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1988-10-28 第113回国会 衆議院 文教委員会 第6号 公式Web版

  1. 会議録情報

    昭和六十三年十月二十八日(金曜日)     午後一時一分開議  出席委員    委員長 中村  靖君    理事 愛知 和男君 理事 岸田 文武君    理事 北川 正恭君 理事 鳩山 邦夫君    理事 町村 信孝君 理事 佐藤 徳雄君    理事 鍛冶  清君 理事 林  保夫君       逢沢 一郎君    青木 正久君       井出 正一君    石渡 照久君       工藤  巌君    佐藤 敬夫君       斉藤斗志二君    杉浦 正健君       谷川 和穗君    渡海紀三朗君       江田 五月君    中西 績介君       馬場  昇君    有島 重武君       石井 郁子君    山原健二郎君       田川 誠一君  出席政府委員         文部政務次官  船田  元君         文部大臣官房長 加戸 守行君         文部省教育助成         局長      倉地 克次君  委員外出席者         参  考  人         (国立教育研究         所指導普及部企         画室長)    牧  昌見君         参  考  人         (名古屋大学教         育学部教授)  小川 利夫君         参  考  人         (兵庫教育大学         長)      上寺 久雄君         参  考  人         (千葉大学教育         学部教授         全国教員養成問         題連絡会代表世         話人)     三輪 定宣君         文教委員会調査         室長      松原 莊穎君     ───────────── 本日の会議に付した案件  教育職員免許法等の一部を改正する法律案内閣提出、第百十二回国会閣法第四五号)      ────◇─────
  2. 中村靖

    中村委員長 これより会議を開きます。  第百十二回国会内閣提出教育職員免許法等の一部を改正する法律案を議題といたします。  本日は、本案審査のため、参考人として国立教育研究所指導普及部企画室長牧昌見君、名古屋大学教育学部教授小川利夫君、兵庫教育大学長上寺久雄君、千葉大学教育学部教授全国教員養成問題連絡会代表世話人三輪定宣君、以上四名の方々に御出席をいただき、御意見を承ることにいたしております。  この際、参考人各位に一言ごあいさつ申し上げます。  本日は、御多用中のところ本委員会に御出席いただきまして、まことにありがとうございます。参考人各位におかれましては、それぞれのお立場から忌憚のない御意見をお聞かせいただき、審査参考にいたしたいと存じます。  次に、議事の順序について申し上げます。  牧参考人小川参考人上寺参考人三輪参考人の順にお一人十五分程度意見をお述べいただき、その後、委員質疑に対しお答えいただきたいと存じます。  なお、念のため申し上げますが、発言の際は委員長の許可を得ることになっております。また、参考人委員に対し質疑をすることができないことになっておりますので、あらかじめ御承知おき願います。  それでは、牧参考人にお願いいたします。
  3. 牧昌見

    牧参考人 参考人の牧でございます。  教育職員免許法等の一部を改正する法律案につきまして、一人の研究者といたしまして早期成立を図るべきであるという立場から意見を述べさせていただきたいと思います。  今回提出されております法律案教員養成免許制度を抜本的に改善するものでございますが、このような抜本的な改善昭和二十九年以来行われていないと見られるわけでございます。現行の教員養成免許制度は、昭和二十四年に制定されました教育職員免許法によりましてその骨格が定められました。昭和二十九年に、仮免許状等の廃止、大学における教員養成基準改善現職教育による上級免許状授与の方式に特例を設けるなど、抜本的な免許法改正が行われまして今日に至っているところでございます。  この間、学校教育を取り巻く状況は複雑多様化しておりまして、また、学校教育自体社会進展に伴い相当に変化をしていることは先生方の御承知のとおりでございます。産業のみならず社会のあらゆる分野情報化進展しておりますし、それに伴いまして、学校教育におきましても情報化に対応する教育要求されておるところでございます。また、いじめや校内暴力等の問題は依然として深刻な状況にございまして、従来にも増して個性重視原則に基づきましてさまざまな能力、多様な関心を持つ子供一人一人に対応した適切な教育指導が行われなければならない、こんなふうに考えておるところでございます。  これらの問題を解決しまして、社会進展に対応した教育活動を展開していくというためには、教員、父母、教育行政機関等関係者が連携を深めまして真摯な努力を続けることが基本ではございますが、とりわけ教員は、日々子供と触れ合い、子供たちの知的、精神的、肉体的な成長に直接かかわるものでございますから、その果たす役割につきましては質的な改善が求められているというところかと考えるわけでございます。  古くより「教育は人なり」と言われますとおりでございまして、学校教育におきましては、教員に人を得るということがその成否を左右する極めて重要な要素でございます。社会進展に対応し得るすぐれた教員を質と量両面にわたりまして確保するためには、教員養成免許制度につきましても、学校教育を取り巻く状況に対応した改善を図る必要があるのではないかと考える次第でございます。  教員養成を預かる大学自体もかなりの変化を見せておると思われます。昭和二十九年以降、大学整備充実が進められまして、教員養成課程教職課程を置く大学の数も飛躍的に増大しているところでございます。また、教員資質能力向上という社会的要請に対処するため、昭和五十三年以降、兵庫教育大学を初めとしまして新教育大学が設置され、主として現職教員研究、研さんの機会を確保する趣旨を持つ大学院教員養成を目的とする学部を有し、学校教育に関する実践的な教育研究を推進しているところでございます。また、既存の大学大学院課程を置くところもふえてきているわけでございます。  以上のように、昭和二十九年以降、学校教育を取り巻く社会状況子供状況変化、それらに伴う学校教育内容高度化複雑化多様化といった変化には著しいものがございまして、一方では大学自身整備が進められているところでございます。これら時代の進展に応じまして、教員養成免許制度自身も当然抜本的見直しを図る必要があると考えます。この意味で、今回提出されております法律案に賛成するものでございます。  その具体的理由を三点に絞りましてお話し申し上げたいと思います。  第一は、学部卒で所定の単位を修得する一種免許状をもって教員資格標準としているということでございます。つまり、教師に求められる資質能力標準的な水準を示す免許状一種免許状と位置づけているということでごいます。これは、教職につく者に対しまして、養成課程において教科及び教職についての基礎的、理論的内容を初め、幅広い教養、それに実践的指導力基礎を確実に身につけさせるためでございまして、このためには、少なくとも学部卒レベルでの免許状取得が必要かと考えられるわけでございます。  さらに、特定分野におきまして高度の専門的知識を有する者を教員に誘致し、また、現職教員修士課程等における自発的な単位修得意欲を喚起するため専修免許状を創設しましたことは、時宜にかなったものであると思われます。  近年においては、教育内容専門分化等に伴いまして、教員には、より高度の、しかも多岐にわたる資質能力を身につけることが多方面から求められていることですから、すべての校種につきまして大学院修士課程程度免許制度に位置づけることが適当と考えます。この場合も一種免許状前提としていることに注意をすべきであろうと思われます。一方、近年増設され、普及しております大学院修士課程教員養成及び現職研修課程に組み込むということは、教員資質能力向上のためにも大きな効果があると考えるものでございます。  なお、二種免許状につきましては、一種免許状標準とすることにかんがみまして、また国際的水準に照らすまでもなく、一層の資質能力向上が必要であることと思いまして、教員として勤務する者について一種免許状取得義務を課すとともに、任命権者努力義務を課すということでございます。このことによりまして現職教育により一種免許状取得する者がふえることは、教員資質能力の全体的な向上のみならず親、地域の信頼を得るということにつながる意味で大事なことじゃないかと考える次第でございます。  第二点は、社会人として有為な人材教員として活用するために特別免許状制度及び特別非常勤講師制度を創設することでございます。これは情報化国際化学校教育多様化に適切に対応するのに必要なことと考えます。  現在、高等学校などでは、例えば情報処理関係学科など特色のある学科が設けられておりますが、このような学校教育多様化に対応して、一般社会でこれらの分野についての専門的な知識技能等を身につけた者を充てることは、実際に即した教育活動が期待できるとともに、児童生徒のさまざまな要求にもこたえることができる意味で有意義であると思うわけでございます。  また、広く一般社会から教育に熱意を持つすぐれた人材教育界に迎え入れることによりまして教員組織活性化を図ることも可能ではないか、こんなふうに考える次第でございます。学校を出まして、また学校に戻る、ほかの世界を知らないというような批判が教師についてよく言われるわけでございますが、そういう意味からも意義のあることではないかとも考えるわけでございます。  時間が気になってまいりましたが、三番目は、免許基準引き上げということでございます。大学において普通免許状授与を受けるために修得することを要する単位数引き上げる、これは専門性の論理に乗っかった当然の措置でありまして、大変結構なことではないか、こんなふうに考えるわけでございます。  今回、免許状取得のために必要な単位数引き上げの中に、例えば情報機器・教材の活用を含む教育方法技術に関する科目特別活動に関する科目生徒指導に関する科目等を新たに設けておりますことは、これらの分野についての実践的指導力基礎養成段階において確実に身につけさせるためであるというふうに考えるわけでございます。  以上三点にわたりまして今回の改正法案に賛同する理由を御説明申し上げましたが、いずれにいたしましても、教員資質能力向上を図る最大のねらいはあくまで子供の望ましい変容、成長を願うからでございます。国民の要望の強い課題でもございますものですから、本法案早期成立し、教員養成免許制度改善されることを切に希望してやみません。どうもありがとうございました。
  4. 中村靖

