○
参考人(松田義幸君) 筑波大学の松田と申します。私、きょう、
人生八十年
時代の
労働と
余暇、豊かさの本質ということについて、幾つかの点についての考えを申し上げたいと思います。
「クロワッサン」という雑誌の五月十日号の広告が全新聞五段で出たことを記憶されている方もあるのではないかと思います。これは中刷り広告にもたくさん載っていまして、しばらくこれが話題になりました。どういう内容だったかと申しますと、「妻に先立たれたら、二、三年で後を追い、
生活費を稼がなくなったらゴミ扱いされ、」、これについては、粗大生ごみ扱いされ、というと余りきついからやめたそうです。「子
ども達には、オフクロより親父が先に死んでくれたらと願われ、絶望的で不機嫌な老後に向って、ただ働き続けている愛しくて、可哀そうな男
たちへ。」、こういうコピーでありました。どんな有能なビジネスマンでもいつか
仕事から引退の日が来るわけですけれ
ども、
日本人について見ますと、
仕事、
仕事、
仕事だけの
人生できているために、
仕事人生からの引退の日が
人生からの引退の日になっている。こういうことは非常に異常なことではないか、こういう
高齢化社会は大変異常なことではないか、そう感じております。
これはあるときに聞いた話なんですけれ
ども、あるアルコール依存症の病院に元大企業の経営者という方が、名前を言うとおやっと思うような方々が相当入っているそうです。こういう方々は、JRの時刻表を見て三つくらい乗り継いでひなびた温泉宿に行けるかというと、ほとんど行けない。いつからかすべて
生活は秘書任せで、奥さん任せできていますから、そういう小まめなことがもうできなくなっている。奥さんが病気にでもなると家の中に何があるかわからない、御飯も炊けない、洗濯もできない、ただおろおろする。で、ついついアルコールに依存してしまう、こういうことなんだそうです。
これは定年を迎えてからの話なんですけれ
ども、昨年、看護婦さんの
教育をされている団体から相談を受けました。最近看護婦さんがお医者さんと結婚することを望まなくなってきたというんですね。理由は、お医者さんがおもしろくなくなってきたというんです。非常にまじめだけれ
どもおもしろくなくなってきた。細分化され専門化された
仕事の
領域で、そしてイノベーションに追いつくためにただひたすら勉強しているわけですけれ
ども、本人が自由時間の
世界で
人間としてつき合うということについてインポテンツである。したがって、もっとおもしろい
人たちとつき合いたいというのがそこから受けた相談でありました。
筑波研究学園都市というところは細分化、専門化された
仕事の
世界で働いている人がたくさんいるわけですけれ
ども、どういうわけか自殺が多い。お医者さんの場合と同じで、細分化され専門化された
仕事で一生懸命働いているわけですけれ
ども、ふっと
自分のことについて考えたときに迷ってしまう。水泳の高飛び台から飛び込む前に筑波の建物から飛び込んでしまうこういう
人たちが後を絶たないわけですね。どうも
仕事、
仕事、
仕事、その
人生できた
人たちが行き詰まってきている。
そういうことで見ますと、カメラ会社に勤めている人が写真芸術の楽しみ方を知らない、出版社に勤めている人が読書
生活の楽しみ方を知らない、ビール会社に勤めている人がビールの飲み方の楽しみ方を知らない、
スポーツ会社に勤めている人が
スポーツの楽しみ方を知らない、飛行機会
社に勤めている人が旅の楽しみ方を知らない。ただひたすら供給側に回って
仕事、
仕事、
仕事だけの
人生、そういうことであるわけです。これは、ほかの国から見ると非常に異常に映っているのではないかと思います。
仕事人生につけ加えて、これからは
人間的魅力、
人間的おもしろさ、そういう能力を身につけていかないと、
人生八十年、
充実した
人生ということにはならないのではないかと考えております。
少し大学の授業のようになって大変恐縮なんでありますけれ
ども、
資料を見ながらちょっと御報告したいと思います。「Leisure and Human Being」という
