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鎌田参考人 鎌田と申します。私は、三年ほど前
日本に帰ってまいりましたが、その前は十年間ケンブリッジ大学のカーン教授のもとで
肝臓移植とその臨床とその
研究をやってきました。それで、
日本に帰ってきましたら、その余りの価値観の違いに逆カルチャーショックに陥りまして、どうしていいかわからなかったというのが本音なんですけれ
ども、実はそれは
海外の
移植医または
海外の
人たちが
日本を見る目と同じだと思います。
そういう意味でも、
日本が非常に
臓器移植でおくれているということを踏まえましても、今週は
日本の
移植医療にとっては記念すべき週間であると僕は感じています。まさに春風春水一時に来る。春風は何であるかというと、あの島根医大が行った
部分肝
移植、最も難しいところの、世界で四例目でしかないところの
部分生体
肝臓移植を真っ先に行う、これは
日本が抱えている問題の縮図であるとともに、
日本が
肝臓移植を推進すると、いろいろな医療においては世界のトップにある、そういうことを表現するものであると思います。
それで、春風春水の春水は何かというと、まさにきょうの
委員会であると思います。それは、
患者も
医者も我々も待ち望んでいたところのこういう
国会での
論議、こういう調査会を設置するということは非常にすばらしいことだろうと思います。遅過ぎたかもしれません。しかし、一刻も早く始めなければいけないということを確認したことは非常に大きな点であると思います。
そういう意味で、私は、この調査会の設置に全面的に賛成する
立場で述べたいと思います。その賛成する
立場としては、次の五点について触れたいと思います。
一つは、
海外臓器移植によるところの
海外医療摩擦は防止しなければならない。
二つ目は、
脳死に関する
社会的合意。
社会的合意とは一体何物なのか。これに対するところの最終決定をきっちりと
国会の場ないし
委員会の場、調査会の場で設定しなければいけない。
それから
三つ目は、現在各施設で行われているところの倫理
委員会。この倫理
委員会の決定はほとんど出ていないわけですけれ
ども、どういうわけか各倫理
委員会がばらばらに決定を出そうとしている。しかし、一校が
脳死を否定し他の施設が
脳死に賛成する、そういうことがあっては、医療の公平という面から許されないわけです。したがって、この調査会の名においてきっちりとした価値観を各倫理
委員会に与えていく、こういう面が必要だと思います。
四つ目としましては、
脳死判定
基準。これも
竹内基準が出て以来、まさに各校、各施設がばらばらにそれに
基準をつけ加えようとしている。これは
国民の非常な不安を誘うものである。そういうことで調査会の名をもってこの
脳死判定のきっちりした
基準をつくり、これをオーソライズする、すなわち権威を与えていく、そして
国民の不安というものを取り去る。
五つ目としては、この
臓器移植というのはまさに国家プロジェクトとしてやらなければいけない。したがって、その費用と健康保険における社会的整合性を整えていく、そういうことをこの調査会が調査し決定することを
希望します。
以上五つの点について、時間がある限りさらに詳しく説明したいと思います。
まず、
心臓、
肝臓移植は、一九六〇年代、一九六五年に始まりました。それで、現在ではアメリカでは年間二千例、それは
肝臓移植です。その半数が
心臓移植、
心臓移植は千例以上。それから、ヨーロッパでも既に四千五百例をやっている。こういうことが報告されています。例えばUCLAでは昨年三百例近く行いましたけれ
ども、しかし五年生存率が何と七七%に達している。極めて日常の医療として確立しているわけです。しかるに、
日本ではまだ再開ないし開始のめどすらない。これは非常に残念なことであるわけです。それで多くの
患者が自分の命の代償として
海外に求めていく。特に小さな子供が
海外に行く。これはしようがないことなんです。これをだれが責めることができましょう。
それで、ここにCBA友の会、胆道閉塞症の子供を守る会、荒波さんが代表なんですが、この
患者の代表がつくった一覧表があります。これは子供なんです。ここには現在受けたのは三十八例と書いてあります。その三十八例のうち半数以上が自費で行っています。そのうちオーストラリアのブリスベーンに二十五人が行っています。オーストラリアは大体一千万、イギリスは二千万、アメリカは四千万から五千万かかっています。
こういう状況の中で、
日本で行われないがゆえに
海外に肝臓を求めていく、このことは決して
患者を非難することではない。しかも、それは全く個人的に行われている。しかし、現在把握されている三十八名を上回るところの数十名の子供がいるだろう。それから、大人もこれを上回るところの数が記録されていると思います。したがって、百名近くの人が
海外に求めて行っています。中には自費だけではなくて公募という形でも行っていますけれ
ども、なれない
外国で
外国語を学びながら、ないしは
日本人の
医師の助けを借りながら、非常に苦しい思いをしているわけです。したがって、こういう
人たちに一刻も早く救いの手を差し伸べるということは我々