    中村委員長 ありがとうございました。  次に、小川参考人にお願いいたします。
  5. 小川利夫

    小川参考人 名古屋大学小川でございます。  今回の教育職員免許法改正について私見を申し上げたいと思います。  私は、まず一般的に、個性尊重教育というものが行われるためには教師が何よりも個性的でなければならない、個性的であるためには自由な教育空気というものが基本的に必要だと考えます。  そういう点から考えますと、まず、結論的に私は、今回の改正案というのは結局学歴によって教員免許状を三段階あるいは三つの層に階層化あるいは種別化するものであり、教育の場に新たな混乱をもたらすのみならず、上意下達的な序列化に陥る危険性を持っているのではないか、そういう点からこの法案には非常に問題があるというふうに考えております。  新聞報道によりますと、この点について過日、文部大臣は、二十六日の本委員会において、そのような意図はないというふうに御答弁され、特に専修免許については、教員養成開放制原則を堅持しつつその専門性を高め、教員資質向上を図ることが主眼であるというふうに御答弁されております。  文部大臣も指摘されておりますように、戦後、教員養成基本であります開放制原則に基づく教員資質向上ということには私も基本的に賛成でございまして、ぜひそういうふうにあってほしいというふうに思っておりますが、そういう観点に絞って考えましても、そこに多くの問題がある。この改正案については細かい問題はたくさんございますが、私はきょうは特にその点に絞って、以下三点にわたって見解を申し上げたいと思います。  第一は、開放制原則を堅持しつつというふうに言われておりますが、今日既に開放制原則は大幅に崩れつつあるのではないか、今回の免許法はその崩れ去る開放制原則をさらに促進するのではないかという点についてであります。  この点についても多くの論証が必要かと思いますけれども、特にこの点について指摘しておきたいのは、兵庫、上越、鳴門等におけるいわゆる新構想に基づく教員養成大学院との関連でございます。既に多くの方々が指摘されておりますように、同大学院への入学は当該校長推薦及び県教育委員会承認を必要としているのでございます。これは大学自治大学基本的なあり方から考えますと、同大学院はいわば県教委主導型の大学でございまして、さらにもう少し言いかえるならば、大学自治が著しく侵された大学、あるいは大学ならざる大学というふうに言っても言い過ぎではないように思われます。したがって、そこでは当然開放制原則というものは著しく侵されつつあるのではないかと思うのでございます。  第二番目は、今回の改正案学歴によってランクづけをしようというのではなく教員資質向上主眼とするものだという文部大臣の御発言にかかわってであります。教員資質向上というのは極めて重要な問題であり、国民的な関心事であり、国民要求でもあるというふうに考えます。問題は、いかにすれば教員資質が本当に向上するのかという問題でございます。  私は、そのためにはまず開放制原則を維持しつつ、大学における教員養成の過程において、そして新しい教師が就職する職場において、さらにそれを支える地域において、何よりも自由にして濶達な空気が充満し、それに必要な諸条件整備されるということが基本的に重要だと考えております。  つい最近、私はある機会日本退職教職員調査を行ったことがあります。その調査の中での自由筆記の中で、多くの退職した先生方、この中には校長先生教頭先生も含まれておりましたが、一番目立ったのは、現在の教育の場に自由な空気がない、学校に自由がないということでございました。その点を私は特に今度の資質向上という問題にかかわって危惧するのでございます。  いわゆる初任者研修に見られるような問題も含めて、今回の改正案というのは、現在一般的に問題にされているいわば国家主導型の教員養成、そういう状況を促進するのではないか。教育の側からいうならば、教育における自由な空気というものがそれによってますます侵されていくのではないか、教師がそういう中で子供の方を向かずに上の方を向くというような状況が促進されるのではないか、その点を特に危惧するのでございます。  第三点は、特に専修免許状の問題にかかわって教員養成、特に教員免許法における長期的な展望にかかわる問題でございます。  私は、文部省がここ数年来全国教育系大学修士課程を置いているということに深い注目をしております。現在、それは全体で四十九学部のうち二十一学部くらいというふうに聞いておりますが、私は近い将来全教育学部大学院修士課程を置くような方向で問題を積極的に検討してほしいとかねがね考えております。なぜなら、今日高校進学率が既に九五%に達した状況下において、小中高教師のいかんを問わず、将来的には、教師の一般的な基礎教養といいますか、それをさらに向上させていく必要がある、そのためには四年制大学からさらに修士課程をも開放していく方向をとるべきであるというふうに考えているからであります。  そういう点で考えてみますと、今回の改正案は、一見教師にその道を開くかのように見えますけれども、開かれているのは、特定の手続をとって校長推薦あるいは教育委員会承認等を経た一部の教師に開かれるのであって、結果的にはすべての教師にそういう機会、力量を授ける機会としての大学院修士課程開放という方向にはどうも向いていないのではないか。もちろん、私が長期的展望として検討を要すると言っているその問題は一挙にできるわけではありません。ぜひ本委員会におきましても十年ないし二十年の展望を持ってそういう点について積極的な検討をされ、教育関係者を初め国民的な合意を形成してほしい、そして実現に向けて努力してほしいと思うのでございます  しかし、そういうふうに考えれば考えるほど、今回の改正案はどうもそういうふうには動いていないのではないか。むしろ教員の、あるいは学校世界に幾つかの亀裂をもたらし、全体として教員の地位を今日よりさらに悪い方向に固定化し、固定化するだけではなくて教職員の間に新たな分断を持ち込む危険性がある。さらに、大学院修士課程について言うならば、大学院修士課程資格上進の機関として位置づけるということは大学院そのもの矮小化ではないかというふうにさえ考えるのでございます。  残された問題は少なくありません。教員世界に新しい社会的経験を積んだ人が教師になるという道を開くということも、一つの問題の道筋として必ずしも反対ではありません。教員になる道筋というのはいろいろなコースがあっていいと思います。つまり、大学を終えて直接に教員になる者もあり、大学を終えて社会に出てからなるコースもあっていいだろうと思います。しかし、それは無原則的に行われてはならないわけでございまして、どういうような原則のもとにどういう条件でそういう道を開いていくかということについては、さらにもう少し詰めた議論が必要ではないか。少なくともそういう原則を活用する際に、学校、特に教職員自治とか意見というものが十分に尊重されていくということが前提になるだろうというふうに思うのでございます。  さらに申し上げたいことはいろいろございますけれども、一応最初の問題に絞ってだけ御意見を申し上げました。
  6. 中村靖

    中村委員長 ありがとうございました。  次に、上寺参考人にお願いいたします。
  7. 上寺久雄

    上寺参考人 兵庫教育大学上寺でございます。  今国会提出をされ、現在審議されておられます教育職員免許法等の一部改正法律案につきまして、この推進を、早く成立をさせていただくことをお願いしたい、こういう立場から二、三の御意見を申し上げさせていただきたい、こう思うのでございます。  まず第一に、教員資質向上につきまして、この問題に関しまして、なぜ免許法改正をしてでも資質向上しなければならないか、私はこういう点について三点申し上げてみたいと思います。  一つは、これは社会的要請でございます。国家的、さらには世界的要請でございます。教員資質向上ということに関連をいたしまして、世界は皆その手を打とう、こういうふうに考えておるわけでございます。幸い、日本の国は憲法や教育基本法そのほかに基づいて関係者が非常に努力をしております。日本における学校教育は、世界においてある意味評価を受けておるのでございます。アメリカを初めとしてイギリスも西ドイツも、さらには発展途上国も、先生方資質向上をいかにして図るか、こういう問題に関連をして、日本教育はよくいっておるじゃないか、こういうふうにも評価をされておるのでございます。  もっとも、そういう評価に該当するだけ教育向上しているか、こう考えますと、多々問題はあると思うのでございます。確かに知識向上いたしたでしょう。しかし、果たして人間としての教育が徹底しているのかどうか、こういう問題もあるかと思うのでございます。そういうことに取り組める教員、これをいかに養成するか、こういうことが非常に大きな目標になっておるのじゃないか。そういう点で、日本において教育の成果が上がると同時に、問題点もある。その点をどういうふうに解決するか。さらには、二十一世紀を目指しまして、情報化とか国際化とか個性化とか、いろいろ言われております。これにたえられるような子供養成するのにどういう先生方が必要なのか、こういう問題が出てくると思うのでございます。  二番目に、教員資質向上を図る、こういうことに関連してでありますが、これは教育本質からきておると私は思うのでございます。  教育とは教師子供を引っ張るだけではございません。教員子供とが体当たりをしながらともに成長していくのが教育でございます。教師が、あるいは教員教員になり続けていく努力を払わない限り子供成長もあり得ない、私はそう信じておるのでございます。幸いにして人間は学ぶ動物として生まれついておるのでございます。子供一人一人が学ぶ動物として努力をし続ける。同じように、教員自身も学ぶ動物という基本的な特質を持っておるのでございます。教師教師になるために学び続けていかなければならない、これが教育本質からきた要請であろうと思うのでございます。  三番目には、現在、教員自身が求めておるのでございます。先ほど小川参考人からいろいろの問題点の御指摘をいただきました。しかし、五十三年開学をいたしまして、私たち大学には今既に大学院生の修了者が千五百五十名、北海道から沖縄まで散らばって努力をしてくれておるのでございます。その教員に問いますと、学び続けたいんだ、そういうチャンスをつくってほしいんだ、こういうようなことが常に意識調査の結果出てくるのでございます。  もちろん教師資質能力をどう考えるか、この辺にもいろいろ問題があると思います。私はこう思います。まず人間性職業から起こってくる職業性とが解けがたく結びついてそこに専門性が生まれてくるのでございます。一人一人の教師がそれぞれの専門性を持って、それは人間性職業性に支えられておるのでございます。質がそれぞれ違うはずでございます。そういう面から、教員資質向上に対して機会あるごとに勉強できるチャンスをつくる、こういう張り合いのあるシステムにしていく、こういうことが要請されるのではないか。  では、今度の改正案特徴はどこにあるか、こういう点について四点ほど申し上げてみたいと思います。  ねらいが教員資質向上を備えた人材確保にあるということは言うまでもございませんが、まず、免許状制度拡充整理がこれによって可能になるのではないかと思うのでございます。と申しますのは、従来は、大学院卒業生免許状関係で道が開かれていたのは高等学校だけでございます。このたびは他の校種全部に三本立てで行こうというねらいがあるわけでございます。高等学校だけに大学院卒業修了者免許状が必要だということではないと思います。小学校、中学校においても教育についてのスペシャリストも要ると思います。さらには教育課程についてのスペシャリストも要ると思うのでございます。  先ほどもお話が出ましたように、教員免許状なり教員組織につきましては三つ特徴がある。開放制であって、大学教育をいたしましょう。二番目は、免許状をそれぞれ与えましょう。しかもそれは別の機関で、教育委員会から与えましょう。三番目は、それに伴う研修というものについて専門性が出てくるということも当然の裏づけとして義務づけられておるのでございます。そういう点で、各校種ともに三本立てにしたこと、これは整備されたことにつながると思います。  それに関連して上進制度がございます。二種から一種へ、さらには特殊な特別の領域の専修へ、そういう道が開かれたことでございます。私自身は残念ながらかつて幼稚園の教師はしておりませんけれども、あと小中高大学教育委員会、それぞれいろいろと歩き回りました。その都度、何とか成長してみたい、こういう気持ちは先生方にあることをそれぞれの校種で感じ取ってきておるのでございます。そういう意味で、研修への道が開かれた、しかもそれの裏づけとしての免許状の裏づけが出てくるんだ、こういうようなことも言えると思います。  さらには、このたびの養成段階から初任者研修段階へさらに継続した研修、研さんへとつながっていく過程において大学教育委員会とがいかに研修の体系化で結びつくことができるか、こういう面でも私は道が開けたのではないかと思っておるのでございます。今後の認定講習にしても大学がかなり参画をして一緒にやらせていただく、こういうことも大事かと思うのでございます。  その次は、教職特別課程の設置でございます。一般の大学を出られて、そうして一般の社会で働いておる人で教職につきたい、こう念願してこられた方はたくさんあります。今まではなかなかそれは道を開くチャンスがなかった。それを教職特別課程の設置において道を開こう、こういうことになっておるのかと思うのでございます。もっとも、そうやって免許状を得てこられました方々、あるいはあとの特別免許状、こういうことにつきまして、それを受け入れるに当たって学校側で体制づくりをしておかなければならないこともまた半面の問題点であろうかと思います。これをそういうふうな努力をしながら一般社会方々を受け入れていく、このことによって学校教育活性化できるのではないか、こういうことであろうかと思います。  次は、専修免許状の新設につきまして、先ほども触れましたけれども、御承知のとおり、修士課程は広い視野に立って精深な学識を修めさせる、同時に高度の専門性を有する職業等に必要な高度の能力を養う、こうあるわけでございます。先ほど言いましたように、教育の面でのスペシャリスト、さらにはカリキュラム構成上のスペシャリスト、こういうような面でその専修免許状の新設というものがまた新しい道を開き、学校教育における先生方組織を一層重層的なものにするのではないだろうか、こう思っておるのでございます。これがとりもなおさず自発的研修への意欲を駆り立てていく、こう思います。  さらに、先ほど申し上げました社会人の登用がどれだけの意味を持つか。特に、非常勤の方でございましても、その道のうんのうをきわめた人に子供たち教育を受けるということは、余人をもってかえがたい人から教育を受ける、こういう長所があるのではないか、こう思っておるのでございます。特別免許状授与に当たっても、もちろん大学開放制を乱しては困ります。しかし、一緒にやるということは可能ではないか。  最後に、私たち兵庫教育大学十年の経験がございます。先ほども申し上げました千五百五十名の修了者が出ておるわけでございますけれども、彼たちにアンケート調査をしてみますと、七割の者が勉強してよかった、二割はまだ足りない、こう言っておるのでございます。若干の者がある意味では批判もしておると思いますけれども、九割九分九厘までは勉強してよかった、こう思っておるのでございます。  以上、いろいろ申し上げましたけれども、教員成長する道と子供たち成長する道とが同時に行われる教育の道を両方で歩んで成長していくことが大事なのではないだろうか。そのためにこのたびの法案につきましては一層の御努力をいただいて通していただけば幸いだ、こう期待しておるわけでございます。ありがとうございました。
  8. 中村靖