資料を見ていただきたいと思います。
この中で、五つばかり述べてみたいと思います。
一つは
レジャー、ホリデーの語源、二つ目が
レジャーの今日的意義、三つ目が
レジャーのライフスタイル、四つ目が
社会変動と
レクリエーション、エンターテーメント、
レジャー、五つ目が七十万時間の時間予算ということであります。
二ページ目の「言葉の整理」というところで、
レジャーの言葉の前にホリデーという言葉から入ってみたいと思います。
ホリデーという言葉を今の
子供たちは休日と訳しております。それでいいわけですけれ
ども、このホリデーという言葉のもともとの
意味はホーリーとデー、ホーリーデーと言えばあっ、聖なる日かと言われる。そのとおりなんでありますけれ
ども、なぜ聖なる日と言われるようになったか。holy(ホーリー)はwhole(ホール)でもあったわけです。ホールはまた自然を
意味しておりました。今日この
意味はドイツ語の方にまだ非常によく残っているのでありますけれ
ども、wholeは、欠けたるものがないこと、完全なこと、全体、健康、幸福、こういう
意味であったわけです。したがって、ホーリーデーというのは、その人がその人本来になるための日、その人が心身健康になるための日、その人が完成するための日、その人が全体を取り戻すための日、こういう
意味であったわけです。そして、日曜日というのは週の始まりで、一週間の始まりにホールライフに向かうためのホリデーがあったわけです。
ホリデーに対する反対の言葉はワークデーなわけですけれ
ども、今日、非常に
仕事の
領域が細分化、専門化されてきております。ある
人間の特定の能力が鋭く開発される、そういう状況下にあります。その人の本来持っておった全体性、それが非常に忘れられてきている。なぜか。
ワークということをビジネス、オキュペーション、ネゴシエーションというわけですけれ
ども、これらの言葉の本来の
意味は、自由がないこと、その人の本来の姿がそこにないことというところから来ているわけです。したがって、我を忘れて細分化された、専門化された
領域で忙しく働くということは、その人がその人の部分と非常にかかわってくる、部分だけとかかわってくる。そしてそれが定年の日にその部分もなくなってしまうということですからすべてなくなってしまう。それから
人生八十年どう生きるか。
人生五十年
仕事中心で生きておれた
時代はそれでいいわけですけれ
ども、どうも寿命が非常に長くなって自由時間がふえて、
仕事人生だけでは生きていけなくなってきた。
仕事人生につけ加えてもう
一つホールライフをつくる、そういう
生活もなければいけない、そういうふうになってきたのではないかと思います。
それで、ギリシャ語の方の
レジャーの言葉遣いについて次に述べてみたいと思います。
今日、
レジャーというとパチンコとかマージャンとかゴルフとかテニスとか、
遊びというか気晴らしのたぐいで理解されている方が多いのではないかと思いますけれ
ども、
レジャーはもともとはスクールをギリシャにおいては
意味しておりました。このスカラー、それがギリシャ語の
レジャーであったわけですけれ
ども、最近自由時間がふえてきて
レジャーを本来のスクールに戻して使うということが一般化してきております。ギリシャとか古代ローマにおいては、働くということは
レジャーがないことということを
意味しておったわけです。そこからネゴシエーションとかビジネスとか先ほどのオキュペーションとかという言葉が出てきた。
では、スコレーとは何かということなんですけれ
ども、それは
文化の
価値を楽しみながらその人がその人本来になることということを
意味しておった。一般にギリシャでは奴隷制を前提にしておって、そして市民階級は
レジャーばかりだと思われておるのでありますけれ
ども、市民階級も働いておった。それはスコレーの反対のアスコリアという言葉にあらわされております。そして、そのセルフデベロプメントという、
文化の
価値を楽しみながらその人がその人本来になる、それがスコレー、
