遠くに行っている。こういう方々もことごとく告発事件などがありますと取り調べの対象に当然なるだろうと予想されますし、現実でもそうであるらしい。そういうわけでございますので、私が先ほど言わしていただきましたように、四年前の移植学会で、時代の先端を行く者は常にイバラの道であり受難の道である、この道を医家の良心と信念とそして使命感を持って行っていただきたいと言わせていただきましたが、これはしょせんは私のような法律専門という局外者の一つの発言にしかすぎないものだと私は思います。  以上、一言言わしていただきました。
  67. 西岡芳樹

    西岡参考人 ちょっと間がありましたので論点がよく思い出せないのですけれども、要するに脳死の定義であるとか判定基準であるとか、こういうのは医師、専門家、いわゆるメディカルプロフェッションと言われる方が自分たちでガイドラインを決めてやっていくというのが一番望ましいことには間違いない。しかしながら、日本の今までの状況はどうかと言えば、例えば和田心臓移植のときには、国際的な学会では既に移植医と判定医は別であるべきだというのが国際的なガイドラインであったわけですけれども、残念ながら日本ではああいう移植医イコール判定医という形でやられてしまった。そういう意味で、日本医師が自分たちがつくったガイドラインをどれだけ守っていこうとするかというふうな点について、我々としては不信の念を抱かざるを得ない。その意味で、やはり臓器移植立法というような形でやらざるを得ないだろう。望ましいと言っているのではなくて、やらざるを得ないのではないか。その中にきちっと患者の人権保障というようなものを手続的に入れていくということが必要であろう。  私は、確かに脳死の判定基準、それから定義、こういう問題に国とかそういうものがかかわるというのは必ずしも望ましくないと思います。特に判定基準は、医学の進歩があれば、いろんな判定基準があるように、どんどん変わっていくものですから、少なくとも法律で決めるべき問題ではないし、決められる問題ではない。あるいは脳死の定義についても同様だと思いますけれども、ある程度そこを法律でカバーせざるを得ないのが日本の医療の現状ではないか、こういうふうに考えております。  そういう意味で、臓器移植立法ということを申し上げましたけれども、私はこれを非常に望ましい形として言っているのではなくて、それはやむを得ないのではないか。その中で臓器移植脳死状態でできるということをきちっと書く、それで脳死状態はどういう状態かということを法律的に決めることによって脳死が人の死であるということが国民の中に理解されていって、それが浸透していくというのが一番自然な形ではなかろうか、こういうふうに思っております。ある日突然、例えば七月三日からは脳死が人の死ですよという形で法律的に押しつけるのは必ずしも望ましいことではないのではないか、こういうふうに考えております。  以上です。
  68. 竹内勝彦

    竹内(勝)委員 終わります。
  69. 吹田愰

    吹田委員長 柴田睦夫君。
  70. 柴田睦夫

    ○柴田(睦)委員 日本共産党の柴田睦夫でございます。参考人方々には、本日はありがとうございます。  日本共産党は、臓器移植希望をつないでいらっしゃる患者の皆さんや家族の皆さんの切実な要求を受けとめて、脳死臓器移植につきまして、各分野での検討と相まって国会でも論議を活発にして、この問題で国民合意が得られるように努力をしなければならないと考えております。  その立場を申し上げましてお伺いしたいのですが、国民合意ということが多くの皆さん方から言われます。そこで、参考人方々もお触れになりましたが、まず斉藤参考人にお伺いしたいのです。調査会で見解を出される、そしてこれを国民的な討議に付すのがいいのではないか、こういう趣旨に伺いましたが、国民意見を集約する、それは一回で済むことではないんじゃないか、どういうふうにして進められるのか、ちょっと伺いたいと思います。
  71. 斉藤誠二

    斉藤参考人 ただいまの御質問は大変ポイントをついた非常に難問であろうと思います。それで、先生御指摘のとおり、私も先ほどちょっと言わせていただきましたが、一回で済むものとは思っておりません。全国的な規模で、公聴会と申しましたが、これも各地でやっていただくとか、そして何回もやっていただくということで、積極的に前向きに取り組んでいただくという趣旨で言わせていただいたわけでございます。これは非常に難しい道だと思います。しかし、スウェーデンでできたことでございますので、やる気と気迫さえあればこれは必ずやできることだろう、こんなふうに思っております。  以上でござます
  72. 柴田睦夫

    ○柴田(睦)委員 西岡参考人にお伺いします。  西岡参考人からは、各階各層での討論を活発に進めていくということで国民合意の方向がその中から出てくる、こういう趣旨に伺ったのですが、そういう中で日弁連の中での意思をまとめていくということがまず必要だろうと思います。それから、日弁連と日本医師会、この対話、討議、こうしたものが進められるというふうに伺っておりますけれども、どんな状況でありましょうか。
  73. 西岡芳樹

    西岡参考人 日弁連におきましては、この問題についての基本的な見解を、人権擁護委員会の中の医療部会というのがありまして、その部会でまとめ、日弁連の人権擁護委員会並びに全国の単位会で検討中である、現在の作業はそういう状況です。各単位会あるいは各会員の意見を集約した上で、再び日弁連の人権擁護委員会で討議をして結論を出し、それを日弁連の理事会で討議をして最終的には日弁連の意思となる、こういう段取りになるかと思います。  それから日本医師会との関係では、現在コミュニケーションは全くございません。日本医師会生命倫理懇談会には日弁連の会員である弁護士が出ておりましたけれども、これは日弁連の推薦という形で出ておりません。それから、私も日本医師会生命倫理懇談会で日弁連の推薦で講演はいたしましたけれども、これは単に部外講師ということで意見を聞かれただけですので、いわゆる日弁連と日本医師会との対話ということではありません。現在、日本移植学会というのがありまして、そこの第一分科会でしたか第何分科会かよく覚えていないのですけれども、前の移植学会の野本委員長から私の方に申し出がありまして、日本移植学会のその部会と日弁連の人権擁護委員会の中で一回そういうディスカッションをする場を持とうではないか、ぜひ年内に一回持ちたいという申し入れがございます。我々としてもこれは積極的に受けとめて、メディカルプロフェッション、いわゆる医師側と、まさにこの問題は人の死というすぐれて法律的な問題ですから、法律側が胸襟を開いて話し合うということも、先ほど述べました国民合意一つのステップとしても必要かと存じますので、それについては積極的に受けとめたいというふうに考えております。
  74. 柴田睦夫

    ○柴田(睦)委員 もう一つ西岡参考人にお伺いしたいのですが、臓器移植立法の制定が必要になるのではなかろうか、こういう御意見でありました。これは、国民合意を形成していくその段階からいうと、どの段階で立法というお考えでしょうか。
  75. 西岡芳樹

    西岡参考人 先ほども申し上げましたとおり、脳死あるいは臓器移植の問題については、法律的にすぱっと割り切る、あるいは多数決でどうこうするという問題ではないというふうに考えております。したがって、国民合意、まあ、国民合意言葉の内容の問題が一つあると思うのですね。国民の一〇〇%が全員一致するということはあり得ないわけで、私が申し上げているのは、社会通念とか慣習というのと同じような意味での国民合意、いわゆる国民のかなりの部分がこの脳死問題をきちっと理解する、そしてその大多数が賛成をして反対論が非常に少ない、あるいはお任せするというような形でもいいと思うのですけれども、そういう中での国民合意の上で立法していくというのが一番ベターではないか。あるいは、国民合意を得つつ立法化の作業を進めていく、最終的に成立するときには国民合意があるというふうな形で同時並行、あるいは先行型でもいいと思いますけれども、最終的に法律ができるときにはやはり国民合意があるというのが望ましいというふうに考えております。
  76. 柴田睦夫

    ○柴田(睦)委員 それでは次に、この調査会が成立をした場合、この会議の運営あるいは資料というような問題が出てくると思いますが、この会議の公開あるいは資料も公開をする、もちろんプライバシーにかかわる問題は除かれるのは当然でありますけれども、こういうことで正しい情報を国民に示して、その上で国民意見がまとまっていくということが必要であると思いますので、この公開ということについて、また斉藤参考人西岡参考人に御見解を伺いたいと思います。
  77. 斉藤誠二

    斉藤参考人 ただいまの資料の公開ということでございますが、先ほど西岡参考人から御発言があったかと存じますが、議事録をつくる、それを公開せよ、この部分には私も賛成させていただきたいと思います。  なお、議事そのものを可及的にできる範囲で公開にすべきかどうか、この点については私はなお結論に至っておりません。その公開にするということの理屈もよくわかりますが、ただ、会議体というのはしばしば、公開にいたしますと公開にしたということだけでなかなか発言しにくい向きも中にはあろうかとも思いますので、まだその点については十分結論に至っておりません。なおこの点は考えさせていただければというように思っております。  以上でございます。
  78. 西岡芳樹

    西岡参考人 この点につきましては、冒頭に私申し上げましたように、日本医師会生命倫理懇談会があれだけの報告書を出しながらどうして国民的なインパクトを与え得なかったか。あの当時、確かにかなりな大きな影響を与えましたけれども、その後、全体として見ると余り大きなインパクトを与えていないという結果になっているのではないかというふうに思うわけですけれども、それは、あそこに集まられた委員先生方が当初どういう考え方で、どういう資料を見て、どういうふうに変わっていって、それで最後にどうしてああいう形の結論が出たかというのが全くわからないわけでございます。やはりその思考経過がわかることによって、国民が自分もその思考経過をたどりつつ考えていくという面がかなりあると私は思うのです。ああいう形である日突然結論だけがぽんと出てしまうということになれば、これは国民が決して納得することではない。その意味においてできるだけ公開をしていくべきだ。今、会議体ではなかなか公開の席で発言しにくいということが言われましたけれども、私は公、みんなの前で発言できるということが必要だ、こういうふうに思います。密室でなければ発言できない発言はやはり間違いなのではないかというふうに思います。その意味において、会議体であろうと、混乱とかいう問題が予想されるとか一定の場合を除いては原則的には公開でやっていくのがいいのではないか。ガラス張りの中でやられるのが一番ベターだ、それが国民を納得させる道だというふうに考えております。
  79. 柴田睦夫

    ○柴田(睦)委員 それじゃ次の問題で、この調査会は法案では二年間存続、そして本調査会の意見政府が最大限尊重する、こういうことになっております。今まで臨時行政調査会だとか行革審だとか臨時教育審議会、これはもう結論が先にあった。そして政府の意に沿って報告が出された。こういうふうに私は今まで経験しているわけです。この調査会の場合に、国民合意を形成する、その上に立って結論を出すということから考えますと、二年間という限定、これは拙速なことになってしまうのじゃないかと思いますが、また斉藤参考人西岡参考人にお伺いしたいと思います。
  80. 斉藤誠二

    斉藤参考人 二年間という一種の時限立法ということで、これは妥当ではないという御指摘でございますが、さしあたって二年の時限立法ということでやってまいりましても、必要があればこれを延長することも可能だと思いますので、さしあたりましては二年の時限立法でも構わないのではないか、こんな感じを持っております。
  81. 西岡芳樹

    西岡参考人 二年という期間ですけれども、じゃ三年がいいのか五年がいいのかと言われれば、五年がいいとか三年がいいとかできるだけ長い方がいいとも言い切れない部分があると私も思うのですね。だから、結局これはやり方の問題、中身がどれだけ充実してやれるかという問題であって、二年たって充実した中身がなければこれはもう延長せざるを得ないだろう。やはり全体として熟するという時期までは続けていただきたいということで、二年でどうしても結論を出さなければいけないという問題ではありません。したがって、中身のやり方と、その充実した時期まではこれは存続していくという必要があるのじゃないか。だから、二年が適当であるか三年が適当であるか、その辺については、どういうやり方でやられるかもわかりませんし、私にはちょっとわかりません。だけれども、できるだけ速やかに充実した議論をやっていただければ、二年という期限も必ずしも短くないかもしれませんし、場合によれば短いかもしれません。そういうことしか言えません。
  82. 柴田睦夫

