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高木健太郎君 差し上げました
質問の順序と少し違いますけれ
ども、他の省庁の方もお
見えになっておりますので、その
関係の方面から御
質問申し上げたいと思います。
最初に取り上げたいのは、
幼児教育、それと
家庭教育との
関係をお尋ねしたいと思います。
御存じのように、これは
レクチャー風になりまして甚だ恐縮でございますが、ここ五十年ぐらいの間、私が大学を出ましてから五十年ぐらいになるんですけれ
ども、五十年ぐらいの間に、脳神経の科学といいますか、そういうものが非常に進歩をいたしまして、
教育というものもそういう脳の
機能であると思いますから、そちらのことを根底に置いて
教育というのは
考えなければならぬ時期にだんだん来ていると思います。
現在、
文部省の管轄しておられる
教育というのは三歳からですか、四歳からの幼稚園、そして
小学校というふうに進んでいるわけでございますけれ
ども、実は、
子供は
胎児の七カ月ごろには
皮膚の触覚あるいは圧覚といいますか、
皮膚感覚がもう既にできておりまして、そういう
意味では、最近流行しております
胎児教育というものもこれ
考えなければなりませんけれ
ども、そこまで踏み込まなくとも、ゼロ歳から
教育というものを念頭に置かなければならない。しかも私が強調したいのは、ゼロ歳から三歳、あるいは
小学校に入る前に既に
かなりの基本的な脳の構造あるいは
機能ができておりまして、それまでに
インプリントをされたものは将来その
子供について回るものである。極端に言いますと、いわゆる七歳あるいはそれ以後に
教育されたものは、それを修正するにとどまっておりまして、基本的なものを変えるということはできないといってもよい
部分がある。全部ではありませんが、
部分があるということを
考えますと、ゼロ歳から七歳まで
子供をどのように育てていくかということに今後さらに大きな努力と考慮を要するのであろうと私は思います。
子供が生まれましたときには、大脳の
細胞は百四十億ぐらいございまして、この
細胞の数は終生ふえることはありません。いわゆる
脳細胞はもう
細胞分裂をしないということでありまして、
大人の
細胞の数と
子供は全然変わりがないということでございます。二十歳で脳の
配線はほとんど終わりまして、それ以後毎日十万ないし十五万個ぐらい
脳細胞の数は減っているわけでありまして、私
なんか恐らくもう七〇%か八〇%ぐらいしかないと、こう思っております。ただし、
細胞はふえませんけれ
ども、
神経繊維による
配線は、
回路配線は
教育によって、幾らでもということはありませんけれ
ども、
かなり大きく変化していくものでありまして、それによって
人間というものが完成していく。この
配線は七十歳、八十歳になってもやはり続けられているのでありまして、生涯
教育というものはそういう
意味で私は大きな価値があると、こう思っております。
しかしながら、一方ではまた
臨界期というものがございまして、ある
機能はある時期を過ぎれば、これはもう後には戻らないという時期がございます。例えば目の
視覚でございますが、
視覚は大体
人間では三歳ぐらいまでにいろいろなものができ上がってしまう。また、言語は七歳ぐらいまでに
かなりの
部分ができ上がっている。こういうことは
動物実験なり、あるいは人体の
実験ではありませんが、そういう経験から結論をされているところでございます。例えばこれは
人間ではできませんけれ
ども、
動物を使って、生まれてからすぐに目をふさいでおく、全然物を見せないというふうにしておきますというと、その
幼児は、あるいはその幼弱の
動物は、それ以後その覆いを取ってやりましても、
神経細胞なり目の器官は十分に発達しておっても物を見ることができない。また、片目だけをふさいでおきますと、後でそれを取ってやりましてももう見ることができないので、その
動物は
立体感がない。あるいはまた猫を生まれてから
縦じまだけの
部屋に入れる、あるいは筒の中に
縦じまを書いた
部屋に入れる。そうやって育てた猫は、横の線は
見えない。また横じまだけの筒の中に入れて育てるというと横じましか
見えない、そういう
神経細胞があるいは回線が発達しない、そういうことをやりまして、この
実験結果は
ノーベル賞をもらった
実験結果でありまして、
かなり私は確かなものであろうと思っております。
このようなことで、それはしかし、我々成人になってから目をふさぎましても、それは目が
見えないとか、あるいは
縦じまの