レジャーなのでありますけれ
ども、デベロプメントというのは封を開いて手紙を取り出すという
意味で、それにセルフをつけるわけですから、その人の
価値を引き出すこと、自己開発を図ること、自己を完成に向かわせること、つまり
レジャーという言葉もホーリーライフということと同じであったわけです。
四ページをちょっと見ていただきますと、「自由時間の過し方」というのは大きく分けると三つに分けていいのではないかと思います。
一つは、Aタイプの休息・休養・保養、または疲労の回復、
労働からくる疲労回復。二番目が気晴し・娯楽、退屈からの脱出、
労働からくるストレスの解放。三番目が自己開発、自己を完成させる、または身体・感情・理性の陶冶、または自己規律を課した自由時間の過ごし方。これまではAタイプ、Bタイプの自由時間の過ごし方は一般化しておったわけですけれ
ども、これからはCタイプに力を入れていかなきゃいけない、入れていくべきだと思います。
Cタイプとは何かということでありますけれ
ども、それが「
レジャーと
生活の
人間化」ということで四ページのところに図が書いてございます。
人間のことを
子供たちに説明してごらんと言うと、
世界史の最初の一ページを取り出して、体を使うこと、二足歩行で歩くこと、それから頭を使うこと、手を使うこと、これが
人間の
一つの
条件になっておるわけです。ところが、足の速い人、遅い人がいる、遅い方はいつも損する。そういうことでトランスポーテーションが発達してきた、今日のモータリゼーション、そういう状況下にあります。それから頭を使う方も、記憶のいい悪いということはこれはもう問題でなくなってコンピュータリゼーション、マスコミが発達してきた。それから手を使う方も、オートメーションでぶきっちょの人がそういうコンプレックスから解放されてきた。
ところが、現代
社会に
人間の
条件が組み込まれてきたために、
人間は足を持っていても、体を持っていても体を使わなくなってきた、心を持っていても心を使わなくなってきた、手を持っていても手に
文化を持てなくなってきた。つまり、体の疎外、心の疎外、技の疎外ということでありますけれ
ども、
人間の
条件を失ったわけですから非
人間化と言ってよかろうかと思います。これらの非
人間化の状況からいかに
人間化を図るかということを
レジャーとの
関係で言えば、
一つは
スポーツを楽しむこと、
一つはリベラルアーツを楽しむこと、
一つはクラフトを楽しむこと、そして非
日常生活においては自然
生活を楽しむこと、旅を楽しむこと、こういうことになっていくのではないかと思います。
次の「
社会変動と
レクリエーション、エンターテインメント、
レジャー」というところについて話してみたいと思います。
いつからか
社会のあり方をその
社会の科学
技術のあり方から、前工業
社会、工業
社会、脱工業
社会というふうに呼ぶようになってきております。まだほかの呼び名もあるわけですけれ
ども、私はこの呼び名をとってこれから申し上げたいと思います。前工業
社会というのは農業中心の
社会、手工業中心の
社会。工業
社会というのは、物をつくる、
日本がこれまでやってきた
社会。それからこれからの
社会というのは、ハイテク、サービス中心の
社会というふうに言われているわけです。これらの
社会の中で、人々がどんな生き方をしてきたか、その
社会を成り立たせるために
社会はどういう
価値観を大切にしてきたか、国はどういう
価値観を大切にしてきたかということでありますけれ
ども、前工業
社会においては、勤勉・節約の
価値観を大切にしてきた。うちのおふくろ、おやじさんは明治生まれだったんですけれ
ども、まさに勤勉・節約の
価値観そのものでした。
ところが、こういう生き方が一九二九年に崩れるわけです。
産業革命以降科学
技術の水準が高くなってきて物の生産力が非常についてきた。人々が勤勉・節約の
価値観を持っているということでは物余りの現象が起きる、大不況に入ってきたわけです。そこで、
社会はこういう
価値観ではもう古臭い、これからの
