○中村哲君 趙紫陽さんについても何か最近のニュースの中に北京の中でゴルフをしていたということが出ているのがありましたり、これはそういうふうに国際的な印象づけをする必要があるということもあるでしょう。しかし、これはかつて文化大革命のときに最も追及された彰真さんという北京市長をした人で、
日本にも来て私は片山さんなんかと一緒のときに会いましたけれ
ども、あの彰真さんに対してはかなり厳しい措置をしたように言われていたけれ
ども、私の友人の広東語の非常によくできる、広東のニュースの取材ができる和久田君という人がいますが、この人の書いたものには、彰真は悠々と北京で庭をいじっていると。つまり、こういう要素が中国にはあるのでありまして、これを粛清したとかなんとかそういうこともあるでしょうけれ
ども、権力の
関係ではそうであっても、そういう根こそぎに人権を無視して、人の存在を無視しているようなことでもないんですね。こういうことがありますから、政治事件で接触するときには、やっぱり
向こうと同じようにかなり大陸的に対処していく必要があるようにただ思うわけです。まあそんなことであります。
それから、そういう機会に、これは
外務委員会で取り上げるような問題じゃないかもしれませんけれ
ども、しかし国際政治を見ていくときに非常に重要だと思われるのは、一口に民族ということなんですね。それで、中国にもそういう種族的な区分というか、そう対立はありませんけれ
ども、それは漢民族とか満州族とかそういうことが清朝の政変に絡んだわけだし、それからベトナムとか仏印に近いところのかなり南方の中国人、これは大体歴史上の中国革命をした孫文とかその他みんな南方の人でありまして北方系の中国人じゃない。北京の
政府筋は南方糸の人というものをやっぱり辺境の人として見ていますけれ
ども、最近は南方系の人が実際に中国を動かしている。これはなぜかというと、華僑と全部つながっておりますから、それが非常に国際的な要素を持っていて鎖国的なことを超えて国際舞台の経済
交流、市場の原理というのにつなげているわけでありまして、中国においてはいわゆる民族的な対立という形にならないで、種族のいろいろ区別はありますけれ
ども、それが共存する形になって、これが中国の私は
一つの特徴だと思うんです。
これに反して、最近ソビエトではいろんな形であの中の小国家の自主性を主張するとか、あるいは中央
政府に対するトラブルとか、こういうものがあることを非常に特徴的に思います。ゴルバチョフさんの片腕で
日本問題なんかを実際に担当しているプリマコフさん、今度最高会議の議員になりましたプリマコフさんは、私は昔から大学の
交流で
相手方がプリマコフさんだったものですからプリマコフさんから呼ばれてソビエトへ行ったこともありますし、あの人は割合にそういうソビエトの南部の民族の問題なんかに相当の知識を持っているんです。したがって、
日本に対しても、北方領土の問題なんかについてもあの人は従来とちょっと違う、別に北方領土の問題は簡単に解決することじゃありませんけれ
ども、しかし少なくとも話題にのせようというような空気が出てきている、あれはやっぱりプリマコフさんなんかの
考え方だと私は思っているんです。
それで最後に、こういう小民族の――小民族というか小国家の自主性を主張したりするときにこれを
日本語では民族と、こう言いますけれ
ども、英語では全部エスニカルという、エソスとかエスノロジーとか、あのエスニックという言葉で言っているんです。このことを外務省の中で何か問題意識を持っているのかどうかという感じがするんです。というのは、中曽根元首相が、
日本には民族の対立はないとか一民族だとか言っているああいう言葉は、
日本語で言っているものを外国語にする場合と、外国で言っているものを
日本語にする場合とどうも問題意識が多少違ってきているんです。それについて外務省なんかは、やっぱりもう少し現在のああいう民族問題をきちんとつかまれる必要があると思います。それは、戦前から私は南方の植民地の大学にいたものだから、英国なんかですと、英国の植民地官僚なんというのはフォークロアとかエスノロジーをすぐやるんです。それをまず勉強して外交官になったり外地の統治者になる。だから、ウィーンで始まったドイツ系のエトノロジーですけれ
ども、あれは
ヨーロッパ以外の国の習俗の研究で始まったものでありまして、そういう点をやっぱり見ていないと、政治の出入りだけを見ていると今の
世界はつかめないんじゃないか。
というのは、それで最後に一言申し上げるんですけれ
ども、これはペンギン叢書の「ザ・ニュー・イントロダクション・ソシオロジー」という、エディターはピーター・ウォースリーという人ですが、この人はマンチェスター大学の教授で、そして現在の英国のまさに代表的な学会の会長をしたりしている社会学者ですが、この人が一人で書いたんじゃなくて編集したものでありますけれ
ども、そこで何を問題にしているかというと、つまりエスニックということ、エスニックディファレンスというのとレーシャルディファレンス、これは人種的な、生理学的な相違とエスニックの区分ということで、特にこれが現代の社会学だということでこの問題を取り上げておりまして、そしてエスニックというのはどこがレースと違うかというと、レースというのは非常に自然科学的であるけれ
ども、エスニックというのは習俗とかそれから社会生活ということで、そういうことからの区別を言っている。
だから、その代表的なものとして言っているのが、ユダヤ的なものと、それからユダヤ人ではあるけれ
どもキリスト教に転向したジェンタイルというものである。このジェンタイルというのは、ユダヤ糸の人種ではありますけれ
ども、いわゆるユダヤ人ではない。例えばハイネなんというのはユダヤ糸の人でありますけれ
ども、いわゆるユダヤ人としては活動していない。こういう問題意識がここにあって、それらの問題をつかまないと、今日のソビエトの中でのユダヤ人のゲットーの問題だとかあるいは今のグルジア人の中から
トルコ系のレースが、人種が
トルコに復帰しようとしているとか、こういうふうな全体の問題がつかめない。
ということは、ネーションという言葉で済まされないエスニックという言葉があって、これが国際政治の中で、
日本では
日本語にないものだから問題意識がないが、そういうこともやっぱり外交
関係では非常に重要なんだということをただ一言申して私は話を終わりたいと思います。