    ○柴田(睦)委員 ちょっと医学の方は余りわかりませんので、お聞きしていたことが誤解かもしれませんが、鎌田参考人の御意見で、臓器移植を行うことについて第三者は妨害するな、こういう御意見のように伺いました。この場合に、医療に関して国民の真剣な批判というものも妨害になるとお考えなのでしょうか。  例えば和田教授の移植事件のときに告発が行われました。告発というのは、犯罪があると疑えばこれをやるのが国民の権利であります。実際に私の認識するところでは、あの告発があってこれが社会問題になって、医療のゆがみも正して、医療関係者の中にも一定の反省があった、それからこの脳死だとか臓器移植問題、国民的な討論も始まったというように理解するのですが、この点についていかがでしょうか。
  83. 鎌田直司

    鎌田参考人 まず第一点、和田教授の件についてです。和田教授、和田移植、これはあたかもはれものにさわるような感じで今みんなとらえている。しかし和田教授の件はこういうわけです。  移植する側にとって和田移植とは何なのか。僕たち移植医側また医療側が反省しなければならない唯一、最大の点というのは、和田教授に続く人がだれもあらわれなかった、これなんです。和田教授に対するいろいろなことは今から反省してもいいし、後から反省しても構わないけれども、しかし、和田教授に匹敵するような社会的な指弾または告訴、そういう非難を受けたという人間は数多くいるわけです。現に、ケンブリッジのプロフェッサー・カーン、それからスターズル、こういう人は告訴も受けたし、つい五、六年くらい前には肝臓移植の成績は三〇%未満であった。どうしてそんなに患者を殺してまでやらなければいけないのか、どうして国家の金をそういうむだな医療に使わなければならないのかという批判をついこの前まで受けていたわけです。しかしそれに耐えて医療というのを引きずってきたわけです。なのに、どうして日本では第二のプロフェッサー・カーン、第二のスターズルというのが出てこないのか。これは日本的土壌を再度今検討しなければならないと思います。  それで和田教授、確かにはれものにさわるようなことであったのですけれども、僕はあえて言うならば、今、和田復権というのは、和田教授のあの勇気を再び移植する側が持たなければならない。極端に言うならば、和田教授を移植学会でも名誉会長に据えて、そして国民に、我々は和田教授に続かなくて悪かったのだ、西洋にあらわれてきたようなスターズル、カーン、そういう人を輩出しなかった日本の医療土壌そのものに対する反省をしているんだという意思表示をすることなくして、国民との真剣な会話は成り立たない。  特に、医療する側が、国民的な合意がないから我々はできない、脳死合意がないから我々はできないと言うのは極めてひきょうなことである。それはさっき斉藤参考人が言いましたけれども、確かにしんどい道であっても西洋ではやってきたわけです。したがって、そういうしんどい道をやって国民の現状認識を引き上げなければいけない。そもそも法律というのは、私が理解する限りにおいては現状を追認するものでなければいけない。法律が現状を引き上げて、ほら法律をつくったから君たち移植をやりなさいと法律をぽんと投げ与えて、もし移植医がそれだけで食いついてくるならば、僕は全く軽べつすべきだと思います。現状を持ち上げなければいけない。現状を肯定する法律は何もない。したがってどうするのか。脳死でやっていいのか悪いのか。そこで初めて法律というのが出てくる。現状追認というのが法体系であると僕は思います。そういう現状を引き上げる努力なくして、医療の側が社会的合意がない、脳死合意がないという感じで逃げていることを、社会的合意の陰に隠れたところのひきょうな振る舞いである、こう僕は現在言っているわけです。したがって、社会的合意を形成する過程を無視したり、反対する側を無視したり、そういう考えは一切ないです。むしろ厳しく問い詰められなければならないのは移植する側の基本的な哲学の欠落であり、それから移植学会、肝臓移植外科学会、心臓移植研究会、学会とか研究会がたくさんある、そういうものが何もヘゲモニーをとれなくて、ただただ手をこまねいていた、こういう現状に対して厳しく反省することを僕は求めているわけです。  以上です。
  84. 柴田睦夫

    ○柴田(睦)委員 医学の世界が、この分野だから、自分の分野だからということで、それが正しいんだ。まあ国民意見というものとの接点を求める、こういう態度がやはり必要であるというふうに思います。  時間がありませんので、ちょっと浦井議員の関連質問に移りたいと思います。
  85. 吹田愰

    吹田委員長 この際、浦井君より関連質問の申し出があります。柴田君の持ち時間の範囲でこれを許します。浦井洋君。
  86. 浦井洋

    ○浦井委員 鎌田参考人参考人としてお招きをして、やや批判的な御意見を申し上げることになるだろうと思いますけれども、冒頭の御発言の中で、脳死臓器移植について、社会的な合意というのは世論調査でもはっきりしているのだから早く国会と行政で決めて臓器移植をやらなければだめだと言われたように私は受け取ったわけであります。これはやや性急な御意見ではないかと思うわけです、鎌田先生がおられたイギリスにしてもあるいはアメリカにしても、前段階でかなり慎重な議論をして、その上で結論を出しておる。まして日本の国では、今問題になっておりますように和田移植の一件以来、これは議論をすることもタブーになって、全くのブランクになっておる。まして社会的な合意形成の努力も行われておらなかったという現実を踏まえた御意見をお伺いしたいと思うわけです。  さらにもう一つ。死の定義とか脳死の判定基準日本の医療界、メディカルプロフェッションといいますか、こういうところは怠慢である、私もその点ではやや同感するところがあるわけであります。ところが、鎌田先生の場合は、だから国会なり今設けられようとしておる調査会というようなところで決めたらもうそれでよいのだというのは常道ではないのではないか。やはり怠慢を指摘をされたメディカルプロフェッションでもっと議論をしなければならぬのではないかと私は思うわけであります。だから、そういう点で鎌田参考人の方に御意見、御反論があればおっしゃっていただきたいし、またメディカルプロフェッションで活発な議論を起こすには一体どうすればよいのか。日本の閉鎖性あるいは封建性、学閥というようなものはだんだん払拭されておっても、あることは間違いないわけでありますから、そういう日本の医療界の中で一体どうすればよいのかという辺の御意見をお伺いしたい。
  87. 鎌田直司

    鎌田参考人 まず後半の、脳死の判定基準についてどうするか。脳死の判定基準というのは医学界が科学的に行わなければならないことであって、決して多数決で決めてはならない、これは僕は最初にはっきり言ったはずです。その意見は今も変わりありません。  しかし、僕が言う国民に対して不親切というのは、厚生省が膨大なエネルギーと竹内さんがあるゆるデータを駆使して決定したにもかかわらず、直ちに次々とその基準に対する追加データが出てくる。それが科学的な学問の論争ではなくして、あたかも直ちにその基準を突き崩すかのような、たくさんつけ加えればいいような感じで扱われている、これは国民に対して非常に不親切だと言うわけです。  この調査会の権限をもってするならば、決してその内容に立ち入るのではなくてそれをきっちりと医学界に返しなさい、そして医学界はきっちりとした見解を出しなさい。アメリカだって大統領委員会がその内容にまで踏み込まなくて医学界の決定を尊重する、イギリスでいうならば法律をつくることなくして王立協会が脳死に対する結論を出したならばそれを支持する、その線から出発しているわけです。そこを突き崩すときは必ず王立協会内での意見があるわけです。したがって、日本もそのような感じで無責任な学問的論争なのか、基準を動かすような論争なのか、それははっきりされなければいけない。したがって、医学界に対して当事者能力をきっちりと持ちなさい、それを僕は要求しているわけです。  それから社会的合意国民合意。僕は決して合意過程を無視しているわけではないのです。現に、臓器移植研究会では二年前から数十回にわたる国民的な集会を開いている。それには僕も参加しました。しかし、僕が繰り返して言うのは、社会的合意がないから私は肝臓移植はできないとか、自分の意見はどうなんだ、あなたの個人の意見はどうなんだということに対する一切の返答なくして、ただ社会的合意がないからできない。これが日本人に共通する最も悪い点だと思います。自分の意見はどうなんだ、国民一人一人が今こそ社会的合意などという言葉を忘れて自分がこう思う、それを引き出す時期であると思います。したがって、そういう意味では社会的合意というのは全く今意味をなさない。一人一人が意見を出す時期だ、それで一人一人が自分はこう思うという国民の論調を引き出すことが調査会に任せられた一つの方向性であると思います。その結果、国民合意として脳死は認めないことになったら、それはしようがないことです。したがって、僕としては決して国民反対を無視するつもりはないということをくれぐれも強調しておきたいと思います。
  88. 浦井洋

    ○浦井委員 もう時間がなくなったようでありますからこれで終わりますが、国民的、社会的合意に向けてのいろいろな議論が非常に無責任であるかのような、あるいはいろいろな御意見を述べられるのは断行する前に非常にひきょうだという表現は、私は同じ医者として慎んでいただきたい、日本の土壌あるいは日本の現状から見てより慎重でなければならぬのではないかと私は思うので、あえて御忠告をさせていただいて、私の質問を終わります。
  89. 吹田愰

    吹田委員長 宮里松正君。
  90. 宮里松正

    ○宮里委員 私は、公明党並びに民社党とともに今論議をさせていただいております臨時脳死及び臓器移植調査会設置法案の提案者の一つでございます自由民主党所属の宮里松正でございます。提案者という立場から参考人先生方にお伺いしておきたいと思います。  その前に参考人先生方には当委員会に御出席をいただき、大変貴重な御意見を御開陳いただきましてまことにありがとうございました。あらかじめ感謝の意を表しておきたいと思います。  先ほど来、四名の先生方の御意見を承っておりました。そしてまた、先ほどまで質疑を通して痛感するのでありますが、脳死を人の死として認めるべきかどうか、あるいはまたその後で患者の治療行為として臓器移植をここで認めるべきかどうか、この二つの問題はすぐれて医学上の専門的な分野に属するとともに、人の死あるいは病気の治療という国民の日常生活の中から出てまいります常識といいますか、感情の世界、宗教などの世界に密接な関連を持つために非常に難しい問題であるということを感じました。まず私は、先ほど斉藤教授が言われた脳死の問題と臓器移植の問題は理論上区分けして考えるべきであるということに賛成であります。  そこで、まず脳死を人の死として認めるべきかどうかということについてお尋ねしておきたいと思います。  私どもは健やかに年をとる、そして人生の終わりとしての死を迎えるに当たっては、自分自身が痛まず苦しまずに安らかにそのときを迎えたい、こういう願いがあるというふうに思います。同時にまた、人生の最期を締めくくるに当たっては、家族やあるいは周囲の者に迷惑をかけずに静かに旅立ちたい、これも私どもの厳粛な願いであろうというふうに思います。  一方、患者の治療に当たっておられる医療関係皆様方は、何としてでも患者を治したい、よしんば治せなくても一日でも寿命を延ばしていきたい、これに全力を傾注されるわけであります。そんなことから近年人工呼吸器などが出てまいりました。そこで脳死の問題が改めて私どもの前に課題としてあらわれてきた、こう思います。先ほど鎌田参考人からは、脳死は管理された死である、こういうことを言われました。まさにそのことを的確に把握された御所見であろう、こう思います。  私も、自分の身近な人々の中で脳死状態になった人を何度かお見舞いもし、あるいはそれをみとった体験がございます。完全に人としての生活のできない脳死状態に陥った人が人工呼吸器の中に入れられまして、心臓が動き、呼吸が続けられている。家族の者はただそれを見守っているだけであります。治療に当たっておられる先生方にお聞きしても、恐らく治る見込みはございません、こういうことが言われるわけであります。そこで家族の者としては、あるいは近親の者としては、この人工呼吸器を外せば直ちに死に至る、これをどうするんだ、これは大変な深刻な悩みであります。それを続けますと、私の知っている中でも五年六年とそのままの状態でおられた方もおられます。私は、それは決して本人の生前の気持ちにも合うものではないだろうというふうに思います。  そこでもうこの辺で、その意味でも脳死の判定基準をどうするかということをきっちりと国民合意の上で定めていき、かつまた脳死の判定手続をどうするかといったようなこともしっかりと論議をしていただいて、その上で脳死個体死として認めるべきかどうかという社会的合意を確立しなければならぬ時期に来たのではないだろうか、このように実は思うわけであります。そのことにつきましてまず斉藤先生、鎌田先生、西岡先生にお伺いをしておきたい、こう思います。
  91. 斉藤誠二