部屋に三カ月ぐらい置きましても、それで我々は
縦じましか見ることができない、縦しかわからないということはない。だから、ある時期にある
状況に置かれると、それが一生ついて回るということであるわけです。これを
臨界期と言って、それまでにやっておかなければならない
教育といいますか、
環境といいますか、その
子供の
環境条件を整えておかなければ、それだけ欠陥のある
子供が育っていくということが想像できるわけでございます。聴覚その他につきましても同じような
実験結果が出ておりまして、我々大事なことは、ある
機能についてはある時期までに何かをやらなければだめなんだということと、ほかのある
機能は一生の間変えていくことができる、そういう
可塑性と言いますけれ
ども、
可塑性があるんだというこの二つをわきまえて
教育というのは行われなければならない。そういう
意味で、この
臨界期のある
機能につきましては、いろいろのものがございますので、
幼児期あるいは
小学校に入る前に
かなりのものが必要であろうと思います。
例えば、猿を生まれてから一匹だけかごに入れて育てた猿と、
大勢、まあ
大勢というかたくさんの猿を
一緒に入れて、そこに
遊び道具を置くとかそういうふうに育てた猿とは、同じようにえさは十分に与えてやりましても、脳の発育に非常に大きな差がある。そしてまた体重の増加も非常に違ってくる。また性格も非常に違う。例えば一匹だけで育てると自閉的な猿ができる。
自分を抱きしめるような
行動をする。いろいろの変態的な
行動をその猿はとるようになる。そういう
実験結果も得られております。だから、ある
意味で集団的に、そして広々とした遊び場があり
遊び物がありというように、お互いのコミュニケーションを持った
状態で育てることがいかに重要であるかということもわかるわけであります。
御存じのように、
スキンシップというのがございますけれ
ども、
スキンシップは、いわゆる
皮膚に当たるいろいろな
刺激、さわる、押さえるあるいは抱きしめるとか、いろいろ
皮膚に働く
刺激がございます。これは先ほど申し上げましたように、既に胎生七カ月ぐらいでできておりまして、一番
感覚器の中では早い部類に属します。例えば生まれた猿を、生後、
針金でつくった人形に
哺乳瓶をつける。もう
一つはぬいぐるみの中にそれをつける。もう
一つは、
人間が抱いて育ててやる。こうしますと、
哺乳瓶はあるけれ
ども針金であるという猿は、全然ほかの猿と違いまして、やはり
異常行動が起こってくるけれ
ども、
人間が抱いて育てたやつは
かなりの
部分は行きますけれ
ども、猿の
母親が抱いた猿とは非常に大きな差異がございます。こういう
意味で、今まで言葉では
スキンシップと言いましたけれ
ども、この
スキンシップというものもその他のいろいろの
実験からよくわかっております。
アメリカ人と
日本人とはいろいろ
文化的に差がある、
考え方が違う、
アメリカ人は非常に個性的であるが、
日本は集団的であるというようなことが言われておりましたり、あるいは
日本人は非常に
情緒的である、しかし
アメリカ人は非常に
理性的である、ロジカルである、こういうことをよく言われます。あるいは
日本人は右脳である、右は
情緒的な脳である、左は
理性的の脳であると言われますが、
日本人は左の
理性的の脳の中に
情緒的のものがまじっておって、
日本人の物の
考え方は
かなり情緒と
理性がこんがらがっている、混在をしている。こういう点が
アメリカ人にはなかなか理解がしにくいということがありまして、これは漱石の小説にも「情に棹させば」というようなあの有名な文句がございますが、どうも
日本人というのは
情緒と
理性を分けてなかなか
考えにくいという点もあるわけですが、それを「
タッチング」といいましてモンタギューという人が書いた本でございますけれ
ども、その中で、
日本の
母親と
アメリカの
母親の
子供の育て方というものが
かなり大きく違っておって、
アメリカが
個性化であり
日本は集団的であるというものの差はそこから出ているのではないか。
添い寝をしてやる、あるいは
兄弟一緒に寝せる、おふろは
一緒に入る、寝室は
一緒である、そういういわゆる
日本家庭の
子供の育て方は、
アメリカの
家庭とは、あるいは
ドイツも見ておりましたけれ
ども、
ドイツの育て方とは非常に違うんだ。これがそのような
日本人らしい、あるいは
日本独特の、いいか悪いかは別として、
日本人らしい
人間が育っていくのであろう、こういうことをこの「
タッチング」に書いてございます。
こういう
意味で、私は、生まれてからの