価値観は物をたくさん所有し、物をたくさん消費する、そういう
価値観こそが大切であるということで物中心の
社会の工業
社会に入ってきたわけです。
ところが、一九七〇年ころから、どうもおかしい、
人間が
人間らしく生きるために必要以上に物を消費し、物を所有するということはこれはおかしいのではないかということで、いろんな考え方が一九七〇年前後に出されたわけです。
アメリカでもチャールス・ライクという人の「ザ グリーニング オブ
アメリカ」とかそれからイギリスのシューマッハという人の「スモール イズ ビューティフル」とか、それからことしの夏大変話題を呼んだ、自由時間までも時計時間で生きることはない、自由時間は
人間時間、自然時間に合わせて生きるべきであるというミヒャエル・エンデの「モモ」というのもこのごろ出されたわけです。それから、「自由からの逃走」で我が国でも大変なファン、読者を持っているわけですが、エーリッヒ・フロムという人は、物を持つ
時代から
人間らしく生きる
時代へという提起をしたわけです。
そもそも
人間のことはヒューマンビーイングとは言うけれ
ども、ヒューマンハビングとは言わない。なのに我々の
社会は、いつの間にか女房を持つ、
子供を持つ、土地を持つ、
知識を持つ、愛情を持つ、全部持つという言葉をやたらに使うようになってしまった。しかしよく考えれば、ともに生きるとか
知識を持つと言わないで知る、愛情を持つと言わないで愛するという、もっとbe動詞系列の言葉を大切にするべきだ、
価値観を大切にするべきだということで、エーリッヒ・フロムという人が、ツー・ハブの
社会からツー・ビーの
社会へ、ハビングの
文化の
社会からビーイングの
文化の
社会へということを提起したわけです。これは大変多くの人の関心を集めたのでありますけれ
ども、それからオイルショックが二回起きまして、
世界が大不況
時代を迎えて、この考え方が一時棚上げされたわけです。
ところが、欧米諸国もまた我が国もこの大
経済危機を乗り越えて、そして生物として生きるということ、それを充足したときに、もっと
人間らしく生きるそのときのコンセプト、哲学を探してみたところ、一九七〇年
時代のころよく出されていたというところに気がついて、そしてそれが今日多くの人のコンセンサスを得つつあるのではないかと思います。つまり所有・消費の
価値観の
社会から
人間らしく生きる、存在、そしてその人がその人本来になる自己開発、その
価値観の
時代へ今向かっているのではないか、また向かうべきなのではないかと思います。
それに対して、
経済理論の方を考えてみますと、前工業
社会というのはアダム・スミスの古典
経済学というその理論で世の中がよく回っておったわけです。ところが、
世界大恐慌以降その
経済理論では
社会を運営することができなくなって近代
経済学、さらにはマスプロダクション、マスセールス、マスコンサンプションの近代経営というのがとってかわったわけです。しかし、今この古典
経済学も近代
経済学も、これからの脱工業
社会に向けては通用しない学問になってきています。ネクストエコノミーという新しい
経済学の体系というのは一体何なのか、どうなのか、今模索されているところだと思います。
この中で
一つ注目すべき考え方は、
アメリカのスコットバーンズという人の考え方の家庭株式会社という考え方です。これは我々の
経済の歴史を見ますと、市場
経済の歴史の
時代よりは非市場
経済の歴史の
時代の方がはるかに長い、人類の歴史の九九%は非市場
経済の歴史であった。それは何か。協調とか信頼をベースにして行われた
価値の交換で、自由時間がふえてきますと、今後愛情とか信頼とか協調とかそういうことをベースにした賃金を伴わない生産
活動、
文化の
価値の生産
活動が起きてきて、そしてそれがいろいろと人々の幸せに貢献することになるだろう。そのときには
経済システムイコール市場
経済ということではなくて、
経済システムイコール市場
経済ブラス非市場
経済の
社会になるのではないか、そういうことをスコットバーンズという人が提起しております。