    中村委員長 ありがとうございました。  次に、三輪参考人にお願いいたします。
  9. 三輪定宣

    三輪参考人 三輪でございます。  教育行政学を専攻しております。また、現在は教員養成問題の研究団体、全国教員養成問題連絡会の世話人代表及び教育法の専門学会、日本教育法学会の理事などを務めております。  以下、法案に反対の立場から意見を申し述べます。  第一に、教員免許状学歴別三階級制、つまり基礎資格専修免許状大学院修士課程程度一種免許状学部卒、二種免許状は短大卒程度とする、この制度ですが、必然的に専修教師、一種教師、二種教師という職階を形成し、教師のいわば品質表示として機能し、校長任用や給与体系の三種別化など、上進昇給の階梯、はしごなどとして乱用されることは避けられません。初任者研修制度の初任者と指導教員の関係と相まって、学校教員組織を上下の関係でくし刺しにする制度だと思います。  懸念される影響は重大です。教員養成段階でも、一種、二種免許状を取る学生の意欲がそがれ、大学院進学が将来の出世競争の様相を呈するなどの弊害です。教養審答申によりますと、専修免許状所有者は「高度の資質能力を備えていることを示す」とされております。現場教師の間では、能力の高い者、低い者、指導、被指導の関係が制度的につくられ、反目、競争が激化し、相互の協力やチームワークが困難となります。特に懸念されることは、教師に対する子供や親の信頼、尊敬、誇りなどの感情が損なわれ、教育関係が一段と悪化するということであります。  どの子供も憲法二十六条により最善の教師によって最善の教育を受ける権利が保障されています。そのかけがえのない教育を担う教師を上中下に事実上ランクづけ、子供に割り振ることは、教育を受ける権利の侵害と言わざるを得ません。現に、すべての教師教育専門家として学歴、年齢、経験などにかかわりなく子供に対等、平等の責任を負い、父母、国民の負託にこたえて教育に従事し、その重要性や複雑さに軽重はございません。こうした教育の権利性や教職本質に照らし、教師資格は単一の免許状で表示されることが最適であり、また絶対的要請と言えます。教育の道理に反した制度は教育を殺す凶器ともなり得るということを銘記していただきたいと思います。  第二は、免許上進、上級免許状取得現職研修の結合による弊害です。この場合、三階級の免許状現職研修への参加度、忠誠度のあかしとなり、子供不在の上級免許状取り、出世本位の研修を横行させることになるでしょう。教育研修は本来子供のために自主的、自覚的、自律的に行われるべきですが、それが根底からゆがめられます。  法案には、上級免許状取得の方法に「文部大臣の認定する講習」を含め、教養審答申ではそれは「任命権者等が実施する研修」と明記されております。現行法では認定講習は大学の指導を要件としておりますが、これが外れたら大学における教員養成大学における現職教育原則が崩れて、ゆゆしい事態になると思います。そうでなくても、現在、現職研修の一環である大学への長期研修生の派遣や大学院入学の許可に教育委員会推薦承認が要件とされておりまして、現場教師が自由に志願し研修できる状態ではありません。免許上進絡みで現職研修希望者が殺到するようになれば、行政当局の推薦権は絶大な威力を発揮し、日常的な教師管理のかなめとなりかねません。  第三に、教員免許取得に要する大学の最低履修単位を大幅に引き上げ、授業科目を全面的に改変する問題です。それは大学教員養成自治の領分を侵し、カリキュラムの国家介入を進め、教員養成の画一化によって幅広い教養、豊かな個性、人間的魅力を持った力量ある教師養成を困難にいたします。  法案によりますと、例えば一種免許状を現行の一級免許状と比べると、小学校では四十八単位から五十九単位へ二二・九%増、中学校では乙教科、国語、数学などは四十六単位から五十九単位へ二八・三%増と大幅アップであります。教職員増の保証もなく、カリキュラムの過密化、学生、教官の負担過重は避けられず、大学独自のカリキュラム編成の余地は局限され、一般大学では免許取得難から開放制免許制度の形骸化が加速するはずです。  さらに、法案にはまだ表面化されておりませんが、省令では、授業科目単位数の全面改変が予定されております。その骨格は教養審答申のとおりでしょう。つまり、主に十数年前の一九七二年の教養審建議の再現にすぎず、学問的根拠に乏しく、学習指導要領との関連をいたずらに強め、新しい時代への対応に欠けております。例えば、四十年来の教育原理という授業科目が消え、どの大学にも担当教員のいる教育史や国際化時代に即応した科目、比較教育の位置づけがなく、逆に学界でも批判の多い生徒指導単位を必置とし、学習指導要領の領域区分に見合った授業科目を求めるなどの内容です。大学を学習指導要領の伝達機関化する方向とも言えます。  第四に、社会人教師に活用するための一連の特別制度の問題です。無免許の特別非常勤講師、教育委員会の検定による特別免許状授与、一年間で正規の免許状が取れる教職特別課程などによって社会人が安易に教壇に立てる仕組みは、子供教育を受ける権利の内容、方法面の保障のために成立した教職の専門職制の原則に反するわけでございます。  一方で教員免許基準を大幅に引き上げたり、一年間の初任者研修まで無理に制度化し、教養審答申によりますと、専門職としての教員の職責を強調し、他方で無資格やそれと同然の社会人教師に活用するという発想は明らかに矛盾ですし、むしろ支離滅裂と言うべきではないでしょうか。それは、四年間苦労して教員免許状を取る学生の努力、日々研修を重ねる現場教師努力を冷笑するような制度で、教員養成研修全体の機能低下を招くことは必至だと思います。正規の教員の責任において住民や社会人学校教育への参加を求める方法は、一日先生の試みなど現在でも行われ、さらに発展させることは可能でございます。  今日、すぐれた教師の確保のために重要なことは、教員免許状のない社会人の活用ではなくて、全国で約九万人、八%に上る免許状を持つ臨時教員、臨時的任用教員の正式任用化です。臨時教員の多くは教職を生涯の仕事と決め、劣悪な待遇、不安な身分に耐え、正式採用を待ち望む熱心な青年教師たちであります。教員採用の年齢制限を緩和し、経験年数を重視するなど、その期待にこたえ励ます施策こそ重要だと思います。また、たくさんの若い教師たちを臨時的任用で乱用、酷使し、可能性をつぶし、子供に臨時の教育を押しつけるこの制度はなるべく早く廃止すべきだと思います。  最後に、基本的問題、課題の幾つかを指摘いたします。  本法案は、国民的合意に著しく欠け、関係団体との協議も不十分であって、到底法律として制定できる内容段階とはみなせません。そもそも教員養成研修など教師の内面、その力量形成に関する領域を画一的に立法化することは慎重であるべきです。現に欧米諸国では、例えばアメリカや西ドイツでは、国、連邦の教員免許法はなく、州や大学自治、民間研究団体等に任されております。  教員養成・免許に関する政府の任務は、教育基本法十条に、「教育の目的を遂行するに必要な諸条件整備確立」と明記されております。例えば、児童生徒急減に伴う深刻な教員採用難、就職難打破のために、四十人学級、三十五人以下学級の実施を急ぐことです。  ちなみに、公立小学校教員の採用者数は、一九八三年から八七年のわずか四年の間に、一万五千二百十六人から一万七百八十四人へと、二九・一%、三分の一近く急減しております。そのあおりで、国立教員養成大学学部卒業生の教員就職率、正式採用率は、全国で八〇年三月の七五・〇%から八七年三月の四八・六%へと、二六・四%も低下してまいりました。そのうち、小学校教員養成課程を卒業して公立小学校教員になった者は、この間に、臨時的任用を含めても七千六百二十五人、卒業生の六九・三%から、四千五百十六人、三七・二%へと、約七割から三割合に急減しております。  この環境では、学生は就職難で浮き足立ち、教師になるための勉強に没頭できず、教育学部の人気も落ち、すぐれた学生が集まらなくなります。文部省の指導で教員免許状を出さない建前の課程、いわゆるゼロ免課程の新設が進んでおりますが、このような小手先の対応ではどうにもならないと思います。  また、教員養成年限の延長も本格的に検討すべき時代にあり、当面そのかわりに、大学院卒業、修学の教師をふやす計画ならば、全国的に大学院を増設、拡充することが急務です。現状では、都道府県ごとに原則として一校しかない国立教員養成大学学部の場合でさえ、大学院は二十一の大学にしかありません。半数以上の都道府県には教育系の大学院もない段階専修免許状を制度化すれば、教員養成・免許、研修地域格差、大学格差が一挙に拡大し、教育機会均等に反することは明白であります。  さらに、教員養成大学学部の予算は、八〇年代の伸びはゼロに近く、GNP、国民総生産が、八一年から八八年度間に四三・三%、二百五十五兆円から三百六十五兆円へと急増したのに比べて、教員養成の冷遇は、他の教育予算とともに際立っております。大幅な教育予算増に加え、定数増、施設増等の改善が急務だと思います。条件整備は、もちろんこれらに尽きるものではございません。  戦後の教員養成制度は、憲法の定める教育を受ける権利、教育基本法の示す「個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成」、教師の自主性、主体性の確立と自己形成などの理念に基づいて、大学における教員養成免許状主義による専門職制、開放制、平等な免許制度などの原理に立って形成されました。それによって専門の知識教育技術とともに学問への造詣、広い視野、教養、協力連帯の精神、豊かな人間性人間的魅力などを備えた教師の育成を目指し、世界的にもすぐれたと評価される教師養成、確保して、日本の戦後の発展の礎ともなってまいりました。  国、政府は、戦前の誤った教員養成制度の反省、否定の上に築かれた戦後教員養成制度の総決算によって再び誤った道を進むのではなくて、その継承、発展の立場から、教員養成の外的条件整備に全力を傾注していただきたい。そして、日夜教育に奮闘する父母、国民教職員の期待にこたえられるよう切望いたしまして、意見陳述を終わります。
  10. 中村靖

    中村委員長 ありがとうございました。  以上で参考人からの御意見の開陳は終わりました。     ─────────────
  11. 中村靖

    中村委員長 これより参考人に対する質疑を行います。  質疑の申し出がありますので、順次これを許します。斉藤斗志二君。
  12. 斉藤斗志二

    ○斉藤(斗)委員 本日は、参考人先生方には大変御多忙のところ貴重な御意見をお聞かせくださいまして、まことにありがとうございます。先生方の御意見に沿いまして幾つか質問をさせていただきたいというふうに思います。  私は、今次教育改革の必要性が大きく国民の声として叫ばれている中で、特に教員資質向上はどうしても避けて通れない、もっと積極的にこの問題に取り組むべきだと国民が訴えているというふうに理解をしておるわけでございます。臨時教育審議会の答申を見ましても、そのような国民の声が聞こえてくるわけでございます。  私は教育関心を持って最初に、昔の話になりますが、先生とはどういう人なんだろうなという素朴な疑問を持ったときに、先にお生まれになられるから先生だという、そういう語源があるよという笑い話のようなことを思い浮かべながら、そして教育関係者等々のお話を聞きますと、でもしか先生という言葉がある。私は最初よくわからなかった。でもしか先生というのは、デモ行進にしか行かない先生のことを言うのですかと素朴に聞いたら、いや、とんでもない、そういう意味ではなくて、先生にでもなろうか、先生にしかなれない、こういった時代的背景の中での言葉だよということも教えていただいたわけであります。これは、いわば先生の不足時代の話ではなかろうかというふうに私、思うわけであります。  これが第一期のでもしか先生の時代で、その後に第二期というのがあるということを教育関係者から教えていただいたわけであります。それは、何でもできるけれども、言われたことしかしない。これが第二期のでもしか先生。うまいことを言うなと感心しながら、一つの真理をついているのかなというふうに感じた次第でございます。そういうことは、余り好ましくない先生、今、立派な先生たくさんおられますけれども、一部にそういう好ましくない先生もおられるという現実があるのかな、そういうような感じ方をいたしておりました。  そうしましたら、いや斉藤さん、いい先生ばっかしですよという父兄の声も耳に入ってくるわけであります。それはずっと教員資質向上していいことだなというふうに思う。そうしましたら、こういう意味だというのですね。いい先生というのは三種類あって、本当にいい先生とどうでもいい先生といない方がいい先生と、実は三種類おって、教育現場では、特に父兄はその困った先生について非常に対応に苦慮しておる、こういった現実の姿があるのですよということを教えていただいたわけであります。そういった総合的な背景の中から、今回のこの教員資質向上の一環としての教員免許状改正ということが出てきたというふうに私、理解をいたしております。  私の立場から言いますと、牧先生、上寺先生の御意見には本当に傾聴に値し、勇気を持ってこの法案について推進しなくちゃいかぬなという意を強くいたしたわけでありますが、ここで小川先生にひとつお伺いをさせていただきたいというふうに思います。  先生は、教育というのは個性的であるべき、同時に、子供がそうであるためには先生もそうだというような、個性的というお言葉をお使いになられました。それには自由な空気が必要等々のお言葉をお使いになられましたけれども、私は養成機関ということで考えますと、大学で主にされるわけでございますが、大学自治との関係を考えたときに、これほど自由な雰囲気があるところはないというふうに考えておるわけでございまして、先生自身が大学の先生をされておられる、最高学府の中におられて、その先生が、いや自由がないんだよということになると、私は自己矛盾に陥っているのではないかなというふうに思うわけであります。  その点について、まず小川先生にお聞きしたいというふうに思います。
  13. 小川利夫