育児環境というものをもっと重視しなければいけない。最近は
日本の
家庭も
母親が
社会進出をするのが非常に多くなりましたし、また
社会も
女性の
職場進出を求めております。あるいはまた、生活を豊かにするために
母親は外に出て働かなければならないような
状況にもある。そういう
状況になりますし、ある
程度欧米風の
幼児の育て方をしているという面も見られるわけでありまして、それは何の理由もなく、ただ
欧米がよいという
意味でそういうことを模倣しているようでございますけれ
ども、どちらがよいかは別といたしまして、
幼児教育というものを研究し、またこれを重視しなければならない時期に達しているのではないかと私は思うわけでございます。
さらに、
アメリカでは
御存じのように
家庭の中に
麻薬が入る、例えばコカインあるいはヘロインというようなものが入ってくる。あるいは
離婚が、最近は少し減っているということでございますけれ
ども、
離婚が多い。また
フリーセックスであるというようなことで、
エイズその他の感染につきましても非常に
政府が心配している。あるいはまた、
子供が早くからいわゆる妊娠をするとか、そういう行為がございまして、
子供を通じた、あるいは
大人と
子供の
関係から
エイズというものが広がるのではないかということも心配をしているわけでございまして、先般の
質問でも申し上げましたように、もう
子供の
小学校のときから
避妊器具の使い方をはっきり
教育の中に入れる。
日本
は幸い島国でございまして、そういう
麻薬その他が外から入ってくるというときに
水際作戦がとれますので、その点私は幸せしていると思いますけれ
ども、
欧米では極めてこれはシリアスな問題として取り上げているわけであります。
私は、
厚生省になるのか、あるいは
労働省になりましょうか、御
質問をまずしたいと思います。
女性が
社会に出て働く、家をあけなければならないということは、文明の発達に伴って
一つのやむを得ない傾向であろうかと思います。これをとめるということは私はできない。できれば
子供のとき、ゼロ歳とかあるいは三歳ぐらいまでは
女性が今までどおり
家庭で
子供を抱いてやる、あるいは
添い寝をするというような
日本的な私は育て方がいいのではないか。あるいはその間に十分なしつけをする。おはようと言う。あいさつをする。人のげたをそろえてやる。そのようないわゆるしつけと言われるものは
小学校に入っては遅いわけでありまして、それは三歳ぐらいまでの間にやらなければならない
一つの
教育でないかと私は思っております。そういう
意味で、それはゼロ歳のときから
母親がやる。父親は
自分の
職場に行く。こういうことになると
子供を何とかしなければならない。実際は最近は
核家族でございまして、おじいさん、おばあさんのいる
家庭が非常に少なくなってきているという
状況も
考えてみますというと、すると
子供をどこかに預けなければならないという、そういうやむを得ない
環境がだんだん広がっていっております。
あるいはまた、一方では
高齢化が進みまして、
年寄りをどこかで見てもらわなければならない。
年寄りを見るのは
男性は余り見る人がいないわけです。これは
女性側から言われると、それはおかしいじゃないかと言われるかもしれませんが、
男性は今までどおり
日本では
職場に出る。すると、それが義母であろうが、本当の
母親であろうが、あるいはお父さんであろうが、その世話を見るのは
女性である。そうすると、
子供を育てながらその両親の
看護もする、ケアをするということはだんだん難しくなる。
女性に対する負担が極めて大きくなる。そこで犠牲になるのは何かというとやはり
子供であろうというふうに思います。
そこで、
厚生省あるいは
労働省のどちらに属するかわかりませんが、まずお尋ねしたいのは、
保育園あるいは
ベビーホテルというのがございますが、その
実態はどうなっているのだろうか。各県どれぐらいありまして、それが十分現在の事情に適切に適合しているくらいに
整備されているのかどうか。そしてまた、そこで働くのはほとんど全部が
女性であろうと思いますけれ
ども、その
女性が
保育あるいは
教育、
保育園は
教育をするところでないというふうに法律には書いてございますけれ
ども、しかし
教育の観念もなくてはならない時期に到達している。その
保母さんのいわゆる
教育の
資質、それはどのぐらいになっているのか。何歳ぐらいの人がやっているのか。そしてその
保母さんが結婚しているとすればその
家庭はどうするのか。そういうことについてまずお尋ねしたいと思います。