それから、きょうの
テーマであります自由時間の過ごし方について見ますと、前工業
社会の
人たちは休息、休養、保養が中心であったわけです。うちのおふくろもおやじさんも、温泉に行って一日に四、五回ふるに入る、これが何よりの幸福としておりました。ところが、
昭和一けたから二けたの世代というのは、
戦前の「欲しがりません、勝つまでは」と、そういう精神主義に反省を加えて、物を所有し消費するという方へ
人生を求めるようになってきた。そういう
人たちは自由時間の過ごし方も、東京ディズニーランドとか後楽園ドーム球場とかああいうところに見られるように、気晴らし、娯楽と、自由時間をお金で楽しむ、そういうふうになってきたわけです。ところが、どんな人でも一カ月
休みを与えられて東京ディズニーランドで楽しみなさいと言われると、四日目あたりから働きたくなってくるわけです。つまり、自由時間を金と時間で楽しむということは飽きがくるのも非常に早い、それに気がついてきた。時間と金と能力を必要とするような自由時間の過ごし方がこれからの
人生ではないか、そう考える人が非常にふえてきております。具体的には
スポーツ、学芸、クラフト、自然
生活、旅、こういうことであります。
次に、「
人生八十年
時代の時間予算」ということについて述べてみたいと思います。
人生五十年の
時代は、
子供の時期、
教育の時期、
労働の時期そして引退ということであったわけですけれ
ども、
人生八十年ということになりますと、生涯
生活時間に換算して七十万時間ございます。今、
日本は働き過ぎだと言われておりますけれ
ども、大体二千時間くらいになってきた、見通しが立ってきた。二千時間を四十年働いたとしてちょうど八万時間です。
人生は七十万時間ですから一割ちょっとということです。
労働時間の短縮は自由時間の増大ということなわけですけれ
ども、自由時間はこれから
社会に出る
人たちについて見てみますと、低く見積もっても二十一万時間、
人生の三割になります。現在、
労働組合は生涯自由時間を二十五万時間というふうに置いております。三割を超えております。こうなってきますと、
人生八十年をいかに
充実して生きるかということは、
人生八十年の自由時間をいかに
充実して生きるかということに置きかえてもよかろうかと思います。
ところが、我々の
社会は今日、
人生五十年を前提としてつくられたその枠の中にいるわけです。それから我々の生き方も
人生五十年を前提とした生き方であるわけですね。具体的には直線型の
人生であるわけです。ところが、これはスウェーデンのパルメ首相が提案したことなのでありますけれ
ども、これはおかしい、自由時間がこれだけあるのであるならば、我々はもっと柔軟に
人生を組みかえて
自分の
人生をつくるようなそういう生き方、またその受け皿が望ましいのではないか、そういうことで提案したのがリカレント型の
人生、リカレント型の
社会ということであります。
それはどういうのかといいますと、
子供の時期、
教育の時期、そして働いて、それからもう一度やり直して充電をする、それから働いて充電をする、それを繰り返していく。または
教育を受けた後
社会人になるわけですけれ
ども、
労働の機会とレ
ジャーの機会と
教育の機会を柔軟に選択できるそういう生き方が望ましいと。ここではリカレント型の循環型、それから学びながら働く並行型、これがリカレント型A、リカレント型Bと言っていいと思います。そのほか、若いとき大きな会社で能力をつけてそれで充電してライフワークにつくとか、それからシュリーマンのような生き方とかピーターパンの生き方がいろいろあるわけです。
日本人について
調査をしてみましたところ、これは
日本の一部上場企業の
人たちを対象に
調査したんですけれ
ども、これからどういう生き方がいいかということについて、直線型の
人生がいいという人はもう一五%しかいないんですね。多くのビジネスマンはリカレント型A、リカレント型B、もう六割の人がこういう生き方を望んでいるわけです。こういう