    斉藤参考人 ただいまの御指摘でございますが、社会的合意を得ることが望ましいし、今の時点で得なければならないだろう。それも、社会的合意が得られるものならば得なければなりませんし、精いっぱいの努力をするのが当然であろうと思っております。  具体的な手続ということにつきましては、十分に煮詰まっておりませんが、先ほど柴田先生から御質問がありましたときに言わせていただきましたように、やはり要するにこの調査会の結論が出た、それを国民に示し、そしてその意見をできるだけ幅広く聞いていく。これは本日の四名の参考人全員に共通することであろう、私はそう理解いたしております。
  92. 鎌田直司

    鎌田参考人 ただいまの質問の中の御意見には、僕は全く賛成です。遅過ぎはしたけれども、今こそ出発するに何のちゅうちょもない、今まさに国民的な課題として、ナショナルプロジェクトとして臓器移植に取り組んでほしい。それで海外に行ける人、行けない人、金を持っている人、持っていない人、募金を集められる人、集められない人、偶然ドナーを得た人、海外に行ったにしても海外でどんどんと死んでいった人、こういう国民的な差別を、そういう個人の差別を決してこれ以上延長させない、そういうかたい決意を調査会が持っていただければ僕としては最高に幸せに存じます。
  93. 西岡芳樹

    西岡参考人 私も、脳死が人の死となることにあえて反対するわけではございません。やはり国民的な合意を得てそうしていくのが望ましいのではないかというふうに思っております。しかし、そうではないという人も現在たくさんいるということも知っていただきたいし、あるいは、移植脳死は切り離すとおっしゃいましたけれども、やはり移植の問題があるから脳死問題が出てきておるというのも事実でございます。その事実を別だという形で切り離すのではなくて、やはり一緒に議論していくことの方が必要ではないかというふうに僕は思います。  それから、移植につきましては、現在マスコミ論調なんかでは、国内で脳死の問題がクリアされて移植が始まれば、現在移植を待っている患者さんたちの将来がバラ色になるような感じでの論調が多く見受けられるわけですけれども移植に伴ってのさまざまなリスクがあるし、仮に移植が再開されたとしても、それがバラ色一色ではない。例えばドナー不足の問題であるとか、手術中に亡くなられるとか、あるいは手術をして成功したとしても後は免疫抑制剤の副作用その他で悪い転帰を迎えるとか、いろいろなファクターがございますので、その辺の情報もきっちり国民に流した上での国民合意ということが必要かと存じます。この問題が乗り越えられれば未来は非常にすばらしいという観点だけの情報で国民の中で議論すると、大きな間違いが将来起こるのではないか。特にドナー不足の問題はかなり深刻な問題になると思いますので、その辺も含めて材料を提供した上で議論していく必要があるかというふうに思います。
  94. 宮里松正

    ○宮里委員 私に与えられた時間はそうございませんので、次に、患者の治療行為として臓器移植をここで認めるべきかどうかということについてお尋ねをいたしたいと思います。  私は、先ほど申し上げましたように、脳死を人の死として認めるべきかどうかということと治療行為として臓器移植を認めるかどうかということは、理論的には区別して考えていいんだというふうに思います。ただ、今脳死問題は一般的に臓器移植との関連において論議されておる、そのためにかえって議論が混乱していることも事実であろうというふうに私は思います。そして、厚生省あたりからのデータの説明などもいただきましたところ、大体脳死と言われるのは年間三千例から七千例ぐらい、他面また、臓器移植を必要とする患者あるいは希望しておられる患者数は五万とも六万とも言われる膨大な数に上っておる。もとより一つだけではございませんで、角膜でありますとか腎臓でありますとか既に承認されているものを含めまして、心臓、肝臓、膵臓等々合わせて相当の数に上る。そして、日本は今それが公認されていないといいますか、日本ではなかなかそれがやれない。先ほど斉藤教授からは、かつて医者の良心と信念に従って社会からの批判を恐れずにその道を進めるべきであるという意見も言ったけれども、必ずしもそうもいかぬだろうという御所見の開陳などもありました。そのようなことから、外国にそれを求めていかれる。その結果は、日本は自国ではそのようなことをやらずに、あるいはやれるような努力をせずに、経済力に物を言わせて外国にそれを求めてくる、このような批判が出ていることもまた事実であるというふうにお聞きをしております。臓器移植をしなければその患者の病気が治せない、あるいは病気が治らない、こういう極限状態に陥ったときに、それが幼児であれば親として何としてでも臓器移植をしたい、そう考えるのは人情として避けがたいことであろうと思います。そしてまた、自分がそのような事態に置かれたときに、それを望むことも恐らく当然のことであろうと思います。もとより、これは医者としての良識と高度の技術と、あるいは組織体制といいますか、施設体制といいますか、こんなものをすべて完備した上で、そしてよそからまた批判が起こらぬような形で行っていかなければならぬ、これも当然のことであろうと思います。したがいまして、私は、治療行為として臓器移植を行うその必要性というのは大体社会でも認められてきたのではないだろうか、問題はそれをどうやって社会的な合意あるいは国民合意を得て実施していくかということであろうと思います。  そこで、もろもろのことを考えますと、ここで調査会を発足をされ、各界の意見を代表する人々に委員になっていただいて、それぞれの立場から真剣な討議をしていただいて、そしてその資料をまた国民に公開をし、国民合意を取りつけつつその体制を確立することもこの段階でもう必要になってきたであろう、こういうふうに思うわけであります。脳死の問題と同様、ここで治療行為としての臓器移植を認めるべきかどうか、それこそ国民の間で国民合意あるいは社会的合意を確立するための努力をしなければならぬ、その時期に来たと思うのでありますが、そのことにつきまして四名の参考人先生方に御所見を承っておきたい、こう思います。
  95. 斉藤誠二

    斉藤参考人 ただいまの点につきましては、先生の御指摘のとおりであろう、こう思っております。  一言だけ言わせていただきますと、先ほども既に言わせていただきましたが、私自身は臓器移植は既に確立された治療行為である、このように思っております。そして、ここには古典的な治療行為の法理というもの、古典的な治療行為の理論がそのまま当てはまる、こう思うわけでございます。時間の関係で冒頭言わせていただきましたときにはその点まで詳しく言わせていただきませんでしたが、既にこのあたりはほかの参考人の方はおっしゃられましたけれども、当然のことながら治療行為ということでございますので、患者に十二分な医師側の説明をする、そして患者の真意に基づく承諾をとる、しかし、それだけではだめだ、さらに現代の医療基準からいって当然である行為を行うということ、これは法律学ではなぜかここで変なラテン語を使いましてレーゲ・アルティスという言い方をいたしておりますが、一言で言ってしまえば説明、承諾、そしてレーゲ・アルティス、すなわち現在の技術水準に合うそうした行為が行われる。説明をし、承諾を得て、レーゲ・アルティスが守られるということが治療行為の古典的な理論であろうかと思いますが、臓器移植にはそのままその考え方が当てはまると思っております。  なお、きょう午前中に島根医科大学の部分生肝移植の問題が出てまいりました。これは我が国では初めてのことである、そしてまた世界で四番目であるということで、これは今治療行為という面でレシピエントサイドだけについて言わせていただきますと、私はかねてこの問題を離れまして、一般論としてこういう主張をしてきたわけでございます。仮に全く新しい移植方法というものが出てきた、しかしこれがいまだかつて行われないものだ、しかし、それでも今ここに確実に患者生命が失われるという場合には、ある程度の動物実験を経ているものだ、そうしてこれが場合によれば今考えられる患者生命を救うたった一つ方法だという場合にはこれを行ってよい、行っても何ら違法性はないものだ、こういう考え方を言ってきております。なぜか。今ここに確実に生命が失われようとしている場合に、仮にそれが危険なものであるにせよ、今この患者の死というものを医師、医家がただ座して待つということではなくて、もしこれが生命を救う可能性が少しでもあるというのならあえてこの手段を行うことは、法秩序が期待しているとも言えるからだ。このような考え方を発表いたしてきております。蛇足をつけ加えさせていただきましたが、宮里先生のお考えに全く賛成でございます。
  96. 西河内靖泰

    西河内参考人 移植については治療行為であるというその見方については賛成しますが、必ずしも今、移植という治療行為が完成された技術であるとは実は思っていないわけです。それはやはり免疫抑制剤の問題とか、それから肝移植が抱えているさまざまな問題というのが現実的にありまして、それが全部クリアされたわけではないわけですから、必ずしも完全に完成された技術ではない、そのように考えております。  それから、脳死移植のことよりも、先日島根医大で行われたような部分生体肝移植やあるいは旭川の水戸先生がやられているような肝細胞移植、そういう点の研究を進めてほしいということを要望してきた立場からしますと、脳死の問題でいきますと、それは結論が出るのはかなり先になりますので、とにかく命の問題のことを言いますと、そういった部分移植や肝細胞移植研究実用化、本格的実用化に向けて研究が進んでもらうように、先生方もできましたら御協力をお願いしたい、そういうふうに思っております。現段階の形で結論が出る前に、患者の側で、脳死が人の死であるから認めよという形で言うことはできないと思います。患者の側としては、いまだ国民合意を得ていない段階では、原則的に脳死からの移植というものはある意味でそれを積極的に推進してくれとは言えない、できたら原則的には慎重に御配慮をいただきたいということ以上は言えない立場にございます。
  97. 鎌田直司

