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広瀬委員 脳死問題そして
臓器移植、これは本来なら別なものだといいながら、提案
説明の
説明書を読みましても、また、これは去年の一月ですね、
生命倫理研究
議員連盟の中山太郎会長から原健三郎衆議院議長に出された
脳死及び
臓器移植に関する要望書、こういうようなものを拝見いたしましても、
脳死判定の必要性、そしてまたこのような
調査会を設置するということも、やはり
脳死に伴う
臓器移植、こういうことで、その
関係というものは全く否定することのできない密接な
関係を持っているということがはっきりしておるわけであります。
脳死というものは
医学的に一体どういうものなのか。そしてまた、
和田教授事件と言っていいのですか、そういうような場合でも、これはやはり
生体に侵襲して
臓器を取り出したのではないかという疑惑が非常に濃厚であった。こういうような点で、
国民の
生命倫理とか
生命観、人権というようなものから、
国民が医師に対する密室での判定ということに極めて不信を持つ。これは、素人である一般大衆はその判定というものが
専門的に良心的にやられているのであろうという気持ちは持つけれ
ども、あのような
事件になりますと、やはり医師を信頼できないなということに直結してしまうというようなことがあったと思う。そして
日本の文化、風土の中で、西洋の諸国がもう三十九カ国もやっているというような事例があるし、今や世界一の経済大国
日本が医療面では三流国並みにおくれている、二流国以下だと言われるようなことのないように、そういう立場で、私
どもも
医学の発展、そしてまた、死ぬ以外に回復の見込みは絶対ないんだという人から
臓器を取り出して別な
患者に対して延命の
措置が講ぜられるということは、科学の進歩、
医学の進歩という立場でとらえなければならないだろう。
我々の今までの
生命観、そういうようなものから見て、我々、仏教の中で育ち、そしてまた儒教、道教、孔孟の教えなどを小さいうちに教えられて育ってきた。「身体髪膚之を父母に受く、敢えて毀傷せざるは孝の始めなり」というような概念を
子供のときから教わってきたわけですね。そういう点から見れば、まだ体温がある人、
心臓の鼓動もつい今まで打っておったのだというような人たちから
臓器を取り出すというようなことについて、
心臓がなくてあの世に行っていいのかというような来世思想のようなものなんかもまだ
国民の中に色濃く残っているだろうと思うのですが、そういうような立場からしても、科学技術の進歩、
医学の進歩、そして、もうどうせ助からない命だという場合に、
脳死の判定によって、
心臓がまだ生きておったという
段階で、あるいは呼吸がまだ少しはあった、体温もあったというような
段階で
臓器を取り出して一人の人を救う、儒教や孔孟の教えの中にも「身を殺して仁を成す」というまた一方の言葉もあるというようなことで、そういうこともあるのだから、
脳死というものが確実に判定をされる、これは
国民だれしもが納得のできるような形で判定をされるというのであるならば、
脳死というものを否定することは私
どももできないだろう。そしてそういう
段階の中で、その判定が誤りなきよう慎重の上にも慎重を期して、
判断基準などでも、これはやるべきであるという有力な
意見があるならば、それらも取り入れた上で
脳死の判定が行われる、そういうことまでいけば
国民も納得するだろう。
そして、生前において自己決定権、自己の人権は自己で、これを公共のために使うということは、憲法でも公共のために使うのだということは言われておるわけでありますから、そういう面を考慮して、私がそういう
状態になった場合にはということを遺書ではっきりさせるとかそういう場合がある、あるいは親族の皆さんもそれについてノーを言わない、同意をするということならば、私は
脳死判定そして
臓器移植ということはあり得べしという
見解に立つわけであります。したがって、そういう点では慎重の上にも慎重を期してこの
脳死の判定基準というものをやっていただきたい、こういう気持ちが非常に強いわけであります。そのことを強く
提案者にもまた
関係省庁にも要望しておきたいと思うわけであります。
さて、今も引用いたしましたが、例の
和田教授事件、これは不
起訴になっている。これは午前中にも
坂上委員からも
質問をされましたが、いろいろ書物などを読んでみますとどうも腑に落ちない、また不
起訴の
理由もはっきりしないという面がある。これは試行錯誤というか、こういうものの中で時期的に出てきた一つの
事件だとは思いますが、今後こういうことがあってはならない。これについての所見を法務当局からもう一遍伺いたいと思います。