人生八十年
時代に向けての新しいライフスタイルと新しい受け皿の
社会を要望しているわけですけれ
ども、
社会は依然として
仕事中心の
人生五十年型の生き方、また
社会であるわけです。
したがって、今後国民のニーズに沿った、望めるライフスタイルに沿った
社会づくりということが大切になってくるのではないか。その
社会のことを臨教審では生涯
学習社会と名づけたわけですけれ
ども、これは
日本だけがつけた名前ではなくて
教育学者のハッチンスという人がもう既に前につけたことでございます。
学習社会、これからの
社会というのは、スクールという制度を
人生全体とかかわらして
人間が自己を完成させることができるような
社会が望ましい。六三三四の
教育制度は
仕事中心の
時代の
教育制度である。これからは
仕事の
人生に加えて
人間を完成させる、自己を完成させる、そういう
人生が大切になってくる。そうなってくるとスクールという制度は、
レジャーという制度は
人生全体とかかわるべきだと、こういう提案がなされているわけです。
社会もこの
方向に今後向かっていくのではないかと、多くの国の
社会もこれに向かっていくのではないかというふうに思います。
七ページ、八ページにはそれを裏づけるデータが載ってございます。明治のときには
人生五十年じゃなくて
人生四十年であった。ところが今現在
人生八十年、寿命が倍になった、
労働時間も、これは後に藤本
先生の方からあると思いますが、明治のときには三千時間働いておった。今大体二千時間になっています。一年間八千七百六十時間あります。もう
労働時間よりも自由時間の方が多い、そういう
時代に現に入っているわけです。ところが今現在
日本人は自由時間を何に使っているかというと、大きく使われているのは
一つは千百時間がテレビでございます。それから三、四百時間がパチンコ、それで老後はゲートボールと、
人生まじめに生きてきた
人たちに対して自由時間がこういうかかわり方だけで終わっているということは大変不幸なことではないかというふうに思います。
次に、これからの生涯
学習の中での
レジャー教育はいかにあるべきかということについて述べてみたいと思います。
これは
労働組合の方からよく頼まれて
労働組合の方との勉強会、さらには企業の
厚生の方の
関係者
たちとの勉強会で考えてきたプロジェクトなのでありますけれ
ども、今
レジャーカウンセリングという学問が注目されてきております。これは
レジャーの能力を開発することをお手伝いするということです。この
レジャーカウンセリングというシステムを受けますとこういう自己変革が起きます。今日のこれまで、私にバタフライができる、私に飛び込みができる、そんなことは夢に見ることすらなかった。今日のこれまで、あのウエストサイド物語のように私にモダンダンスができる、あのバッハのコラールの
世界が私の心をとらえて離さない、そんなこと考えたこともなかった。私はこの
レジャーカウンセリングを受けてすばらしい
先生たちに出会え、
仕事人生につけ加えてもう
一つの
人生に気づいたような気がする、
レジャー人生とはこの味を一度覚えたら忘れられない、そういう
世界であると思えるようになってきた。
実は、最近大学に入ることが目的になっていまして、大学へ入ると目的を喪失してしまうこういう子
たちが非常に多くなっております。それからいい会社に入るのが目的で、会社に入った途端に自己の目的を失っている
人たちが非常にふえてきています。こういう
人たちに今第四の心理学ということを背景にしてアプローチしてきまして、そして自己探しをさせるのでありますけれ
ども、
自分探しをさせるのでありますけれ
ども、これは新興宗教の
世界へ引っ張っていくんですね。これに非常に多くの学生が現在ひっかかっております。これらの
人たち、それから大企業に勤めている
人たちもこの新興宗教に今どんどん入っていっております。そして物すごく金がかかります。一講座受けるのに四、五十万円取られます。
いかに多くの人が手段を目的としてその手段を達成したときに