    鎌田参考人 移植が治療行為であることは、僕はそれは完全にその意見には賛成します。現場では、医療する側が例えば医療することによって自分はどうかというちゅうちょをするけれども、しかし現実に現在命がなくなるかもしれないという患者側の熱意が医療する側を圧倒するというのが普通だと思います。それで、その間に患者医者の不信云々があるかもしれないのですけれども、しかし、現実に肝臓はない、肝臓移植してほしいという子供、その子供の親の熱意たるや、あらゆる法律、あらゆるものを乗り越えている。その結果が一つ島根に表現されていっただろうと思います。したがって、僕が知る限りでは、その間に患者医師に対する不信云々、そういうことはないです。もう患者の方の意気込みに圧倒されるというのが普通です。  それで、現在治療行為としての肝臓移植はアメリカでは年間二千例、それから心臓移植も千例を超えている。どうしてそういうふうにポピュラーになってきたかというと、それはついこの前なんです。一九七八年、僕がケンブリッジにいたときに初めてケンブリッジ大学でサイクロスポリンAを使ったわけです。それまではイムラン、それからステロイドを使っていたわけです。それで子供はムーンフェースといってこんなになっちゃう。プロフェッサー・カーンは一つの哲学を持っておりました。こういう小さな子供に肝臓移植の手術をしてたとえ二十歳まで生き長らえたとしても、骨はもろくなる、背は伸びない、それからムーンフェースになる。そういう人が結婚できるか。したがって、プロフェッサー・力ーンはその間子供はやりませんでした。しかし一九八四年、サイクロスポリンが効く、ステロイドは減量できる、生存率が飛躍的に、肝臓移植ならば八〇%近くまで高まってくる。そのとき初めてプロフェッサー・カーンは、よし、これならば子供もできるだろうということで子供に対する肝臓移植を再開したわけです。したがって、その間には学問的競争とか、それから単に症例をふやすとか、患者に強制する、こういうことはないわけです。極めて哲学的なみずからの信念において実行したものなんです。その実行も医学の進歩と極めて密接に結びついているわけです。  それで、つい一九八四年以前には肝臓移植の一年生存率は三〇%くらいだった。もっと悪いと二八%くらいだった。しかし、サイクロスポリンが出て以来、一年生存率七〇から八〇%、それで、一年生きた人の五年生存率は九〇%をはるかに超えている。しかもその一カ月ですべてが起きる。一カ月生きた人が一年生きる可能性というのは九〇%である。したがって、この一カ月間術後管理をどうするか、今ここにすべてが集中されている感があります。  したがって、そのサイクロスポリンだけでなくて、今、FK、そういういい薬も出てきています。したがって、医学の進歩を通じて、それで医学の進歩を信じた上に飛躍的に症例数がふえてきているわけです。それは決して医者の個人的な趣味でも何でもないのです。それは医者が認め、患者が信頼し、そういう感じで学問は進歩してきていると思います。そういう意味で僕は、ただいま質問者が、宮里先生がおっしゃった医療行為としての確立、これに対しては何ら異議がございません。
  98. 西岡芳樹

    西岡参考人 臓器移植が治療行為と認められるかどうかということだと思うのですけれども臓器の種類によって違うと思います。現在、治癒成績あるいは生着率が非常に高いものについては、当然治療行為として確立していると言わざるを得ませんけれども、まだまだ人間の臓器というのはいろいろございますから、未知の分野がたくさんあるわけで、その部分については必ずしも治療行為として確立しているとは言えない部分もあるかと思います。特に、先日の部分生肝移植などは、私は、まだ実験的な治療であって、治療行為として確立しておるものではないというふうに考えます。確かにあの子供さんの命が危ないということでやられたということかもしれませんけれども、これは普通の医療ではない、いわゆるがんの末期に新しい未承認薬を投薬して何とかしよう、結果はよくわからないけれども、副作用も出るかもしれないけれども、何とかしようというものとは違うわけです。そこに父親という第三者の肝臓をとるという別の行為が加わるわけですから、その子を救うためというよりも、では父親にどういう影響が出るのか、その辺がきちっとそれなりの論議がされるべきであったし、今でもあの問題については施設の倫理委員会で十分検討すべきであったというように考えております。  それから、臓器移植の治療行為としての特質は、通常の薬あるいは医療機器で治すのとは全く違う、そこに第三者の臓器というものが必ず必要だということでございます。その意味において、例えば薬でありますれば、適切な時期に薬が投与されなければ患者の側がお医者さんをちょっと治療しなかったということで訴えることも可能ですけれども、例えばおれに臓器をくれなかったということで訴えることはできない、そういう極めて特殊な治療行為であるという認識だけは、確かに治療行為として確立しているかもしれませんけれども、普通の治療行為とは違う、その辺のきちっとした認識だけはお願いしたいというふうに思います。
  99. 宮里松正

    ○宮里委員 もう時間がすっかりなくなってまいりましたので、ただ一点だけ斉藤教授に念のために確認をしておきたいというふうに思います。  私も、斉藤教授と法律家としての見解は全く同じでございまして、臓器移植をする以外に治療の方法がない、そういう場合に純粋に治療行為としての臓器移植を行った場合には、例えば殺人で告発されましても故意がそこで阻却をされてくる、あるいは緊急避難的な面も出てまいりましょうし、違法性がそこで阻却をされる。したがって、罪に問われることはないということは法律家として常識であろうというように思います。ただ、現場の治療を担当しておられるお医者さんたちは、そのような刑法の犯罪論なんというのを御存じないわけでありますし、そして現にまたこれまで何度か第三者から告発を受けて取り調べも行われたという事実があるわけであります。何らかの形で社会的合意やら国民合意を取りつける、みんなが承認する形でこの臓器移植というものをスタートをさせなければ、あるいはそれを公認する形で認めていかないと、現場は混乱するであろう、こう思います。外国では既にそのような形で行われているのでありますから、その意味で何らかの国民合意のもとにこれを実施させるということが必要ではないだろうか。先ほども同様な趣旨の御発言がございましたけれども、重ねてその点、念のためにお伺いしておきたいと思います。
  100. 斉藤誠二

    斉藤参考人 その点、先生の御指摘のとおりでございます。私も非常に今現場が混乱しているという事態を十二分に見ているつもりでございます。しかもそれらの医療関係者は、我が国の医療のよりよい前進のために日夜呻吟している人たちでございます。先ほど参考人のお一人から医師に対する不信という言葉をおっしゃられました。そういうことも確かにあろうと思うのですが、なぜか私の周辺にいる医療関係者は、はっきり言いまして国立大学の病院で、これはここで言うべきことではございませんが、アルバイトでもすれば少しでも金になるのだなと思うのですが、そういうことをせず、朝早くからそれこそ夜遅くまで日夜我が国の医療のよりよき前進のために邁進している人たちが非常に混乱しているというのは先生御指摘のとおりでございます。全く先生の御指摘に同感でございます。  以上でございます。
  101. 宮里松正

    ○宮里委員 最後に、四名の先生方には、長時間にわたって御意見をお教えいただきまして、そしてまた質疑にもお答えをいただきまして、まことにありがとうございました。  これをもって私の質疑を終わります。
  102. 吹田愰

    吹田委員長 参考人方々には、貴重な御意見をお述べいただきまして、まことにありがとうございました。委員会を代表いたしまして厚くお礼を申し上げます。  参考人各位におかれましては、御退席されまして結構でございます。ありがとうございました。     ─────────────
  103. 吹田愰

    吹田委員長 引き続き、本案に対し質疑を行います。  質疑の申し出があります。これを許します。角屋堅次郎君。
  104. 角屋堅次郎

    ○角屋委員 本日、私は、当内閣委員会におきます臨時脳死及び臓器移植調査会設置法案に対する各党委員の大変真剣な御審議、並びに本日は参考人の招致をいたしまして各方面からの意見の開陳を願い、委員各位との間に質疑が行われたのを受けて、日本社会党を代表して、いわば締めくくりになりますけれども御質問をさせていただきたいと思います。  きょうは、この法案について厚生大臣の御出席を要請しております。後ほど御出席になると承っております。また、この法案が衆参両院を通じて仮に成立をいたすということに相なりますと、この法案の各条項に書いてありますように、政府みずからがこの法案の成立を受けて措置してまいらなければならぬいろいろなことがあるわけでございます。例えば委員の任命がございます。委員の任命が終わって総会が開かれることになれば、当然内閣総理大臣の諮問が行われるということであろうかと思います。そしてまた、委員に選任された方々では、これからどういう審議をやっていくか、あるいはセクション別にそれぞれ総論的な関係でどういうセクションに分けて議論をしていくかとか、あるいはオーブンの協議でやるべきだと思いますけれども、そういった調査会の運営自体の問題等々、この調査会設置法案が成立するとするならば、この法案をバトンタッチを受けて、政府自身が、今度は厚生省を中心にしながらいろいろ準備を進めなければならぬということもございますので、内閣総理大臣というふうに申し上げたいところでありますが、政府のそういう問題のいわばかなめにおられます森山官房長官の方にも、時間的な制約はあろうと思いますけれども、今言った趣旨で御出席を願いたい、こういうふうにお願いを申し上げておるわけであります。これらはいずれも他の委員会への出席、あるいは森山官房長官は私のわずかな時間の質疑を受けた後新聞記者会見等々がありますので、質問を展開するのにはなかなかやりにくい点がございますけれども委員各位の御理解を得て、提案者竹内先生の方、それから厚生省はその間政務次官に御出席をお願いしたという経緯でございます。  そこで、臨時脳死及び臓器移植調査会設置法案については、これは御案内のとおり自民党と公明党と民社党の三党共同提案で出されておるわけであります。私ども日本社会党の場合も共同提案の要請を受けてまいりました。六十三年十二月二十日にこの議案が提出されたわけでありますけれども、私どもの党としては、党に設置されております河上民雄さんを委員長とする特別委員会あるいは内閣部会いろいろ協議をいたしまして、四党共同提案ということになりますと実質的に委員長提案の形になる、この問題は日本の国内の諸情勢、それぞれの団体、いろいろなところの御意見等々も十分判断をしながら、国会においてもあるいは議論をし、あるいは参考人を招致し、真剣な議論をする必要があるだろうというふうに考えまして、共同提案ということについては御遠慮申し上げた経緯がございます。  しかし、きのう、今まで内閣部会等で議論をしてまいりました議論を踏まえて、この法案に対して賛否の議論をいたしました。この問題は大変重要な問題でありますので、かなり時間をかけていろいろ議論をいたしました。最終的には、臨時脳死及び臓器移植調査会設置法案については、この設置が国会で通りスタートすることについては党としては賛成という立場で処理しよう。これは、内外の諸情勢、特に日本の今の脳死あるいは臓器移植問題について公正なメンバーを得て、広く深く慎重にこの問題については調査会を通じて議論をしなければならぬ段階に来ておるというふうに判断をしたからであります。  しかし、それは決してその調査会に白紙一任ということではない。当然議論の過程においては当委員会にも責任者においでを願うという場面もあるかもしれない。また、あるかもしれないじゃなしに、そういう必要が起こればあるでございましょう。やはり脳死あるいは臓器移植問題については、当然のこととして社会的な合意というものがなければこれは一歩も二歩も進まないわけであります。調査会は私ども希望からすれば、初めに脳死ありき、初めに臓器移植ありき、こういう考え方でスタートするのではなしに、この問題を広く議論する中から、日本的土壌の中でどういうふうにこの問題を判断すべきであろうかというところから調査会はスタートすべきである、こういうふうに考えておるわけであります。  以下、本法案の三党提案の代表でございます竹内先生に、既に各委員からの真剣な議論の中で御答弁なさっておるわけでありますけれども、若干締めくくり、確認という意味でまずお答えを願いたいと思いますが、提案者は脳死というのをどういうふうに受けとめておられるか、御認識されておるのか。また、今回三党の共同提案で出されるということに相なりました経過並びに調査会を設置するということに相なりました理由というものからお伺いをいたしたいと思います。
  105. 竹内黎一

    竹内(黎)議員 お答えいたします。  まず、脳死というものをどういうぐあいに認識しておるかというお尋ねでございますが、脳死とは全脳の機能の不可逆的停止、つまり脳幹を含む全脳機能が停止してもうもとに戻らない状態というのが我が国の通説的見解だと思います。しかし、一方では異説もあると聞いております。したがいまして、脳死の概念あるいは定義等については、当然本調査会で御論議をいただけるだろう、こう思っております。  それから、共同提案のいきさつでございます。御案内のように、この問題に直接かかわる問題も含んでおりますが、生命倫理に関する超党派の議員の集まりがございました。また活発な議論をされてきたわけでございます。そういうような議論の中からさらに調査会設置法というお話が進んでまいりまして、御案内のように自民、公明、民社の三党の共同提案ということになったと伺っておりまして、社会党さんの場合にはなお党内の論議の必要があるということで、とりあえずは共同提案者にはなっていただけないような経過であったということは、私、代表者であった中山先生から伺ったような次第でございます。
  106. 角屋堅次郎