    小川参考人 質問の意味がちょっとわかりにくいところがあるのですが、失礼ですが、もう一度最後のところを……。
  14. 斉藤斗志二

    ○斉藤(斗)委員 先生は大学人でいらっしゃる。大学には大学自治というのがあって、守られておって、そしてそれは大変自由なアカデミズムの中で行われているわけであります。私は、そういう意味では一般社会よりもより大きな自由度があるというふうに考えておるわけでありますが、そこで実は教員養成ということがされるわけですね、養成課程があるわけですから。ですから、先生がそういう場におられながら、先生の別の資料を読ませていただいたら、先生は国定教師というような言葉をかなりあちこちでお使いになっておられるわけですが、そういう御発言と矛盾するのではないかなというのが私の質問でございます。
  15. 小川利夫

    小川参考人 現在、大学自体もいろいろ矛盾を抱えておりまして、特に教員養成の問題について考えますと、日本における大学教員養成というのはいろいろな側面があるわけですね。まず第一は教員養成を主とする大学、それから私の大学のような、必ずしも教員養成を主としないけれども結果的に教員になっている一般国立大学、それから私立の大学、それからさらに短期大学と、大学と一言で申しましてもいろいろな局面がございます。  私が特に問題にいたしましたのは、教員養成を主とする大学において、今日、教員養成大学におけるカリキュラム、実践というようなものを調べたレポート、例えば神戸大学教育学部で相当積極的な調査研究をされておりますが、それによりますと、大学、特に教員養成大学における教育というのは教育職員免許法に基づいてカリキュラムががんじがらめになっているというのが現実でございます。つまり大学というのは本来自由な知的探求の場であり、そういう知的探求の共同体であるというふうに考えます。教師は何よりも知的探求者でなければならないというふうに考えます。同時に、何よりも子供が大好きで子供とともに成長したいというふうに考えなければならないと思うのですが、実際の教員養成大学においてはそういう自由な人間性を培うというような教育を受ける余裕がないと申しますか、ほとんど、免許状に基づく時間を非常に細切れの単位、大体二単位ぐらいで終わるというのが一般的でございます。そういう点を特に問題にしたわけでございます。
  16. 斉藤斗志二

    ○斉藤(斗)委員 次に、現状の二級から一級への進度といいますか、これが十五年の一つのスパンで単位を履修することによって二級から一級へ進められる、こういう制度があるわけでございます。  ここで上寺先生にちょっとお伺いしたいのでありますが、現状の制度下において十五年たつと、逓減方式になっていましてゼロ単位でも二級から一級へ上がれるということになっておるわけでありますが、私の調査によりますと、ほぼ一〇〇%、ゼロ単位で二級から一級へ行っておるという状況と私は理解しておるのでありますが、そういう状況でいいのかどうか。そしてそれについて、これはやはり教育上余り好ましくないのではないかなというふうな考え方を私自身持っておるので、その点、上寺先生の御意見を賜りたいと思います。
  17. 上寺久雄

    上寺参考人 十五年たちますと自動的に、こういうことでございますが、十五年も教員をしておって、そうして充足できるだけの内容が充実できないなんというのがおかしいと私は思っております。それは教員になりましても、三年目、五年目の危機と十年目の危機、十五年目の危機というのがございます。しかし、そのときを通り越して、そうして教師として成長をし続けていくと当然裏づけになるものは出てくるはずだろう。自動的になるというのも、第一おかしいような気はいたします。問題は心構えの問題でもあろうかと思っております。  ついでに、先ほど、でもしかと出ましたけれども、今の先生は、これでも教師か、これしか私にはできないのかと自戒をしながら私の大学院へ来ておる先生もたくさんおります。それに対しては教育の大地にしかと足を踏みしめて、これでもかこれでもかと成長をし続けてくださいと言って送り出すことにしております。そういう先生おるのでございますから、十分、十年もたてばもう充足できるのではないか、こう信じております。
  18. 斉藤斗志二

    ○斉藤(斗)委員 今先生からお話をお伺いして、私もほとんどの先生はいい先生だと思っております。しがしながら、そういう背景もあるんだということで最初の方、発言させていただいたわけでありますが、ここで三輪先生にひとつお願い申し上げます。  先生は免許状三種化といいますか、三つの種類にすることにつきまして、反目とか競争とか出世とか、私にとっては大変過激なお言葉をお使いになられたのですが、教員がより専門性を深めることはそれ自体何の問題もないし、また、すべきだというふうに私は思っております。ですから、当然そのような種類を設けることは問題ないというふうに解釈しておるわけでありますが、先生はそういうことについてやはり問題があるというふうな御指摘であります。  現在、一級、二級あるわけですね。そういう意味では区別があるのだけれども、教員間にそんな格差が生じているというようなことも余り聞いておらぬわけでございまして、一方的に一般教員階層化とか序列化させるというふうに言い切るのはいかがかなと私は思っておるのですが、その点をお聞きしたいと思います。
  19. 三輪定宣

    三輪参考人 現在の普通免許状一級、二級の区分は、実際には教職経験の中での自主研修、それから実践を通しての力量向上などというものが形式的な研修以上に重要な役割を果たすという考え方のもとに、十五年たてばその区分が解消するという運用になっているわけですね。したがいまして、管理職の任用その他に一、二級の区分がそのまま関係して教師の免許の、あるいは能力の差異を表現するものとなっていないということで、実質単一の免許状と同じような運用実態になっているわけでございます。  これに対して新しい三階級の免許状制度は、経験年数による解消措置というのはなくて、少なくとも六単位ないしは十単位現職研修取得することが義務づけられているという制度でありますし、また明確に学歴に対応した免許制度になっておりますので、そうなると、これは先ほど申したように教師そのものの品質表示的な機能をいろいろな形で持ってくるというふうにみなさざるを得ないわけでございます。
  20. 斉藤斗志二

    ○斉藤(斗)委員 時間がなくなったので、最後の質問をさせていただきたい。  牧先生、ひとつよろしくお願いします。先生は教育荒廃の大きな位置づけで教員資質向上ということをおっしゃられたわけでありますけれども、今まさに教育界の信頼回復の大きな位置づけが先生にあるということ、まさしくこれをきちっと保障することによって教育荒廃からの脱却、そしてさらに信頼感の回復につながるというふうに思うわけでありますけれども、そういう意味で現状そのものに不満があって、現状そのものにおいて信頼が失われている、だから、一歩でもよくする方策をとらなければならない、それだからこれだということで、確認の意味で御質問させていただくわけでありますが、ひとつよろしくお願いします。
  21. 牧昌見

    牧参考人 先生御賢察のとおりかと思いますが、現状が全く荒廃しておりまして、信頼すべき一点のものもないということでは決してなかろうと思います。学校も、また先生方も大いに努力をされておるわけでございまして、荒廃をめぐる問題というのは、言ってしまいますとかなり構造的なものといいましょうか、あるいは我が国固有の問題というふうにとらえられない側面もあろうかと考えるわけでございます。  実は、今御指摘のことは大変大事なことだろうと思います。私もこの四月にOECDの教員をめぐるプロジェクトに参加をしておりましたときに、やはり各国とも一部の教員といいますか、かなり親、地域から信頼を失っている教師が見られる、信頼回復のためにはどうしたらいいのか、教育自体の努力として何が考えられるのか、あるいはどういう資質能力が一層求められているのかというようなことが議論になりました。  そのことにつきましてお話ししますと長くなりますけれども、今おっしゃるような方向で、例えば日本語で言いますと生徒指導とか、あるいは教育相談、進路指導といった側面にっ小て今回の法律案では単位の修得を要求しておるわけでございますが、そんな意味で、免許法資質向上のすべてじゃございませんけれども、免許法の範囲で努力し得ることであって、結構なことじゃないか、そのことがまた国際的な要請にも合致する、国際化要請にも合致するというふうに私など見ているところでございます。
  22. 斉藤斗志二

    ○斉藤(斗)委員 終わります。
  23. 中村靖

    中村委員長 次に、江田五月君。
  24. 江田五月

    ○江田委員 参考人先生方、当文教委員会教育職員免許法等の一部を改正する法律案審議のためにお忙しいお時間をお割きくださいまして、本当にありがとうございます。  私は、きょうは社会党・護憲共同という会派の立場から先生方に若干の質問をさしていただきたいのですが、実は、私自身この委員会にもう五年ほど籍を置かしていただいておりますけれども、学校教育現場というのは親としてタッチしたことがあるほか全然ありませんので素人でございまして、先生方のお話それぞれになるほどな、もっともだなと思いながら聞いたのですが、後でよく考えてみると、まるきり違った立場の御意見ということで困っておるのです。  そこで、まず小川先生と三輪先生に念のために伺っておきたいのですが、両先生ともこの教免法は疑問がある、反対だ、そういうお立場でございますが、しかし、恐らく現在の学校現場に問題がない、現在の学校現場は非常にうまくいっておるから、だから教員の免許の制度は今のままでいいのだ、そうじゃなくて、この教免法が今の学校現場のさまざまな問題をむしろ悪化させるんだ、そういう立場じゃないかな、こう思っておるのですが、結論だけで結構ですので、その点、まず小川参考人の方からお願いします。
  25. 小川利夫

    小川参考人 基本的にはそう見ているわけであります。  戦後、教員養成制度の基本的な改革の観点は、戦前的な師範学校教育というようなものを批判し、型にはめられた教師をもっと自由な空気の中で養成するという開放制原則を立ててきたわけですが、どうもそれが崩されていく、そういうことは、やはり教育の現場でいうならば今の状況をさらに悪化させていく、そういう危惧を持っております。
  26. 江田五月

    ○江田委員 三輪先生の方、いかがでございますか。
  27. 三輪定宣

    三輪参考人 今日のさまざまな教育の危機や荒廃の基本的な要因は、それらの問題も教職員学校でのチームワークあるいは協力、自主的な、創造的な実践を通して十分克服できないような管理体制が戦後四十年来の中で着々と築かれてきているというところにあるように私は思います。  ですから、その解決のためには、職場に自由と平等を確保し、本当に人間的な連帯がみなぎるような学校に変えていく必要がありますし、そのためには、積年の教育政策の矛盾をこの際抜本的に見直して、教育の自由と自治を取り戻すということが基本的に大事だと思っておりますので、それに逆行する政策については先ほどのような意見を申し上げたわけでございます。
  28. 江田五月

    ○江田委員 牧参考人上寺参考人はこういう法律が必要だというお立場ですが、ちょっと言葉をきちんと記録していないのであるいは間違うかもしれませんが、情報化とかあるいは国際化とかそういうような時代の大きな変化に伴って教師のあり方も変わっていかなければいけないから大切だ、こういうことを強調されたように伺ったのです。  しかし、情報化国際化というようなことは、もちろんこれは今の時代の動いていく方向ですが、そういうことが今の学校教育のさまざまな問題を生み出しているのか、それとも、そういうことよりももっともとの問題として、何か子供たち人間としての成長というような点で今学校教育の中に、とりわけ、教師の質とも絡んでいろいろな問題があるのではないか、こんな感じもするのですが、そういう点は賛成のお立場の両参考人はどうお考えでしょうか。牧先生、いかがでしょうか。
  29. 牧昌見

    牧参考人 御賢察のとおりかと思いますが、事がかなり複雑なのじゃないかというふうに私などは見ておるわけでございます。  実は、過去三年ほど生徒指導プロジェクトというものを展開いたしまして、全国約二万人の小・中・高等学校先生方に御協力をいただきまして、一体どうしたらいいかというので調査をしたことがございます。そのときには先生方調査ではございますが、数字の方はちょっと必ずしも正確じゃございませんのでお許しいただければと思いますけれども、あなたは先生として教えている子供たちに信頼されていると思って教壇に立っておるかという趣旨の設問が、幾つかある設問の中にございます。そうしますと、その数字が正確じゃなくて申しわけないのですが、五割以上の現職の先生方が、どうも私の教えている子供たちは私を信用していないようだというつもりで指導しておるという、生々しいというか恐るべきといいますか、実態があったりするわけでございます。  子供自身もまた別のプロジェクトで、カウンセリング、教育相談関係のプロジェクトも、ここ三年ほどやりました。子供自身にもやはり原因があると思われるケースもございますし、それから子供教師とのインタラクション、コミュニケーションの間で、どちらかというと、教師の打つ手というか働きかけがもうちょっとベターであればなというようなケースもございまして、一概には言えないように思うわけでございますが、教員資質をそういう側面でも非常にきめ細かに改善するような手当てをしませんといけないということだけは明言できるかと思うのです。  先ほどもお話し申し上げたかと思いますが、教育職員免許法改正すれば、たちどころにそうなるという保証は全くないと思います。もう少し包括的に物は考えなければいけないと思いますが、免許法改正がわずかではあっても寄与し得る面があるというふうに私など信じておるところでございまして、教育の外だけじゃなくて教育の内側からの努力ということも非常に大事なのではないか、こんなふうに考えておるところでございます。  以上です。
  30. 江田五月