人生の目的を失っているか。カルチャーとか
文化とか
レジャーというのは、実はそうならないようにするために
人間が
人生の知恵でつくり上げてきたわけですけれ
ども、多くの人がこれらの
文化の
価値にかかわらないで
人生を終わっているわけです。非常にもったいないことだと思います。この皆さんの中でも、五メーターから飛び込んだことのない人、バタフライで百メーター泳いだことのない人、まあほとんどだと思いますけれ
ども、こういうことがいい
指導者、いいプログラム、いい
環境があるといつからでも可能なんです。飛び込みとかバタフライとか音楽とかダンスとか絵画、すべてカルチャーの
世界、そういうのは専門家の
世界だと多くの人はあきらめているわけですけれ
ども、実はこれは我々庶民の
一つの大切な
生活の営みであったわけです。こういう
価値と接近させるようなメソッドの開発、メソッド、
方法というのがこれが
レジャーカウンセリングであります。
読み書きそろばんというのは
労働の
世界の主要科目ですけれ
ども、自由時間の主要科目というのはこういう
スポーツとかリベラルアーツとかクラフトとか自然
生活だと思います。これらの
価値とかかわる能力開発のシステムというのは今日まだ我が国
社会においては確立されていないわけです。先ほどの「クロワッサン」の広告を見て多くの人がショックを受けたと思うんですけれ
ども、そのときに
自分の
人生とは何だろう、
自分の
人生はいかにあったらいいか、こういう問題はしばらく考えてこなかったわけですけれ
ども、考えた方々も多かったのではないか。それから多くの人は自由時間をたくさん持って、そしてどう生きたらいいかということがわからずにいますから、そのために宗教の
世界へ入っていく、宗教の
世界へ入っていくのはいいわけですけれ
ども。
それで、「
レジャー版十牛図」というのをちょっと見ていただきたいんでありますが、「廓庵十牛図頌」、これはうちの大学の弓道場にパイロット、スチュワーデスがやってきて弓道をやっています。その
人たちに動機を聞きますと、禅と
日本文化に引かれたと言います。それから宇都宮の方へ行きますと盆栽をやっている外国人が非常に多いです。それから私は山形の出身なんですけれ
ども、うちの方に奥の細道、俳句をつくる外国
人たちも非常にふえてきております。この
人たちは
日本に来る前に十牛図をよく読んできておるようです。牛というのは聖なる生き物で、その人本来の姿をあらわしているわけです。先ほど「クロワッサン」の広告を見たときに僕はこの十牛図というのを考えておりました。
最初が「尋牛」、牛を尋ねるということです。
人生八十年、その三割にも増えようとしている自由時間を、いかに生きるべきか。どういう
レジャー、
文化と関わると、自己本来に向かうことができるのか、心身健康になれるのか、
自分が完成に向かうことができるのか、全体を取り戻すことができるのか、
自分が完全に向かうことができるのか、自己の存在
価値を高め、
個性を開花させることができるのか。
そういうことで深い自然の中に入っていって
自分探しをする、牛探しをする。
二番目が、牛探しは牛の足跡探しから始まる。
「見跡」です。
スポーツ、音楽、美術、読書、文芸、クラフト、自然
生活、旅など、
自分に適した
レジャー、
文化はなにか、探してみたところ、
方向がおぼろげながら見えてきた。
左側のがけっ縁の道路のところへ牛の足跡が見えます。
三番目が「見牛」、それを追いかけていったところ牛のしっぽが見えた。
自分に最もフィットした
レジャー、
文化の
世界はこれだ、と直感できた。この
世界と関わって、時を刻んでみよう。またそのための
技術・
方法を身につけてみよう。こう決断すると、希望も勇気も湧いてくる。
次が「得牛」。
しかし、これまで
仕事の方ばかり向き、
自分に
レジャー、
文化を楽しむ能力があるなど考えたこともなかったから、
自分なりにマスターするにしても、時間がかかるだろう。でもその
技術・
方法を身につけ、その
世界のコスモスに熟知するために、努力、