    ○角屋委員 竹内先生が、なぜ議員立法で提案をすることになったのか、そういう委員の質問に対してお答えになった中で、この法案は政府提案ということで出すのにはなかなかなじみにくい、関係法律も五百六十三件これあり、各省にまたがりということで言っておられたのですけれども、もしそういう趣旨で御答弁になっておるとすれば、私には異論がございます。  これは私自身は、もちろんこの調査会設置法案政府提案としても出せる、また、我々議員でございますから、議員立法としても出せる、こういう考え方をとっておるわけであります。例えば、将来この調査会でいろいろ議論をした結果、先ほど参考人との御質疑の中でも出ましたように、あるいは我々もあらかじめこういうことも出てくるのじゃないかという想定の問題の中に、脳死とかあるいは臓器移植の新しい立法とか、こういう問題が仮に出るとするならば、これは議員立法、単独であるいは数政党がということには、国民的コンセンサスという立場から見て逆に言えば若干問題があるだろうというふうに私は思いますけれども、広範な国民的な議論を巻き起こす、また、専門的な立場も含めてこういう今問われておる問題について調査会を設置して議論をするというふうな点については、政府の提案であれ我々議員サイドの提案であれ、これはいずれでもよろしいというのが私の意見でございまして、そういう点について、御答弁がそういう趣旨について否定されたのでなしに、何か別の意味でなじまないということを言われたのかどうか、提案者の方からお伺いをいたします。
  107. 竹内黎一

    竹内(黎)議員 お答えいたします。  確かに私が答弁の中でなじまないということを言いましたが、それは、政府提出が全くだめだ、そういう意味合いを含めて申し上げたわけではございません。確かに先生御指摘のように、政府提出という選択もあるわけでございます。  しかし、若干くどくなるかもしれませんが、臓器移植の道の開けることを待ちわびている患者やあるいは家族方々の置かれている状況等々を考えますと、その方向はともあれ、事柄は解決を急ぐ必要があるのも事実じゃないでしょうか。また、政府部内においても若干の検討は行われたやに私も承っておりますが、私の今の見通しからいくと、政府提出というものに持ち込むまでにはなお相当な時間を要する、そういう懸念もあります。そして一方、今ちょっと触れましたが、多数の国会議員が超党派でこの問題の検討を続けてきた、こういう経緯もありますので、議員立法という選択をさしていただいた次第でございます。
  108. 角屋堅次郎

    ○角屋委員 今の竹内先生の議員立法でやるという御答弁のお気持ちは十分理解できるところであります。  そこで、調査会の設置期間二年という問題については、先ほど参考人意見の中で、二年が適当な期間であるのか、あるいはもう少し、三年にする必要があるのかといったような点について質疑のやりとりがございました。参考人から出された御意見の中では、その期間の長い、短いというよりも、要はこの調査会が仮に発足する場合は、どれだけ真剣な議論が行われ、そしてまた、どういう結論を導き出してくるかということが重要であって、二年でスタートする場合に、短兵急にいきませんからさらに議論を要するということに相なりますれば、それを一年延長とか、しかるべき適当な期間というものを延長すればいいのじゃないかという意味の質疑のやりとりがございました。私も、この問題についてはそういう考え方が基本になければならないだろうというふうに考えますけれども、この点について竹内先生の方から御答弁願います。
  109. 竹内黎一

    竹内(黎)議員 調査会の設置期間をなぜ二年と提案したかということでございますが、繰り返しになりますけれども我が国では、今臓器移植以外ではその生命を救う方法のない患者家族方々、重い疾病に苦しんで臓器移植を受けることのできる日を待ちわびている患者方々が多数いらっしゃるわけでございます。そして、そのような患者方々の中には、外国に渡って臓器移植を受ける方もおられ、外国でも移植用の臓器が必ずしも十分でないという事情もあって、摩擦が起きている事例もあるやに聞いております。一方、我が国の医療の現場でも、脳死状態の者から移植用の臓器の提供を受け、移植を必要とする患者臓器移植を行いたいという声も多数上がっており、大学附属病院等において人的、物的設備を整え、あるいは倫理委員会を設置するなどして、臓器移植のための体制を相当程度に整えつつあるところも出てきております。  言うまでもなく、脳死の問題は人の生死にかかわる重要な問題でありますので、調査会におきましては多方面から慎重に検討していただくのはもちろんでございますが、こういった患者方々の事情等も考えますと、結論の方向はどうあれ、この問題につきましてはできるだけ早急に結論を出していただく必要もある、こう思いまして、一応必要な検討期間を二年と考えて調査会の設置期間を二年とした次第でございます。
  110. 角屋堅次郎

    ○角屋委員 この調査会が法案の中身の中で持つ役割という点で、第三条関係ということに相なりますけれども、内閣総理大臣からの諮問ということに基づいて調査をし、答申等を行う、あるいは調査会みずからが意見を述べる、それらの問題については最大限尊重義務が引き続いての条項に書かれておるということに相なっておるわけでありますが、提案者側としては、具体的にどのような問題について調査審議をするか、法案のタイトルから見ても当然そういうものが含まれる。しかしこれは、諸外国の状況あるいは日本における今日の現状、そういった中で脳死問題あるいは臓器移植の問題ということをやるのには、まず総論から入って、そして総論の進行過程の中から具体的な各論に入るということに相なるだろう。  先ほどの竹内先生の御答弁では、なるべく急がなければならぬというその面の強調が少しありましたけれども、短兵急に急ぐと成るものも成らないということもあったりしますし、また、それは国民的なコンセンサスという点で場合によっては障害条件になるということもありますから、いずれにいたしましても、この調査会ではまず総論的なこと、国際的、国内的、いろいろな問題も総合判断しながら総論的なことから入る。それは単に医学的な問題ばかりではなしに、法的な問題とか倫理的な問題とか、日本的ないわゆる風土、習慣、宗教、いろいろな問題を含めた総合的な検討から入るということだろうと思うのです。それから入っていって、各論別にどうしていくかということであって、初めから短兵急にタイトルどおりということであっては断じてならない、こういうふうに思うのですけれども、この調査会で調査、審議する内容は何かという点については、提案者としてはどう考えておられますか。
  111. 竹内黎一

    竹内(黎)議員 まず先生御指摘の、本調査会が初めに脳死ありき、臓器移植ありきというのでは困るという御意見は、私も全く同感でございます。加えて、短兵急であってもいけないということも全く同感でございまして、私は、調査会としては慎重かつ密度の濃い審議をぜひとも期待いたしたいと思います。  それで、具体的に本調査会が一体何をいわばその審議対象とするかということは、これは総理大臣の諮問の内容によるわけでございますので、私からは今すぐこうこうと申し上げかねるわけでありますが、あえて提案者の一人としての私の希望を申し述べさせていただくならば、やはり脳死の定義とか概念とか、あるいはまた先ほど来参考人の方からもいろいろお話が出ておりますが、判断基準、クライテリアを仮にオーソライズするとすればどういうことでそれをオーソライズしたらいいのかとか、それから、もし脳死が新しい死だというような御認定になれば、当然それに伴っていろいろ法的な対応が出てこようかと思います、そういった問題、あるはまた、臓器移植がいわば一つの社会システムとしてお認めいただけるとなると、それをめぐる諸問題、例えばレシピエントに対する公平、公正をどうやって確保できるかとか、あるいはまたいずれも多額の費用を要する治療法でございますから、そういった費用の分担、負担はどうなるのか、あるいは臓器移植のための全国的なネットワークの形成、コーディネーターの養成はどう考えたらいいのか等々は、ぜひ御議論を賜りたいなと希望する次第でございます。
  112. 角屋堅次郎

    ○角屋委員 森山官房長官がおいでになりました。きょうは他の委員会に御出席で、私から御要請申し上げて当委員会に御出席をいただいたわけです。後ほどまた内閣としての新聞記者会見が予定されておるということでございますので、それを念頭に置きまして若干の質問をさせていただきます。どうもお忙しいところ御苦労さんでございます。  まだ国会は三党共同提案の法案審議という段階で、森山官房長官に、これが仮にスタートする場合のいろいろなことの中に突っ込んで深く入ることは適当でないだろうというふうに私も思うわけですけれども、それにいたしましても、法案が仮に通過をいたしますと、事務当局としては総理府ということになっていますけれども、事実上厚生省が中心になって、法務もございましょうし、他の省もございましょう。そこで連絡会議になるか、あるいはどういう形を事務局スタッフとしてとるかというのはいろいろこれからの問題でございましょうけれども、そういうことの上に、いわゆる委員の十五名の選任ということは国会の両院の同意を得て内閣総理大臣が任命ということになっておりますし、また、調査会の総会が開かれるというときには恐らく内閣総理大臣として御諮問をされるということに相なろうかと思います。そしてまた、この調査会が調査会としての国民的な立場からの任務をこれから慎重かつ真剣に議論していくというために、十五人のメンバー、あるいは各省庁から厚生省が中心になって構成されますスタッフ以外に、どのように広く各界各層から委員をサポートしていただくか、また、それぞれどういうセクションに分けて議論されるかということは、当然調査会のスタート以降調査会自身でもいろいろ御議論になるでありましょう。それに伴って、従来の総理直属の審議会等々では専門委員とかいろいろなものが当然構成されてくる。これは専門委員を置くことができるという条項は別にないわけですけれども、しからばできないかといったら、これの条項にないことについては政令でもっていろいろ決めていくというようなこともあったりして、運営上は実態に即してあるいは調査会の要請に即して対応することは政府としては当然だろうというふうに思います。  そういう点で、まずこれからバトンタッチを受けたときに十五人のメンバーをどう選ぶかということは大変大切な問題でございます。きょうの参考人の御出席の中で、日弁連等の代表からは、一本釣りでしかるべき者を選び、そのメンバーを見ればもう結論ははっきり出てくるというふうなことであっては調査会は意味がないし、そういうものであれば、調査会の設置というものに期待ができないし反対であるという趣旨のことを言っておられたりいたしました。もちろん私は、調査会の構成というのは、竹内先生も提案者として御答弁の中でも、これは医学界からも出る必要があるだろう、法曹界からも出る必要があるだろう、あるいはジャーナリストの団体からも出るだろうし、労働界からも出ていいだろう。そのほかに、医学界というと、医学界には私ども見ておりましてもいろいろ意見の出ておるところがそれぞれあるわけでございますし、また宗教とか生命倫理とかいろいろなものにわたって命の尊厳という問題は基本的に大切な問題でありますから、そういうことも含めて総合的に判断をされながら、なるほど各界からこういう問題を真剣に議論するにふさわしい人が選ばれた、これは森山官房長官が女性でありますから女性ということを言うのではありませんけれども、男性ばかりで十五人構成されたというのでもいかぬでしょう、そういうことも含めたいわゆる公正な人選というものが考えられなければならぬと思うのです。  これはまだ法案が成立しておりませんのでと言って逃げるのではなしに、竹内先生の方はこれはいずれ内閣にバトンタッチをする性格ですから、今もこれはいずれということで言われたわけでして、その辺のところで十五名の委員というものを将来選ぶ場合の内閣としての受けとめ方といいますか考え方。  そしてこれがスタートしていくという場合には、当然のこととして専門委員等の問題も十分考えていかなければならぬ。ただ、専門委員のことで私一言申し上げますと、大体この委員の段階というのは各省がちゃんと非常に関係の深い人を選任をして、十五名はうまく大体できているんだけれども、専門委員のところでこれがたたき台をつくるというような調査会や審議会もあるわけです。そういうことで、例えば教育臨調のときにも、私どもいろいろなデータや委員の発言からいたしますと、専門委員のところでいろいろやられるものだから、重要な問題は総会方式でやろうということを言った経緯が審議過程でございますね。だから、やはり幅広い立場からの人選ということを委員についてやる必要があるけれども、専門は専門としての専門委員だけれども、各省が好ましい人でコンクリート化するということは避けなければならぬ。そこでも委員を選ぶのと同じような気持ちを持って専門委員を適正に選んでいくということも必要だろうと思うのですけれども、これらの問題を含めて、森山官房長官から御答弁を願います。
  113. 森山眞弓