    ○江田委員 同じ質問ですが、上寺参考人、お願いします。
  31. 上寺久雄

    上寺参考人 端的に質問に答えさせていただきます。  私は、先ほど社会的、国家的、世界的要請、こう申し上げました。その中には二つ意味がございました。一つは、現在の教育で問題があるのだ、これが一つ。将来の二十一世紀を考えるとより複雑な問題が重なってくるのだ、しかし、それを通しております原因は一貫しておると思っております。非常に情報化し、そうして個性化が阻害され、さらには国際化という問題が今真剣に新しい国際化という角度から考えられなければならないということは、通して一貫した基本の原因になっておる。ただ、分けて考えると、現状の問題と将来の考えられる原因と両方面から要請されているのだ、こう思っております。
  32. 江田五月

    ○江田委員 四人の参考人が、立場が二対二で全く対立をしているかに見えるので、少しほぐして考えてみて、どこか共通の接点はないだろうかというようなつもりから今ちょっと伺ってみたのですが、いずれの皆さんのお話も、今の教育現場で、とりわけ教師の質という点でいろいろな問題がある、それが何によって起こったかという点が重要ですけれども、そういう点では恐らくニュアンスの違いあるいはそれぞれの御専門からのアプローチの違いはあるにしても、共通しておるのではないかと思うのです。  そこで、私は、今牧先生がおっしゃられた、教師に聞くと五割以上の教師が自分は子供に信頼されていないのじゃないかと思うというお答え、あるいは教師子供との関係がどうもおかしなときに教師側にもうちょっと注意をすればいいのじゃないかというようなケースがよく見られるということ、これはかなり重要な点じゃないかという気がするのです。  臨教審答申の中で、過度の管理教育というのは改善をしていかなければならぬ、そういうことが書いてあるのですね。今、管理教育というのは、臨教審答申の中では、特に教師子供を管理していく、過度の拘束であるとか、さまざまありますが、そういう点をとりわけ取り上げておるのかとも思いますが、しかし、教師子供を管理していく傾向というものが強く見られる。  例えば、学校の中で管理棟なんという言葉が平気で今使われておりますね。教員室がある、校長室がある、そして幾つかの学校施設の、俗に言う管理運営をつかさどる棟を管理棟と呼んでおる。管理棟なんという言葉が学校の現場にあっていいのかなという感じもちょっとするのですが、教師子供を管理するだけでなくて、教師自体がいろいろな形で評定されているといいますか、管理されているといいますか、本来教育というのは教師子供と真っ正面から向き合って、ぶつかり合ってお互いに成長していく、お互いに学び合っていく、そういう非常に人間的な営みであって、そこにそれ以外の上進であるとかさまざまな評価であるとか、公の営みですからそういうものがまるっきりゼロでいいとまでは申しませんけれども、なるべくそういうものが入ってこないことがいい。  子供の方を向いて全力投球、その結果は歴史に問うというぐらいのつもりで、免許の制度が上に上がるかどうかなんということはそんなに気にせずに全力を尽くす、そんなことでなければならぬと思いますし、そういう教師資質というものが今実は非常に阻害をされておるのではないか、そんな気がするのですが、一人の親から見た学校現場の、教師が管理をされていて自由な教育が行われていない、しかも、その中で教師自身がそこに安住してしまって、教師の本来あるべき資質が損なわれているのではないかという感想を持つのですが、そういう点は四参考人はどうお考えになりますか、順次伺いたいと思います。
  33. 牧昌見

    牧参考人 先生の御質問が少し単純ではございませんので、答える方も困るわけでございますが、教師が管理されているというときには、だれがとか何をとかどういうふうにしてとかいうような基準といいましょうか、管理とは何ぞやとか、そういうことを明らかにしませんと、何とも答えようがないわけなんでございますが、私などは、管理というのは、そういう管理アレルギーというような意味での管理とは押さえておりません。学校において管理というときには、こういうふうにしたらこの子やあの子が個性豊かに伸びるであろうというふうな意味で管理という言葉を考えるわけでございますが、そういうふうな意味教師が管理されているかというふうに問われれば、私のささやかな経験の範囲で考えますと、管理されていない。こういうことは適切かどうか実証してからでないと本当は答えられませんが、オブザベーション、経験の範囲でいいますと、観察の範囲で見ますと、野放しになっておるということの方が印象としては強く持つわけでございます。  ですから、やはり学校というものは組織でございますので、さまざまな御意見先生方がおられるわけで、いろいろな意見を持った先生方がそれぞれの意見を尊重しながら、学校教育目標実現に向けて努力する、こういう組織体だと思いますので、先生の御指摘については、管理されていない、私はこんなふうに考えておるわけでございます。  後半で述べられた、むしろ管理の中で安住している傾向が見られるかという御質問でしたら、若干そういう傾向が見られるかもしらぬというふうに見ておるとお答えしたいと思います。
  34. 小川利夫

    小川参考人 先ほども申しましたように、教員を管理する力というのは最近非常に強まっている、しかし、教師は管理されることを潔しとせず、自由でありたいという努力をしていると思います。  先ほど御紹介しました退職教職員調査ですが、約五万名を母集団にいたしまして全国で二千名以上いたしまして、こ三一十年ほど実際に教員をされた方のアンケートでございますが、先ほど申しましたい、その中で非常に目立ったのは、学校に自由がない、もっと自由が欲しいという声がかつて校長であった方、教頭であった方、一般教員から非常に多くありました。同じような意見を逆に申したものとして、ある教師は、私は三十五年間先生をやってきた、しかし、尊敬できる校長先生教頭先生にはついに二人ぐらいしか出会わなかったということを書いておられました。このことも一つの見方かもしれませんけれども、私は、現在管理的な立場にあられる校長教頭先生が本当に教師から尊敬される先生であるのかどうかということも非常に問題を含んでいるのではないかというふうに見ております。
  35. 上寺久雄

    上寺参考人 管理されているとか管理しているとかという考え方があるかと思いますけれども、これはそれぞれの感じ方だと思いますが、私はこう思います。  学校で何を基準にして教育が行われるかといったときに、教育課程をコアにして教育が行われます。その教育課程を円滑に進めるためにマネジメントするのだ、人のマネジメント、さらに物のマネジメントもあるのだ。では、学校教育課程はだれがつくるのかといったら、学校でつくるのであります。校長を初めとして、学校ぐるみで、その学校教育課程をつくるわけであります。それを推進するためにそれぞれが役割分担をし、協力体制を組んでいくのだ、私はそういうふうに思う。それを一つのマネジメント、こういうふうに考えておるわけでございます。  日本語の管理ということに対しては、言葉自体に私は必ずしも賛成はいたしません。やはり経営であろうと思っております。教育経営であろうと思っております。
  36. 三輪定宣

    三輪参考人 やはり教育改革の究極の目的は子供たちにとって魅力のある学校につくりかえていくということだと思います。そのためには、何よりも子供を大事にし、子供から出発する学校でなければならないと思うのです。ところが現在は、どちらかと言えば、端的に言うと国、文部省から出発する学校のようになっているのだと思いますね。ですから、そういう仕組みの中では、やはり上を向く教師としてつくられていって、子供立場に立って子供から出発する、子供の内面から考えて、その悩みにこたえて誠実に教育の実践をし、研修をする、そういう教師の姿勢になり得てないわけですね。そこから子供教師の信頼関係が崩れていっているように思いますので、その大きな仕組みを変えていかなければならないと考えます。
  37. 江田五月

    ○江田委員 ありがとうございました。やはりそれぞれの先生方でお考えあるいは感じ方が違うのだなということが確認できたわけです。  臨教審の第一次答申の中で、「教員資質向上」というところで、「教員には、児童、生徒に対する教育愛、」「教育愛」というのが一番最初に来ているのですね。その後に「高度の専門的知識、実践的な指導技術が不可欠である。また、学校教育を活力あるものとするためにも教員としての自覚を高めるとともに、その専門性向上を図る必要がある。このため、教員資質向上の方策について、養成、採用、研修評価などを一体的に検討する。」そんなことがあって、「教育愛」、教育愛というのが何か、また難しい議論がいろいろあるのかもしれませんが、何か大学でたくさん単位を取ればいい先生になるとか、さらに進んで専門課程で修士の称号をとればいい先生になるということと、ちょっと違ったところに問題があるのじゃないかなという感じが私はしておるのですが、時間が余りありませんので、次に行きたいと思います。  小川参考人にもう少し御意見を敷衍して述べていただきたいと思うのです。開放制ということをお話しになりまして、今度の制度は開放制原則に逆行するのだ、いや今既にもう開放制というものが相当制約をされてしまっているのだ、そういうお話がございました。制度の問題としてはこれは論証づけられるかと思うのですが、もう少し伺いたいのは、開放制の理念、開放制の制度のもとにある開放制の精神というものは何であって、それが今どんなふうになっていると先生はお考えでしょうか、その点が一つ。  それから、さらに高度な教師養成ということが大切で、修士課程全国教員養成課程を持つ大学にすべて備えていくような方向が将来展望として望ましいが、どうもその点はあいまいであるというようなお話がございましたが、最近、修士課程とまでいかなくても、各大学教職教育センターですか、こういうものをつくろうというような運動もあり、そのような予算要求もされているということを伺ったことがありますが、そうしたことについて先生のお考えがございましたらお話しください。
  38. 小川利夫

    小川参考人 先ほども申し上げましたけれども、開放制原則は、歴史的には戦前日本における教員養成制度、いわゆる師範学校による教員養成制度の反省及び批判から始まっていく。つまり閉鎖的な国家主義的な教育学校の仕組みの中で、特別な仕組みの中で教員養成されるということにかかわって、非常に画一的な型にはまった教師、言われたことはやるけれども自分から進んで創造的なことは必ずしもしない、そういう点についての反省があり、やはり教師も一般の職員と同じように開かれた大学で、しかも真理、真実を自由に探求し議論する、そういう大学の場において養成すべきである、そういう知的探求の自由といったものを通して教育の場に接していくべきであるという考え方に立ったと思うのです。  しかし、率直に申しまして、私のような一般大学におきましては、それでは十分な教員養成努力をしているかというと、問題は必ずしもないわけではないのですね。ということはどういうことかと言いますと、一つは、大学教員養成に責任を持ちますけれども、そのすべてを持つというわけにはいかない。教員養成の知的な教科の内容に関するものとか基本的な人間観でありますとか、そして同時に最小必要な教育についての見方とかそういうものを養成する、そして教育の現場において教師は、自由なよりよい職場の中でよりよい教師が育っていく、父母も含んだ地域のすぐれた学校の中で研さんを進めていくんだ、そういう見方をしております。  しかし、そういう前提に立ちましても、一般大学において不十分ではないかというので、国大協の教員養成部会では数年前に、一般大学及び教員養成大学の中に特別に教職教育研究センターを設けよという答申を出しておりまして、私の大学でも実は全学的な規模で毎年五百名ぐらいの希望者がおりますので、そういう生徒たちに特別の教職教育研究センターを大学内に設置して、さらにその充実に努めたいというふうに全学の意思がまとまりまして、数年前から予算要求しておりますが、そういうのはどういうわけか通らないわけですね。その点を大変不思議に思っているわけです。
  39. 江田五月

    ○江田委員 なるほどね。一方で新構想の大学ですか、兵庫、上越、鳴門、こういうところの予算はよく通っていくということはまことに不思議だということかもしれませんね。  時間が大分迫ってまいりまして、上寺参考人に、ちょっと参考人の言葉じりをとらえるような質問になるかと思いますが、お許しをいただいてお答え願えればと思うのです。  教育経営というふうにおっしゃいまして、私も、ここで経営とおっしゃることがそろばん勘定というようなことをおっしゃっているわけではないと思います。マネジメントということですからね。ただ、マネジメントが非常に狭い範囲で行われているのでは教育というものとはちょっと違ったことになるのではないか。  教育というのはかなり長いタイムスパンのことであって、例えばあるとき、ある瞬間に大変に反目しても、それが十年後に非常にいい結果として出てくるというようなこともあるし、ある瞬間にきちっと物事がマネージされているということだけを余り考えると、これは教育ということとはちょっと違うのではないかというそんな感じもして、教師の管理という言葉がいいかどうかは確かに疑問はありますが、ある学校の中で教師が皆整然と一つの目標に向かって頑張っておるという姿が、その時点では麗しくても、本当に十年、二十年、五十年先まで麗しいままでいくのだろうかなという感じが時々するので、教育というのは何かもっと息の長いといいますか、底の深いといいますか、そういう営みではないかという気がするのですが、そういう点で先生の今の教育経営ということをもうちょっと敷衍して説明してください。
  40. 上寺久雄

