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下稲葉耕吉君 私は、
最初にリクルート
事件の捜査について、その次に
法例の一部を
改正する
法律案関係につきまして
質疑をいたしたいと思います。
去る六月十三日の本院の予算
委員会におきまして、
法務大臣からリクルート
事件の捜査結果に関する報告がございました。その中に、
本
事件は、その
内容が複雑かつ多岐にわたっておりましたため、捜査は約二百六十日の長
期間に及び、その間、捜査に従事した
検察官は五十二名、
検察事務官は百五十九名、取り調べた
参考人の数は延べ約三千八百名、捜索場所は約八十カ所、押収証拠品は約九千点に上っております。という御報告がございまして、引き続いて、
検察官においては、厳正公平、不偏不党の
立場を堅持しつつ、
法律の定める手続にのっとって事案の解明に当たり、法と証拠に照らして適正な
事件処理を行ってきたものでありまして、
という御報告がございました。
そこで、「法と証拠に照らして適正な
事件処理を行ってきた」というお話でございますが、リクルート
事件の一つの特徴といたしまして私が感じますのは、これはマスコミ先導型の
事件であったと、このように思うのでございます。
御承知のとおり、昨年の夏ごろでございましたか、
川崎市の元助役に係る収賄容疑
事件というふうなものがマスコミに
報道されまして、一躍リクルート、リクルートというふうなことでにぎやかに
報道されるようになったわけでございます。マスコミが、何といいますか、
社会正義を追求するという
立場からいろいろ
報道をなさる。あるいは
検察官も、その職責を通じて正義を追求する。ある程度、背景といいますか、基盤といいますか、共通する面はないわけじゃない、このように思いますけれ
ども、
検察当局はあくまでも法と証拠に照らして
事件の解明というものを地道に、そして粛々と厳粛におやりにならぬといかぬわけでございます。
マスコミはそれとは別な
立場からいろいろ取材し、そして
報道される。本件の場合はそちらの方が先行しているわけでございまして、その後、言葉は悪いんですが
検察庁の捜査なり
事件処理というものがついていくような形になっている。
マスコミ、新聞
報道等によって
国民には、
事件に対するある程度の輪郭なりあるいは見通しなり予見なり、そしてさらにそれに基づいて希望といいますか、将来についての希望というものがありますが、それと
検察の地道に証拠に基づいて追求していくという姿勢とは、必ずしも一致しない。一致しないと、今度は逆に
検察の捜査が不
十分じゃないかとか、
国民の期待にこたえられないんじゃないかというふうなことになろうと思うのでございます。
また、マスコミのそういうふうな一つの
報道なり何なりにこたえようという形で
検察が動くことはないと思いますけれ
ども、そういうふうなことになりますと結果的に捜査が適正に行われないということになりかねない。その辺のところが大変難しいところじゃないかと思うのでございます。
私もこの
事件が起きまして、大正の末期から今日に至りますまでのいわゆる疑獄
事件と言われるような
事件をちょっとフォローしてみたわけでございますが、その中で非常に
指摘したいのは、無罪
事件というのが大変多いということでございます。
例えば、古くは松島遊廓移転
事件、これは大正の末期から
昭和の初めにかけまして
事件化されたものでございまするが、いろいろ当時騒がれたにもかかわらず、三名の人が無罪になったというふうな
事件でございます。
さらにまた、御承知のような帝人
事件。これは
昭和九年の五月ごろの
事件でございますが、この
事件は性格的に見ますと今度のリクルート
事件に非常によく似たところがございます。大臣が二人逮捕された、大蔵省の次官も起訴された。その結果、齋藤内閣が総辞職した。東京地裁で
裁判が行われまして、四年余にわたって二百六十六回の公判が行われたわけでございますけれ
ども、全員無罪です。そして、それが確定しているわけです。判決文なんか読んでみますと、証拠不
十分というふうなものじゃなくて、空中楼閣であるというふうな形。そういうことになりますと今度は一斉に、これもよくよく調べてみますとマスコミ先行型の、マスコミが大変事前に
報道していた事実があるわけでございますが、今度は一転いたしまして
検察の
人権じゅうりんということで大変問題になったというふうな結果になったわけでございます。
そういうことで、なかなか
検察の
処理というのは難しいわけでございますけれ
ども、私はあくまでも粛々と、
法務大臣の報告にございますように、法と証拠に照らして適正な
処理をする、それが仮にその当時の世論に必ずしもこたえられるようなものでなくても、それが私は
検察の宿命であるというふうに思います。
昔、昔でもないですが、ロス疑惑という
事件がございまして、皆様御承知のとおり、三浦なる
夫婦がロサンゼルスへ行きまして、銃撃されて、そして二人ともけがしたんですが、女房が重傷を負った。アメリカ
政府に大変働きかけまして、アメリカの軍用機まで出して日本にその女性を持ってきた。当時のマスコミは、本当にすばらしい男性だというふうなことで、多くの女性が三浦にあこがれるといいますか、そういう風潮があったです。ところが一転いたしまして、あれはもうやらしたんだと、結局殺人
事件で起訴され、今公判係属中だと思うんですが、あんな憎たらしい男はいないということで今度はマスコミに一生懸命書き立てられる。しかし、そういうふうなことにかかわらず、
検察というものはやはり今申し上げましたように法と証拠に照らしてやらなくてはならない。これは大変苦労されるところであろうと思うのでございます。
そこで、リクルート
事件そのものについて、政治的な道義の問題なり倫理の問題なり、これは大いに追及しなくちゃならない。それはしかし我々の問題であるわけでございまして、それは
法務省の問題じゃないと思うんです。
法務省は
事件を
処理される、そういうふうな
立場からすれば、私は司法がそういうふうな
分野まで介入すべきでない。あるいはもっと言いますと利用されるべきじゃない。やはり、その辺は厳然とした姿勢を貫かれるところに長い目で見て
国民に信頼される司法のあり方があるんじゃないか、こういうふうな感じがいたすわけでございます。
そこで、大変御苦労なさったわけでございますが、以下、先ほど読みました点につきまして若干お伺いいたしてみたいと思うのでございます。
一部の
報道によりますと、五十二名の
検察官と
検察事務官百五十九名が従事されたということでございますが、捜査の途中で担当の
検察官が異動かなんかでおかわりになっているという
報道がございました。一般的に、ああいうふうに
国民が大変関心を持って、その行方を見守っている
事件で、捜査の途中で担当の
検察官がかわるということは、ちょっと何といいますか、一生懸命やったのだろうかとか、あるいはもう捜査は終わったんだろうかとか、それでいいんだろうかとかいうふうな感じがあったことは間違いのないことだと思うんでございますが、その辺について、まず
最初に御説明いただきたい。