国民の急務であると思います。
同時に、
外国がどう
日本を見ているか。これは全く
日本人のエゴである、みずからの
国民がみずからの
脳死を認めないのに、
外国へ行って受けるのを認める、これは一体何事だ、こう言っています。この点に関する説明というのは今僕
たちには全くできることではありません。
この
海外との医療摩擦について、産経新聞なんですが、「なぜ
日本は
臓器移植しない」、このように第一面に出ています。それは全くそうなんです。高い医療
技術を誇りながら、あすにでもできながら、なお、しない。それで
海外にどんどん行くことを肯定している。この責任は一体だれがとるのか。費用としては個人的にとるかもしれないけれ
ども、今や全く国がとらなければいけない、そういう時期に来ていると思います。それで、現在この医療摩擦という
事態を避ける、これは急務であると思います。この件に関し、国内のみでなく
海外に対してもまさに国としての責任と哲学と今後の方針を明確に示すことが非常に重要であると思います。
次に、
脳死に関する
社会的合意に触れたいと思います。
よく言われます
脳死に関する
社会的合意がない、至るところで聞きます。
医者も言います。しかし、何をもって
社会的合意と言うのでしょうか。これは全く不明です。
社会的合意というのは、何%に達したら
社会的合意と言うのでしょうか。
ここに読売新聞の調査結果があります。
臓器移植、
心臓移植を進めた方がいい七〇・六%、
肝臓移植を進めた方がいい七一・九%。これはまさに、少数派ではなくて多数派なんです。各世代を見ましても、
脳死をもって
個体死とする、これはほぼ五〇%を占めています。もはや
脳死を肯定ないしは
臓器移植を推進する、これが社会の少数派でなくて多数派と言ってよいはずです。しかしながら、今でも至るところで
社会的合意がないからできない、これを言います。とりわけ犯罪的なのは、医療を行う側がこれを口にするわけです。これも
海外の
医者からは
理解されないところです。
社会的合意というのはどうして形成されるのか。それはやる側と
患者がきっちりしたかたい決意で、医療を行っていく中で
国民の
合意を形成していく、こういうことでなくしてただ待っているだけでは決して
合意されない。これは、
海外でアメリカにおけるスターズル、イギリスにおけるカーン、こういう教授
たちが行ってきた道そのものなわけです。
社会的合意、これを最終的に決定するのは何%をもってするのかじゃなくして、
社会的合意が成立したということを最終的に決定するのはまさに国の義務であります。
それで、若干の私見を述べますと、僕は、
社会的合意ということで次の五つの提案をしたいと思っております。
一、
医学的に
脳死という定義が世界で確立していることを知る。二、
脳死に賛成、
反対の両論があることを認識する。賛成者、
反対者はお互いに干渉しない。
移植が必要な
患者と
脳死からの
臓器提供に同意した本人、
家族、それに
臓器売買を厳しく禁じている
日本移植学会の倫理宣言に従い
移植を行おうとする
医師の三者が納得、
合意するならば、無
関係な第三者はそれを妨害しない。
脳死移植に
反対する人は
臓器を提供しない自由を有する。
それで、これは
脳死反対者を切り捨てることでは決してないのです。決して切り捨てるのではなくして、
脳死をもって
個体死と認めている多数派に対して医療を開始しなければいけない、この
部分を大切にしなければいけないということなわけです。第三者は決してこれを妨害してはいけない。すなわち
患者の生きるための
手段、この場合は
移植ですけれ
ども、
患者の生きるための
手段を無
関係の第三者が取りつぶそうとするのは全く許せないことなわけです。したがって調査会、
国会の名をもって
社会的合意をきっちりと明確にしていく、それで
社会的合意ができないから
移植ができない、そういう認識を完全に一掃していくことが重要であると思います。
三番目に、倫理
委員会について、倫理の問題について述べたいと思います。
脳死と
臓器移植、このようにすぐれて高度な倫理問題を各大学、各施設でばらばらに決定してよいわけがないと思います。事実一九八八年一月、
日本医師会生命倫理懇談会の加藤一郎座長の
最終報告で、
脳死をもって
個体死とし、
臓器移植への展望を示したにもかかわらず、各施設の倫理
委員会は二年近くもそれをほっぽり出しておいている、そしてみずからの決定をちっともしない。したがって、国の方針として各施設におけるところの倫理
委員会に対し価値観の統一性を与える必要があると思います。
これは新聞に出ています。一九八八年一月十日、「
脳死・
臓器移植を容認」。このように二年近く前に既に
日本医師会の決定として出されているわけです。この膨大なエネルギーをかけたところの
日本医師会の決定が各大学におけるところの
委員会よりも下にあるということは決して言えないと思います。もっと極端に言いますと、倫理
委員会の決定が出ないというのは、
医学者、医療を行う側の全くの怠慢であると思います。
これは私の完全なる個人的
意見ですけれ
ども、なぜそういうことが出てきたのか。それはやる側、外科医の側が、もし自分がやったならばあるいは告訴されるかもしれない、たたかれるかもしれない、したがって責任を逃れるために倫理