    上寺参考人 経営という言葉は、本来企業体から出た言葉であることには間違いございません。利潤を追求するために、こういうことであったことは間違いないのでございますけれども、二十年、三十年前ごろから教育世界に市民権を得た概念でございます。しかも、それは学校経営と言わないで、教育経営と私が言っておりますところに、今江田先生おっしゃいました御趣旨もその中に含んでおる、お説のとおりだと思うのでございます。  だから、経営という言葉は狭い意味ではないので、教育を経営していくのだ、こういう意味で長いスパンを考えて、そうして目標を立てながらそれに向かって勉強していく、こういう全体を指しておるのだ、そう御解釈をいただきたい。現在、教育学の面では市民権を得た概念でございます。
  41. 江田五月

    ○江田委員 もう一つ、ついでに上寺参考人に伺っていきますが、そういう意味教育経営、さらにはもっと言えば社会経営でしょうかね、盆栽でむだな枝をちょきんちょきん切ってきれいに整えるのではなくて、もっと大きな木になったときに見事にこの枝ぶりが整っていけばいいわけですから、元気のあるものは大いに伸ばしていこうということが必要かと思うのですが、それにしては、例えば先ほど上寺先生おっしゃった、十五年教師をやって一種免許への要請を満たすことができないようなことではしようがないではないか。しかし、そうは言っても、十五年といいますと、短大を出てすぐ教師になったとして三十五ですね。三十歳の半ばというのはやはり人生非常に迷うときでもあるし、さらにまた子育てその他でも大変なときで、そういうときにある試験の要請を全部満たすことができないというようなこともあるかと思うのですね。  それはそれとして、十五年でそういう要請を満たして一種に移れなかったら、年限をずっと経るごとに逓減されていった修得単位数がもとへぽんと戻ってしまうというのは一体どういうことであるのか。経験を経たということがその十五年で一種にならなかったということによってゼロになってしまうというはずがないですね。何かこの十五年の教員としての経験の間に修得を必要とする単位をだんだん減らしていくということがえさに使われているのではないか。えさというのは何だ、それは教師を管理するえさではないか、そんなふうに思うのですが、今のもとへぽんと戻ってしまうというのはどういうふうに上寺先生はお考えかを聞かせてください。
  42. 上寺久雄

    上寺参考人 十五年たったら一遍に戻るのではなくて、その前、十二年ごろから漸次チャンスが与えられるはずでございます。そういう前の状態を見た上で十五年で切るということが考えられなければならないのではないだろうか。確かに十五年したころには、同じ危機といいましても、希望を捨てる危機か、あるいは機会を失う危機か、気力を失う危機か、いろいろございますけれども、やはり十五年までには次へのステップというものは完成されておるべきだろう、それだけ努力をする必要がある、そう信じております。
  43. 江田五月

    ○江田委員 ありがとうございました。いずれにしても、教育をめぐる今の状況というのは大変ですので、ひとつそれぞれのお立場から一層の御指導をお願いしたいと思います。
  44. 中村靖

    中村委員長 次に、鍛冶清君。
  45. 鍛冶清

    ○鍛冶委員 きょうは各先生方、本当にありがとうございました。貴重な御意見を承りましたが、範囲が非常に広うございますし、お話しいただいた内容も大変広範にわたっておりますので、すべてにわたって時間をとっていろいろお伺いしたいなと思うことばかりでございますが、時間の関係もございますので、限られた時間の中で幾つかに絞って若干お尋ねをして、今後の文教委員会の審議にも役立たせていきたい、こう思います。よろしくお願いをいたします。  最初に、各先生方にお伺いしたいのでございますが、先生方は自主的、自発的な研修が非常によろしいというようなことで、私も一応そう思うわけでございますが、現実的に今学校の中で、先生方の傾向はところどころで違うかもわかりませんが、何もしないで置いておいて、先生方は自主的、自発的に研修なり勉強なりなさるという雰囲気はあるのでございましょうか。先生方お一人お一人に、発言の順に簡単にお聞かせいただければと思います。
  46. 牧昌見

    牧参考人 私の見聞している範囲ですと、非常にある先生方もおられる半面、前にはあったけれども最近は余りないように見受けられるという先生、それから今はないのだけれども将来かなり出てきそうな先生とか、さまざまじゃないか。簡単に言いますと、あると見られる先生もおられるし、ないと見られる先生もおられるのじゃないか。それを言うためには、何か観点なり基準を決めないとどうしようもない。私の経験の範囲ですと、そんな感じでございます。
  47. 小川利夫

    小川参考人 すべての教師にあるかと言われれば、そうは言えないかもしれませんが、相当程度教師子供に接する中で自主的な研修を積みたいと思っている。例えば、日本に民間教育団体というのが三十五ぐらいございます。これは数学から国語から理科からあらゆる教科ございまして、大体夏に全国集会をやっておりますが、これは全く手弁当で来ているわけですね。そういう教師の姿を見ておりますと、非常に熱心に、夏休みをつぶして、身銭を切って、三日も四日も泊まって、中には御夫婦で泊まり込んで来ている教師などに触れますと、そういう教師の中に自発性というものは大筋において健全にあるというふうに考えたいと思います。
  48. 上寺久雄

    上寺参考人 先生方は、先ほど申しましたように、勉強したいと思っております。しかも、自発性を持って、先ほどお話がございましたように、いろいろな機会研修しようとしております。聖教関係でも先生方お集まりになって盛んにやっておられることも私は承知しております。そういう自発性を持って機会をつくればつくれると私は思います。  私は昭和十五年に小学校に就職いたしました。あの時代と今の先生方との生活のリズムを統計とってみますと、いろいろ問題は出てまいりますけれども、もとよりももっともっと時間はあるような気がいたします。自分で生活設計をすればチャンスは生まれてくる、こう思っておりますし、それを刺激するように契機を与えてあげるのが周囲の行政であろう、そう信じております。
  49. 三輪定宣

    三輪参考人 私は、現場の教師は、半分は教育者で、半分は研究者だと思っております。現に、勤務時間の中でも、大体半分くらいが授業時間でして、その他は本来そのための教材研究の時間に充てて、よりよい教育のために十分な研究をするという立場、特殊な性質を持った職業だと思うのです。ところが、その教職の本来のあり方が現在の条件の中で十分実現されていない。私どもの調査でも、教材研究の時間を一時間の授業に一時間二十分程度は欲しいというようなアンケート調査がございますけれども、実態はほとんど学校の勤務時間内に落ちついて教材研究すらできないというのが現状ではございませんでしょうか。ですから、そういう条件整備を保障し、その中で自由な研修活動の仕組みが確立するならば、仕事そのものが本来研究なくしてはできない性質の仕事ですので、当然に内発的、自発的に、そして自主的に研究活動が広がっていく、私はその点は深く信頼しております。  また、教員養成課程でも、免許基準をいたずらに引き上げて詰め込んで受け身の学習の態度を植えつけるのではなくて、ゆとりのある授業の中で、例えば演習、ゼミなどを中心に自発的に教育研究をする、そういう能力を培っていけばさらにそういう自主的な研修能力養成段階でも培われるというふうに思っております。
  50. 鍛冶清

    ○鍛冶委員 次にちょっとまたお尋ねしたいのですが、学校先生方はやはり大学を出ましてすぐに学校に入ってずっとその中で頑張ってこられるので、非常に社会性の薄いといいますか、いろいろ一般の人たちがやっているような、社会性の薄いという表現でしょうか、ということをよく言われるわけですが、この点についてはいかがでしょうか。これも各先生方に簡単にお答えいただければと思いますが。
  51. 牧昌見

    牧参考人 社会性の問題も自発性と似たようなところがあろうかと思いますが、私も、学校教師の多くは学校を出てまた学校へ戻るという、そのことに伴うある種の閉鎖性といいましょうか、知らず知らずにそういう側面はあろうか、その限りにおいてその他の職業方々と比べますと社会性が乏しくなる危険性というか可能性というか、そういうことは多いんじゃないか、現実にそういう先生方が何人いるとかということになりますと、調査をしておりませんのでよくわかりませんが、そういう可能性というか危険性が非常にあるんじゃないかということは感じております。
  52. 小川利夫

    小川参考人 社会性云々よりも、つき合いが狭いといいますか、つき合っている余裕のある時間がないというのが現実じゃないでしょうか。ですから、もっと自由な時間を教師が持てるようにしてほしい、こう考えます。
  53. 上寺久雄

    上寺参考人 油断をしますと社会性が狭くなることは事実でございます。対象が子供でございますので、しかも学校というとりでの中での生活でございますので、そのためにこそ外からの刺激を与え、研修が必要だろう、私はそう思っております。
  54. 三輪定宣

    三輪参考人 私は、現在は学校教師学校に囲い込まれているという状況だと思うのです。そのために地域での活動も自由にできませんし、そのような職場の生活を十年、二十年と繰り返している結果として、確かに社会性の弱い面が出てくることは否めないと思いますけれども、そこは閉鎖的な学校の管理の体制をもっと大胆に改めて開いていくということが必要だと思いますし、さらに、その基礎にある問題として、例えば本当に社会性が身につくだけの権利の保障があるかといいますと、例えば労働基本権も、教師に保障されていますのは団結権だけですね。団体交渉権も不十分ですし、ましてやその他の権利は法律上奪われておりますし、また市民的権利にしましても、伸び伸びとさまざまな社会的な活動ができるような状態ではなくて、政治的行為も完全に禁止された状態になっております。  そういう社会性が身につくような諸制度の改善ということも考えませんと、ただ教師の個人的な心がけだけでこれを責めるというのは非常に的を外しているというふうに思いますね。ですから、社会性が不足だからほかから社会人を導入するというのではなくて、教師自身の社会性をもっと保障するような諸制度の改善が求められている、またそのような方向で一連の教育の改革を進めていくべきだというふうに思います。
  55. 鍛冶清

    ○鍛冶委員 今、三輪先生、いみじくも社会人を入れるのではなくとおっしゃったのですが、私の経験からいっても、やはりなるべく多くの方に会い、また、お会いしたときにいろいろなお話も伺って、自分で勉強するようには気をつけているつもりです。そういう中で、ある程度仕組みというものがありまして、その中でそういう機会が与えられるということは大変ありがたいことでございまして、私はそういう意味でもこれを伺いたいのですが、今おっしゃった社会人を入れるということ、今度の免許法の中でやはり一つの枠組みとして入れてあるわけでございます。  特に小川先生のお話を伺っておりましたら、小川先生は、必ずしも入れることは悪くはないという前提ではございましたが、しかしこれは余りよろしくないようなお話、御判断でございました。特に教員世界の中で、先生、このときはどうおっしゃったのですかね、何か専門性を侵すということをおっしゃったのでしたかね。三輪先生の方でしたか、どちらか、ちょっと違っておりましたら恐縮でございますが、社会人を入れるとその専門性を侵すというようなお話がございました。ところが、その半面、今度は専修免許状である意味では専門性を培っていくという方向の話だと思うのですが、この方は余りよろしくないというふうなお話でございまして、大変話に矛盾があるように伺ったわけですが、こういったことを含めまして。  さらには、これも社会人ではなくて教師の間で採用して、その枠を広げていく方がいいのではないかというようなことを三輪先生たしかおっしゃったと思うのです。臨時の職員ですか何かを入れてと、たしか三輪先生おっしゃったのでしたかね。それで、ほかの社会の人は余りそう入れてはいかぬみたいなお話だったのですが、この免許法が通りましてそういう道が開かれるとすると、それですべての教師を賄うというわけではございませんから、ある意味では、かき回すといいますか、やはりいろいろな人が接触する機会をつくるということはよりよい方向に行くのだろう、私はこう思うのですけれども、その点について、今申し上げたようなこと、これは特に小川先生、三輪先生にお答えをいただきたいのでございますが。
  56. 小川利夫