学習することにしよう。
これは禅の
世界の座禅に当たるわけですね。
練習に練習を積んだ結果、その
レジャーの
世界が
自分となじむようになってきた。これが「牧牛」です。
途中なん度も投げ出そうと思ったが、
自分をだまし、だまし、
学習した甲斐があって、なんとか、
自分の
世界を表現できるようになってきた。
自分はプロになることはないのだから、
自分の
世界を表現できる
技術・
方法を身につけることができればよい。
技術・
方法に走ることよりも、表現しようとしている
自分の
世界を広げ、深めてみたい。
そういう
世界が
自分のものになってくると心が非常に落ちつく。
そして、ふるさとに帰る。「騎牛帰家」。
良寛も言っている。専門家の書、詩、歌よりも、素人の書、詩、歌の方が、
人間的で、自然でよいと言っている。誰からも邪魔されることなく、このように好きな
世界に打ち込む
生活を大切にする。こんな幸福なひとときは他にないではないか。心が本当に落ち着く。心の故郷に帰ったような気がする。
次が「忘牛存人」。山の頂でお月さん、満月を眺めている様子です。
世俗を離れて、自由な心の状態で、
レジャー、
文化を楽しんでいると、不思議なことに向こうの方から、真なるもの、善なるもの、美なるものが観えてくる。心が和む。これが
自分本来の自然の姿なのである。
日本ではよく円をかくわけですが、これが「人牛倶忘」。
欠けたもののない完全な
世界、
ホリデー、ホールライフ、
レジャーに当たるわけですが、
それは円である。円は自然であり、本質であり、真なるもの、善なるもの、美なるものである。無心の境地でそれは味わうものである。融通無碍、自由自在の境地である。
そういう心の状態になると、
自分はウグイスのようになった気分を楽しむことができる。梅の花になったような気分を楽しむことができる。自然そのものを楽しむことができる。「返本還源」。
人間は自然の一部である。この自然の秩序に、心身を委ね、好きな
レジャー、
文化の
世界に遊ばさせてもらうと、健康になり、自然のリズムと
自分の心身のリズムを完全に重ねることができる。
そういう
人間が
仕事の
人生を終えても、その人の魅力ある
人生が完全に向かっている、自己完成に向かっている
人生というのはあるわけで、そういう人というのは
人間的魅力がある。「入てん垂手」、布袋様です。
レジャー、
文化を楽しみ、
人間らしい自己本来の
価値を開発していると、
人間的魅力がついてくる。
人間的に深まり、
人間的に魅力がついてくると、自然に
人間を愛することができるようになる。なんと至上な
人生か。
これは鈴木大拙
先生が
日本の
文化を外国に広めるときによく使われた図でございます。
もう時間が参りましたので最後に、私の友人がこういうことを言っております。国際通貨になった国の
文化が
世界に広がる、今、
日本はその
時代を迎えている、そのときに
日本人に
日本の
文化を愛する、
日本の
文化に熟知するそういう能力が欠けている、インポテンツである、余りにもったいないことではないか、この能力開発こそ今一番大切な
教育の問題ではないか、生涯
学習の問題ではないかと言っております。
フランスのフランが一番強かった
時代にフランスの
文化が
世界に広がったわけです。
産業革命以降イギリスのポンドが
世界の通貨になってイギリスの
文化が
世界に広がった。この国会の形式も
先生の皆様方の服装も、全部イギリスの
文化のスタイルであるわけです。戦後
アメリカのドルが国際通貨になって
アメリカの
文化が
世界に広がったが、今、
日本の通貨が国際通貨になり、
日本の
文化が今
世界に広がりつつある。ところが、
日本人がこの
文化にインポテンツである。余りにもったいないことではないか。そのためにも
経済交流の能力に加えて
文化交流の能力開発、さらに
環境づくりというのが必要ではないかというふうに思います。
時間が参りましたので、後ほど最後のこれからの施策については
先生方からの御質問を受けながら答えていきたいと思います。
以上でございます。