    ○森山国務大臣 この問題はまことに先生のおっしゃるとおりだと私も同感でございます。この調査会の設置の趣旨から見まして、会の構成というのは非常に重要な意味を持つと考えるわけでございますので、政府といたしましては、国会での御審議を十分踏まえまして、今先生がお挙げになりましたような医学の世界の方、法律の専門家の方、またジャーナリストとか、労働界とか婦人の代表とか、できるだけ幅広く公正な構成となってまいりますように努めてまいりたいと考えております。  また、専門委員ということもちょっとお触れになりましたが、広く社会の知識人を集めてそのお力をおかりするという意味でそのような制度も好ましいことかと存じますが、その運営につきましても同様の努力をしてまいりたいと考えます。
  114. 角屋堅次郎

    ○角屋委員 官房長官にもう一、二点お伺いをいたしたいと思います。  総理諮問でどういうことを想定するかという点については、今の段階では御質問を控えさしていただきます。むしろ提案者の方の先ほどの御答弁ということで今日時点では承るのが筋だろうと思いますので、その点には今日段階では触れることをいたしません。  しかし、いずれにしても国際的、国内的、いろいろな幅広い分野から、まず総論的なことから議論をする、そしてそれらの推移の中で各論的なところに入っていくという姿勢が望ましいというふうに私はこの問題については思うわけでありまして、そこらを含めて、調査会が設置された場合の総理の諮問はまず第一回目はどういうことからやるのかという面では、もう短兵急にいろいろなものを一回で出してそれを二年かけてやってくださいということではなしに、そういう配慮も十分しながら諮問をされてはどうかという点を私の希望として申し上げておきます。  そしてまた、これはまだ参議院がいろいろ議論をする。私どもの党の中でも、この調査会の設置そのものにきのう部会でいろいろ真剣な議論をやったわけです。やはり私は先ほど冒頭に申し上げたのですけれども、この調査会のスタートそのものは、我が党も含めてもうそういうことを広く国民的な注視の中で議論する段階に来ておる、これを避けて通るわけにはいかないだろう。したがって、我々は、調査会のスタートに当たっての注文は附帯決議等でつけ、また審議を通じていろいろ注文はつけるけれども、スタートそのものについては我々としても賛成しようというふうにきのう部会でも決めたわけでございます。  しかし、いずれにいたしましても、これは十分に、場合によっては海外の調査も委員のメンバーの若干で行うことがあるかもしれません、あるいは専門委員を含めて調査を行う、あるいは資料の収集もございましょう、あるいは各地に出かけていろいろな意見を聞くということもございましょう、アンケートその他のあれもございましょう、いろいろなことをやるためには予算を余り厳しく制約してはいかないだろう。  竹内先生の御説明の中では、仮に今度の臨時国会でこの調査会がスタートするといたしますと、二、三月ごろには調査会が発足するような形になるだろう、その場合の予算というのは、平成元年度内の予算は予備費で充当することになるだろう、平成二年度はどうかということになれば少なくとも一億円ぐらいはというのが竹内先生の御答弁なんです。私はその積算基礎をきちっとしておりませんけれども、それはやはりこの調査会の重要性から見てもう少し予算が必要だろうし、そういうことも考えなければならぬのじゃないか。これが幾らであるというようなことまでは――必要な経費というものはこの調査会については十分充当するという考えが必要であろうというふうに思うわけです。これは今後の問題ですけれども、考えの基本としてひとつお伺いしておきたいと思います。
  115. 森山眞弓

    ○森山国務大臣 まだ細かく積算しておりませんので、幾ら幾らということをはっきり申し上げられる段階ではございませんけれども国会におきます御審議の状況を十分踏まえまして、調査会の円滑な運営のために必要な予算を確保いたしたいと考えております。
  116. 角屋堅次郎

    ○角屋委員 森山官房長官、まだ本来ならばお尋ねしたいこともあるわけですけれども、記者会見等もありますので退席していただいて結構でございます。  ちょうど入れかわりに厚生大臣にお見えいただきました。厚生大臣の方は、最後に事実上、この調査会が発足するといたしますと厚生省がメーンの、一番スタッフのかなめになるだろうというふうに私は想定をいたします。それらを含めて、しかもすぐれてこの問題は一番中心は厚生省にかかわることが多い。もちろん立法的なことになりますと法務省その他にもかかわってきますけれども、事、命の問題ということになりますと、大体中心は厚生省が多い。余り冒頭でやると、後また二、三の質問ということですけれども、厚生大臣には後ほどにということで、若干委員各位も触れられた問題でございますけれども、法務省、厚生省関係について若干お尋ねをいたしたいと思います。  まず、厚生省に入ります前に、法務省についての二点ばかりの質問をさせていただきます。これは質問の前段を飛ばして法務省ということに相なるわけですけれども委員各位の真剣な議論との関連でひとつ御理解をいただきたいと思います。  仮に脳死を人間の死と認めたといたしますと、これは調査会の議論等も待たなければなりませんが、従来から三徴候説と言われておりますいわゆる心臓死と、それから新たに脳死を人間の死というふうに認めた場合の脳死との関係というのは、二元説をとるのか、あるいは脳死は補完的な個体死という形で受けとめるのか、いろいろな関係がある。これは学者の意見をいろいろ必要な限り私読んでみましたけれども、それは専門の分野でございません。しかし、例えば日本医師会生命倫理懇談会の最終答申といって出たものに対する法律家の意見集というのは、東大、京大からいろいろな大学の先生方法律学者の意見をとりましても、随分意見が多岐にわたっております。それはそれとして、心臓死、脳死との関係というのは民事上の立場あるいは刑事上の立場というふうな点ではどのようになるのかという点が一つございます。  それから、相続問題ということが言われるわけであります。脳死の場合は死亡時刻をいつにするか、日本医師会の見解とかいろいろ出ておりますけれども脳死の確認と、六時間とかいろいろな一定の経過の後の最終的な確認と、そのいずれを死亡時刻にするのか、あるいは一方を書いて、一方も書くという形をとるのか。いろいろな意見がそれぞれの医学会等の団体その他からのあれで出ておりますけれども、相続の場合、死亡時刻の認定ということについてそういう二刀流的な形をとってまいりますと困難な問題が出てくる可能性がある。そういう問題については現段階で法務当局としてはどういうふうに考えておられるのか、これをひとつ要点をかいつまんで御答弁願いたいと思います。
  117. 濱崎恭生

    ○濱崎説明員 それでは、まず民事法の立場からお答えさせていただきます。  御質問は二点ございまして、脳死を人の死と認めるということにした場合に、民事心臓死と脳死との関係はどうなるかという点が第一点でございますが、この点につきましては、民事法上、人の死亡の時期ということが問題になる場面が幾つかの場面でございます。一番重要なものは先生御指摘の相続の開始時点の問題でございますが、そのほかにも幾つかございまして、そのうちの一つの例を申し上げますと、遺言をした場合の遺言の効力に関しまして、遺言はその遺言した人の死亡のときに効力を生ずるわけでございますが、その遺言者の死亡より前に遺言によって財産を受ける人、遺贈を受ける人という意味で受遺者と言っておりますが、その受遺者が先に死亡した場合には、その限りにおいてその遺言は効力を失うという規定が民法にございます。したがいまして、この規定関係では、遺言者と受遺者、遺贈を受ける人との死亡の時期が接近しておりますとその前後関係がどうかというような問題もあるわけでございます。これは一例でございます。  そういう場面で、死亡の時期ということが関係してまいるわけでございまして、ただ現行法上何をもって死とするかという定義規定はございません。現在は社会通念に従って解釈されるということで、いわゆる三徴候説あるいは心臓死という判定基準が従来は医学上も確立され、国民もそれで皆納得していたということから、民法上の解釈におきましてもその基準に従って死を判定してきたというのが従来の考え方でございます。これが今先生御指摘のような経過を経まして、民事法の適用の場面でも脳死の時点をもって死とするというような法律状態が形成されるという場面を仮定いたしますと、今申しましたような場面での人の死亡の時期の考え方が変わってくるということが考えられるわけでございます。  そこで御質問の第二点目の、相続の場面において死亡の時期の認定について困難な問題があるのではないかという御質問がございました。  先生御指摘のとおり、民法八百八十二条は「相続は、死亡によって開始する。」というふうに規定しておりますから、したがいましてだれが相続人になるか、相続財産の範囲はどうかということは、死亡の時期を基準として確定されるということになるわけでございまして、とりわけ相続人がだれになるかという点でかなり微妙な問題が生ずるということになるわけでございます。  現在の状態での一般的な解釈は先ほど申し上げたとおりでございますが、先生御指摘のような経過を経まして、脳死をもって死亡とするという考え方になりました場合にも、脳死の判定が行われるというのは死亡全体の中では極めて限られた場面であろうと存じます。一般的には脳死判定が行われない形で死亡ということになると思われますので、そういう場合におきましては、実際の死亡の判定は、従前どおり心臓死をもって判定することになるのではないかというふうに考えられるわけでございます。  また、脳死の判定が行われるという場合について考えてみましても、脳死と認める時期について、先ほど先生御指摘の、その脳死の判定時であるのか、それから六時間あるいは六時間以上経過した後のその脳死の確認時であるのかというような場面でタイムラグがあるわけでございますけれども、そのタイムラグ、時間の長さというのはそれほど長い期間であるということではないと思われますから、その間に相続人の範囲が変更するという事態は、脳死の判定が行われるという場合を考えましても極めて例外的な場合なのではないだろうかというふうに考えられるわけでございます。しかしながら、極めて例外的な場合でございますけれども、そういう例外的な希有な場合につきましては、そのいずれの時期を死亡の時期というふうにするかということによって、その場面におきましては重要な影響を及ぼすということに相なるわけでございます。  そういうことで、その死亡の時点をどういうふうにするかということは、民事法の場面でごく例外的な場面ながら重要な影響を及ぼすわけでございますけれども、もちろん人の死という問題は極めて厳粛な問題でございまして、これは相続という、あるいは民事一般の財産的な法律関係がどうなるかという観点から物事を考えるというような性質のものでは本来なくて、主として医学の問題であると同時に、また倫理上あるいは宗教上の観点を含めての国民一般の死亡についての認識の問題ではなかろうかというふうに考えているわけでございます。主としてそういう方面から御検討いただく問題ではなかろうかというふうに考えておりますが、もちろん、ただいま申しましたように、民事法上も一定の範囲で影響を持ってくるわけでございますので、そういう観点も含めて御検討いただく必要がある問題であると同時に、私どもとしても重大な関心を持たなければならない問題であるというふうに考えております。  ただ、私ども立場から、今先生御指摘のありました判定時がいいのか確定時がいいのか、その相続だけの立場からどちらがいいのかということを申し上げるような立場にはないというふうに考えております。     〔委員長退席、榎本委員長代理着席〕
  118. 東條伸一郎