    小川参考人 先ほど私が申し上げましたのは、教師になるルートはさまざまあっていい、大学四年を終わってすぐ先生になるというコースだけでなくて、社会に出てから先生になる道というようなものもあっていいというふうに申し上げたわけです。  ただ、その場合に、その社会人教師を認定していく上で、やはり教育の場ですから、一定の原則といいますか、そういうものはもう少し明確にならぬといけないのではないかということを申し上げたわけですね。片っ方で教職の地位を高めていこうというふうにしているわけですから、ただ自由な空気を入れればいいというふうなだけでは議論にならないのではないかということを申し上げたわけです。
  57. 三輪定宣

    三輪参考人 私は、社会人学校から排除するという考えはとらないわけです。現在の学校運営でももっと開放的にすれば、PTAとかその他の地域活動でもっと父母、住民が教育に参加する手だてというのはいろいろに考えられるわけですね。そういう住民参加のルートを大きく保障していくという形が一つあり得ると思います。  また、社会人とかさまざまな分野での特別な知識、技能を持つ方々学校に参加してもらう方法として、先ほども言いましたように、教師の責任のもとで一日先生として話してもらうというふうなことは今さまざまな地域で実践をされているわけですね。こういう形もますます追求していく課題だと思いますので、そういうことを軽視しているわけではございません。  ただ、例えば仮にピアノがすぐれていて国際コンクールで一位をとった方ならば、ではすぐ小学生や中学生の音楽の教師として通用するかといいますと、そこには子供の微妙な発達段階というものがございます。その心理を無視して大人に対する物の言い方やあるいは扱いなどをすれば、音楽が嫌いになってしまったり、あるいは何らか理解ができなかったりということで当然つまずいてしまうわけですね。学校教育はその意味では塾ではございませんので、質の高い教育を保障するにはそうした教育的な教養も、教職教養も十分持って、しかも学校に参加していただくという方法を考える必要があるということでございます。
  58. 鍛冶清

    ○鍛冶委員 時間が来ましたので、もうやめさせていただきますが、もっとそのほかにも私がお聞きしたかったことがございますが、管理とか文部省がどうだとかという話があります。確かにそういう面、教育委員会は厳しいとかいう面があるだろうと思いますが、その中で大変ユニークなやり方で、もう文部省教育委員会もへったくれもあるか、子供のためにはこれがいいからやるぞというようなことでやっておられるところで随分と立派な結果を生んでいらっしゃるところを私は見ているのですね。ですから、そういう点も実はお聞きしたかったのですが、やはり剣道でも、打ち込んできたら刀でがっちり受けてこれを無理やりに押し返すというだけが方法じゃありませんし、ひらりと体をかわすこともあるだろう、場合によったらすたこらさっさと逃げていって、後から引き返してきてぼこんとやるというのも一つの方法かもわからぬ。やり方というのはいろいろあると私は思うのです。多様化しなければならない。  そういう中で、どうもいろいろ、特に私たちの考え方と違いますから、小川先生、三輪先生のお話をお聞きしておりますと、何か画一的な方向での御議論ばかりを伺っているようで、もっともっとそういう中で自由に本人たちが、それこそ自主的、自発的な意思があれば、子供のためにという視点でもっと開けてくる部分があるのではないか。そういうところは学校の現場で本当に話し合いをしていただきながら教育現場をよくしていただきたいな、こういうふうに思います。校長が尊敬されるに値するということもありますが、私は、場合によっては全部の先生に尊敬されなくたって子供のためにやるべきことはやるという校長先生でもいい先生はいらっしゃるのじゃないかというようなことを思ったりもします。  いろいろ申し上げて恐縮ですが、そういったこともお伺いしたかったわけですが、時間がございませんので、これでやめさせていただきます。ありがとうございました。
  59. 中村靖

    中村委員長 次に、林保夫君。
  60. 林保夫

    ○林(保)委員 民社党・民主連合の林保夫でございます。  本日は大変お忙しいところを、しかも急でございましたが、このようにお四方、参考人として御出席賜りましたことにまずもって感謝申し上げたいと存じます。  なかなか難しい問題でございますので、十五分ではとても言い尽くされません。そういった中で、ひとつよろしく先生方の率直な御意見を承らせていただいたら非常に幸いだと存じます。  御承知のように、私どもは、時代の進展に対応できるような政治、行政をやらなければならぬという私どもの党の立場から、教育改革、税制改革あるいは行政改革をとらえておりますが、格別、二十一世紀へ向けて健やかで心豊かな子供たちを育てるために教育制度全般にわたる改革、見直しはぜひ必要である、このような立場をとっておるわけでございます。かたがた、いろいろな多様なやり方もありましょうし、御意見もありましょうが、昨年一月、京都で開催されましたOECDのハイレベル教育専門家会議でも、学校教育の質の改善学校教育の目的の達成は究極のところ教員の力にまつものである、そのために教員養成課程のカリキュラムの改善が必要ということで、日本ばかりでなく各国ともいわゆる今日的な問題が課題になっていると思います。  先ほどは上寺先生から、社会的、国家的、世界的な要請である。そしてまた、従来考えてみても、憲法、教育基本法に基づいて努力した結果、世界においてもある意味評価できる日本状況になっておるが、問題点も多いんだというような御評価もございました。  つきましては、少々大上段に振りかぶるようでございますけれども、こういった視点を踏まえまして、一言では言いあらわしにくいと思うのでございますが、御順番に、世界各国の教職員免許制度先生方がこれは立派だと言われるのがあればひとつ御推奨いただきたい。  もう一つは、国際水準から見て日本教職員資質水準、制度といったものについてどのように見ておられるか。恐縮でございますけれども、牧先生から順次お答えいただきたいと思います。
  61. 牧昌見

    牧参考人 先生言われるようにちょっと時間が足らな過ぎるわけでございますが、世界免許制度というとオーバーなんですが、私もずっとOECD関係、過去十年ほど関係を持っておるわけでございますが、免許といいましてもこれは何が免許かという問題があったりしまして、日本に一番近いのはアメリカかなと思ったりもするのですが、アメリカの場合なんかですと、最近の非常に大きな特徴としましては、NTEと申しまして、ナショナル・ティーチャー・エグザミネーションというのですね、教員の国家試験じゃないのですけれども、政府、行政、教員ですね、代表でできておるものでございますが、NTEというこの試験の受験を要求している州が今三十州を超えております。そういうところが特徴かと思います。  それで、資質向上にかかわる日本教師は非常に評価が高うございまして、私なども国際会議に出ておりますと、日本子供の学力が非常に高い、それはなぜかというと教師の質が高いんだ、こういう理解なんでございます。  ただ、御発言ございましたように、京都でのOECDの教育サミットでもあらわれておりますし、私が今関係しているプロジェクトでもそうでございますが、各国とも我が国と同じような悩みがございまして、ちょっと時間が長くなって恐縮なんですが、六点ほど共通の課題があるようです。  一つは、多様な能力、適性を子供が持っておる、だから多様なカリキュラムを用意しなければならぬ。さあ、各国どうしている。  二番目、その多様な能力、適性に応ずるカリキュラムを用意しなければいかぬ、そのためには多様な教育方法を考えなければいかぬ、多様な教育評価を考えなければいかぬ。方法、評価ですね。各国どうしている。  それから、これからの教師は、私は国語が専門でございますでは勤まらない。心身に障害のある子供たちを適切に指導し得る力量を持ってないといかぬ、物理の教師であろうと、小学校教師であろうと。各国どうしている。  四番目は、生徒指導、カウンセリング、教育相談の心得がない者はもう教員をやめてくれ。では、各国どうなっておる。  五番目には、コンピューターばかりではないのですが、情報機器基礎基本程度、まあパソコン程度は当然心得ておらないと教員として基本資質に欠けるんじゃないか。さあ、各国どうしておる。  最後に、六点目になりますが、各国とも、我が国は好意的に見た場合には必ずしもそうじゃないのかもしれませんが、教員としては若干適格性に欠けるのじゃないか、人間性、人格の面に問題がありはしないか、パーソナリティー、その辺のチェックは各国どうしているか。  その以上六点ぐらいが共通の課題として取り上げられておりまして、議論しました。  それで、ついでですから言わせていただきますと、そのような要件を満たすような教員というのは一体どこにいるんだ。地球上にいるのか。そういう要件を満たす一人の教師というのはさしずめこれはスーパーティーチャーである。スーパーティーチャーというのはすべての教師要求されない。教師とて特性、適性があるのじゃないか。やはり役割分担、得意なところを役割分担しながら協議をしていく必要があるんじゃないかということがOECDの会議などで議論されておるところでございます。ちょっと長くなりまして恐縮でございますが、イコール我が国の課題じゃないかと思っております。
  62. 小川利夫

    小川参考人 私は教員養成制度は専門家ではありませんから詳しく知りませんが、日本が四年制学部卒業生を標準単位としているという点でいいますと、やはりそういう点では非常にすぐれているのではないか。例えばイタリアなどは今ようやくそれを整えようとしているところでありまして、そういう点では、現行の四年制というようなものを基準にして今後どういうふうに全体を引き上げていくのかという点で申しますと、先ほど言った修士課程の問題が出てくる。一部の修士課程だけを開放して、そこに特別の試験その他をして一部の人だけを入れるのではなくて、やはりすべての教師がそういうものを学ぼうとすれば学べる、そういう筋道というものを長期展望検討すべきではないかということを先ほど申し上げたわけでございます。  今度の場合にはそういう長期展望がないのではないか、欠落しているんではないかというふうに申し上げたわけです。
  63. 上寺久雄

    上寺参考人 結論を先に申し上げます。  世界日本教員養成制度とそれから継続教育、これにつきまして日本をターゲットにしております。  数年前でございましたが、本学、私の兵庫教育大学の「教員の継続教育について」というので、ワシントンDCで四十カ国、二千人の学長、副学長集まったところで日本の制度を紹介いたしました。非常に感銘をしてくれたのであります。結果は、日本だからできる、こういうふうに評価をしてくれたのでございます。これはアメリカだけではございません。西ドイツ、それからイギリス、さらに発展途上国、こういうところの方が集まっておるのでございます。  さらには一九八五年のワシントン・ポストに、全面を使いまして、日本教育はすばらしい、学校教育はすばらしい、だが、その制度を輸入することは難しい、こういう見出しで日本教育を紹介しております。その中に、日本教師の質がいいんだ。しかし、それに対してどういうふうな努力を重ねるのかというのがむしろ私たちの課題でございまして、世界のレベルにおろすというのではなくて、先に進もうとしておるのがこの制度ではないだろうか、そう思っております。
  64. 三輪定宣

    三輪参考人 日本教師能力につきましては、恐らく平均的には学歴は一番高いだろうと思います。  それから、世界の各国で高く評価されていることの一つに、全国で系統的に組織的に教育研究集会を組織して、職場レベル、地域レベル、全国レベルで毎年のように行っているというそういう自主研修能力がその力量の評価の底にあるだろうというふうに思います。この点は非常にユニークで、また、注目されている試みであるということですね。  それから、世界の各国の免許制度につきましてはいろいろ学ぶ点があると思いますが、二つだけ申しますと、一つは、教員養成年限の延長の傾向が各国とも追求されておりますね。これは、二十一世紀に向かって複雑な社会になってまいりますし、また、教育を受ける権利の要求も高まってまいります、あるいは国民全体の学歴も高くなってくる、そういったいろいろな背景から、小中学校教員基礎資格も高めて年限を延長しようとする傾向が各国の共通の動きとして見られます。例えば、アメリカでは州によっては修士課程基礎資格にしたり、ソビエトでも最近五年制に全体として引き上げていくというような改革になってきております。  もう一つの点は、先ほどアメリカ、西ドイツの例で申しましたように、教員養成・免許にかかわって国家基準を余り厳しくしない、むしろ基準はなるべく必要最小限度にとどめて、それで教職の履修がレベルダウンするというのではなくて、その余地は地域なりあるいは大学の自主的なカリキュラムの編成によって補い、場合によっては国の基準を上回るという例も出てくるわけですが、いずれにしても、大学によっていろいろなカリキュラムが編成できる、そういうゆとりというものを確保して、個性豊かな教師養成するには国が余り基準の設定を介入して狭めてはならないというのは各国の制度を見ての私の一つの受けとめ方でございます。
  65. 林保夫