委員会にぽんと投げたわけです。倫理
委員会はそれを受けとめてどうしたか。自分のところに責任が来るじゃないか、したがって決定しない、放置する、そういう感じで二年間だらだらと来たわけです。したがって、責任の投げ合いなわけです。これは全く醜い
医学部内の一端を表明していると思います。
しかし最近ようやく倫理
委員会も結論を出しつつある、あるいは大阪大学、東北大学、そういう大学で結論を出しつつあるのですけれ
ども、しかし非常に不思議なことがあるのです。それは、ついこの前まで倫理
委員会がみずからの隠れみのにしていた、すなわち
社会的合意がない、これを最近はちっとも言ってこなくなった。何を言い出してくるかというと、システムが足りない。システムが何の倫理か。システムというのは行政の問題である。倫理に触れなくなってきた。それはなぜか。あるいは倫理
委員会が結論を出そうとしているときに、前にあれほど言ったところの
社会的合意、これが成立したのか成立しないのかに触れることができない。なぜならば、二年前も
社会的合意がないと言っていたけれ
ども、あるのかないのか突きとめることなくして倫理
委員会それから
医師団が突っ走ってきている。これに対してきっちりとした
社会的合意を与えるとともに、倫理
委員会に対してもきっちりと倫理問題を討議するようにこの
国会の名をもって要請していかなければならないと思います。
次に、
脳死の判定
基準について触れたいと思います。
一九八五年、
厚生省によるところの
脳死に関する
研究班の
竹内一夫座長により
脳死の定義が確立されたが、その後各大学でばらばらに
幾つかの
基準をつけ加えようとし、ないしつけ加えている。
脳死の定義が各施設においてばらばらであるということは、人々に非常な不安感を与えると思います。したがって、
国会の調査会の名をもって
脳死の定義、判定
基準の統一を行うよう
医学界に問いかけなければならないと思います。
もちろん、
脳死の内容が賛成多数で決定されるというようなことでは決してない。
脳死というのは科学的に決定しなければいけない。しかし、
脳死を発表するという
医師の側が極めて不親切である。
脳死というのは
機能死なのか、それとも器質、細胞の
一つ一つが死んでいくのか、それとも
竹内基準が出したような全
脳死なのか、それとも世界が今主流としている脳幹死なのか、これを全く説明しない。それで、高名な評論家
たちが言っているところの
脳死の
基準が不安定、確認されないというのは、ほぼ器質的な死である。しかし、
脳死というのはファンクショナルな死である。そのファンクションをとめたところから
脳死の概念が生まれてきたわけです。したがって、もっともっと
医師の側としては
脳死の定義をわかりやすく
国民に知らせなければいけない。しかし、その努力を怠っているならば、調査会の名をもってやはりきっちりと知らしめていかなければならない。
それで、ちょっと時間が長くなりますが、
脳死のことについて
一つ例を紹介したいと思います。
それは、
脳死というのは確かに西洋から生まれました。西洋の
人たち、すなわち狩猟民族から生まれてきた
言葉です。もし馬が骨折、足の一本を折ったらどうします。あとの三本で馬はみずからの体重を支えられない。したがって、間もなくあとの三本の足は腐るでしょう、死ぬでしょう。そのときこっちからこっちへ移るときその馬をどうしたか、見殺しにしてオオカミのえじきにしたか、それとも殺していったか。それは明らかに殺していったわけです。というのは、足を一本折った瞬間にその馬の死が始まった。ネバー・リターン・ポイントがそこにあるわけです。
脳死も同じなわけです。脳幹死の死をもって
脳死とするわけです。全
脳死ではないわけです。したがって、イギリスはきっちりと脳幹死と言っておりますけれ
ども、イギリスの
医学生はそういう意味では実習に
脳死判定
基準を習っているわけです。それで、脳波測定は必ずしも必要ないと言っているわけです。というのは、脳幹死というのは、
呼吸中枢が完全に壊れたとき再び
呼吸ができない、それは
呼吸器を入れて管理しているときにのみ
心臓が動いているけれ
ども、それを外せば
心臓もとまる、そういう極めて管理された死、これを
脳死というわけです。したがって、脳の一部が動いているか動いていないか、これは問題にならない、こういう定義をきっちりしているわけです。
それに比べて、
竹内基準というのははるかに厳しい
基準をしているわけです。僕としては、
竹内基準プラスアルファ、例えば大阪大学の
基準がつけ加えたように、
脳死と判定されてもホルモンが出ておるからそれは死でない、こういうことは言ってはならないことなんです。それは定義の違いなわけです。こういうことを
国民にきっちりと知らせなければいけないわけです。ですから、ファンクショナルな死なのかそれとも器質の死なのか、こういうことをきっちりと説明する必要がある。これを調査会でやはりきっちりと
国民に再度説明してほしいと思います。
まだ
脳死に関してはたくさん言いたいことがあるのですけれ
ども、今後国が行わなければならない処置について調査会がぜひ推し進めてくれるようお願いして、次のことを述べます。
臓器移植は、もし本格化すれば莫大な経費……