    ○東條説明員 ただいま心臓死と脳死との関係についての民事法上の問題について述べましたけれども、私の方は刑事法上どのような問題があるかということについて申し上げます。  先生のお話のように、今後の議論の進展の結果、脳死というものを人の死というふうに認めることになりました場合に、心臓死といいますか、従来からの三徴候による死の認定と、それから脳死という一つ基準による死の認定との関係で、刑事法上も困難な問題が生じてくるという認識でおります。  ただ、実際の刑事事件の処理というものを考えますと、通常の場合は人の死の時期あるいは人の死の認定が仮にずれましてもそれほどの問題は起こりませんけれども、それほど起こる事例ではないとは思いますが、例えば脳死状態にある人に対して第三者が加害行為をして心臓までとまってしまった、あるいは末期医療の段階でレスピレーターをいつ取り外すか、それによって心臓がとまった場合に、一体それを殺人と見るのかどうかというような問題は、限定された場面ではありましょうけれども出てくるではあろうというふうに考えております。  この問題については、先生御案内のように、諸外国立法例を見ましても、例えばスウェーデンの新しい法律によりますと、人の死に法的な効果を与える法律の適用に当たっては、脳の全体の機能が完全に不可逆的に失われたときに人は死んだものとするという、これは脳死一本という基準であろうかと思います。それからまた、アメリカの大統領委員会の議論を経てつくられました統一的死判定法のように、二つの基準を並列といいますか、選択的に設定しているような法律もあるわけでございます。  先生御指摘のように、我が国におきましてもこの点についていろいろな考え方が表明されてきているわけで、現段階で刑事局といたしましてこの問題をどう考えるかということについて、まだ正直なところ考え方を申し上げるほど固まったものはございません。私どもとしては、今後ともどのように考えていったらいいのだろうかというふうに検討を続けてまいりたいと思っております。  ただ、先ほど民事局の方からも申し上げましたように、人の死というものは、やはり一つの社会的な事実として、単に刑事法の都合といいますか、刑事法の立場からだけでこうしてほしい、このように基準を設けてほしいというようなことを言うべき筋合いの問題ではございませんので、医学的な考え方を基礎としながら国民全体がどのように受けとめてくるかということを踏まえて最終的に決定されたもの、それを私どもとしても刑事法の場面で適用していくという考え方であることは申すまでもございません。
  119. 角屋堅次郎

    ○角屋委員 もう一点だけ法務省の方にお答えを願いたいと思いますが、いずれ調査会がスタートする、幅広いいろいろな議論を真剣にやっていただく、必要に応じて国会の該当委員会でも議論をしていく、そういう過程の中で脳死が死として認められるというケース、そういうケースの場合に立法的な法制的措置をとるかどうかということになりますと、今のいわゆる心臓死というものも特別に立法でかくかくしかじかといって明記しているわけではない。脳死について特別に立法化するかどうかという点は、私は、現段階では極めて慎重に考えなければならぬだろう。  我が党の特別委員会委員長の河上さんは、昨年の五月号の「新医療」で「「臓器移植論議の深化のために」「あえて脳死立法化の必要はない 医療の歴史と未来を見れば、「臓器移植の絶対化」は疑問」ということでいろいろインタビューに答えておりますが、その他にも河上先生は、こういう問題についてあるいはシンポジウムに党の代表で参加したりしていろいろ御活動願っていたわけであります。     〔榎本委員長代理退席、委員長着席〕  脳死の問題、特に臓器移植の問題という点については、きょうの参考人の御意見の中でも、特に全国肝臓病患者連合会事務局長西河内靖泰さんの御意見等でも、いわゆる臓器移植のコースということに仮に進む場合は、そのことによって、本来医学的に臓器移植に頼らない諸研究というものを真剣にやらなければならぬのだけれども、それがそちらの臓器移植の方向に行ってしまう、これが唯一絶対の方法かのごとく行くということは、私どもとしては絶対に避けなければならぬ。必要な場合に新たな臓器移植は一切だめだというわけにはいかぬだろう、私自身もそういうふうに受けとめております。  しかし、臓器移植というのはこれからの唯一絶対的な道である、そういう認識は厚生省も持ってはいけないし、我々も持ってはいけない。あらゆる臓器移植以外の方法というものについて真剣に医学研究というものが続けられる。また同時に、それは必要な予算、研究者に対する活動援助、そういうものがなされていく。臓器移植というのは、一方ドナー側の遺族の非常に悲しんだ姿の中で臓器提供がなされていく、一方はそのことによって生命の継続を得る機会があるという、成功することが期待されますけれども、場合によっては失敗をすることもあるでしょう、いわゆる明暗を分けたそういう場面の中で臓器移植が行われるということである。したがって、そういう方法でない方法というものについて、日本が、あるいは国際的にも、そういう努力、人工的ないろいろな臓器というものの研究、新たないろいろな問題の研究というものが積極的に進められる中で、そのテンポとのかかわりの中で臓器移植の一部門があるというくらいの認識がなければならぬだろう、将来展望から見て。だから、「医療の歴史と未来を見れば、「臓器移植の絶対化」は疑問」というふうに特別委員長の河上さんも言っているのは私も同感であります。  そういうことだと思いますけれども、要するに安易に短兵急に脳死を認め、脳死立法をやっていくというようなことになりますと、国民的コンセンサスというものが得られない状況の中でやられますと、これは臓器提供というものが得られない、なかなか得がたいという状況も出てくるばかりでなしに、そういう状況の中では、いわゆる二十年前の和田事件と言われるような問題、これは何も脳死が認められる、あるいは立法的な措置に進むという段階だからこそ出てくるというのじゃなしに、やはり問題いかんによっては告発問題というのは、今後とも医師の信頼感というものが国民的に全体的に確立していないという段階であればあるほど当然出てくるというふうに予期しなければならない、こういうふうに私は予想するわけであります。検察庁としては、これからのそういう問題についてどういうふうに考えられるのか、簡潔にお答えを願いたいと思います。
  120. 東條伸一郎

    ○東條説明員 お答え申し上げます。  先生御指摘のように、脳死あるいは臓器移植の問題について十分な議論がなされまして一定の国民的なコンセンサスが得られてまいりますれば、恐らく無用な告発といいますか、告発等もそれほど起こってこないだろうと思います。ただ、先生御承知のように「何人でも、犯罪があると思料するときは、告発をすることができる。」という刑事訴訟法の規定がございますので、仮に臓器移植に関する立法がなされましても、例えばその要件に当たっていないとか、脳死が死と認められても脳死でないのに脳死だと扱って臓器を摘出して移植したというような形での告発もありましょうし、いろいろな形でなお告発というものがあり得るかもしれないということは私考えております。  ただ、これは将来のことでございますので、それにどのように対処するかということについて一般的にここで申し上げることは不適切だと思いますが、一般的に、まことに常識的なことを申し上げて恐縮でございますけれども、それぞれの時点で告発が出てまいりますれば、その時点における法律制度あるいは法律制度の背後にある国民考え方といいますか社会通念を踏まえて、証拠に基づきそれぞれ適切に対処せざるを得ない、これはもうまことに常識的な答えで恐縮でございますが、そういうことになろうかと思います。
  121. 角屋堅次郎

    ○角屋委員 法務省の方は時間の関係上以上の二点でお尋ねを終わらせていただきます。  次に、厚生省関係について、厚生大臣の御答弁をいただく前に、数点御質問申し上げたいと思います。  これは既に当然委員各位の真剣な質疑の中で出てきておることでありますが、もう一度要約して次のような問題についてお答えを願いたいと思います。  それは、国際的には脳死あるいは臓器移植は非常に進んでおる、ところが日本はそういう点では非常に立ちおくれておるというふうに言われがちであります。私は、それはそれなりの理由があると受けとめておりまして、何も幾つかの国が進んでおるから日本も急いでそれにしなければならぬという短兵急な認識は全然持っておりませんが、しかし、国際的にどういうふうに進んでおるかということもこういう問題を考える場合の重要な判断のファクターの一つであると思います。そこで、諸外国において脳死を人の死と認めることを法律で定めておる国、法律の定めはないけれども脳死を人の死として認めて移植を行っている国、こういう国は資料でも明らかでありますが、これらの点についてお答え願いたい。  それから、脳死の判定基準の問題は、日本の国内でも脳波学会から出した判定基準もあり、厚生省研究班の竹内さんからもいわゆる竹内基準と言われておる脳死の判定基準が出ている。この竹内基準というものに対するいろいろな意見を聞いてみますと、もう少しシビアな条件のもとでやるべきである。私もそういうところに基本を置くわけでありますけれども、いずれにしても脳死の判定基準については日本の国内の場合あるいは国外の場合、いろいろ分かれておる。イギリスの場合があり、スウェーデンの場合があり、アメリカの場合でもハーバード大学基準とかどこどこ大学の基準あるいは大統領の関係でやられた基準というふうにいろいろ分かれておるわけでありますが、こういった状況がどういうふうになっておるか、それとの関連で、竹内基準あるいは脳波学会の基準等がありますが、これらの問題について、質問の前段として簡潔にお答えを願いたいと思います。
  122. 仲村英一

    ○仲村政府委員 外国の法制化の事例についての説明をせよということだと思いますが、死の定義を法制化している外国の事例といたしまして、アメリカ合衆国の大部分の州、スウェーデン、オーストラリア、カナダ、イタリア等がございます。アメリカの場合を例にとって御説明いたしますと、合衆国における各州の死の定義にするようにという勧告をいたしまして、それを各州、例えばアメリカの場合には三十九の州で、それからワシントンDCで法律としてこれを決めておりますし、六つの州では法廷の判決によってその定義が採択されたような格好になっておるという事例がございます。それからスウェーデンの場合でございますが、一九七三年に通達を出しまして、八二年に至りましてこの通達を命令に変えておるわけでございます。そして、一九八七年に人の死の判定の基準についての法律というのを定めております。  脳死個体死と認める法律はないけれども脳死による臓器移植を認めている例といたしましては、イギリス、オランダ、西ドイツスイス等がございます。イギリスの場合を例にとりますと、王立医学報告書によりまして、脳幹機能の不可逆的停止をもって脳の死、つまり人の死と決定することができるということで、実際上臓器移植脳死の方から摘出されて行われておるということだと思います。  それから判定基準でございますが、申すまでもなく、必須条件として、例えば考え方として、不可逆的に脳の機能が停止したということの基本的な問題、あるいは必須条件としての脳の器質性の障害でございますとか、昏睡があるとか、現在行い得るすべての適切な治療手段をもってしても回復の可能性が全くないとかいうふうな前提条件、必須条件というのはもちろん基本的には同じでございますけれども、御指摘のように、それぞれの国あるいはそれぞれの施設で若干ずつ違っておるという実態もあるわけでございます。全部の脳の機能的な死、全脳死脳死とする立場のようなアメリカ、スウェーデンの例とか、イギリスのように脳幹の死をもって脳死とするというふうなことでも違う場合もございますし、米国の基準では、基本的にはハーバード大学の基準考え方のようでございますけれども、その後いろいろの基準が施設独自の判定基準でつくられ、かつ使用されておるというのが実態のようでございます。  それから、我が国の場合にも厚生省研究班でおつくりいただきましたいわゆる竹内基準というのがございますけれども、それ以外にも幾つかの大学で独自の判定基準を設けたりというようなことをする動きと申しますか、流れがあるわけでございます。それにいたしましても、そのときどきの医学の進歩に基づいて若干ずつ改善がなされると申しますか、そういう動きがあるようでございますが、だんだん共通性のある基準になりつつあるというふうなことで理解をしております。  それから竹内基準につきましては、私どもといたしましてお聞きしている範囲では、どちらかといえばかなり厳密な判断基準であるというふうに言われておりまして、例えば日本の場合にはCTが非常に普及しておりますので、CTの所見を必須としておるというふうなのは日本の特殊的な状況ではないかと思いますが、それ以外の判定基準の細かい内容につきましても、もちろんいろいろの御意見はあるようでございますけれども、この竹内基準そのものはかなり厳密なものだというふうにお聞きしておる、かつ理解をしておると思っております。
  123. 角屋堅次郎