    ○林(保)委員 大変貴重な御意見、ありがとうございました。  概して水準は高い、こういうことでございましたが、なおやはり高めていかなければならぬ、これがまさに国として、国民として、あるいは親として、子としての課題であろうと思います。  実はもう時間がなくなったのでございますが、私も、急でございましたけれども、なお先生方の論文があればと思って読ましていただきまして、ここにも二、三持ってこさせていただいておりますが、それなりに御教示いただきたいのでございます。  私ども、賛成の立場で今慎重に、どこをどうしたらいいかということを勉強さしていただいております。つきましては、恐縮でございますけれども、三輪先生とそれから小川先生にもちょっとお願いしたいのでございますが、反対という立場を、御専門ですから一口にはこうだとは言えないんだと思いますけれども、現在の制度でよろしいのかどうか、現在提案されております法律を変えるとしたらばどうしたらいいのか、ちょっと二分ずつぐらいになると思いますけれども、貴重な御意見をひとつ聞かしていただきたいと思います。よろしくお願いいたします。
  66. 小川利夫

    小川参考人 当面は現在の制度でいいと思っています。それから、先ほど言った修士課程の問題などを含めて長期的な検討をすべきであると思います。
  67. 三輪定宣

    三輪参考人 私は現行制度の存続、発展ということが重要だと思いますが、そのためには、もっとそれのよさを生かす教員養成の諸条件を抜本的に改めるということ、このことが非常に大事だと思いますね。  それから、大学院制度の拡充につきましては、先ほど申しましたようにまだ都道府県の半分にも満たないという現状ですので、この点も同じ問題ではありますけれども、もっと政策的な努力をいただきたいというふうに思います。
  68. 林保夫

    ○林(保)委員 もう時間が来てしまいまして恐縮でございますが、一言やはり三輪先生にどうしても聞いておきたいのでございますけれども、先生の御原稿の中で、天皇制の教師、国家の教師、一部の奉仕者という言葉が出ておりまして、これが何を指されるのか、平たく一般にわかるように一言だけ聞かしていただきたいと思います。短時間で結構ですから。
  69. 三輪定宣

    三輪参考人 御承知のように、憲法十五条では、公務員は一部の奉仕者ではなく全体の奉仕者であるということが規定されております。それは戦前の官吏が天皇制国家という意味で一部の奉仕者であったということへの反省から規定された条文だと思います。教育公務員もやはり公務員でございますので、基本的にその原理が貫かれるべきだと思います。  ただし、教育公務員の場合には、教育基本法十条の趣旨に従って国民に直接に奉仕をする立場でございますので、議会制ルートを通して上から決められた法律に忠実に従うということではなくて、教育活動を通して直接父母、国民要求にこたえ、子供本位の教育をしていくということが教育公務員の基本的な立場になっているということでございますね。
  70. 林保夫

    ○林(保)委員 三輪先生のお言葉自体をとらえてどうこう言うわけでございません。先生の真意もやはりある程度私どもも理解できるところでございまして、まさに多様な意見が渦巻く中で、何か少しでも国や行政が期待にこたえて一歩ずつでも前進させるという意味で、私は臨教審の答申を、もう去年出て、御承知のようにいまだにほってありますよね、それであの答申が出たことから、かなり変わるという期待が現場に出ている。私も陳情を受けております。また、反対の陳情もあります。  そこらあたりで、やはりこれは今回ひとつしっかりやって、先にもう一度関所を早目につくらなければならぬ、こういうような感じを持っておりますので、諸先生にせっかくおいでいただきましたので、私の意見も一言つけ加えさせていただきまして、大変貴重な御意見をちょうだいいたしましたことを御礼申し上げまして、質問を終わりたいと思います。ありがとうございました。
  71. 中村靖

    中村委員長 次に、石井郁子君。
  72. 石井郁子

    ○石井(郁)委員 日本共産党の石井郁子でございます。  先生方には今日の教育教師の問題にかかわって大変重要な御指摘をお聞かせいただきまして、本当にありがとうございます。時間が限られておりますので、幾つか限定された形での質問になるかと思いますけれども、よろしくお願いしたいと思います。  まず、三輪参考人に二点、お伺いをしたいと思います。  教員養成の問題と申しますのは、やはり戦前の教員養成の反省に立って戦後の幾つかの原則が打ち立てられたというふうに私ども理解をしているわけですけれども、戦後の教員養成原則とあり方に照らして、今回の改正点はどのような問題があるというふうにお考えでしょうか。かいつまんでで結構でございますが、お聞かせいただきたいと思います。
  73. 三輪定宣

    三輪参考人 先ほども申したように、戦後教員養成の制度原理としては、一つには、大学における養成という原理がございます。この点につきましては、社会人の活用と称して無免許の者とか、あるいは教育委員会の一発の検定だけですぐ教壇に立てるというルートを開いたわけでございます。その点では大きな例外をつくったと言わざるを得ません。また、現職研修につきましても、それが行政研修として運用されて、大学での指導等を省略して免許上進のための研修として制度化されるならば、これも重大な大学における現職教育の原理に離反をするわけでございます。  それから第二に、開放制免許制度という原理がありますが、これは先ほど来の御発言のように、一応建前として堅持をするという意見が強いようでありますけれども、実際に教職免許の基準を大幅に引き上げれば、当然そのために免許取得が困難になって、実際には局限をされていくという方向は必然と思いますので、その意味では、実質的には開放制免許制度の形骸化になるのではないかという点が危惧されるわけでございます。  それからもう一点は、免許状主義に基づく専門職制の確立の原理でありますが、これにつきましても、社会人採用はまさにそれと矛盾、対立する制度化でございますので、この原理から大きく逸脱すると思います。  さらには平等な免許制度の原理というのがあると思います。そのことは今回の三階級の学歴免許制度によって基本的に否定をされるわけでございます。  そういった点で、戦後教員養成制度を全面的に改変し、あるいは総決算ともいっていいような内容ではないかというふうに思っております。  先ほど来の参考人の御発言もありましたが、一九四九年に制定されて以来五四年に大幅な改正がありましたが、今回の改正はそれを上回る大規模なもので、基本的な原理が、これが長く運用されればほとんど形骸化されていくという危惧を持っております。
  74. 石井郁子

    ○石井(郁)委員 次には大学での単位修得の引き上げという問題でお伺いをしますけれども、この点では実践的指導力を養うということで今回提案されているわけですけれども、教員養成の現状から見てどうなんでしょうか。先ほど最初にも先生触れておられるわけですけれども、もしつけ加えることや、またもっと強調されたいというようなことがございましたら、ちょっとお聞かせいただきたいと思います。
  75. 三輪定宣

    三輪参考人 現在でも私学の大学等では、教員免許を取得する学生は大体百人以上、場合によっては千人くらいの規模の大教室でいわば一斉授業を受けて、そして単位を修得しているという現状でございます。教育学部でもほとんど、教室の配置からあるいはスタッフの関係から、きめの細かい指導のできるゼミ、演習が成り立たないような状況なんですね。ですから、そういう状態の中でどうして実践的な指導力が育つかということがお聞きしたいわけですね。もっとそれらのマスプロ授業が改善されて、一人一人の学生に対する教官の指導が行き届くような条件にしませんと、幾ら単位をふやしてみても、それはもう水増し単位でございまして、かえって単位取りが形式になってしまいます。  現に今、国立の教員養成大学学部の学生の修得単位数は約百七十単位でございます。大学を卒業するのには百二十四単位というのが大学設置基準水準でございますが、それよりも大幅に単位を取らなければならない状況にあるわけですね。それは複免と言われる、本来の免許のほかに小学校であれば中学校の免許、高校の免許を取ったりする関係からどうしても免許の取得数がふえてまいります。したがいまして、現状では、学生は高校の授業のように本当に単位取りの勉強に追われてしまっておりまして、教師に必要なさまざまな広い教養を身につける自治的な活動も、あるいは人間的な力量を育てるような仲間との友好関係とか、そういうようなゆとりが失われている現状でございますね。こうした問題が改善をされませんと、単位引き上げはかえって硬直した教員養成教育にならざるを得ないということがございます。  もう一つは、先ほど来申しましたように、国の基準を現在では上回ってそれぞれの大学が個性的なカリキュラムを付加して、それぞれの大学の個性や校風に従って教員養成をする余地というのがかなりあるわけでございます。それが今回のように引き上げられてしまいますと、そこに追いつくのが精いっぱいでそれ以上の自主的な付加の余地はなくなると思います。したがって、全国どこの大学も同じような教員養成のパターンになる、まさに国立教員養成所に大学が転落する危険もあるわけで、その意味で、本当に今求められている個性的で多様な価値観を持ち、それによって一人一人の子供のさまざまな人間性が理解できるような教師という国民から期待されているような教員養成に大きな壁ができてしまうことを心配しております。
  76. 石井郁子

    ○石井(郁)委員 ありがとうございました。  小川参考人社会人の活用についてお聞かせいただきたいと思います。  このことは私どもも一般的に否定するものではございません。しかし、今回の特別免許状免許状なしの特別非常勤講師の創設というのは大きな問題があると考えております。運用いかんによっては学校現場に大変な問題を引き起こすのではないかと思われるわけですけれども、先生の御意見はいかがでしょうか。
  77. 小川利夫

    小川参考人 私もそのような危惧を持っているわけです。  今度の場合の特別免許は、いわゆる五教科以外の美術と図工その他芸能科目というものに相当ウエートがいくと思うのです。この間、全国教員養成大学教員の集まりがございまして、教大協の中の美術の先生方の集まりのレポートを拝見したのですが、そこで大変驚いたことは、県立高校の美術の先生、芸能関係の先生は現在非常勤が非常に多いというのですね。正規の教員はみんな五教科の方にとられて、今でも非常勤で賄っているところが少なくないということを美術の先生方が大変問題にしておりましたが、現在でも、受験勉強の中でどうしても五教科中心に教員が配置され、それ以外のものは非常勤でやるという傾向があるわけですから、そういう状況を考えると運用はよほど慎重でなければならないと考えるわけです。
  78. 石井郁子

    ○石井(郁)委員 ありがとうございました。  上寺参考人にお伺いしたいと思います。  専修免許状が今回の一つの大きな焦点になっているわけですけれども、これはもともと上級免許状として新構想教育大学大学院修了者に待遇として考えられていたものではなかったのか。その辺の関係について少しお聞かせいただければと思います。
  79. 上寺久雄

    上寺参考人 兵庫教育大学が発足しますころにそういう面でいろいろ論議は出ました。しかし、これは特に上級とかいうことではなくて、それぞれの専門的な面を伸ばしていくのだ、そういう意味免許状を裏づけにする、こういうような話は出ておりました。しかし、現在はそういうことはありませんので、なしで履修して帰っていって専門の領域で働いているのもかなりおります。例えば小学校、中学校教育相談というような面で、私が先ほど言いましたエデュケーショナル・スペシャリストとして働いておるのもおります。さらには教育課程を編成するというようなカリキュラム・スペシャリストとしてそれぞれの都道府県で働いておる卒業生もございます。そういう面に道を開く、こういう意味では現在の趣旨と同じでございます。  ただ、現在の専修免許状はこうやってそれを裏づけていただくということにおいて非常に意義があるであろう、こう思っておるわけでございます。
  80. 石井郁子

    ○石井(郁)委員 最後になりましたが、牧参考人に一言お伺いしたいと思います。  今回の問題では非常に重要な理論的な問題も含んでいるのですけれども、短時間の中で大変申しわけないのですけれども、教師資格資質という区別あるいは関係と申しますか、それはどのようにお考えでございましょうか。
  81. 牧昌見

    牧参考人 大変立派なテーマをちょうだいしまして、早速あしたから研究に励みたいと思っておりますが、資質という場合には、私などの考えているところによりますと、パーソナリティーの側面と、プロフェッショナルな側面といいましょうか力量といいますか、そういう側面があるだろう。資格というのは、その両者を含んでいる。ただし、事教員資格といった場合には、いわば有資格教師として許され得る最小限の資質能力を持っているものイコール資格、こういうふうにとらえたいとかねがね感じておるところでございます。
  82. 石井郁子

    ○石井(郁)委員 短時間でどうこうという問題ではないことで大変恐縮しておりますけれども、今回の改正案、本当にいろいろな側面から突っ込んで考えていきたいと思っている次第でございます。  本日は、本当に貴重な御意見をいただきまして、どうもありがとうございました。時間が参りましたので、以上で質問を終わらせていただきます。
  83. 中村靖

    中村委員長 以上で参考人に対する質疑は終了いたしました。  この際、参考人各位に一言お礼を申し上げます。  本日は、御多用中のところ当委員会に御出席いただき、また貴重な御意見をお述べいただきまして、まことにありがとうございました。委員会を代表して厚くお礼を申し上げます。  次回は、来る十一月二日水曜日午前十時二十分理事会、午前十時三十分から委員会を開会することとし、本日は、これにて散会いに山ます。     午後三時三十七分散会