    ○角屋委員 日本医師会生命倫理懇談会の最終的な報告が出ました際に、「脳死および臓器移植に関する法学者意見集」というので、ジュリストに東大、京大初め各団体の法学者の意見がずっと出ておりまして、そういうものを通読しておりました中に、南山大学の社会倫理研究所所長の阿南成一さんの論文の中でヘルシンキ宣言というのが出ております。このヘルシンキ宣言というのは、厚生省おわかりのように、ヒトにおけるバイオメディカル研究に携わる医師のための勧告、一九六四年六月、フィンランドのヘルシンキにおける第十八回世界医師会の総会で採択された宣言でありまして、これは一九七五年十月、日本の東京における第二十九回世界医師会総会で改正、一九八三年十月、イタリアのベニスにおける第三十五回世界医師会総会で修正、こういうふうな形を経たヘルシンキ宣言、ヒトにおけるバイオメディカル研究に携わる医師のための勧告ということが国際的に医師グループの中でコミットメントされておるわけでありますが、この阿南先生の論文の中で、「なお、素人の私見であるが、臓器移植は未だ開発途上の医療技術であり、術後の拒否反応の抑制や生存年数などから見ても、未だ実験段階にあるのではなかろうか。だとすれば、いわゆる〈実験治療〉としてヘルシンキ宣言にのっとり、患者への十分な説明とその承諾が必要なことは言うまでもない。」云々という形でヘルシンキ宣言に触れられております。  この問題は、私もこのヘルシンキ宣言の内容をずっと見ていきますと、限定された臓器移植というものが今後行われるとするならば、基本はまずヘルシンキ宣言というふうなところを念頭に置きながら、アメリカの場合は臓器移植のための医師のガイドラインというのを出しておりますね。日本の場合も、臓器移植をやる場合に移植学会の臓器移植のガイドライン、日本医師会生命倫理懇談会最終報告では、それを行う場合はこの移植学会のガイドラインの方式に基づいて実施をする、こういうふうになっておる問題がございますけれども、いわゆるこれからの問題として、医師国民的信頼性の確立ということに関連をして、国際的にはヘルシンキ宣言の全体的な考え方というのがある。また、そのほかにもありましょう。それから国際的にも、そういうものをやる場合、厳粛な、しかも真剣な心構えの中で、そしてそういうものを実施する場合、準備万端整えて、しかも敬けんな気持ちで厳粛な気持ちでやらなければならぬとか、いろいろなことがそれぞれうたわれております。そういう問題について、日本の場合も、大学、病院等の倫理委員会の問題ももちろん入ってまいりますけれども、そしてまた、調査会でそういう問題を仮に議論する段階まで入るとするならば、基本はそこのところが重要なかなめの一つであろう、こういうふうに思うのです。厚生省からそういった関係について、時間の関係もありますので、できるだけ簡潔に御答弁をお願いいたします。
  124. 仲村英一

    ○仲村政府委員 ある医療技術が実験的であるか完成されたものであるかという判断は非常に難しいのではないかと思うわけでございます。先ほどお触れになりましたように、ヘルシンキ宣言はバイオメディカルな研究に携わる医師のためにどういうことを守るべきかということでお決めになったことで、基本原則とかいろいろ定められております。  ただ、私ども理解している範囲で申し上げますと、諸外国の例でございますが、例えば肝臓で四千七百例、心臓で一万例を超えておる。心臓、肺臓同時に移植した例が二百八十七例とか膵臓が千例を超えておるというふうなこと。さらに、臓器移植の五年生存率で見ますと、例えば肝臓の場合には六五%、心臓の場合には八〇%ということから、理解する範囲で申し上げますと、これらの国々における治療法というのはかなり完成されたものではないかという理解でございます。もちろん、まだまだ改善の余地のある部分もあろうかと思いますが、そういう観点で申し上げますと、その内容を今後具体的にどういうふうに御議論していただくかというのは、調査会の中で御議論いただくことでございます。  御指摘にございました移植学会の指針のように、移植するお医者さんが脳死の判定に加わってはいけないとか、そういういろいろなコード的なものも十分御議論いただくことになるでしょうし、逆に、脳死の判定の場合には経験あるお医者さんが少なくとも二人で判定すべきであるということで、実務的と申しますか、そういうふうなことも国民皆様方の御理解を得るために大いに議論をしていただくことが必要ではないかという理解でおります。
  125. 角屋堅次郎

    ○角屋委員 きょうは午前来、参考人意見開陳、委員各位からの質疑、それについて私が最後に質問をお許しいただいておるわけであります。委員各位の熱心な審議の関係で私の質問のスタートはおくれましたけれども、最後のところは委員各位の予定をされておりました理事会の時間に終わらせていただきたいというふうに思っております。  戸井田厚生大臣も既に御出席でございます。それから、午前来近岡政務次官にも御出席願っておったのですけれども、政務次官の方には御答弁の機会なしに大臣に切りかえることについてはひとつお許し願いたいと思います。  短時間でありますけれども臨時脳死及び臓器移植調査会設置法案に対して、我が党からは坂上さんからもあるいは広瀬さんからも、それから田口さんの場合は参考人に対する質疑を通じて審議をいただきました。私自身いわば締めくくりで質問するに当たって、党としてこの調査会のスタートに対してどういう基本的な態度かということに若干触れました。これは調査会の審議を通じて行われます今後の議論の経過いかんによって、場合によって立法その他が出てくる場合に、賛成するか反対するかは全然別個の問題である。調査会のスタートというのは、今日の諸般の情勢から見て、我々としてもやはりスタートを認める、総合的な検討をやるべきときに来ておるということでこの問題は受けとめております。  そういう点で、政府自身もこれからのスタートに当たって、命の尊厳にかかわる厳粛な問題である、そして臓器移植という問題は、一方では臓器を提供するドナー側関係者というのは悲しみの中にあり、その上さらに父の、母のあるいは我が子の臓器提供ということが新たに加わるということになる。  同時に、臓器提供ということが心臓その他で行われますと、専門医によって若干幅はあるかもしれませんけれども心臓というのは大体五、六時間、肝臓ということになれば、私は二十四時間と思っておったら、きょう参考人で出てきておられたお医者さんに聞いたら大体一昼夜というような話が出ておりましたが、とにかく時間の勝負だ。いろいろデータを見ておりますと、アメリカの場合は、ドナーが一人出るとジェット機を飛ばして送り込む。河上先生のあれを見ておりましたら、アメリカの友人の話では、ヘリコプターで輸送するということは絶えず行われているというほど、時間の問題の中でそれが行われているということであります。  そういった中で、脳死の問題を我々はどう受けとめるのか、あるいは臓器移植の問題について、今後調査会としても我々としてもどういうふうに考えていくのかということは、極めて慎重かつ真剣に考えなければならぬ非常に重要な問題の一つでありますけれども、断じて短兵急であってはいけないということが基本であろうというふうに思います。  この際、戸井田厚生大臣の方から脳死及び臓器移植問題に対する御認識を、仮に調査会が今度の臨時国会でスタートするとしますならば、事実上事務当局のブレーンは厚生省が中心になって恐らくやられるのだろうと思いますので、そういうことも含めてひとつ御答弁願いたいと思います。
  126. 戸井田三郎

    ○戸井田国務大臣 連日御熱心な御審議を心から感謝申し上げます。  そこで、私に対する御質問は、脳死及び臓器移植問題に対する厚生大臣の認識はいかにということでございますが、脳死につきましては、日本学術会議日本医師会生命倫理懇談会報告書にあるように、医学的には脳死を人の死とする見解が大勢となっております。厚生省といたしましてもこれを尊重いたしたいと思います。  臓器移植につきましては、先進国で既に医療技術として確立しており、厚生省としても有効な治療法であると考えている。また、現実臓器移植以外有効な治療法がなく、これを待ち望んでいる患者が多数おられることも承知いたしております。しかし、法的、心理的、倫理的、社会的にはさまざまな意見がありますので、厚生省といたしましては、今後とも生命の尊厳を尊重するということを基準としつつ、国民理解と納得が得られるよう、各方面で幅広い観点からさらに議論が深められていくことを期待いたしております。  総理大臣の諮問機関として有識者を集める調査会が設置され、この問題に関し御審議をいただくことは、この問題の今後の取り扱いに当たりまして大変意義深いものと考えております。
  127. 角屋堅次郎

    ○角屋委員 ぜひ今のような御認識に基づいて、この調査会設置法案が参議院の方でも了承されて成立した場合は、この調査会の重要性から見てスタッフ、それからこれからの議論、いろいろな問題に対する万全の体制を厚生省が中心になってとっていただきたいと思いますが、再度その点について大臣から御答弁をいただきたいと思います。
  128. 戸井田三郎

    ○戸井田国務大臣 本調査会の設置趣旨から見まして、厚生省の責務は重大なものと認識をいたしております。本委員会での御審議を十分しんしゃくいたしまして、調査会の円満な運営が確保され、所期の目的が達成されることに努めてまいりたいと考えております。
  129. 角屋堅次郎

    ○角屋委員 私の質問は以上をもって終わらせていただきます。ありがとうございました。
  130. 吹田愰

    吹田委員長 これにて本案に対する質疑は終了いたしました。     ─────────────
  131. 吹田愰

    吹田委員長 この際、本案は予算を伴う法律案でございますので、国会法第五十七条の三の規定により、内閣から意見を聴取いたします。戸井田厚生大臣。
  132. 戸井田三郎

    ○戸井田国務大臣 ただいまの臨時脳死及び臓器移植調査会設置法案については、異議ございません。     ─────────────
  133. 吹田愰

    吹田委員長 日本共産党・革新共同から討論の申し出がありますが、理事会で協議の結果、御遠慮願うことといたしたいと存じますので、そのように御了承願います。  これより採決に入ります。  臨時脳死及び臓器移植調査会設置法案について採決いたします。  本案に賛成の諸君の起立を求めます。     〔賛成者起立〕
  134. 吹田愰

    吹田委員長 起立多数。よって、本案は原案のとおり可決すべきものと決しました。     ─────────────
  135. 吹田愰

    吹田委員長 ただいま議決いたしました本案に対し、日本社会党・護憲共同田口健二君から附帯決議を付すべしとの動議が提出されております。  提出者から趣旨の説明を求めます。田口健二君。
  136. 田口健二

    ○田口委員 ただいま議題となりました附帯決議案につきまして、その趣旨を御説明申し上げます。  まず、案文を朗読いたします。     臨時脳死及び臓器移植調査会設置法案に対する附帯決議(案)   本調査会は、臓器移植の分野における生命倫理に配慮した適正な医療の確立に資するために設置されることにかんがみ、政府は、委員の人選に当たっては、各界各層から意見を聴取し、公正に選任すべきである。   調査会は、設置の趣旨にかんがみ、審議状況を国民に明らかにし、また、重要事項については、単純な多数決によることなく決定するよう要望する。  本案の趣旨につきましては、先般来の当委員会における質疑を通じて既に明らかになっておることと存じます。  よろしく御賛成くださいますようお願いを申し上げます。
  137. 吹田愰

    吹田委員長 これにて趣旨の説明は終わりました。  採決いたします。  本動議に賛成の諸君の起立を求めます。     〔賛成者起立〕
  138. 吹田愰

    吹田委員長 起立総員。よって、本案に対し附帯決議を付することに決しました。  この際、厚生大臣から発言を求められておりますので、これを許します。戸井田厚生大臣。
  139. 戸井田三郎

    ○戸井田国務大臣 ただいま御決議になられました附帯決議につきましては、その趣旨を十分尊重いたしまして努力いたす所存でございます。     ─────────────
  140. 吹田愰

    吹田委員長 お諮りいたします。  ただいま議決いたしました法律案に関する委員会報告書の作成につきましては、委員長に御一任願いたいと存じますが、御異議ありませんか。     〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  141. 吹田愰

    吹田委員長 御異議なしと認めます。よって、そのように決しました。     ─────────────     〔報告書は附録に掲載〕     ─────────────
  142. 吹田愰

    吹田委員長 次回は、公報をもってお知らせすることとし、本日は、これにて散会いたします。     午後四時三十四分散会